カテゴリー「妻への挽歌01」の記事

2008/03/20

■節子への挽歌200:今年のお彼岸の中日は雨でした

節子
今日はお彼岸の中日です。
お彼岸に仏様の供養をすると極楽浄土へ行けるそうですので、
いつもは仏の供養ではなく、節子の供養なのですが、今日はきちんとお寺の本堂もお参りしてきました。
節子のお墓は、毎週、お参りしていますので、いつも花がきれいです。

午前中、さいたま市から節子の友人の伊東さんがお墓参りに来てくれました。
節子が伊東さんとどうして知りあったのか知らなかったのですが、吉祥寺時代に知り合ったのですね。
吉祥寺に私たちがいたのは4年ほどでしたが、私はかなり会社の仕事にのめっていた時代です。
ですからあまり記憶が残っていません。
伊東さんのお名前は何回も聞いていましたが、お会いしたのは節子がいなくなってしまってからです。
昨年も一度、献花に来てくださいましたが、
あの時は私自身にまだ余裕がなく、何を話したのかも覚えていません。
今回は少しゆっくりとお話させてもらいました。
お人柄がよくわかりました。
あなたは本当に友だちに愛されていたのですね。

午後は、茨城の谷和原から「城山を考える会」の横田さんと窪田さんが来てくれました。
横田さんは私の呼びかけを受けてくれて、「城山を考える会」を立ち上げてくださった方です。
最初に企画したイベントに、節子と一緒に出かけましたね
あなたは蕎麦がとても気にいって蕎麦粉までもらってきました。
しかし、蕎麦うちはそう簡単ではなく、見栄えも味も全く違うものになってしまったのを覚えています。
節子のことを知って、線香をあげに来てくれたのです。
久しぶりにゆっくりと話をさせてもらいました。
節子が元気だったらまたイベントに一緒に参加できたのに、とても残念です。

一昨日までと違い、今日は寒い雨の日でした。
お彼岸は晴天が多いと言われているのに、どうして今年は寒い上に雨なのでしょうか。
お客様があったにもかかわらず、なんだか寂しい1日でした。
彼岸は「日顔(ひがん)」からきているという説もあるそうです。
太陽信仰にもつながっています。
太陽にお目にかかれないお彼岸は、とても寂しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/19

■節子への挽歌199:カトマンズのチューリップ

節子
ネパールの田中雅子さんからうれしいメールが届きました。

Tulip1

昨年お宅にうかがった折にいただいた球根のチューリップが咲きました。
カトマンズも冬は結構冷え込むので、日本の球根でも大丈夫かなあと心配していましたが、2月末になって急に芽を出したと思ったら、まだ背丈が15センチほどなのに花が咲きました。
朝、慌ててとった写真なので、あとでよく見たら、花と葉っぱに砂がついていました。
水をやってから撮ればよかったのに、すみません。
ちょっとユーモラスなチューリップです。
そういえば、最初に出会った頃の節子は、このチューリップのように、まるまると太ったかわいい感じでしたね。
この微笑ましいチューリップを見て、思わず昔の節子を思い出しました。
節子の一部はチューリップの球根に乗って、ネパールにも届いているのでしょうか。
とてもうれしいです。

続けて田中さんはこう書いています。

カトマンズはこの時期、梅、ジャスミン、木蓮などが咲いています。
あと1ケ月もすると街路樹ジャガランタが薄紫の花をつけます。
ジャガランタという樹を知りませんでしたので、早速、ネットで調べてみました。
見事な樹花です。
節子は、このジャガランタの花が見られるかもしれませんね。

わが家のチューリップはまだ芽が出たところです。
寒いカトマンズのほうが早く開花したのが不思議です。

田中さんは、私のホームページに「カトマンズ便り」を定期的に掲載してくださっています。
とても興味深い記事が多いです。
お読みいただければうれしいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/18

■節子への挽歌198:ミラボー橋

節子
本を整理していたら、アポリネール詩集が出てきました。
懐かしい本です。

シュールレアリスムという言葉(概念)の発案者、アポリネールは実にドラマティックな人生を送った詩人です。
モナリザ盗難事件の犯人に間違えられた事件が象徴しているように、彼のまわりにはきっと異常な空気が漂っていたのでしょう。
アポリネールの詩も、その生き方も、私にはなじみにくいものがあったのですが、それゆえにどこかで憧れを感じていました。

