カテゴリー「妻への挽歌04」の記事

2021/09/06

■第1回リンカーンクラブ研究会報告

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんからの呼びかけの第1回リンカーンクラブ研究会は9人の参加者があり、予定時間を大幅に超える熱い思いがぶつかり合う会になりました。
ちょっとみんな熱くなりすぎて、危うく壊れそうになるほどでしたが、かなりみんな真意も吐き出したので、何とかおさまり、逆にこれからの展開も見えてきました。

ご案内の通り、参加申し込みいただいた方にはあらかじめ膨大な原稿が送られてきました。それに一応目を通したうえで、皆さん参加されましたが、最初に武田さんからは、こう問いかけられました。

考えていただきたいことがあります。

他人やほかの本からではなく、現代の日本という国家についてのみなさんの国家観についてです。
さらに、歴史観です。今の時代は日本にとってどういう時代なのかということです。
もう一つは、経済観です。経済というものをどう考えるかです。

この、国家観、歴史観、経済観、それぞれ考えていただいたうえで、この3つの要素の連関性についてお考えいただきたいのです。
それぞれの考えに論理的に大きな矛盾が生じないようにしていただくという作業になります。バラバラではあまり意味はありません。

国家観、歴史観、経済観は単独では成立しません。
それは人体の各臓器とその作用のような物だと考えています。国家という生体が生きていくうえでの基本的な機構かもしれません。
こうすることで構想というものが生まれてくるような気がします。
こうして、初めて、日本の現代と未来の問題が見えてくると思います。
そして、現代の個人と国家の関係のあり方もまた見えてくるような気がします。

これが長年の武田さんの取り組み姿勢ですが、こう正面から問われると、いささかたじろいでしまいます。それに突然言われても、そう簡単にな話せない。

しかしめげずにみなさんそれに応じて、自論を話すことから研究会は始まりました。
参加者全員が話し終わった時はすでに予定の時間が終わるころでしたが、それから話し合いがはじまりました。

と書くといかにも整然と会が進んだように感じるかもしれませんが、原稿に対する批判や実際の運動につながっていないという厳しい批判もあり、さらに終盤になって個別的な政策課題に話題が行ってしまったために、話し合いは混迷し、あわや空中分解になりそうでした。
しかし、武田さんが呼び掛けたように「他人やほかの本から」の知識的な情報のやりとりではなく、それぞれの本音の話し合いだったので、各人の思いも見えてきて、逆にこれからの展開の手応えがあったような気もします。
本音の思いは、そう簡単には伝わり合えません。それがわかっただけでもよかった気がします。

いずれにしろ今回の話し合いを踏まえて、10月に第2回目の研究会を開催するとともに、並行して、リンカーンクラブ構想の話やその理念でもある究極的民主主義の紹介などのサロンも行うことを考えていこうということになりました。

研究会は基本的にはメンバー制で開催していきますが、関心のある方には公開していくスタイルをとる予定です。
関心のある方はご連絡いただければ、次回の案内などさせていただきます。

20210905

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2009/11/10

■節子への挽歌800:レインボーブリッジの夜景を見ながら思ったこと

節子
昨日、芝浦のホテルでのフォーラムに参加しました。
懐かしい面々が参加してくれました。
もう20年以上関わっている企業の経営幹部の人たちの集まりですが、みんなどんどん変化していきます。
こうした集まりにも、節子は時に付き合ってくれましたが、私とは違った視点で、そうした人たちの人物を感じ、私も節子を通して企業経営者を見る目を持たせてもらいました。
女性の目、生活者の目は、実に辛らつです。
子供の目と同じで、人の本質を見抜きます。
そこでは小賢しさなどは全く通用しないのです。

