■節子への挽歌1500:考えなければいけないことが増えました
節子
先ほど、お風呂に入りながら考えました。
なんで最近こうも気分が混乱しているのだろうか、と。
さほど忙しいわけではありません。
節子が元気だった頃に比べれば、関わっているプロジェクトは半分にも届きません。
それ以上に、それぞれへのコミットの度合いが全く違います。
だから気楽なはずなのに、何やら心せわしく、気分ガ落ち着かないのです。
お風呂でそんなことを考えていたら、その理由に気づきました。
考えなければいけないことの範囲が広がったからです。
たとえば、寒くなれば、着るものを考えなければいけません。
先月は急に寒くなったので朝、秋のスーツを出したら、きちんとしまっておかなかったので、カビだらけで着れなくて、着ていくものがなくて困りました。
そのうえ、服まで買いに行かなければいけません。
季節に応じて寝具も変えなければいけない。
親戚付き合いも少しは考えなければいけませんし、何か贈ってもらったら苦手の御礼の電話もしないといけない。
洗面所が壊れたら直さなければいけませんし、娘のことも考えなければいけません。
家計も考えないといけないし、貯金通帳の残高も注意していないと電気代が引き落とせなかったという手紙が届きます。
庭や室内の花には水もやらなければいけないし、何を食べたいか娘に訊かれて答えなければいけません。
チビ太の介護も、金魚の世話も、意図せざる住人のゴキブリの退治も、すべて気にしないといけません。
気づいてみたら、やることが急に増えてしまっていたのです。
そうそう掃除もしないといけない。
節子がいた頃は、そういうことに私は一切、気を使わなくてよかったのです。
寝具も衣替えも、季節が来れば自然と行われていましたし、家計の心配などしなくてもよかったのです。
何かが欲しくなったら、節子に一言言えば、たいてい実現したか、あるいは忘れてしまったかで、いずれにしろ私は何もしないで口だけ動かしていたらよかったのです。
そして私は、関心を持ったことだけにわがままに時間と意識を注入できたというわけです。
経済的な仕事などは生活的な仕事に比べたら簡単なものです。
論理で対応できるからです。
しかし生活はそうはいきません。
家事をやったことのある人ならわかるでしょうが、家事は実に大変です。
チビ太の介護をして気づいたのは、わが両親の介護をしてくれた節子の苦労です。
まあ会話ができた分だけ、チビ太よりは楽だったかもしれませんが、大変だったでしょう。
テレビのCMにもありましたが、生活を支えるということは大変なことなのです。
私が、能天気に、実にさまざまな課題にのめりこめたのは、節子が私の生活を支えてくれていたからです。
毎年、赤字つづきの会社の経理までやってくれていました。
その節子がいなくなったために、私の守備範囲は一挙に数倍になってしまった。
だからきっと最近心が混乱してしまい、心休まることが少ないのかもしれません。
幸いに娘が私の生活を支えてくれてはいますが、娘にはやはり遠慮がありますし、娘もまた私に遠慮がある。
だから節子とは違って、無条件に丸投げして、忘れるわけにはいきません。
娘にはよく「節子だったらなあ」と言うのですが、即座に「私は節子じゃありません」と言われてしまいます。
それはそうです。反論のしようがない。
でも節子に完全に任せていたために、何をやっていいのかさえ気づかないこともあるのです。
節子が心配していましたが、私にはやはりあんまり生活力はなさそうです。
困ったものです。
節子はきっと彼岸で、それ見たことかと半分笑いながら、心配しているでしょう。
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