「ミラボー橋の下をセーヌは流れる」で始まるシャンソンの名曲「ミラボー橋」は彼の作品の一つです。
その一部を引用させてもらいます。

愛は流れ行く水のように去っていく
愛は人生は遅すぎるかのように
そして望みは無理であるかのように去っていく

夜が来て、鐘が鳴り
日々は去り、我は一人。

日々が去り、週が去って行くのに
時は去らず
愛は戻らない
ミラボー橋の下をセーヌは流れる

詩の全体は、たとえばここをクリックしてください。

この時、アポリネールは恋人だった画家のマリー・ローランサンと別れた直後でした。
別れた後も、アポリネールはローランサンを忘れることができず、終生、彼女を慕い続けたそうです。
スペイン風邪のために38歳の若さで死んだアポリネールの枕元には、ローランサンが描いた「アポリネールと友人達」が架けられていたといいます。

この数十年、思い出しもしませんでしたが、堀口大學の訳の詩集が出てきたので、何気なく目を通していたら、あとがきに堀口大學の追悼詩がありました。
その一部引用させてもらいます。

・・・・
それから1年たった
今日は1919年11月9日だ
そしてなおもなつかしく私はお前を思い出す
お前を思うことは有難い
お前は涸れることのない詩の泉だ

お前は芽を出す種子だ
お前が死んでから1年たった
今日は1日お前を思い
お前の詩集「カリグラム」を読んで暮らそう

節子がいなくなってからまだ1年はたっていませんが、
今日は1日節子を思い、無為に過ごそうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/17

■節子への挽歌197:高知の宅老所から文旦が届きました

節子
この頃、いろいろな人からまた手紙や電話が来ます。
その都度、節子に報告していますが、ちゃんと聞いてくれていますか。
聞き届けたら、何か確認の合図をしてもらえるとうれしいです。
一番簡単なのはろうそくの火を大きくゆらしてくれることです。
がんばって試みてください。

高知県の四万十市のNPO、高知介護の会の豊永美恵さんから文旦が届きました。
豊永さんとはコムケア活動で5年ほど前に知り合いました。
その地域に残っている幡多昔むかし祭りを復活させたいという思いを、ささやかに支援させてもらったのです。
お祭り当日、私も参加させてもらいました。
そこで宅老所「えびす」の高齢者の方々がつくった豆腐料理や伝統食のさわち料理をご馳走になりました。
まちづくりやコミュニティケアに対する考え方が大きく変わることになる体験をさせてもらったのです。

節子に話したら、手づくりケーキを贈ろうということになりました。
当時はまだ元気だった節子は張り切ってパウンドケーキなどを作り、送ったのです。
当時、その宅老所の事務局長だった豊永さんが、みんなとても喜んでくれたと電話をくれました。

幡多昔むかし祭りは今では地域行事として定着しました。
毎年、その季節になると豊永さんから、今年こそ奥さんと一緒に来てくださいと電話か手紙が届きました。
四国に行ったことがなかった節子は行きたいといっていましたが、私の時間が取れずにいつも実現しませんでした。
そしてそのうちに、節子が病気になってしまったのです。
後悔先に立たずです。

昨年、また豊永さんから手紙がきました。
節子のことを伝えました。
この数か月、こうした悲しい手紙を何通書いたでしょうか。
書くたびに、その手紙を受け取った人の困惑を考えて躊躇するのですが、結局はいつも送ってしまいます。
相手には迷惑だろうと思いながらも、節子のことを知ってほしいと思ってしまうわけです。
昨日もある人から、「その後、奥さんはいかがですか」とメールがきました。
まだまだ節子のことを知らない人が少なくないのです。
その人は、節子もよく知っていて、「明るいし、いつも気配りがある人ね」といっていた人です。
先週、北九州市から来てくださった山下さんもその一人です。
節子は本当にみんなの心の中に、少しでしょうが、思いを残しているようです。
伴侶の私としては、とてもうれしいです。

いつか元気が出てきたら、四万十市の宅老所「えびす」も訪ねたいと思う一方で、果たして一人で訪ねられるだろうかと不安です。
コムケア活動やまちづくり活動に取り組んできたおかげで、全国各地に友人知人がいますが、70歳になったら節子と2人で全国行脚をしたいと思っていました。
だからそれまではあまり行かないでいようと思っていたのです。
それが裏目になってしまいました。