みんなに議論してもらっている間、東京湾が見えるロビーで、そんなことを思い出していました。
レインボーブリッジの夜景が、とてもきれいでした。

ふと思いました。
こういう夜景のきれいなレストランで、節子と食事をしたことがあっただろうか。
こうした場所に、節子を連れて行ったことはあっただろうか。

私は、こうした華やかというか、贅沢というか、そうした場所が不得手でした。
仕事の関係で、会社時代は時々、そうした場所にも行きましたが、まったくと言っていいほど、価値が見出せないのです。
貧乏症なのか貧乏そのものなのか、区別は付け難いですが、節子も私も、そうした場所への関心はありませんでした。
しかし、今から思えば、節子をそうした場所に連れて行かなかったことが悔やまれます。
このレインボーブリッジの夜景を見たら、節子はどんなに喜ぶでしょうか。
節子は私と違い、素直に喜ぶタイプでした。
私は、この夜景に一体なんの意味があるのか、などと憎まれ口をたたいてしまいがちでしたが。

節子は、つつましやかな日常の中に、ちょっとした「ハレ」の場面をつくるのが好きでした。
それを楽しんでいたのです。
お金などなくても、ハレの場はつくれます。
節子から学んだことはたくさんありますが、学んだだけではやはり実践はできません。
あれは節子の天性でした。

私は、いつか思い切り贅沢な体験を節子にさせてやろうと思っていました。
同窓会などで、名前も知らない豪華なお店で奥さんと一緒に食事をした話を同窓生から聞いたりすると、何だか「罪の意識」を感じてしまうことが時々あったからです。
しかし、それを実現させてくれないまま、節子は逝ってしまいました。
それがとても悔やまれます。
苦労ばかりかけて(節子は苦労などとは思っていなかったでしょうが)、節子に一度も贅沢な体験をさせてやれなかった。
夫としての不甲斐なさを反省しています。
節子が何と言おうと、一度くらいは連れていけばよかったです。

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2009/11/09

■節子への挽歌799:脱余生考

節子
また新しい週の始まりです。
今日もまた無事に過ごせた、と日々、感謝していた節子と違って、最近の私はかなり惰性的に生きています。
節子に叱られそうですが、日々の感謝の気持ちが薄れていることは間違いありません。
人間はほんとうに現金なもので、何ごともないとそれが当然のことだと思いがちです。

しかし、もしかしたら、私が惰性的なのは、そのためではないのかもしれません。
最近、改めて「余生」という言葉が気になりだしています。
余生。「余った生」。
余った生であればこそ、生きる真剣みが出てこないのかもしれません。

節子のいない今は「余生」だとして、では節子がいた時は、「目的を持った生」だったのか。
その「目的を持った生」が、節子を見送ることで終わってしまった。
そう考えていくと、結論はこうなります。
「私の生きる目的は節子を見送ることだった」。
心が萎えてしまうような結論ですが、どこかに論理的な間違いがあるでしょうか。

では節子の生は何だったのか。
それは、「私に見送らせること」だったということになります。
こう考えると、夫婦になるということは「相互に生きる目的を与えること」ということです。そして、必ず一方に「余生」が生じるわけです。

伴侶を失った後、仏門に入り、伴侶の供養に生涯を捧げる生き方もあります。
それは「余生」なのでしょうか。
「愛する人」を供養するというはっきりした目的がありますから、これは「余生」とは言い難いですね。
「余生」などではなく、最後まで誠実に、真実の生を送ることもできるわけです。
戦国武将の妻たちにとっては、それこそが一番の真実の生だったかもしれません。

供養は出家しなければできないわけではありません。
そうであれば、今のままでも、節子のために生きることが可能です。
「余生」などと思わずに、惰性に流されるのではなく、もっと意味ある生を生きなければいけません。
そんな気がしてきました。

これからは毎朝、元気に目覚められてことを感謝していこうと思います。
なにやら節子の考えそうな生き方になってきてしまいました。
もしかしたら、節子が憑依しているのかもしれません。

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2009/11/08

■節子への挽歌798:節子の寝顔ももうありません

節子がいなくなっても、節子に話す時間はそう減ったわけではありません。
節子からの返事がありませんので、話し合いとまではいきませんが、節子に問いかけたり話したりすることは多いのです。

