カテゴリー「妻への挽歌05」の記事

2021/09/06

■第1回リンカーンクラブ研究会報告

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんからの呼びかけの第1回リンカーンクラブ研究会は9人の参加者があり、予定時間を大幅に超える熱い思いがぶつかり合う会になりました。
ちょっとみんな熱くなりすぎて、危うく壊れそうになるほどでしたが、かなりみんな真意も吐き出したので、何とかおさまり、逆にこれからの展開も見えてきました。

ご案内の通り、参加申し込みいただいた方にはあらかじめ膨大な原稿が送られてきました。それに一応目を通したうえで、皆さん参加されましたが、最初に武田さんからは、こう問いかけられました。

考えていただきたいことがあります。

他人やほかの本からではなく、現代の日本という国家についてのみなさんの国家観についてです。
さらに、歴史観です。今の時代は日本にとってどういう時代なのかということです。
もう一つは、経済観です。経済というものをどう考えるかです。

この、国家観、歴史観、経済観、それぞれ考えていただいたうえで、この3つの要素の連関性についてお考えいただきたいのです。
それぞれの考えに論理的に大きな矛盾が生じないようにしていただくという作業になります。バラバラではあまり意味はありません。

国家観、歴史観、経済観は単独では成立しません。
それは人体の各臓器とその作用のような物だと考えています。国家という生体が生きていくうえでの基本的な機構かもしれません。
こうすることで構想というものが生まれてくるような気がします。
こうして、初めて、日本の現代と未来の問題が見えてくると思います。
そして、現代の個人と国家の関係のあり方もまた見えてくるような気がします。

これが長年の武田さんの取り組み姿勢ですが、こう正面から問われると、いささかたじろいでしまいます。それに突然言われても、そう簡単にな話せない。

しかしめげずにみなさんそれに応じて、自論を話すことから研究会は始まりました。
参加者全員が話し終わった時はすでに予定の時間が終わるころでしたが、それから話し合いがはじまりました。

と書くといかにも整然と会が進んだように感じるかもしれませんが、原稿に対する批判や実際の運動につながっていないという厳しい批判もあり、さらに終盤になって個別的な政策課題に話題が行ってしまったために、話し合いは混迷し、あわや空中分解になりそうでした。
しかし、武田さんが呼び掛けたように「他人やほかの本から」の知識的な情報のやりとりではなく、それぞれの本音の話し合いだったので、各人の思いも見えてきて、逆にこれからの展開の手応えがあったような気もします。
本音の思いは、そう簡単には伝わり合えません。それがわかっただけでもよかった気がします。

いずれにしろ今回の話し合いを踏まえて、10月に第2回目の研究会を開催するとともに、並行して、リンカーンクラブ構想の話やその理念でもある究極的民主主義の紹介などのサロンも行うことを考えていこうということになりました。

研究会は基本的にはメンバー制で開催していきますが、関心のある方には公開していくスタイルをとる予定です。
関心のある方はご連絡いただければ、次回の案内などさせていただきます。

20210905

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2010/05/29

■節子への挽歌1000:パッセンジャーズ

節子
この挽歌もとうとう1000回目になりました。
と言うことは、節子が彼岸に旅立ってから、今日で1000日目ということです。
偶然ですが、今日は私の68歳最後の日でもあります。

ところで、これは「偶然」なのかどうかわからないのですが、「パッセンジャーズ」という映画を観ました。
テレビで放映されたものを録画していたのですが、今日、気分転換に観てしまいました。
内容を知らずに、です。
映画の紹介記事に心理サスペンスとあったので興味を持っていたのですが、私の映画の好みを知っている娘のユカが、あんまり勧めないのでちょっと気になっていたのです。
観おわって、ユカが私に勧めなかった理由がわかりました。
元気な時に観ないと「おちて」しまいそうです。
ユカに話したら、前に観るといった時には時期が悪いなと思ったそうです。

恐ろしいほど悲しい映画です。
昔、「シックスセンス」を観た時よりもショックでした。
あの時はまだ節子がいましたし。

涙がこらえられませんでした。
1000回目の挽歌は明るく書こうと思っていたのですが、まったく逆になりました。
よりによってなぜ今日、観る気になったのか。
これは「偶然」ではないような気がします。

映画のネタばらしはルール違反ですが、映画紹介のブログではないので許してもらいます。
この映画は、彼岸と此岸をつなぐ話です。
安心して彼岸に向かえるように、まさに49日、チベット密教でいえばバルドゥの間の物語なのです。

