カテゴリー「妻への挽歌15」の記事

2011/10/11

■節子への挽歌1500:考えなければいけないことが増えました

節子
先ほど、お風呂に入りながら考えました。
なんで最近こうも気分が混乱しているのだろうか、と。
さほど忙しいわけではありません。
節子が元気だった頃に比べれば、関わっているプロジェクトは半分にも届きません。
それ以上に、それぞれへのコミットの度合いが全く違います。
だから気楽なはずなのに、何やら心せわしく、気分ガ落ち着かないのです。
お風呂でそんなことを考えていたら、その理由に気づきました。

考えなければいけないことの範囲が広がったからです。
たとえば、寒くなれば、着るものを考えなければいけません。
先月は急に寒くなったので朝、秋のスーツを出したら、きちんとしまっておかなかったので、カビだらけで着れなくて、着ていくものがなくて困りました。
そのうえ、服まで買いに行かなければいけません。
季節に応じて寝具も変えなければいけない。
親戚付き合いも少しは考えなければいけませんし、何か贈ってもらったら苦手の御礼の電話もしないといけない。
洗面所が壊れたら直さなければいけませんし、娘のことも考えなければいけません。
家計も考えないといけないし、貯金通帳の残高も注意していないと電気代が引き落とせなかったという手紙が届きます。
庭や室内の花には水もやらなければいけないし、何を食べたいか娘に訊かれて答えなければいけません。
チビ太の介護も、金魚の世話も、意図せざる住人のゴキブリの退治も、すべて気にしないといけません。
気づいてみたら、やることが急に増えてしまっていたのです。
そうそう掃除もしないといけない。

節子がいた頃は、そういうことに私は一切、気を使わなくてよかったのです。
寝具も衣替えも、季節が来れば自然と行われていましたし、家計の心配などしなくてもよかったのです。
何かが欲しくなったら、節子に一言言えば、たいてい実現したか、あるいは忘れてしまったかで、いずれにしろ私は何もしないで口だけ動かしていたらよかったのです。
そして私は、関心を持ったことだけにわがままに時間と意識を注入できたというわけです。

経済的な仕事などは生活的な仕事に比べたら簡単なものです。
論理で対応できるからです。
しかし生活はそうはいきません。
家事をやったことのある人ならわかるでしょうが、家事は実に大変です。
チビ太の介護をして気づいたのは、わが両親の介護をしてくれた節子の苦労です。
まあ会話ができた分だけ、チビ太よりは楽だったかもしれませんが、大変だったでしょう。

テレビのCMにもありましたが、生活を支えるということは大変なことなのです。
私が、能天気に、実にさまざまな課題にのめりこめたのは、節子が私の生活を支えてくれていたからです。
毎年、赤字つづきの会社の経理までやってくれていました。
その節子がいなくなったために、私の守備範囲は一挙に数倍になってしまった。
だからきっと最近心が混乱してしまい、心休まることが少ないのかもしれません。

幸いに娘が私の生活を支えてくれてはいますが、娘にはやはり遠慮がありますし、娘もまた私に遠慮がある。
だから節子とは違って、無条件に丸投げして、忘れるわけにはいきません。
娘にはよく「節子だったらなあ」と言うのですが、即座に「私は節子じゃありません」と言われてしまいます。
それはそうです。反論のしようがない。
でも節子に完全に任せていたために、何をやっていいのかさえ気づかないこともあるのです。
節子が心配していましたが、私にはやはりあんまり生活力はなさそうです。
困ったものです。
節子はきっと彼岸で、それ見たことかと半分笑いながら、心配しているでしょう。

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2011/10/10

■節子への挽歌1499:夫婦的無意識

涙が出たせいか、挽歌が書けるようになりましたので、もう一つ書きます。

昨日、湯島で古希世代フェイスブック学びあいの会を開催しました。
高校時代の同窓生から提案があったので、フェイスブックで呼びかけたのです。
結局、集まったのは4人だけでした。
一人は節子もよく知っている乾さんですが、あとの2人は私の高校と大学の同窓生たちです。
大学の同窓生は店網と高橋。節子はそれぞれに会っています。
高校の同窓生は寺田さんですが、私もお会いするのが初めてなので、節子はもちろん会っていません。