節子がいなくなってから、夜の眠りが浅くなりました。
2年以上経過するのに、まだもとに戻りません。
そして、明け方の4時か5時に目が覚めることがよくあります。
そこで1時間近く節子と話をするわけです。
もちろん声には出しませんし、話しているうちにまた眠ってしまうので、もしかしたらそれもまた夢かもしれません。
しかし、そういう時に話し合ったことを挽歌に再現しようと思っても、また眠ってしまうとなかなか思い出せません。

以前は、夜中に目を覚まして眠れなくなったら、いつも隣の節子を起こしていました。
節子と少し話しているとまた眠れるからです。
節子はも迷惑だったでしょうが、逆の場合は私を起こしていいよと言っていましたので、当然のこととして、私は節子を起こしてしまっていたわけです。
夫婦は苦楽を共にしなければいけないというのが、私の勝手なルールです。
まあ眠れないことが、共にすべき苦楽になるのかどうかは問題ですが。
しかし、いまはそうした苦楽を共にする節子がいません。
夜中に目が覚めるのは、結構、苦痛です。
昔は、芽が覚めて、隣の節子の寝顔を見るのが私はとても好きでした。
さほど美人ではないにしても、私には最高の寝顔だったのです。
すべての迷いや悩みが解決しました。
時には見とれていることもありました。

私たちは枕を並べて寝ていましたが、節子は隣で私が本を読んでいる間に眠るのが好きでした。
隣で私が本を読んでいると安心できるといっていました。
その頃は、いつも眠る前に本を読むのが私の習慣でした。
しかし、その習慣も今はもうなくなりました。

昨夜も1時間ほど、明け方に節子と話しました。
なんだかとても大事な話をしたような気がするのですが、半日、思い出そうと努力したのに思い出せません。
結局、寝顔のことを書いてしまいました。
困ったものです。

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2009/11/07

■節子への挽歌797:ラ・フランス

節子
吉田俊樹さんからラ・フランスが送られてきました。
吉田さんとは、挽歌164で書かせてもらったYTさんです
吉田さんは一つ送ると2つ送ってくるという、ポトラッチ型の人なので、どうしたものかと思っていますが、とりあえずお礼の電話をしました。
彼は不在で、奥様が電話に出ました。
初めてです。
「千葉の佐藤です」といってもすぐにはピンと来なかったのですが、会社の同期の、といったら、「佐藤修さんですね」とわかってもらえ、それに続けて「とても仲の良い夫婦」という言葉が出てきました。
私たちは吉田夫妻とは会ったことがありません。
でも、その吉田夫妻にまで「私たち夫婦の仲のよさ」は伝わっていたのです。
こんなうれしいことはありません。
ちなみに、なぜか吉田さんも私のことを昔から「修ちゃん」と呼ぶのです。

吉田さんは不思議な人です。
彼は修士でしたから、入社は同期ですが、年上です。
私がこれまで会った中でも、特別といっていいほど、変わった人です。
誤解されると悪いのですが、自分をしっかりと生きているという意味です。
私もそうなりたいと思っているのですが、吉田さんは私が会った時からそういう生き方でした。
小賢しさは皆無、純粋に素直で、宮沢賢治の「雨にもまけず」の人に似たところがあります。
もちろん「でくのぼう」ではありません。
優秀なエンジニアで、今も思いのままにお金とは無縁の社会活動をしています。
電話の時も、その関係で外出していたのです。

初めてであるにも関わらず、奥さんといろいろと話させてもらいました。
ラ・フランスなどたくさん送っても、すぐダメになるし、きっと迷惑だといっているのですが、故郷の山形を応援したいといって、いろんな人に送っているのです。もらってやってください。
ただのポトラッチではないですね。
吉田俊樹さんらしいです。
彼は米沢出身だったのです。

節子は吉田俊樹さんのことは知っています。
私たちと吉田さんとは関東と関西だったので、節子が元気だった頃は、一度も行き来がありませんでした。
しかし、にもかかわらず、吉田夫妻の間で、私たちの夫婦の仲のよさが語られている。
どうでもいいでしょうが、私にはとてもとてもうれしいことでした。