人のつながりさえあれば、ほかに何もなくても人は幸せになれます。
私が彼岸に旅立ったとしても、彼岸には節子をはじめ、たくさんの友人知人がいます。
もしかしたら此岸よりも多いかもしれません。
だとしたら、彼岸と此岸の違いはあっても、私は相変わらず「幸せ」です。
それで、この頃時々思うのですが、友だちや家族を彼岸に送ることは、自らが旅立つ準備なのかもしれません。

節子は十分に準備ができていたでしょうか。
さびしがっていないでしょうか。
なぜ一緒に行ってやれなかったのか、不憫に思えてなりません。
でもまあ、彼岸には時間軸がないですから結局は私も一緒にいるのでしょう。
そう思うとこの映画の悲しさも少し緩和されます。
書いていて少し落ち着きました。

しかしなぜ、今日、この映画を観る気になったのでしょうか。
「パッセンジャーズ」の映画と同じように、私もあの時に節子と一緒に旅立ったのかもしれません。
節子が、それを気づかせてくれたのかもしれません。
挽歌は1000回になりましたが、彼岸に旅立つまで書き続けることにしました。
節子はそれを望んでいるでしょう。
一緒に書き続けることを。

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■節子への挽歌999:新緑

節子
昨日は朝の6時から夜の10時半までパソコンに向かう時間がほとんどなく、また挽歌を書き損ねました。
一昨日から軽井沢で仕事の関係での合宿だったのですが、朝、6時からプログラムがあり、しかも夕方からは湯島でのオープンサロンでした。
帰路の新幹線で挽歌を書こうと思ったのですが、疲れていたため座った途端に寝てしまいました。

それでも新緑の軽井沢を少し歩きました。
まぶしいほどの新緑でした。
節子とはよく新緑の野山を歩きました。
特に節子の体調が回復に向かっていた時期にはよく行きました。
すべては節子の段取りでした。
ですから節子がいなくなったいまは、もう出かけることはありません。
でもこうして時折、仕事などで新緑に出会うといつもそこに節子を感じます。
節子もこの新緑を楽しんでいるだろうなと思うわけです。

私たちにとっての新緑の時代は滋賀県の瀬田に住んでいた頃です。
1年ほどしか住んでいなかったと思いますが、瀬田の神領というところで私たちは暮らし始めました。
6畳一間の「神田川」的生活でしたが、私たちの心は新緑のように輝いていたことを今も鮮明に思い出します。
休日のたびに、奈良や京都を歩きました。
何にも拘束されずに、誰にも気兼ねすることなく、毎日がとても新鮮でした。
瀬田での生活を思い出す時に、いつもに浮かぶのが、住んでいた近くを2人で散歩した時の風景です。
なにもない野原を歩くだけで私たちは幸せでした。
菜の花に囲まれた節子の写真や野原で逆立ちしている私の写真が、探せば出てくるはずです。

その生活が変わったのは、しばらくして東京に転勤になったからです。
東京に転勤した後の私たちの生活は、なぜか今の私にはほとんど思い出せません。
仕事に埋没しだしたのかもしれません。

瀬田での生活がもう少し長く続いていたら、私たちの人生は一変していたかもしれません。
東京に節子を連れてきてしまったのは最大の痛恨事です。
節子は都会好きでしたが、都会には合わない人だったような気がします。

来世は、都会には絶対に住まないつもりです。
新緑に埋もれるような生活をしていたら、節子はきっと今もまだ元気で飛び跳ねていたでしょう。
いまさら後悔してもはじまらないのですが。

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2010/05/27

■節子への挽歌998:花の季節

節子
今年もまた、ばんまつりの咲く季節です。
この頃はわが家の庭の花がいっせいに咲き出します。
玄関のバラもたくさん咲いていますし、庭のバラも次々と咲きだしています。
今年は胡蝶蘭も何とか咲き出しました。

いろいろと花は賑やかですが、やはり私には「ばんまつり」が一番心に入ってきます。
この花をくださった湯河原の人はいまもきっと花をたくさん咲かせていることでしょう。

敦賀の姉からもらったという、山アジサイも咲き出しました。
白い花ですが、次第に赤くなるのだそうです。

そういえば、家から100メートルも離れた電信柱の下の小さな空地にまで節子は花を植えに行っていましたが、そこも今では宿根花が毎年きれいに咲くようになって来ました。
時々、ジュンが手入れをしていますが、そこを通るたびに節子を思い出します。