私は、高校や大学時代の話を節子にしたことはあまりありません。
それに私は47歳で、会社を辞めてしまい、社会的なレールから離脱しました。
それ以来、官庁や大企業、大学などで活躍している友人たちとはあまり付き合わなくなりました。
世界がどんどんと違っていってしまったのです。
歳をとると、同窓会だとかメーリングリストとか交流が盛んになりますが、私はそれにもほとんど参加しません。
ですから、節子は私の若い頃のことを知りようもなかったのです。
一度、節子と一緒にハワイに行った時に、ポリネシアンセンターで大学の同級生だっ阿部夫妻に偶然に出会ったことがあります。
滋賀の大津で、結婚直後、「神田川生活」をしていた頃に、店網たちが来てくれたことがあります。
湯島にオフィスを開いた時に、高橋はワインを持ってお祝いに来てくれたことがあります。
私が本当に大学に通っていたことを節子が実感できる機会は、それくらいだったかもしれません。
大学時代の話を、私はしたことがほとんどなく、ましてや高校時代の話は全くしたことがないのです。
そう考えると、私たちはお互いのことを一体どのくらい知っていたのでしょうか。
あんまり知っていないのかもしれません。
しかし不思議なもので、大切なことはお互いに十分に知りあっっていた気がします。
私がどんな大学生だったかはたぶん節子はわかっていたでしょう。
何しろ私は子どもの頃から何一つ変わっていない、成長していないからです。

節子はどうでしょうか。
節子もたぶん私と同じです。
節子からきちんと聞いたことなどありませんが、私には子どもの頃からの節子のことが、手に取るようにわかります。

不思議なものです。
愛し合って一緒に暮らしていると、相手のすべてが共有化されていくのです。
集合的無意識からちょっと浮き上がったような、夫婦的無意識が生まれるようです。
それが、今の私を支えているのかもしれません。

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■節子への挽歌1498:どんな状況に置かれようと、それには必ず意味がある

節子
また2日間、ブログが書けませんでした。
時間がないわけでは決してないのですが、書けないのです。
最近は、時評編もなかなか書けずにいますが、毎日必ず書こうと決めた挽歌も書けないことが時々あります。
自然に生きるのをモットーにしていますので、無理はしませんが、それでも書かなくてはという気持ちが心から抜けません。

今日は、お墓参りにも行ってきました。
夕方だったので、お墓には誰もいませんでした。
誰もいない夕方のお墓は哀しいほどにさびしいです。

帰って、テレビをつけたら、私の好きな安田顕さんが出ていました。
NHKのドラマ「風をあつめて」です。
筋ジストロフィーの子を抱える家族の話でした。
なぜか涙がとまりませんでした。
実話に基づく話だそうですが、2人の筋ジストロフィーの娘と向きあいながら、いつしか娘たちに自分たちが生かされていることを知る夫婦の物語です。
決してハッピーエンドとはいえませんし、こんな言い方は不謹慎かもしれませんが、私には娘たちを失う夫婦がうらやましくさえ感じられました。
それで、涙が止まらなかったのです。
悲しかったからでは在りません。
それと同時に、自らを嘆く私自身の欲深さも反省しました。
人の幸せは、決して客観的な状況などではないのです。

もうひとつ感動したのは、主人公が勤めている福祉施設に出資を申し出てきた会社の社長や施設の上司のあたたかさです。
福祉施設の経営を支援しようと言い出した会社の社長は、主人公の家族状況を知った上で、娘さんたちのために人生を犠牲にして大変だね、というような言葉をかけます。
それに対して、主人公は、「犠牲ではありません、もし福祉に関わろうというなら、犠牲というような言葉を使わないほうがいいです」と言い返します。
この場面も私はとても共感できました。
しかしそれ以上に、その時には少し気分を害したように見えた社長が後で謝ってきたのに涙が出ました。
涙は、悲しいから出るのではないのです。

