カテゴリー「妻への挽歌10」の記事

2013/03/01

■節子への挽歌2000:2000回を迎えました

節子
とうとう3月になってしまいました。
それに、この挽歌の番号も2000になりました。
実は、節子を見送ってから、今日で「2007」日目ですので、本来は挽歌も2007になっていなければいけません。
最近どうも挽歌を毎日きちんと書くことができずに、ずれが生じてしまっているのです。
3月に入る前に頑張って追いつこうと思っていたのですが、だめでした。

最近、私はかなりひどい状況にあります。
昨夜はあまり眠れませんでした。
疲れすぎやら、心配事やら、挙句の果てにはわが家のチビ太くんの介護やらで、極度の寝不足です。
その上、明日は急に決めてしまった集まりが表参道であります。
何とか目標の人数は集まりましたが、肝心の内容の検討がこれからです。
しかし、話し手も聴き手もすばらしい人が多いので、まあうまくいくでしょう。
あんまり準備すると逆にうまく行かなくなることも体験的に学んでいます。

明日の集まりは、時評編には書いていますが、「自殺の問題にどう取り組むか」という公開フォーラムです。
最初は小規模なラウンドテーブルセッションを考えていましたが、映画を上映することになり、会場を変えて、50人ほどの集まりにしました。
急に変えたので、人集めしなければならず、関心を持ってもらいそうな友人知人にメールしました。
直前だったので、多くの人はすでに予定が入っていてだめだったのですが、節子がいなくなってから交流が途絶えていた人からの思わぬ返信もありました。

気の重くなる返信もありましたが、気が晴れる返信もありました。
数年とはいえ、やはりさまざまなことが起こるのです。
節子もよく知っている人からも返信がありました。
そうした久しぶりの人からの返信を読んでいると、節子がいたころのことが思い出されます。
そして、節子がいなくなってしまった、この5年半が、何かあっという間の時間だったような気もします。

しかし、節子がいなくなってから、もう2007日たったわけです。
それが長いのか短いのか、なんともいえませんが、私にはほとんど空白の時間でしかありません。
この挽歌は、それが空白ではなかったことを示してくれるのかもしれません。
あまり内容がある挽歌だとは思いませんが、書き続けてきてよかったとつくづく思います。
この挽歌がなかったら、もしかしたら、私はこの5年半を思い出せないかもしれないからです。

明日の集まりが終われば、少しは余裕ができるでしょう。
早く追いついて、また毎日、静かに書き続けるようにしたいと思います。

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2013/02/28

■節子への挽歌1999:節子の手作り雛人形

わが家の雛人形は、節子の手作りです。
2人の娘それぞれに、手作りの木目込み人形を作ったのです。
節子は、基本的に手作りが好きでした。
もちろん私もそうなのです。
ユカには立ち雛、ジュンには座り雛です。
娘たちが大きくなってからは、もっとカジュアルな雛人形(これも節子の手作りが多かったですが)が飾られて、大きな人形は出てきませんでした。
それを、何を思ったか、ユカが今年は物置から出してきて、リビングに飾りました。
久しぶりに、節子の手作り人形の登場です。
節子も喜んでいることでしょう。

Hina

節子の手作り文化は今も残っています。
節子の位牌壇の真ん中に鎮座している大日如来も手作りです。
家族みんなで心を込めて作り上げた仏様ですから、節子は喜んでいるはずです。

わが家の壁にかかっている額の絵も多くは節子の作品です。
和室の床の間の掛け軸も節子です。

このことは逆に言えば、わが家には基本的に「値がつくお宝物」はないということです。
最近、貴金属を強引に買い取る事件が起こっていますが、幸か不幸かわが家にあるアクセサリーはこれまた節子の手作りが多く、お金には全くなりません。
捨てるに捨てられずに、いまもそのままになっています。

手作り文化がしっかりとあると、お金はかからずにいいものですが、いざとなったら換金できるものがないということです。
わが家は基本的にお金とは無縁なのです。
節子と私の、それが共通の意識でした。

もっとも節子には迷いもありました。
箱根の成宮美術館に行った時に、会場で突然、絵のオークションが行われたことがあります。
富士山の絵が売られていました。
特別出品で、将来、価格がつくと言われたようでした。
その言葉に乗って、節子はその絵を買いました。
値が上がるという言葉に気迷いしたのでしょうか。
その絵は、わが家で飾られたことがありません。
節子もさほど気にいってはいなかったのでしょう。
今はどこかにうずもれてしまっています。
時々、節子はそうした過ちをおかす人でした。
私は、それが好きでした。