花の季節は、うれしいようで寂しいです。

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2010/05/26

■節子への挽歌997:「解けない問題」

佐藤さん
もう気持ちは整理できましたか。
久しぶりにやってきたNさんがそう訊きました。
みんな気にしてくれているのです。
感謝しなければいけないのですが、整理などできるはずがないのです。
それに、どう整理したらいいのでしょうか。
世の中には「解けない問題」というのはほとんどないというのが私の考えですが、こればかりは解けない問いです。
いや「問い」以前のものでしょう。
少なくとも私には「解く」つもりは皆無ですし、なによりも整理するということの意味がわかりません。
しかしたぶん友人としては、そういう問いかけしかないのでしょう。

節子がいなくなってから付き合いがなくなった友人もいます。
なぜでしょうか。
私との付き合い方がわからなくなったのかもしれません。
その気持ちはとてもよくわかります。
事実私もそういうことがないわけではないからです。
それに何回かこの挽歌でも書きましたが、節子がいなくなってからの私はそれまでの私とは「似て非なるもの」かもしれません。
ですから、友人でなくなったとしても決しておかしな話ではありません。

前の佐藤さんと同じでホッとした、という言葉にも何回も出会いました。
同じであるはずがないのですが、同じだと思いたい気持ちもよくわかります。
まあこんなことを書いていると会いに来てくれる人がいなくなってしまいかねませんので、やめましょう。

ところで、世の中には解けない問題はほとんどないはずだと書きました。
そう言い切ったのは、どんな問題であれ、これが「正解」だと決めれば解けるからです。
つまり「問題」を設定すれば、同時に「回答」も見えてくるのです。
「解けない問題」とは「問題」として設定できないことなのです。

愛する人を亡くして、どんな「問題」が立てられるというのでしょうか。
彼が帰った後、いろいろと考えてみましたが、その言葉の意味がやはりわからないことに行き着きました。
「気持ちを整理する」ってどういうことなのでしょうか。
考えれば考えるほど頭が混乱し、ますます整理と反対の方に向かってしまいそうです。

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2010/05/25

■節子への挽歌996:「60歳のラブレター」

節子
気分を変えて元気が出る話を書こうと思います。
無理とは思いつつも。

節子が残した本が何冊かあります。
私の読む本と節子の読む本は全く別でした。
ですから節子の書棚の本は私は1冊も読んでいません。
節子の書棚にある本は、なぜか「愛」にまつわる本が多いのです。
そう思ってみていたら、
「60歳のラブレター」と言う本が目につきました。
副題が「夫から妻へ、妻から夫へ」です。
そういえば、この本のことを節子が話していたのを覚えています。
いろいろな人から公募したラブレターを本にしたものです。

私は、その時には全く興味はありませんでした。
そもそもラブレターなるものには関心がないのです。
いまこうして毎日挽歌を書いているので、もしかしたら結婚前もラブレターを書いていたのではないかと思われるかもしれません。
しかし残念ながら、節子は私からラブレターをもらったことはないのです。
もっともある時期、毎日、節子のために詩を書いていたことがありますので、それをラブレターといえないこともないでしょう。
しかし、私と付き合い前は、極めて常識的で清純な節子は、ラブレターを欲しかったかもしれません。
「結婚でもしようか」などというプロポーズよりも、もっとロマンティックな言葉を求めていたかもしれません。

節子が残した本を見ながら、節子もラブレターがほしかったのかもしれないと思いました。
愛していたら、ラブレターなど不要だなどと思うのは、男の発想なのでしょう。
節子の闘病中に、私もラブレターを書けばよかったなと一瞬思いましたが、節子はどうせ笑い転げるだけだったでしょう。
私にはラブレターは似合いません。

そういう私も、昔一度だけラブレターを書いたことがあります。
残念ながらそれは私からのラブレターではなく、後輩から頼まれて書いた、彼のためのラブレターです。
会社時代に、後輩が私に書いて欲しいと頼んできました。
とても素直な若者だったので、心を込めて書きました。
しかしその恋は成就しませんでした。
彼が代筆を頼む人を間違ったことは間違いありません。
彼は2度と私には頼みませんでしたから。

もし私がラブレターを節子に書いていたら、節子と結婚することにならなかったかもしれません。
「60歳のラブレター」の本は、やはり読む気がしないので、そのままそっと節子の書棚に戻しておきました。