節子
宅老所「えびす」の元気なおばあさんたちとそちらで会っているかもしれませんね。
コムケアの佐藤修の妻だといえば、喜んでくれる人もいるかもしれません。
目印は、ともかく元気で明るいおばあさんたちです。
いや、まだそちらには誰も行っていないかもしれませんね。
失言してしまいました。はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/16

■節子への挽歌196:土いじりが大好きだった節子

節子が「開墾」した宅地農園の手入れがなかなか出来ずにいましたが、先週、むすめたちと耕し直し、畝をつくっておきました。
娘がジャガイモも植えました。
荒れ放題だった空地の畑もとてもきれいになりました。

昨年の今日は、節子と一緒にこの畑の手入れをしていたのですね。
私のホームページに記事が書かれています(2007年3月15日)。

午前中は、久しぶりに女房と近くの農園に行って、畑に石灰をまいたり、雑草を取ったりしてきました。
女房はあまり体調がよくないのですが、よくないからこそ散歩に行くことが大切です。
土が好きな女房は、畑に行くと元気をもらえるのです。
距離にして200メートルもないくらいのところなのですが、女房はゆっくり歩くので、それでも結構かかるのです。
その頃は、節子はすでに辛かったのでしょうね。
本当に辛そうでしたが、歩くことに愚痴はこぼしませんでした。
あなたとゆっくり歩いた身体の記憶はいまもはっきりと残っています。

家から少し離れた所にある電信柱の下の土の部分にまで、節子は花を植えて、いつも水をやりにいっていました。
今は娘が節子の代わりに水やりや花の手入れをしています。
私はそんなとこまでやらなくてもいいのにと思っていましたが、体調が悪くなっても節子は時々水やりに行っていました。
花が好きだったのですね。
元気だったら、我孫子のまちを花でいっぱいにしてくれたかもしれません。

土いじりが大好きだった節子は、この空地の畑も好きでした。
節子がやりたかったことの一つは、この畑でつくった野菜で、近所の人たちとカレーパーティをすることでした。
あなたはそういうことが大好きでした。
とても残念なのですが、そのパーティは実現しませんでした。
節子がいない今、私にはやる自信がありません。
近所の子供たちに畑のジャガイモ掘りを誘うことくらいはできそうですが、子供たちを楽しませる自信がありません。
節子は子供たちと付き合うのがうまかったですね。
けっこう厳しくもありましたが。

小さな畑でとれる野菜を近所に配る文化は、娘たちが引き継いでいます。
一昨日も畑に残っていた大根とみかんを交換してきました。
そのみかんをまた、ちょうど来客があったのでおすそ分けできました。
その文化のおかげで、わらしべ長者のように、わが家はいつも豊かです。
お金がなくても豊かになれる生き方は、節子と一緒に創りあげた生き方でした。
でも、節子がいなくなったいま、その豊かさもなぜか寂しいです。
お金がなくても豊かにはなれますが、節子がいなければ豊かにはなれません。
私の持っているすべてと引き換えに、節子を戻してもらえるのであれば、すべてを投げ出したいです。

畑の整備をしながら、なんで節子はここにいないのだろうと寂しくて仕方ありませんでした。
でも畑はだいぶきれいになりました。
節子には合格点をもらえると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/15

■195:戻ってこないのは節子だけ

節子
鶯(うぐいす)の鳴き声で、目が覚めました。

今年初めての鶯でした。
家の周りには幸いにまだ緑があるので、鳥のさえずりや鶯の鳴き声が心を和ませてくれます。
節子も鶯が好きでした。
今年は右の耳で聞いたとか左の耳で聴いたとか、いつも言っていました。
確か左耳だと幸せがくるのだそうですが、私はいつもどっちの耳で聴いたか識別できませんでした。
今年は残念ながら右でした。
でもまあ左耳でも聴きましたから、「よし」としましょう。

節子は、そういうことを大切にしていました。
その鶯が、今年も庭に戻ってきました。
戻ってこないのは、節子だけです。

庭の花もどんどん咲き出しました。
主を失って、少し元気をなくしていたような気がしていましたが、花は季節と共によみがえってくるのです。
よみがえってこないのは、節子だけです。