ちなみに、ラ・フランスとリンゴの置物を節子は一時期、コレクションしていました。
もちろん吉田さんは、そんなことなど知る由もありません。

節子の位牌に吉田さんからのラ・フランスを供えました。
節子は、ほんとうに幸せな人だとつくづく思います。
もちろん私もです。

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2009/11/06

■節子への挽歌796:夫婦喧嘩では絶対に謝らなかった節子

節子
夢をみました。
喧嘩をしている夢でした。

たまにしか夢にも出てこないのだから、喧嘩などしなくてもいいのですが、お互いに頑固に自分の考えを譲り合わないまま、喧嘩になっている夢でした。
目が覚めたら、何で喧嘩になったのか思い出せません、
思い出せるのは、自己主張を変えない節子の頑固さぶりです。
全くもって腹立たしい。
節子の性格は、彼岸に行っても変わっていないようです。
「馬鹿は死ななきゃなおらない」といわれますが、「頑固は死んでもなおらない」ようです。

節子は、時々、絶対に自分の間違いを認めないことがありました。
そうした時には、それこそテコでも動かないのです。
その頑固さは徹底していました。
それでよく喧嘩になりました。
まあ、いつもたいした問題などではないのですが、問題は何であれ、間違っているくせに相手が間違いを認めないほど腹の立つことはありません。

喧嘩が終わって謝るのは、いつも私でした。
間違っていないのに謝るのもおかしな話ですが、まあ冷静になると、間違っているかどうかさえ瑣末な話のことが多いのです。
でも、これも納得できない話で、時々、節子に「なんでいつも謝るのは私なんだ」と異議申し立てをしましたが、節子の態度は最後まで変わりませんでした。
夫婦喧嘩で節子が私に謝った記憶はあまりありません。

ということは、私のほうがいつも悪かったということになりかねませんが、そんなことはありません。
明らかに節子のほうが悪かったこともあったはずです。
しかし、今となってはもう証明しようもありませんが。

喧嘩では謝りませんでしたが、節子は病気になってからは何回も私に謝りました。
節子が一番私に謝ったのは、私を置いていくことでした。
「謝っている節子」の姿はよく思い出します。
謝らなくてもいいのに、節子は本当にすまなさそうに謝ってくれました。
謝るべきは、私のほうなのに、といつも思っていたのですが。

でも夫婦喧嘩ではどうして節子は謝らなかったのでしょうか。
節子は夫婦喧嘩が嫌いでしたが、私はもしかしたらけっこう好きだったのかもしれません。
今ではもう、位牌の前で節子に謝ることしかできません。
もう一度喧嘩をして、今度こそ節子に謝らせたいと思うのですが、夢の中ではなかなかうまくいきません。
夢の中ではなく、もう一度、喧嘩をしたいです。

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2009/11/05

■節子への挽歌795:私の世界はしぼみだしていることに気づきました

昨日、モダンバレーの発表会のことに言及しましたが、それを書いた後、思い出したことがあります。
フラメンコの発表会に行ったことです。

山形でフラメンコをやっている人が東京で発表会をやるのでといって招待券を送ってきました。
節子が行きたいというので、私は気が進まなかったのですが、行きました。
彼女はその後結婚して渡米しましたので、翌年は行かずにすみました。
私は、フラメンコもあまり興味が無いのです。

会社を辞めてから、さまざまな人たちとの付き合いが広がりましたので、いろいろな人からいろいろな案内が届きました。
正直に言えば、興味のあるものもあれば、腰が引けるものもありました。
でも2人のどちらかが行こうといえば、私たちは原則として2人で行きました。
会社を辞めて、もう一度、2人での生活を創りあげようと思っていたからです。
今から思えば、私が無理やり節子を誘ったほうが多かったかもしれません。