どんな状況に置かれようと、それには必ず意味がある。
改めてそのことを思い出しました。
そう思うとどんな時にも生きやすくなるでしょう。
しかし、そう思うのは簡単なことではないのです。
最近は精神的な疲労感が覆いかぶさってきていました。
しかし、涙が出たら、少し心が軽くなりました。
もしかしたら、まだまだ泣き足りていないのかもしれません。
お恥ずかしい限りですが、いつか思う存分涙したいと思います。

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2011/10/08

■節子への挽歌1497:「一人できちんと生きていくのは しんどいなー」

今日は私のことではありません。
近くの、やはり伴侶を亡くされた方からのメールの紹介です。

先週の手づくり散歩市にもしかしたらいらっしゃるかなと思っていましたが、来ませんでした。
風邪かなと思っていたら、やはり風邪だったようです。

先週末の手作り市に ぜひジュンさんのタイル工房と 佐藤さんのコーヒーを頂きに伺おうと思っていましたら 風邪にかかり 伺えず残念でした。
クスリもきちんと飲んでいるのに罹ってから三週間経っても まだなんだかスッキリしません。
ホームドクターは 夏の疲れもあるのでしょうとの診断でしたが 何もせず横になりながら なぜこんなに 長引くのかナーと考えてみました。
夫や家族がいる時は 早くよくなって 食事つくりや 滞った家事をしなくてはと思うのに 一人の今は 迷惑を掛ける人もなく 治りたいという気力がないんだなと気付きました。
一人できちんと生きていくのは しんどいなー いつまで生きなくちゃいけないのかなーと 肉体と精神は 連動しているのを痛感しました。
同じようなことを私も体験しているので、よくわかる気がします。
前にも書いたことがありますが、肉体と精神はまさに連動しています。
イヌイットは、生きる気を失うと風邪でも死んでしまうと、文化人類学者の方が書いていましたが、意識は生死さえ決めているのです。

だとしたら、節子は自らの精神、意思で、死を選んだのでしょうか。
また書き出すと長くなるのでやめますが、私はそう思います。
ではなぜ死を選んだか、です。
それは、おそらく問題の建て方が間違っているのです。
発想を反転させましょう。
節子は自らの精神、意思で、生きつづけていたのです。
肉体的にはもう限界を超えていたにもかかわらず、です。
だから問題を建てるとしたら、「なぜ生を選んだか」でなければいけません。
そしてその答は明確です。
家族を、とりわけ(たぶん)私を愛していたらからです。
そしてある見極めをつけて、旅立ったと思いたいです。

人は一人で生きていないが故に、しんどくても生きつづけようとするのです。
ですから、一人で生きていないからこそ「しんどい」のです。
たぶんそうですよ、YHさん。
言い換えれば、みんな「一人ではない」のです。

つい最近、知人の家族が自殺したことを知りました。
もう少し「しんどさ」に耐えてほしかったですが、一人ではないことを実感できなくなったのでしょう。
どうしてこんなことが起こるのか。
節子が知ったらとても悲しむでしょう。
私たちは、だれも一人ではないのです。
ご冥福を祈りながらも、とてもやりきれない気持ちです。

湯島では、みんな一人ではないということを感じてもらうための、カフェサロンを毎週のようにやっています。
いつかこの挽歌の読者限定のカフェサロンをやれればと思います

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2011/10/07

■節子への挽歌1496:2人の留学生

節子
今日は2人の留学生が湯島に来ました。
まったく別々にですが、なぜか今日は集中しました。
一人は韓国から、もう一人は中国からです。
2人とも女性で、一人は大学院を目指しており、一人は今月から大学院だそうです。
学ぶべき目標もしっかりと持っています。
いずれも友人からの紹介ですが、どうも日本の学生よりしっかりしています。

2人は、それぞれ別々に来ましたが、話をしていて、昔やっていた留学生サロンを思い出しました。
あれも節子がいたおかげで実現したものです。
もし節子が元気だったら、またやろうかと言うかもしれません。
節子は好奇心が強かったので、外国の人が好きでした。
節子がいたらたぶんわが家に招待したでしょう。