雛人形を見ながら、富士山の絵のことを思い出しました。
もしかしたら、値が上がっているでしょうか。
いま私はかなり困っているので、探してみようかと思いましたが、まあもともと安い絵ですから、指しあたっての役には立たないでしょう。
それにそんな発想は、わが家にはふさわしくありませんし。

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2013/02/27

■節子への挽歌1998:ルクソール

節子
エジプトのルクソールで観光用熱気球が炎上して墜落すという事故が起きました。
日本人4人を含む19人が死亡したといいます。

事故はとても痛ましく残念ですが、ルクソールの上空からの風景は見事でしょう。
王家の谷も2つの大神殿も上から見ないと全貌はつかめません。
危険を承知で熱気球に乗りたくなる人の気持ちはよくわかります。
できることなら、私も上からルクソールを見てみたいです。

わが家の最初の家族旅行はエジプトでした。
私が会社を辞めて、時間が取れるようになったので、家族に提案してエジプトを選びましたが、節子はなんでエジプトなの?という感じでした。
私と違って、節子にとっては遺跡は泥の塊でしかなかったのです。
実際にエジプトに行ってから、節子はエジプト好きになりましたが、本当は遺跡よりは自然や都市が節子の好みだったのです。

ルクソールでの思い出はいろいろありますが、たしかホテルで夫婦喧嘩をしてしまったような気がします。
それで自由時間にルクソールの市場に出かけたのですが、たしか節子は別行動でした。
そのため、ルクソールの市場でのお土産はありません。
ルクソールの神殿は実に私好みでした。
その反面、王家の谷の印象はほとんどありません。
話題のツタンカーメンの墓は閉じられていましたし、どこの墓に入ったかさえ覚えていません。
まあ観光で見たものは意外と忘れますが、夫婦喧嘩はなかなか忘れません。
困ったものです。

ルクソール神殿は、遺跡は泥の塊だと言っていた節子にも感動的だったようです。
以来、私たちの海外旅行は、ギリシア、トルコ、イランと、古代遺跡ばかりだったのですが、節子は反対せずにいつも喜んでいました。
もし節子が元気だったら、もう一度、エジプトには行ったはずです。
ルクソールにはたくさんの遺跡がありますから、今度は夫婦喧嘩などせずに、ゆっくりと滞在したかったものです。
そのルクソールに、もう行くことがないと思うと、とても残念です。

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■節子への挽歌1997:記憶の共同体

節子
J・S・ミルは、150年前に出版した『代議制統治論』のなかで、「記憶の共同体」という言葉を使っています。
「国民性(nationality)」に関連して述べている文章があります。

「人類のある一部分が、共通の諸共感によってお互いにひとまとまりとなり、その共感は、他のどんな人々とのあいだにも存在しないようなものであれば、彼らは一つの国民を形成するといってよいだろう。」

そして、人々をつなげる最も強い要素として、ミルはこう書いています。

「全てのうちでもっとも強力なのは、国民の歴史を有することと、その結果として記憶の共同体をなしていること、すなわち、過去の同じ出来事にかんする、集団として誇りと屈辱、喜びと悔恨を持つということである。」

あえて、挽歌にまでミルを持ち出すこともないのですが、この「記憶の共同体」という言葉はとても気にいっています。
夫婦や家族は、まさに「記憶の共同体」だからです。
その記憶は、写真や文字で残されることもありますが、そのほとんどはそれぞれの心身の中に埋め込まれ、あるいは関係性の中に蓄積されているのです。
節子が元気だったころ、私は写真やビデオをとるのが好きでしたが、いなくなってからはまったくといっていいほど、撮らなくなりました。
そればかりではなく、撮りためたビデオや写真への関心もすっかりなくなってしまいました。
記録されたものは、実際には瑣末なものかもしれません。

愛する家族を亡くした人が、その人が使っていた部屋を片付けもせずにそのままにしているのは、まさに「記憶の共同体」を壊したくないからです。
私もまた同じように、節子の生活のにおいがするところは、あまり変えたくないと思っています。
私は、いまなお節子との「記憶の共同体」に生きているからかもしれません。

