カテゴリー「妻への挽歌02」の記事

2021/09/06

■第1回リンカーンクラブ研究会報告

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんからの呼びかけの第1回リンカーンクラブ研究会は9人の参加者があり、予定時間を大幅に超える熱い思いがぶつかり合う会になりました。
ちょっとみんな熱くなりすぎて、危うく壊れそうになるほどでしたが、かなりみんな真意も吐き出したので、何とかおさまり、逆にこれからの展開も見えてきました。

ご案内の通り、参加申し込みいただいた方にはあらかじめ膨大な原稿が送られてきました。それに一応目を通したうえで、皆さん参加されましたが、最初に武田さんからは、こう問いかけられました。

考えていただきたいことがあります。

他人やほかの本からではなく、現代の日本という国家についてのみなさんの国家観についてです。
さらに、歴史観です。今の時代は日本にとってどういう時代なのかということです。
もう一つは、経済観です。経済というものをどう考えるかです。

この、国家観、歴史観、経済観、それぞれ考えていただいたうえで、この3つの要素の連関性についてお考えいただきたいのです。
それぞれの考えに論理的に大きな矛盾が生じないようにしていただくという作業になります。バラバラではあまり意味はありません。

国家観、歴史観、経済観は単独では成立しません。
それは人体の各臓器とその作用のような物だと考えています。国家という生体が生きていくうえでの基本的な機構かもしれません。
こうすることで構想というものが生まれてくるような気がします。
こうして、初めて、日本の現代と未来の問題が見えてくると思います。
そして、現代の個人と国家の関係のあり方もまた見えてくるような気がします。

これが長年の武田さんの取り組み姿勢ですが、こう正面から問われると、いささかたじろいでしまいます。それに突然言われても、そう簡単にな話せない。

しかしめげずにみなさんそれに応じて、自論を話すことから研究会は始まりました。
参加者全員が話し終わった時はすでに予定の時間が終わるころでしたが、それから話し合いがはじまりました。

と書くといかにも整然と会が進んだように感じるかもしれませんが、原稿に対する批判や実際の運動につながっていないという厳しい批判もあり、さらに終盤になって個別的な政策課題に話題が行ってしまったために、話し合いは混迷し、あわや空中分解になりそうでした。
しかし、武田さんが呼び掛けたように「他人やほかの本から」の知識的な情報のやりとりではなく、それぞれの本音の話し合いだったので、各人の思いも見えてきて、逆にこれからの展開の手応えがあったような気もします。
本音の思いは、そう簡単には伝わり合えません。それがわかっただけでもよかった気がします。

いずれにしろ今回の話し合いを踏まえて、10月に第2回目の研究会を開催するとともに、並行して、リンカーンクラブ構想の話やその理念でもある究極的民主主義の紹介などのサロンも行うことを考えていこうということになりました。

研究会は基本的にはメンバー制で開催していきますが、関心のある方には公開していくスタイルをとる予定です。
関心のある方はご連絡いただければ、次回の案内などさせていただきます。

20210905

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2008/10/05

■節子への挽歌400:「今日、ママンが死んだ」

「今日、ママンが死んだ」
カミユの作品「異邦人」の書き出しの言葉です。
挽歌340で、この言葉について書こうと思っていたのですが、書いているうちに話がそれてしまいました。
いや、書けなくなって、わざとそらしてしまったのですが。
一周忌も終わり、節子の両親への報告も終わり、少し気持ちが整理できて来ましたので、改めて書きます。

「節子が死んだ」。
今も、私にはかなり勇気がいる言葉です。
この言葉を自分で使うことは、節子の死を認めることになるような気がして使えないのです。
今でもなお、節子の死を受け入れられない自分がいます。
おそらく愛する人を失った人は、同じような感覚を持っているでしょう。
愛する人が、愛している自分を置いて行くことなど、ありえないのです。
それこそ、まさに「不条理な話」。あってはならないことなのです。

「今日、ママンが死んだ」
その死を語れる人は幸せです。
しかし、死を語れない人もいる。

「異邦人」を読めば、たぶんわかるでしょうが、ムルソーは母親を愛していました。
だからこそ、「不条理な事件」を起こして、「不条理な死」を迎えるのですが、それを理解してくれているのは「太陽」だけだったのです。
その「不条理さ」が、静かに、しかし深く理解できます。
「今日、ママンが死んだ」
この言葉は、ムルソーの言葉ではなく、カミユの言葉でしかないのかもしれません。