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2010/05/24

■節子への挽歌995:疲れながら生きるのもいい

節子
今朝はちょっと「くらい」文章を書いてしまいました。
この数日かなりくらい文章が続いていました。
やはり心境は隠せないものです。

私は周囲にかなり共振するタイプですので、社会全体のくらさが私をそうさせている気もしないでもありません。
最近は重い話が多いです。
しかし、これも私の暗さが呼んでいるのかも知れません。
人の心は世界と同調し、世界は人の心に同調するからです。

だとしたら、元気になるのは難しいことではありません。
まずは心を明るくすればいいのです。
そうすれば流れは反転し、世界は輝きだすでしょう。
あるいは輝いている人に会えばいい。
そうすれば私の心も同調し心身は共振しはじめるでしょう。

昨日、ある集まりをやったのですが、その参加者の一人からこんな話を聞きました。
パニック状況に陥った人を回復させるのは、突然にまったく違った状況を創ることだと。
その話を思い出しました。
問題を解決する答は、実はまったく違うところにあるのかもしれません。

トム・クルーズの「ワルキューレ」を観ました。
ヒトラー暗殺計画の実話に基づいた映画です。
なぜか私には当時のドイツは今の日本の政治状況に重なって見えるのです。

いま元気が出てこないのは、節子がいないからではないのではないか。
もし節子がいても、たぶんこの状況に陥っているのではないか。
そんな気がしてきました。
やはり「憂鬱な社会」が私の心身を覆っているのです。
節子を逃げ場にしていた自分に気づきました。
勘違いしてはいけません。

社会に同化してしまったら、何も始まりません。
一人で生きるのも疲れますが、みんなで生きるのも疲れます。
でもまあ、「生きる」ということはそういうことなのでしょう。
トム・クルーズのような、孤高な生き方は私にはできそうもありません。
実にうらやましいですが。
節子がいたら、そんな生き方もしたくなったかもしれませんが、いまは疲れながら生きるのが私には合っているようです。

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■節子への挽歌994:一人で生きるのは疲れますね

節子
昨日は挽歌を書けませんでした。
朝も夕方も、そして夜も、書かなくてはと思ったのですが、どうもパソコンに向かえませんでした。
昨日は日曜だったのですが、朝から湯島に出かけていました。
午前中は先週会った若者が会いにきましたし、午後は私が主催する会がありました。
その前後にもいくつか用事がありましたが、時間がなかったわけでも、書きたくなかったわけでもありません。
なぜかめずらしくパソコンに向かいたくなかっただけなのです。

最近、どうも生活が整理できずにいます。
以前から私はさまざまな事柄に関わる習性があるので、生活が混沌としがちでした。
よく頭の切り替えができるわね、と節子は感心していましたが、その混沌さが私の活力の源泉でした。
それに、多様に見える、それらの事柄のなかに通ずるものを見つけられるのが私の取り得でもありました。

しかも迷った時には「逃げ込める母港」がありました。
それが「節子の世界」でした。
判断に迷った時には、節子と雑談的に話すと必ず先が見えてきました。
一人で考えていると袋小路に入りがちですが、節子と話していると必ず出先が見えたり、共通点や自分のやっていることに確信が持てたりしたのです。
節子がなにか気のきいたアドバイスをしてくれたわけではありません。
ただ素直に、しかし極めて人間的に、反応してくれたのです。
私の言動をシェアしてくれていたといっていいのかもしれません。
その意味、あるいは価値が、最近よくわかってきました。
私の世界が、これほど広げられたのは、あるいはさまざまな事柄に共振できたのは、私ではなく「私たち」になっていたからかもしれません。

その片割れがいなくなったいま、すべてを自分一人で背負わなければならないことに、最近いささかの疲れが出てきているのかもしれません。
どうもすっきりしないのです。
そのせいか、多様な事柄のつながりが見えなくなってきてしまっています。
疲れが溜まってきているのかもしれません。

それとパソコンに向かえなかったこととどうつながるのか。
よくわかりませんが、疲れてきていることは間違いありません。
こういう時にはゆっくり休むのがいいのですが、その「休み方」が思いつきません。
それに、あいにく今日は雨です。