東京郊外の工場跡地を舞台にした前衛劇「リア王」の誘いを受けたことがあります。
湯島のサロンにやってきた前衛劇に取り組んでいた鈴木さんという演出家からの誘いでした。
これはもう全く訳がわからないだけではなく、一緒にいった娘は見ている途中で気持ちが悪くなってしまったほどでした。
真面目な節子にはいささか刺激が大きすぎたかもしれません。

ある新興宗教が主催した僧侶たちが後楽園ドームで読経するイベントなどがあります。
これは節子も喜ぶだろうと思いましたが、節子どころか私も退屈しました。
演出が全く悪かったのです。

節子も私も感動したのは、サントリーホールで聴いたベルリン・フィルの「運命」でした。

私は、どんなイベントも一人で参加できないタイプでした。
仮に行っても、途中で帰りたくなるのです。
そうした性格のため、節子は本当にいろんな集まりや催しに同行させられました。
今から考えると、もう少し節子好みのものに連れて行けばよかったと思います。
しかし、節子のおかげで、私は実にさまざまな場を体験できました。

節子がいなくなってから、イベントやコンサート、美術展に参加する機会が激減しています。
娘のユカが時々、私の好きな展示会に誘ってくれますが、一人ではまだとても行く気にはなれません。
私の世界は急速にしぼんでしまってきています。
まあ、それは自然の成り行きなのかもしれませんが。

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2009/11/04

■節子への挽歌794:コモンズ空間

節子
TYさんが湯島にやってきました。
あの、才色兼備の、しかし小生意気なTYさんももうじき50代になるそうです。
私たちも歳をとったはずです。
彼女が最初に湯島にやってきた時は、まだ20代の終わりごろでした。
ある人の紹介でやってきましたが、若いのにはっきりした物言いと、ちょっと危ない小生意気さが私の波長に合ったのか、長い付き合いが始まりました。

当時、彼女はある財団のプログラムオフィサーとして、とてもいい活動をしていましたが、その一方で、モダンバレーにも取り組んでいました。
今にも折れそうな細い身体で、なんでこんなに頑張れるのだろうと思うほどの頑張り屋でした。
節子も彼女のことはよく知っています。
彼女の招待を受けて、節子と2人でモダンバレーの発表会に行きました。
大変申し訳ないのですが、私には難解でした。
というよりも、私はバレーにはあまり興味が無いのです。

TYさんと出会ったのは、私たちが湯島のオフィスを開いた直後でした。
当時は、私も節子も、新しい人生をはじめたばかりでした。
彼女が持ち込んできたプロジェクトは、その後の私の生き方にも大きな影響を与えました。
半年振りにTYさんと話していて、いろいろと昔のことを思い出してしまいました。

湯島から始まった物語はいろいろあります。
湯島のオフィスは、もしかしたら、私と節子だけの空間ではないのではないか。
そんな気がしてきました。
TYさんにも、もしよかったらこの場所を使って研究会を始めたらと提案しました。
きっと節子も賛成してくれるでしょう。
このオフィスはがんばって持続させようと決めました。

私たちが目指していたコモンズ空間は、気づかないうちにもうできていたのかもしれません。
湯島に来ると、なんだかホッとして長居してしまうといってくれる人がいます。
TYさんも予定の時間を超えて今日も長居してしまいました。

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2009/11/03

■節子への挽歌793:こころのホメオスタシス

穏やかな秋日和です。
昨日から急に寒くなりましたが、太陽の光が、その寒気を穏やかにしてくれています。
2人の娘たちも出かけていますので、今日は一人でのんびりと過ごしています。
しかし、のんびりと過ごすことはそう簡単なことではありません。
節子がいると、のんびりと過ごすことも楽しいのですが、一人だとやはり退屈してしまうのです。
2人でセットの生き方から、まだ抜け出ていないのかもしれません。

もう2年2か月も、こうした生活、節子がいない生活が続いていますが、まだその実感はそう強くありません。
未だに、心のどこかに節子がいるような気がしているのです。
庭に出て行くと、節子が今も花の手入れをしているような気がしますし、買物に出かけていた節子が今にも帰ってくるような気さえするのです。
もうじき節子に会えるような気さえするのです。