なぜムルソーの言葉ではないと思うかといえば、ムルソーが母を愛しているからです。
「交流しあう自他、両者を隔てる壁を相対化し、その間に横たわる距離を縮め、自分の中に他者を取り込み、他者の中に自分を見出すことのできる心の状態」(片岡寛光「公共の哲学」)こそが愛だとすれば、他者の死は自らの死でもあり、それは語りえないものだからです。
他者の死は体験でき語れても、自らの死は体験できずに語れないことはいうまでもありません。

「今日、ママンが死んだ」
昨日、湯河原に寄ったので、そこに置いていた「異邦人」を持ち帰りました。
もう一度、「異邦人」を読むことにしました。
今度は、節子と一緒に、です。
最近、なぜか節子に会った頃に読んだ本を読み直したくなっています。

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2008/10/04

■節子への挽歌399:節子を見送った後、初めて湯河原で朝を迎えました


節子
昨日は湯河原で泊まりました。
4度目にしてやっと宿泊できました。

湯河原には私たち2人の仕事場があります。
当初は、私の仕事場として確保したのですが、現場志向の仕事に生き方を変えたので不要になってしまいました。
この2年、宿泊したことがありません。
箱根の合宿の後、毎回、ここによったのですが、節子との思い出が強すぎて、毎回、着いた途端に帰りたくなりました。

部屋の窓から見える山並みが、節子の好きな風景でした。
その一つに、勝手に湯河原富士と命名し、スケッチなどしていたのを思い出します。
節子は自然を遊ぶ人でした。
いつも自然の中に素直に入っていき、それを楽しむ人でした。
お風呂の浴槽の横に、節子が近くの浜辺から拾ってきた小さな石でつくったミニガーデンがあります。
節子はこういう、ちょっとした遊びが好きでした。
私も大好きなのですが、節子のはリアル志向で、私のはファンタジー志向でした。
私のは完成したためしはありませんが。

それにしても、節子のいない朝食は恐ろしいほど殺風景です。
節子がいれば、少なくともトーストに野菜サラダ、目玉焼きはあるのですが、今朝はコーヒーだけです。
しかし、野菜サラダなどはどうでもよく、ただただ話し相手の節子がいないのが殺風景なのです。
コーヒーだけでも節子がいれば、最高に幸せな朝食です。
節子の笑顔と話し声があれば、何もいらないのですが、そのいずれもありません。
しかし、きっと部屋のどこかに節子がいるだろうなと思いながら、節子に呼びかけながら、コーヒーを飲みました。

今朝は、窓から見える「湯河原富士」がとてもきれいです。
節子がいたら、これから箱根に行こうと言い出すでしょう。
見ているといろんなことが思い出されます。
室内にも、節子の記憶がたくさん残っています。
障子には、節子が手作りでもみじ葉をはっています。
節子のあそび心は、どんな空間も楽しくしてくれました。

カレンダーを見たら、2006年7月のカレンダーでした。
その月が、2人で来た最後の日だったのでしょう。
最後に来たときの洗濯物が室内にまだ干してありました。
節子の息遣いが少し伝わってくるようです。
節子はとても生活的な女性でした。
それにどうも甘えすぎてきてしまったようです。

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2008/10/03

■節子への挽歌398:秋の箱根は、無性に悲しかったです

20年以上続けている経営道フォーラムのコーディネーター役で、恒例の箱根合宿に来ました。
節子を見送ってから4回目なのですが、箱根には思い出が多すぎるので、結構辛いです。
どこに行っても、節子との思い出があります。
節子が元気だった頃、いろいろなところにたくさん思い出を残そうと話し合っていました。
しかしそれがどうも今は「裏目」になっているような気がします。
思い出を「共有」する人がいなくなってしまうと、思い出はただ悲しいだけです。
今回の会場は強羅なのですが、ここには幸いなことにあまり良い思い出はありません。
彫刻の森美術館で夫婦喧嘩になったことと強羅公園の花が終わっていて殺風景だったことくらいでしょうか。
良い思い出があるところほど辛いということも節子を送った後、知りました。
不思議なことに、両親の場合は反対なのですが。

まだ紅葉には早いのですが、いつになく観光客が多いような気がしました。
私たちと同世代の夫婦も少なくありません。
しかし、みんな意外と話し合っていないのが、気になりました。。
電車の中で話もせずにただ座っている夫婦を見ると、もっと楽しまれるといいですよと声をかけたくなるほどです。
まあ、話せばいいというものでもないですが、せっかく夫婦で来ているのだから、もっともっと時間を大切にしてほしいと、余計なことを考えてしまいます。
楽しそうな観光客の中に一人でいると、やはり思い出すのは節子です。