草木も元気に芽吹いてきました。
昨年枯れたパピルスも新しい芽を出しました。
花かご会のみなさんが植えてくださった、駅前花壇の「しらゆきひめ」も芽が出ていました。
季節がくれば、隠れていた草木のいのちは再び姿を現すのです。
姿を現さないのは、節子だけです。

どうして節子は戻ってこないのでしょうか。
不思議でなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/14

■節子への挽歌194:「思い立ったらすぐやるのがいい」

節子
北九州市の山下さんが来てくれました。
山下さんとの思い出はたくさんあります。
仕事でお付き合いが始まったのに、なぜか節子も一緒にお付き合いするようになりました。
2人で北九州市にうかがった時には、ご自身で市内をいろいろと案内してくれました。
北九州市の収入役になってからも、それまでと全く同じように、東京に来るといつもオフィスに寄ってくれました。
当時はオフィスに通っていた節子も何回かお会いしましたね。

山下さんは情熱的な行政マンでした。
私が一時期、各地の自治体の仕事をさせてもらっていたのは、そうした思いの強い人との出会いがいろいろとあったからです。
しかし、市町村合併の動きのように、地方分権の名目のなかで進む地方管理体制の強化によって、そうした思いのある人との出会いは少なくなってしまいました。

山下さんにお会いするのは久しぶりです。
山下さんご自身、体調を崩されてしまったとお聞きしていましたので、心配だったのですが、お元気そうで、相変わらず難題を背負って活躍されているようです。

伴侶を失った人と会って、話をするのはけっこう気の重いことなのでしょうね。
以前の私にはできなかったことかもしれません。
にもかかわらず、久しぶりの上京でご多用の中をわざわざ立ち寄ってくださったのです。

いつか山下夫妻を箱根に招待しようと話していたのに、それも実現できませんでした。
積み残した計画がたくさんありますね。
節子との共通の知人に会うと、積み残した計画のことを思い出すことが多いです。
思い立ったらすぐやるのがいい、と節子はいつも言っていましたが、全くその通りです。
いつできなくなるかわからないのですから。
やれなくなってから気づいても仕方がありません。
あなたにも謝らなければなりません。

4月に九州に行こうかなと考え出しました。
節子がいなくなってから、まだ一度も遠出していないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/13

■節子への挽歌193:笑いと涙の2時間半

節子
昨年の今日は、近くのホールにあなたと一緒にポニージャックスのコンサートを聴きに行きました。
私たち世代にあった楽しいコンサートで、会場と一緒に歌う「歌声喫茶」的なプログラムもあり、節子も私も一緒に歌いました。
節子は声はいいのですが、歌になるとある音域の声が出にくいため、声が時にかすれてしまうのですが、
その時はなぜかすべての声がきれいに出ていました。
節子も、最近、出にくかった音域がきれいに出るようになったと喜んでいましたね。

そのコンサートは、当時のホームページにも書いたように「笑いと涙の2時間半」でした。
私たちはとても楽しみました。
笑いは最高に免疫力と確信していた私たちは、できるだけ笑うことにつとめました。
あのコンサートが1年前だったことが信じられません。

あれから世界は激変し、全く違った世界になってしまったような気がします。
私たちにはまさにそうなのですが、しかし、私たち以外の人たちにとっては、ましてや自然界にとっては、世界はそれまでと全く同じように流れています。
そのことが、最初の頃、わたしにはとても理解できませんでした。
ですから周りの人たちにも、私たちと同じように世界の変化を感じてほしいとさえ期待してしまうという勘違いをしてしまいました。
何とまあ自己中心的な考え方でしょうか。
でもまあ、人間はそんな利己的な存在なのです。

節子
あの時は、あなたはとてもよく笑いました。
結婚前に京都で一緒に行ったコンサートにまけないくらい、楽しさを共有しました。
久しぶりに手をつなぎながらの2時間でした。
でもあの大笑いし、目を輝かしてくれる節子には会えないと思うとさびしいです。

節子とはいろいろなコンサートや演奏会に行きましたが、
1年前のこのコンサートのことが一番強く思い出されます。

節子
そちらでもコンサートはありますか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/12

■節子への挽歌192:ケアの本質は「共に生きる」こと

節子
コムケア活動をまた再開することにしました。
コムケア活動は、だれもが気持ちよく暮らせる社会に向けて活動している人たちを、ささやかに応援しながら、人のつながりを育てていこうという活動です。