これは私だけの思いなのでしょうか。

世界は自分の思うように見えてくる。
これは私の体験知です。
同じ世界を見ていても、その見え方は人によって違います。
なにやらSFの世界になりますが、世界は自分の頭脳が生みだしているのかもしれません。
そう考えると、節子が今なお存在しているということも、あながち否定できないことです。
こうした感覚は、理性では否定できますし、もちろん否定はしているのですが、にもかかわらず心のどこかにそうした思いがあるのです。
それがあればこそ、心身の平常が保たれているのかもしれません。
節子に向かって話すことも少なくありません。
これこそが、こころのホメオスタシスなのかもしれません。

一人になると、ますます節子が近くにいるような気がしてきます。
誰もいないから姿を見せてもいいよと、訳のわからないことを考えてしまいます。
伴侶とは、そういうものかもしれません。

いま2階の作業部屋でパソコンに向かっているのですが、何やら下で物音がしました。
もしかしたら、節子が戻ってきたのかもしれません。
もうじき、「お茶が入りましたよ」という声が聞えてくるかもしれません。
聞えなくてもおりていったほうがよさそうです。
目には見えなくても、きっと節子はお茶を飲みながら待っているでしょうから。

もし下に節子がいたら、そのまま死んでしまってもいいなと思います。
しかし、神様はそう簡単には私を死なせてはくれないようです。
ガンジーを見習わなければいけません。
もっと誠実に生きなければ、神様には愛でられないでしょうから。

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2009/11/02

■節子への挽歌792:此岸での人生の終わり方

節子
最近、なぜか「どうしてこんな生き方を続けているのだろうか」と思うことがあります。
時々、書いていますが、どうも最近の生き方は私らしくありません。
おそらく節子がいた頃の生き方に戻っているのでしょうが、なぜかそうした生き方は、今の自分の生き方ではないのではないかという気がしてきました。

昨日、蔵田さんと話していて、蔵田さんの生き方にとても共感しました。
友が寂しがっていたら遠方からでも何気なくやってくる。
近くに問題があれば、意見を言いに出かけていく。
きちんと話さないと伝わらないでしょうが、宮沢賢治の「雨にも負けず」を思わせる生き方です。
なぜそういう生き方にうつろうとしないのか。
そう思うことが増えてきました。
しかし、そこに生きつかないのです。

時評編に書きましたが、今日、「ガンジーの危険な平和憲法案」という本を読みました。
大きな衝撃を受けました。
最近共感してたネグリの「マルチチュード」よりもずっとラディカルです。
しかし、それはそれとして、とても心に響く文章に出会いました、
ガンジーが残した文章です。

この状況がよくならなかったら、私の心は叫び、神様に早く連れて行ってもらうように祈っています。
その祈りは、神様と彼の友人たちによって実現しました。
ガンジーは、近代国家としてしか独立できなかったインドに生きずにすんだのです。
神様はきちんと見ていてくれるのです。
おそらく私のことも見ていてくれるでしょう。
そんな気がします。

にもかかわらず、私はまだ現世に未練がましく関わろうとしている。
相変わらずの「小欲」。
いったい誰のためにやっているのでしょうか。
社会のためでも、友人知人のためでもないでしょう。
たしかに友人知人からは感謝されることもあります。
全く面識のない人から褒められることもあります。
でも私がやらなくても、きっと誰かがその役割を果たすはずです。
所詮は自分のためではないのか。
自分が生きるために生きる、というのはどう考えても納得できないトートロジーです。

ガンジーは、いつそうした人生をやめたのか。
それは「暗殺」された時ではないのではないか。
そう思った時に、ふと思い出したのです。
節子はいつ彼岸に入ったのだろうか。
これまでも何回か考えた問題です。
節子には、もう一つの命日があるように思えてなりません。

私も、此岸での人生の終わり方を、そろそろ考えなければいけないのではないか。
最近、そんなことを考えるようになりました。
少しだけですが、仏教の考えがわかりだしてきたような気がします。

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