今日は、私なりにゆっくりと休むことにします。
なにやら暗い文章になってしまいました。

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2010/05/22

■節子への挽歌993:透き間の時

節子
時間を持て余しています。
節子がいた頃は、何であんなに時間がなかったのだろうかと不思議に思うほどです。

今日もある人が「忙しそうですね」とメールをくれました。
よそから見ていると私は忙しいのかもしれません。
忙しいといわれるのはとても残念ですが、そう見えるのであれば、そうなのでしょう。
そうならないように努力してはいるのですが、
節子は知っていますが、私は「忙しい」といわれることを恥に思う人間です。
同時に、他者に対しては「忙しい」という言葉はできるだけ使わないようにしています。
「忙しい」とは「心を失うこと」だと昔ある人から言われたからです。
それ以来、集まりなどでの挨拶でも「ご多用のところ」と言っても、「お忙しいところ」とは言わないようにしてきました。

最近、時間を持て余していますが、実はこれは「忙しい」からです。
ひねくれた言い方になりますが、私にはとてもぴったりきます。
そして最近の私の状況は、まさに「忙しいが故に暇」なのです。

気になって「暇」という文字の意味を調べてみました。
「透き間の日」という意味だそうです。
ますます私の今の気分にぴったりです。
なにをやっても充実感がないわけが、これでわかりました。
今は「透き間の時」なのです。

世間的に言えば、やるべきことはそれなりに山積みなのです。
そのリストはいつも机のメモに書かれていますが、10項目を下回ることはありません。
約束の期限を切れたものもいくつかあります。
でも、やる気が起きないためにやれないのです。
そして「時間を持て余す」状況になるわけです。

もともと私にはその気がありました。
節子は「修は忙しいのか暇なのかわからない」とよく言っていました。
節子が「忙しい」と「暇」が同じことであることを理解してくれていたかどうかは、いささか疑問ですが、そのうちに慣れてくれました。

やるべきなのに、なぜやる気が起きないのか。
心が満たされていない、つまり「心がない」からです。
最近、そういう状況が増えています。
その理由がようやくわかりました。
私はいま、「透き間の時期」にいるのです。
無理をすることはありません。
誰かに大きな迷惑をかけない範囲で、暇の状況を受け容れていようと思います。

今日もとても暇で、退屈していました。
その一方で、机の上にある「課題リスト」をみると少し気が重くなります。
透き間の時間を生きるのも、それなりに疲れるものです。

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2010/05/21

■節子への挽歌992:身辺整理

節子
最近改めて不思議に思うことがあります。
節子がいなくなったのに世界はまったく同じように動いているということです。
言い換えれば、私がいなくなっても世界は今と同じように動いていくわけです。
にもかかわらず、その世界には、そのいなくなった人の痕跡が生々しくあるわけです。
そこに何か不思議さを感ずるわけです。
まあ、不思議さを感ずることなどないほど当たり前のことなのですが、昨夜、4時に目が覚めて、そんなことを考え出していたら眠れなくなりました。
何しろ私が寝ている部屋の風景は、節子がいた時とほとんど変わっていません。
クローゼットを開けると、節子の服がまだ並んでいますし、状差しには節子宛の手紙がまだそのまま残っています。

節子は、ある日、書類や写真を整理したいと言い出しました。
私は、整理は治ってから一緒にやろうといいました。
節子は少しだけ食い下がりましたが、結局は私に従ってくれました。
私たちはどんなに意見が違っても、最後はどちらかに任せる関係でした。
整理の問題は私の言い分が通りました。
節子はたぶん気になっていたでしょうが、身辺整理など始めたらそれこそ旅立ちの準備ができたなどと安堵してしまいかねません。
ですからそんなことは絶対にできなかったし、させたくなかったのです。
安心して旅立たせる方がいいという考えもあるでしょうが、私は最後の最後まで、やはり現世に未練を残し、最善を尽くしてほしかったのです。
残されるものの身勝手さといわれるかもしれませんが、その時は素直にそう思いました。
今もそれでよかったと思っています。
節子も、私のそうしたわがままさを許してくれているでしょう。

節子のものは、今もまだ家中にあります。
節子が明日戻ってきても、生活には不便はしませんし、3年前と同じように暮らせるでしょう。
でもそうなる可能性は、ゼロとは思っていませんが、限りなくゼロでしょう。

それはいいのですが、昨夜考えたのは、私がいなくなった後の世界はどうなるのだろうかと言うことです。
寝る人のいなくなった、この寝室は一体どうなるのか。
行き着いた結論は、節子と一緒でした。
身辺整理を始めることにしました。
残念ながら止めてくれる人は私にはもういません。

さてこれからしばらくは大仕事になりそうです。

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