コムケア活動は、私にとっての平和活動でもありました。
人のつながりが広がれば、争いなど起こるはずがないからです。
まあ、これは間違った認識かもしれないと最近思うことも増えていますが、でもきっとそうだと自分に言い聞かせています。

これまでも全くやめていたわけではありませんが、どうも気力がもう一つだったのです。
それにこの活動は、節子がいればこそ、あれほどのめりこめたのです。
4年目ころ、あまりにのめりこんでしまい、私自身、仕事が出来なくなり、時々、夜も眠れなくなった様子を見て、少し休んだらとも言ってくれましたが、私にはやめるにやめられなくなってしまっていました。
それを支えてくれたのが節子でした。
体調が悪いにも関わらず、コムケアのイベントには参加してくれました。
家族もみんなで手伝ってくれました。
それが私には大きな支えになっていました。
そんなわけで、あなたがいなくなった後、コムケアをどうしようか迷っていました。

そして再開することにしました。
メーリングリストにその旨、宣言したら、いろんな方からエールをもらいました。
エールだけではなく、各地でもコムケアフォーラムをやってくれるというのです。

コムケアはコミュニティケアの略ですが、私には深い意味があります。
重荷を背負いあう関係づくりという思いです。
他者と「共に生きる」生き方の回復です。
節子がいなくなって、「共に生きる」生き方の大切さを実感しています。
ケアの本質は、そこにあるように思います。
しかし、他者と「共に生きる」ことは難しいです。
節子と、それができたのは、とても特別のことのような気がしてきました。
あなたは、やはり私にとって特別の存在だったような気がします。

節子と40年、共に生きられたことを感謝しています。
ありがとう。
また来世でも、共に生きられることを願っています。

ところで、3月23日にコムケアフォーラム2008を東京で開催します。
誰でも歓迎です。
よかったらご参加ください。
案内は私のブログにあります。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/03/11

■節子への挽歌191:なぜ追悼文をかきたくなるのか

またOSさんの手紙の話です。

OSさんは「追悼文集」をつくったと書いていました。
私の知人たちの中に、同じように先立たれた妻の追悼文集を創った人は何人かいます。
私も文集ではないですが、こうやって毎日書き続けています。

なぜこうやって思い出を書き残したくなるのでしょうか。
自分がその立場になるまでは、私はそれが理解できませんでした。
しかし、自分がその立場になると、何らかのかたちで妻のことを書き残しておきたいという気持ちが自然と起こってきました。
告別式の日に、前日までみんなの前で挨拶などは絶対にするまいと思っていました。
節子とのことは誰かに話してもわかってもらえるはずがないし、話せばきれいごとになるか、あるいは事務的な紋切り型になるかしかないから、私の性には合わないと思っていたのです。
ところが告別式の前夜、節子の顔を見ているうちに、彼女がみんなにも話してほしいと言っているような気がしてきたのです。
そして、前にも書いたように、話し出したらつかえることもなく、言葉がすらすらと出てきたのです。書き残すことさえできたのです。
どう考えても、節子が私に語らせたとしか思えません。

追悼文もそうかもしれません。
この世との接点をなくした妻が、書かせているのかもしれません。
節子は日記が好きでしたので、自分が書けなくなったので、代わりに私に書かせているのかもしれません。
そしてたまたま私は書くことに全く抵抗のない人間だったのです。
これ
もそう仕向けられていたことなのかもしれません。

このブログもそうですが、追悼文は第三者にはほとんど無意味のものです。
例えばこのブログですが、毎日のように読んでくれている人が(きっと)いますが、その方は(きっと)節子か私の友人です。
しかし友人だからといって、読んで意味があるかは疑問です。
でももしかしたら、節子とちょっとだけ触れ合えるのかもしれません。
節子のことを知らない読者からもメールをもらいますが、もしかしたらその人たちはどこかで節子と接点がある人かもしれません。
どこか、と言う意味は、今生ではなく前世もしくは来世という意味です。
輪廻転生を信ずる者としては、これからもこのブログを書いていこうと思っています。
そしてお会いしたことのない読者がもしいたら、いつかお会いできるのを楽しみにしています。
お会いするのは来世かもしれませんが、

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