「記憶の共同体」は時間をかけて育ってくるものです。
無理につくろうとしても、つくれるものではありません。
節子は病気になってから、よく、「またひとつ修との思い出ができた、家族との思い出ができた」と話していましたが、そんな思い出よりも、たわいのない日常の思い出のほうが、「記憶の共同体」には重要なのです。
でもまあ、そういう時の節子の気持ちはよくわかります。
節子は、そういいながら、限られた毎日をとても大事にしていたのですから。
それに十分に応えていなかったことは、いくら後悔しても後悔が残ります。
しかし、節子との「記憶の共同体」はいまなおしっかりと残っています。
その共同体に、今も支えられているのです。

どんなに仲たがいしている夫婦であろうと、かならず「記憶の共同体」はお互いを支えています。
願わくば、多くの夫婦がそれに気づいてくれるといいなと思います。
一度つくった夫婦の絆を壊してはほしくありません。
手に入れたくとも手に入れられない人も存在していることを忘れないでほしいです。

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■節子への挽歌1996:夢からの暗示

節子
相変わらず最近、よく夢を見ます。
一時期ほど、節子は登場しませんが、いつも懐かしい人が順番に登場します。
なにやら迎えが来る前にいろいろな人が登場するような気がしないでもないですが、ある事情があって、少なくともあと3年は、私は此岸にとどまることにしています。

それにしても、毎晩、よくいろんな夢が見られます。
もっとも、ほとんどの場合、うまくいく夢ではありません。
まぜか思い通りに行かずに、課題を残すことが多いのです。
「夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現している。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだわかっていない」とフロイトは書いていますが、まさにその通りです。

もっとも、どんな夢を見たかは、おどろくほど完全に忘れてしまいます。
目覚めた直後には鮮明な記憶があるのですが、30分も立つときれいに忘れてしまいます。
記憶しておこうと意識しておくと意外と記憶は残りますが、そうでないとそれこそ二度と思い出せなくなります。
記憶のあるうちに記録をしておけばいいのですが、そんなことは私の性には合いません。
しかし、これもまた不思議なのですが、明確な記憶はないのに、なんとなく懐かしい人が出てきて、懐かしい場面の再現だったりという、漠然とした記憶は残っています。
また数回にわたって登場する人もいます。
その人は、私の面識のない人なのですが、数年にわたってみているので、何か知っている人なのではないかと思えるほどです。
最近夢に出てきませんが、昔は、よく登場する3つの廃寺がありました。
その一つには、三千院の阿弥陀如のような仏があり、いつもすぐ横で拝めましたし。最後(なぜか13番目のお寺という意識がありますが)の廃寺にはとてもやさしい五重塔が残っていました。
この塔は、いつも見えるわけではなく、日によって現れる不思議な塔でした。
この夢をよく見たのは、節子がいるときでした。
節子がいなくなってからは、一度も見ていません。
夢の世界も、節子がいなくなってからは間違いなく変わりました。

節子がいなくなった後、彼岸につながっている鉄道の夢を2回見ました。
一つは、ハリー・ポッターのように、ある駅に重なって「見えないホーム」がありましたし、もう一つは駅名まではっきりとした駅の入り口にたくさんの人が乗り込んでいる夢でした。
目が覚めてからパソコンで、その駅の名前を検索しましたが、見つからなかったことを覚えています。
その種の夢は、その後は見ていません。

なんだかおかしな話を書いてしまいましたが、夢は何を示唆しているのでしょうか。
最近は夢でうなされることもなくなりましたが、輝くような夢も見なくなりました。
それに、最近は節子もはっきりとした姿では夢に現れません。
私もまた、夢を見たいという意識が薄れてきました。
見たい夢がないせいか、最近はわけのわからない夢が押し寄せているのかもしれません。

夢は不思議な存在です。
人の生のバランスもとってくれますし。

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■節子への挽歌1995:自らと寄り添う生き方

節子
寄り添う人がいるということの大切さを、最近改めて痛感しています。
人は一人で生きていくには弱すぎる存在なのかもしれません。
一人だとどうもバランスがとりにくい。
これは自立していない私だけの事情かもしれませんが、周りを見ていても、そう感ずることは少なくありません。

もちろん、寄り添う人は伴侶とは限りません。
私の場合は、たまたまそれが伴侶である節子だっただけの話です。

福祉の世界では、寄り添うことの大切さが盛んに言われます。
「情緒的一体感の共有」とも言われていますが、そういうことは簡単なことではありません。
とりわけ最近の風潮は、忙しさのあまり、そうしたことさえもがテクニックやスキルの問題として捉えられがちです。
「寄り添いの大切さ」を口にする福祉関係者は多いですが、それを実践している人は、そう多くないように思います。
むしろ、なんでもない日常生活でこそ、寄り添いは実践されています。