私たちは、よく話しました。
私は景色を見るよりも、節子と話すのが好きでした。
景色を見るのは、お互いに話し合う材料をもらうためといってもいいくらいです。
節子はともかく、少なくとも私はそうでした。
景色を見ても、話し相手がいなければ意味がありません。
実は、こうしたことは節子がいなくなってから、はっきりとわかったことです。
もしかしたら、新しいコミュニケーション論のヒントがここにあるような気がしてきているのですが、それは挽歌には相応しくないテーマなので、いつか時評編に書くようにします。
節子は、いなくなった後にも、私にたくさんのことを教えてくれています。
その意味でも、節子は私にとっての真の伴侶なのです。

今回は宿泊しないことにしました。
節子は、せっかく行ったんだからゆっくり温泉につかってきたらいいのに、と言うでしょう。
いつもそうでしたから。
しかし、私にはそうした感覚がほぼ皆無なのです。
それは節子が元気だった時からそうでした。
節子と一緒であれば、どこにいても何をしていても充実しているのですが、節子がいないとどこにいても何をしても虚しいのです。
ですから節子のいない今となっては、人生はすべて虚しくなってしまっているわけです。

今日は湯河原で泊まります。
泊まれるかどうか、いささか心配なのですが。

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2008/10/02

■節子への挽歌397:近所同士が支えあうような暮らし方

節子が残してくれたことはたくさんあります。
その一つが、私たちが気持ちよく暮らせるような状況です。

節子が目指していたのは、近所同士が支えあうような暮らし方でした。
前に住んでいたところでは、しかしあまりうまくいきませんでした。
それでここに転居してきた時には、節子は今度こそ近隣で下町のように付き合える関係を育てたいといっていました。
しかし、その活動ができたのは転居してからわずかでした。
病気になってしまったからです。
病気が少し良くなった2年間も、節子は近所づきあいを試みました。
節子は、私と違って、機が熟すのを待つようにゆっくりと進める人でしたから、節子がやれたことは本当にわずかなことでした。
しかしそのおかげで、私たち残された家族もやさしい近所のみなさんに支えられています。
節子が望んでいた文化はちゃんと残っています。
節子にすごく感謝しています。

節子が見ていたのは、近所づきあいだけではありませんでした。
花かご会の活動の先に、節子はそうした活動の輪を市内各所に拡げていきたいと思っていました。
しかし、節子の感覚では、それはかなり先のことでした。
私がいろいろと意見をいっても、あなたのは頭だけで考えているからダメ、と拒否されました。
それでもいろいろと意見は聞いてくれました。

自らの足元から変えていく、これが節子の生き方でした。
どちらかと言うと、理念先行の私には歯がゆく退屈でしたが、次第に節子のやりかたに共感するようになって来ました。
私の生き方は、たぶんこの6年で大きく変わったはずです。
発病した節子が、しっかりと教えてくれたのです。
私は「いい生徒」ではありませんでしたが、節子は「いい先生」でした。
人の幸せは、気持ちよく過ごせる生活の場に尽きると思いますが、節子は私にそれを残していってくれました。
私がいま元気なのは、節子が残してくれた生活の場のおかげです。

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2008/10/01

■節子への挽歌396:習字の仲間が来てくれましたよ

節子
あなたがいつも楽しみにしていた習字の仲間が節子に会いに来てくれました。
いまでも月に2回、習字を学びながら、楽しく談笑されているようです。
節子の話も時々出ているようですよ。

節子は、病気が再発した後も、身体がちょっと不自由になってからも、できるだけ練習日には出かけていました。
いつもとても楽しみにしていましたから。
皆さんにはちょっと迷惑だったのではないかと言う気もしますが、
みんなとても優しい人たちで、節子を明るく受け入れてくれていたのですね。
節子はいつもやさしい人たちにかこまれていましたね。

節子さんは、いつも前向きで、明るく、話していて楽しかった。
病気になっても、そして最後の最後まで、弱音を聞いたことがない。
それがみなさんの節子評でした。

思ったとおりでした。
節子は、自分の弱みは人には見せず、どんな時も明るく振舞うタイプでした。
たぶん驚くほどあっけらかんと、自分の窮状を明るく話していたのではないかと思います。
節子は、そういう人でした。
その明るさの奥にある誠実で真剣な思いを知っている私としては、胸が痛いほどでした。

先生の東さんが、それに節子さんの字はいつも元気があった、と言いました。
たしかに大きな字で、紙からはみ出しそうな勢いがありました。
節子さんはそういう性格なのよね、と東さんは言いましたが、発病してからの節子の気丈さと前向きの生き方は私も見直したほどでした。
苦境に立った時にこそ、その人の本性が見えてきますが、私はそのおかげで、節子に改めて惚れこんだのです。
そのおかげで、今もなお、悲しさから抜け出られないのです。
いやはや困ったものです。

一緒に旅行したり、食事に行ったりした話もしてくれました。
節子からも時々聞いていましたが、あれはこの人たちと行ったのかとか、いろんなことを思い出しました。
節子は気持ちのいい友だちと、私の知らない楽しい体験をいろいろしているのです。
とてもうれしいです。

帰り際に、先生の東さんが、やっとお参りできてよかったとポツリと言いました。
東さんも体調を崩したりして、大変だったようです。

東さんのご主人のお墓は、節子のお墓のすぐ近くです。
毎月、2回、お墓参りに行っているそうですが、毎回、節子のお墓にもお線香をあげてくださっているようです。
節子は気づいていますか。

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2008/09/30

■節子への挽歌395:マリーがよろこばないから

節子
この半月、テレビで放映された映画「ボーン・アイデンティティ」シリーズをDVDに録画して、3回も繰り返し観てしまいました。
最近、DVDで映画を観る時間が増えてしまいました。
映画館に一人で行く気はほとんどなくなってしまったのですが。

最近のアクション映画はどうも作り方が粗雑ですが、このシリーズはとてもよくできていて、何回観てもあきないのです。
観れば観るほど、ていねいなつくりに感心できます。

この映画で、気になるセリフとシーンがあります。
「マリーがよろこばないから」というボーンのセリフです。
口には出しませんが、目でそのセリフをいうシーンもあります。
マリーとは、主人公のボーンの恋人ですが、2作目の冒頭で殺害されます。
国家によって殺人マシンに改造されてしまったボーンは、常に生命を狙われており、自己防衛のために送られてくる刺客を殺さなければならないのですが、マリーはそれを好みません。
そんなことをやっていても、きりがないとボーンに言うのですが、その思いからの一瞬の迷いが結果的にマリーを守ってやれないことになるのです。
シリーズの2作目は、そこから物語が始まります。
ボーンは、マリーの言葉を守って、極力、人を殺すことはしなくなります。
たとえば、ボーンを利用した悪事のボスの一人を追い詰めて、彼が早く殺せという言葉に対して、ボーンが言うのが、この言葉です。
「マリーがよろこばないから、殺しはしない」。
洗脳と記憶喪失で人間をやめていたボーンが、人間を取り戻していくキーワードです。

ちょっと「くささ」のある、何ということのないセリフですが、この言葉が聞きたくて、私はこの映画のDVDを繰り返し観てしまっているのです。
自分ならそんなことができるだろうか。

しかし実際には、私もこういう言葉をよく使っています。
娘たちと話していて、たとえば「節子ならこうするだろうな」「節子ならそうはしない」というように、です。
言葉にはしませんが、何か迷った時には、節子だったらどうしろと言うだろうかと考えます。
節子の判断は、私にはこれまでもいつも頼りになりました。
私と違って、小賢しくなく、素直に考えられる人だったからです。
もっとも、その節子の意見と私の意見とが違った場合、節子が元気だったころは節子の意見に従わず、私の考えを優先させたことが多かったです。
ですからわが家には借金が残ってしまったり、新築したわが家に構造的な問題があったりしてしまっているのですが、私よりも節子の判断が正しいことの多いことは、節子がいなくなってようやく認められるようになりました。
正確」に言えば、そのことは前から知っていましたが、それを認めたくなかったのです。
今から思うと馬鹿げた話ですが、これは私の悪癖の一つでした。
自分が間違っていても、それを素直に認められなかったのです。

節子がいなくなってから、そうしたことはほぼなくなりました。
それ以上に、「節子がよろこばないことはしない」ということが原則になりました。
最近の私の行動規範は、節子に共感してもらえるかどうかです。