「寄り添う」というとき、本当に大切なのは、相手との接し方ではなくて、自らの生き方なのです。
自分が、ある意味での当事者になると、そのことがいたいほどわかります。
他者と寄り添うためには、まずは自らと寄り添わなければいけません。
「自らと寄り添う」とはおかしな表現ですが、自らに素直になり、自らとしっかりと向かい合うと言うことです。
これはできているようで、意外とできていないものです。

節子がいたころは(いなくなった今もその延長ですが)、節子に向き合うことで私は自らに向かい合っていました。
別にそう意識していたわけではありませんが、そうでした。
だからある意味で、自らを相対化でき、生きるバランスがとれていたのです。
それがいまは難しい。
「人」という文字は、支え合う形になっていますが、その支え合いの意味はとても深いような気がします。

最近、あまり挽歌が書けていませんが、それがもしかしたら私の生き方のバランスを崩しているのかもしれません。
もう少しきちんと自分自身に立ち向かわないといけません。
そのためにも挽歌はきちんと続けないといけません。
挽歌を書き続けると、元気が出てくるかもしれません。
自分が見えてきますから。

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2013/02/24

■節子への挽歌1994:楽なものからやってはいけない

節子
今日も大事をとって自宅にいました。
しかしやることが山のようです。
さてどうするか。

私は「楽なこと、やりたいことから始める」のが流儀です。
しかし、節子は「やるべきことから始める」流儀でした。
もう一つ違う流儀がありました。
「今日できることは今日やる」と「明日でもいいことは今日はやらない」です。
前者は節子、後者は私です。
もちろん望ましいのは節子流でしょうが、私はどうも不得手です。
それでいつも節子に注意されたり、呆れられたりしていました。
いまとなっては懐かしい思い出です。

節子がいなくなってから、私の流儀はさらに進化しました。
「今日しなければいけないことも明日にのばす」です。
実に困ったものですが、まあ、それでも太陽は出てきますから、大丈夫なのです。
そうしてどんどん自堕落になってしまってきたわけです。
その咎は、当然ながら自らであがなわなければいけません。
それが昨今の私の生活の混乱なのです。

そんなわけで、今日も楽なものから始めましたが、幸いなことに約束事はほぼ完了しました。
しかし、問題はあまりパソコンを続けられないことです。
やはり少し長くやるとおかしくなりそうな気配がします。

明日ももう少し大事をとらなければいけません。
困ったものです。はい。

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2013/02/23

■節子への挽歌1993:4回目の視界異常

節子
事件です。
今日の午後、突然視界がおかしくなりました。
視界の左側にゆらゆらとらせん状に動く渦巻きが現れて消えなくなったのです。
2年おきくらいに起こる症状です。
最初に起こったのは、節子と節子の姉夫婦との福井での旅行中でした。
節子との最後の遠出旅行でした。
どこだったかあまり覚えていないのですが、買い物にお土産店に入った節子たちを外で待っている時に、それが起こりました。
目まいほどではないのですが、視界がおかしくなり、焦点が合わなくなったのです。
節子たちが戻ってくるころには、おさまっていましたので、節子にはちょっと目がおかしくなったとしか話しませんでしたが、その時はそれだけで終わりました。

2回目は2年目です。出張で出かけていた先でのことです。
この時は正常に戻るまで1時間ほどかかりました。
さすがにこの時は、翌日、病院に行き、MRIを撮りました。
大きな異常は見つかりませんでした。
その1年後にまた自宅で同じ状況が起こりましたが、横になっていたらおさまりました。
そして、今日、4回目が起こったのです。
目の使いすぎかもしれません。
今回も30分ほどで正常化しましたが、あまり気持ちのいいものではありません。

今日はたまっていたパソコン仕事があったのですが、目を使うのをやめることにしました。
この挽歌を書いたら、今日はお風呂に入って、ゆっくり休もうと思います。
最近、生活のリズムも崩れていますし、ストレスも山のようにたまっていますし、寝不足ですし、おかしくなっても、それこそおかしくありません。

節子がいないと、自宅ではパソコンとにらめっこばかしです。
つまりは、節子のせいなのです。
節子がいる時には、パソコンに向かいすぎていると、節子が注意してくれて、パソコンから引き離してくれましたが、もうそれもなくなりました。
むしろ挽歌のために、節子が私をパソコンに誘います。
困ったものです。
どうにかしなければいけません。