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2008/09/29

■節子への挽歌394:リーダーのいない家族工務店

節子
久しぶりに家族工務店が復活しました。
家族3人で節子の位牌壇を置いている場所の改装工事をしたのです。
住宅のメンテナンスをお願いしている会社に見積もりしてもらったら6万円でした。
見積もりをとってくれた娘が、自分たちでやろうと言い出しました。
私も、節子がいたらきっと自分たちでやるだろうなと思いましたので、賛成しました。

節子は生活上のことは、できるだけ自分たちでやるという人でした。
つまり「百姓的生活」者です。
百姓は決して農業の専門家ではなく、生活のための百の姓(仕事)をする生き方です。
私の理想とする生き方ですが、私にはできなかった生き方でもありました。
節子はそれができる人でした。
節子と結婚して以来、私の生活はほとんどすべて節子に支えられだしたのは、そうした節子の百姓的生活志向によるところが大きいです。

私も一応、日曜大工が好きでしたが不器用なのです。
朝日新聞の連載漫画の「ののちゃん」のお父さんと同じで、私のつくる椅子はすぐ壊れ、棚は不安定なのです。
それに途中で飽きてしまって,やめることも少なくありませんでした.
家電製品は分解して、それで終わりなので、直ったためしがありません。
壊れていないものまでも壊すというのが家族の評価でした。

節子と結婚した当初は、私が修繕担当・工事担当でしたが、そんなわけで、ある段階から節子がリーダーになりました。
子どもたちが小さかった頃、節子がベランダのペンキ塗りをやろうと言い出しました。
4人での大仕事でした。
近所の人もきっと驚いたでしょう。
少し仕上げはムラなどがありましたが、うまくいきました。
室内の壁紙貼りも家族の仕事でした。
それが節子の文化で、わが家ではそうした家族工務店活動が盛んでした。
私の還暦祝いで庭に池をつくったのも、この家族工務店です。
下の娘が節子以上に器用なので、その文化を継承しました。
上の娘は私とほぼ同じ性格なので、途中でやめたくなるタイプですが、協力的です。

昨日の日曜日、急にその工務店が復活しました。
3人で近くのDIYのお店に行って材料を買ってきました。
改装工事といっても、石膏ボードで空間をふさぎ、そこに周辺に合わせて壁紙を貼るだけのことですが、目立つところなので綺麗に仕上げないといけません。
壁紙の貼り方は節子が娘に伝授していました。
「リフォームをプロの人に頼んだ時、お母さんはずっとそのやり方を見ていて覚えたんだよ。その人は仕事がしにくかったろうね」
と娘が教えてくれました。
しかし、そのおかげで壁紙貼りはプロ仕様になりました。

結局、材料費などの現金出費は2000円以下でした。
終わった後のケーキ台を含めても3000円。
節子が居たらケーキも作ったでしょうが。

節子の文化のおかげで、わが家は本当に現金出費が少ないのです。
それに百姓的生活は、私にはとても快適です。
疲れますが。

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2008/09/28

■節子への挽歌393:世界は心の鏡

最近はメソメソしていないね、と先日会った友人が言いました。
そんなことはありません。
最初からメソメソしていないし、今もメソメソしているのです。
つまり私の心情には何一つ変化はありません。
そのことは何回も書いてきました。
しかし、よそから見るとそう見えるのかもしれません。

見られる私が、どう見えているかは私にはわかりませんが、
私が見ている風景の変化は実感しています。
同じ風景のはずなのに、節子がいなくなってからは違って見えることが少なくありません。
最近の体験では、滋賀の観音様たちがみんな元気をなくして見えました
わが家の近くの手賀沼公園の風景は、以前は元気を与えてくれた風景でしたが、最近は寂しさを感じさせます。
わが家の庭の花は心なし寂しそうです。
おしゃれなレストランを見ると目を背けたくなります。
さわやかな青空が心を弾ませなくなりました。
テレビの旅行番組には興味が全くなくなりました。
犬の散歩で近所を歩いてもあまり人の気配を感じなくなりました。
なにか気分が高まった新幹線も飛行機も、気が沈む空間になりました。
病院を直視できなくなりました。
なによりも「がん」という文字に強い拒否反応が出てしまいます。

節子と別れてから、世界の風景はまさに自分の心を映していることを知りました。
節子と一緒に見ていた時の上野と、最近の上野はちがいます。
いまはただただ雑多なだけです。
以前はいつも何か新しい発見がありました。
まさに風景の中に、自分が見えるような気がします。