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■節子への挽歌1992:最大の支え

節子
最近、週に2回ほど近くの整体院に通っています。
特にどこが悪いというわけではないのですが、何気なく立ち寄ったのが縁で、よく通うようになったのです。
その院長は、まだ20代ですが、とてもがんばっています。
毎日、6時間弱の睡眠時間で、ともかく今は限界まで頑張っているのだそうです。
始発に家を出て、終電で帰る毎日だそうです。
なぜそんなに頑張れるのか。
いつか夫婦で独立すると言う目標があるからです。
奥さんも同じ整体師のようです。
目標を持って、夫婦で頑張る。
私には理想的な生き方です。
もう自分ではできない生き方ですが。
だから応援したいと思います。

一昨日、レネ・ダイグナンさんというアイルランドの人に会いました。
41歳ですから、もう若者とはいえないかもしれませんが、私から見れば、若者です。
彼はあるきっかけで、日本の自殺者の多さを知りました。
そこから20代の若い友人と2人で、仕事の合間を使って、3年かけて記録映画を制作しました。
「自殺者1万人を救う戦い」という作品です。
私も見せてもらいました。
そして、3月に開催予定の集まりにレネさんに来てもらうことにしました。
その打ち合わせもあって、お会いしたのですが、彼の思いに共感して、2時間も話し込んでしまいました。
3年間はかなりハードだったようで、「妻はまた映画を作るなら離婚すると言っています。そう言ったとき笑っていなかったので、きっと冗談ではないんでしょう」とあるインタビューに答えています。
100人近い関係者のインタビューをした作品を2人で制作したのですから、まあ当然でしょう。
いまレネさんのところには、講演の依頼や上映の話がたくさん来ています。
しかし彼の一番の関心は、この映画を効果的に生かしながら、日本の現状を変えていくということです。
その誠実さと真摯さにとても感動しました。
奥さんの言葉は言葉として、レネさんが3年間がんばれたのは、奥さんの支えがあればこそのことだったと確信します。
夫婦の支えあうスタイルは、それぞれに違います。

私が、25年間勤めた会社を辞めて、全く違う生き方をはじめた時に、節子は何も言わずに全面的にただただ応援してくれました。
私が、たぶん普通の人たちとは全くといっていいほど違う人生に移れたのは、節子のおかげです。
2人の若者と話していて、25年前のことを思い出してしまいました。
最大の支えとは、相手を全面的に信頼することかもしれません。

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2013/02/22

■節子への挽歌1991:夫唱婦随

節子
久しぶりにビレッジハウスの山本さんがやってきました。
山本さんはご夫婦で設計デザインの会社をやっています。
お2人が設計された結婚式場は、ブームを引き起こしたり、映画の舞台になったりすることが多かったです。
山本さんが設計した360度に視界が開ける屋上のチャペルやプロヴァンス風の屋上庭園には節子ともども招待されましたし、
二宮のバリ風レストランにも招待されて、ご馳走になった記憶があります。
山本ご夫妻には節子もお会いしていますが、とりわけ秀太郎さんは一時期、湯島のオープンサロンの常連でもありました。
今はご自分がサロンを主催されています。

山本夫妻は、実に対照的な夫婦なのです。
いささかパターン化していえば、楽観主義の妻と悲観主義の夫と言ってもいいでしょうか。
その2人の結婚の話も実にドラマティックなのですが、まあそれは私が書く話でもないでしょう。

山本さんが、もう何年ですか、と訊いてきました。
もう6年目ですと言うと、もう6年目ですかと言いました。
まあそれだけの話なのですが、それだけいろいろなことが共有できるのです。
精神がしっかりするまで5年以上はかかりましたと言ったら、佐藤夫妻は私たちと違って夫唱婦随だからと山本さんが言いました、
実は山本夫妻も、夫唱婦随なのです。
山本さんは、もしかしたら婦唱夫随だと思っているかもしれませんが、そうではないのです。
それに、山本さんは実に奥様思いなのです。
それが実によくわかるのです。
みんな意外と自覚していませんが、片方を失うと、たぶん多くの人がそれに気づくのではないかと思います。

もっとも、どっちが「唱」でどっちが「随」かは、瑣末なことです。
夫婦とは「唱」も「随」もないのです。
夫婦を40年もやったものとしては、そう思います。

しかし、片割れがいなくなると、「唱」も「随」もできなくなります。
それが一番さびしいのです。
このさびしさは、そうなってみないとわかりません。
さびしいというよりも、むなしいものです。

またなかなか挽歌も時評も書けずにいます。
どこか最近、自分が腑抜けになってきた感じです。
困ったものです。

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