人は、目で世界を見ているのではなく、心で世界を見ているのかもしれません。
首相になりたての福田さんと最近の福田さんは、私には全くの別人に見えます。

節子と私の関係は大きく3回、変わりました。
それに応じて、3人の節子がいるのかもしれません。
結婚する前の節子、結婚してからの節子、そして会えなくなってしまってからの節子。
一番かわいかったのは結婚する前の節子でした。
一番存在感が無いのは結婚してからの節子です。空気のようでした。
しかし、今の節子は、私には神のような存在です。
その、私に生きる意味を与えてくれていた節子の不在が、私にとっての世界の風景を変えてしまったとしても仕方がありません。

人は自分が見たいように世界を見る。
この頃、改めてそう感じています。
もしそうなら、私の見ている世界がまだ元気になっていないとしたら、私自身も間違いなく元気ではないのでしょう。
いつか抜け出せるのでしょうか。

みんなは、元気になってよかったねといってくれますが、それはきっとみんなの希望的な風景なのでしょう。
以前とは全く違った風景が、まだ私の周りを取り巻いています。
1年経ったのに、その風景は変わっていません。

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2008/09/27

■節子への挽歌392:大浦さんとのメールのやりとり

挽歌390を読んだ大浦さんから、メールがきました。

郁代の気持ちに寄り添って頂いてうれしいです。
有り難うございます。
「前の文章は、節子が私たち家族に残してくれた言葉にそっくりです。」
よくわかります。
節子さんと郁代は魂が似通っていたように、私には感じられてなりません。
「そして後者は、私が節子に伝えたかったことなのです。」
私はここで立ち止まります。いつも私が胸に抱えている事だからです。「私が節子に伝えたかったこと」であり、「私が節子に伝えたこと」ではないからです。

お別れが近づくと、送られる人は遺される者に対し、精一杯の感謝を伝えます。
「私はしあわせだったよ。ありがとう!」と。
けれども、見送る者は感謝を伝えることが、苦しくて、できません。
「郁代と出会えてお母さんの人生はしあわせだったよ」と私は娘に言ってあげれませんでした。
別れを認める事が怖くて、できませんでした。
でも、娘はその言葉を一番言って欲しかったに違いありません。
毎日、そのことを思っています。そして、涙がとまりません。
「郁代と出会えてお母さんの人生はしあわせだったよ」が、わたしの「伝えたかったこと」でした。

私も似たような思いを時々持ちました。
最後にきちんと話さなかったことが悔やまれて仕方がなかった時期がありました。
ですから大浦さんの気持ちは痛いほどわかります。
こんなメールを送りました。
こう考えたらどうでしょうか。
誠実に対応していれば、伝えたかったことは伝わるものだ、と。
人の心は、言葉とは別に、そして言葉以上に、相手に伝わります。
郁代さんは、大浦さんの心身のすべてから、大浦さんが伝えたかったことを受け止めていたと思います。
そして、なぜその言葉がいえなかったのかもわかっていたでしょう。
私の体験を思い出せば、そんな気がします。

私の場合は、妻が病気になる前から、節子のおかげで幸せな人生になれたことを言葉でも伝えていたと思います。
意識はしていませんが、そう思っていたからです。
大浦さんもそうだったのではないですか。

節子が息を引き取る直前に、感謝の言葉をきちんと伝えればよかったと思ったことは何回もあります。
しかし、その時は、最後に「ありがとう」というのが精一杯でした。
別れが確実になるのは、最後の最後の一瞬です。
それまでは、大浦さんも書いているように、別れを認めるようなことは一切、できないのが現実です。
最後に冷静に、「いい人生をありがとう」といえるのは、送られるほうだけで、送るほうはそんなことをいえないのが、現実だと思います。
現実は、ドラマとは違うのです。
少なくとも私の場合は、そうでした。
もしまたやり直すことになったとしても、たぶん同じ対応になるでしょう。
そんな気がします。

私も、節子に言いたかったことが山のようにあります。
節子もたぶん山のようにあったことでしょう。
でもお互いにいえなかった。
いや言わなかった。
その気になれば、言えた時間はあったはずなのに。
でも話さなくても、愛する者同士は通じているように思います。

大浦さんからメールが来ました。
私の「伝えたかったこと」を書くことが出来てよかったです。
佐藤さんにならわかって頂けると思うと、気持ちが落ち着きました。
誰かに聞いて貰えるだけでよかったんだと気付きました。
そして、「伝えたかったこと」を書いたんだから、娘にも必ず伝わった、聞いてくれたと思えました。
佐藤さんのブログのおかげで、このような機会が与えられましたこと、感謝いたしております。

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