一人のほうがやりやすいこともありますが、夫婦で取り組んだほうが好都合のこともあります。
サロンは、私だけよりも夫婦のほうが雰囲気がやわらぎます。
節子と一緒にやっていた時には、女性もよく参加していましたが、最近の私だけのサロンでは男性ばかりです。
どこが違うのでしょうか。
それにおもてなしの仕方も違います。
節子は飲み物や食べ物を用意していましたが、私は面倒なのであんまり用意しません。
ですから同じサロンでも、どこか雰囲気が違うのです。

留学生サロンをやっていた頃は、いつか帰国したみんなのところを訪ねていこうと節子と話していました。
しかし残念ながら実現しませんでした。
いまも時にお誘いがありますが、節子と一緒にやっていた留学生サロンなので、私一人で行く気にはなれません。

節子と一緒に、いろんなことをやってきたことを思い出すと、寂しさがつのります。
みんな途中で終わってしまいました。
しかし、人生はそんなものなのでしょう。
途中で終わるのが、むしろ幸せな人生かもしれません。
そんな気が、今日はしています。

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2011/10/06

■節子への挽歌1495:健全さの維持

節子
最近は自分の言動のおかしさを相対化するのが難しくなっています。
節子がいた頃は、節子の反応で私自身の言動を相対化できました。
節子も私同様、あんまり常識はありませんでしたが、少なくともその反応で自分の行動を相対化する視座を得られました。
だからこそ、私としては思い切り自由に発想し行動できた面があります。

しかし、節子がいない今は、いささかの危うさがあります。
このブログの時評編の私の意見もかなり偏っているはずです。
表現はさらに独善的です。感情的で、品格もありません。
節子がいた頃は、時々、修正勧告が出たほどです。
私自身ちょっと気になる時には、予め節子に読んでもらいました。
いまはそれもできません。
ですから時に書きすぎたりして、後で反省することもあるのです。

それに最近はかなり「ひがみ根性」がたかまっているような自己嫌悪感もあります。
昔のようなのびのびした明るさは自分でも失われたと感じています。
だから最近のブログは、かなり偏っているだろうなと自覚していました。

最近、思ってもいなかったTさんがブログを読んでくださっていることがわかりました。
それで、いささか気になって、

最近はどうも社会が病んでいるような気がしてなりません。
私もそうなのでしょうが。
と弁解めいたメールをTさんに送ってしまいました。
そうしたら返事が来ました。
佐藤様はずば抜けて健全でいらっしゃいます。
「ずば抜けて健全!」
事実はともかく元気が出ました。
Tさんは私よりも10歳ほど年上、欲もなく邪気もなく、実に誠実な方です。
その人から「健全」と言われると、それは元気が出るものです。
それに私は人の言葉はほぼすべて信じてしまうというタイプなのです。

節子がいなくなってから、私の性格はかなり悪くなりました。
自分でもわかります。
人の思いやりを素直に受け容れられないばかりか、気遣いにまで時に反発してしまうのです。
節子のことを忘れているような人には、ついつい邪険にしてしまいます。
もともとあまり健全とはいえなかった私の精神は、ますます邪気を帯びてきている怖れがあります。
そう思っていたのですが、なんと予想外の「健全」エールです。

愛する人を失うと世界が変わります。
最近、挽歌にコメントを書いてくれた方が「希死念慮」という言葉を使っていますが、その気持ちはよくわかります。
私はそこから抜け出しましたが、その思いに襲われたこともあります。
いまでも、自暴自棄的な気分がどこかに残っています。
そのため、意見が必要以上に極端に走りかねません。
健全さを維持するのは、難しいのです。
しかし健全さは生きる基本でなければいけません。
Tさんのエールを心しながら、節子のいる時の健全さを思い出そうと思います。

愛する人を失った人は、自分だけで考えていてはいけません。
誰かに心を開くことが大切です。
私はこうして挽歌で心を開いているので、もしかしたらささやかな健全さを維持できているのかもしれません。

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2011/10/05

■節子への挽歌1494:私以外はみんな元気そうです

残念ながら昨夜は節子の夢は見ませんでした。
夢を自在に操れるところにまで、まだいけていないのです。
まあ自由に操れる夢であれば、それは「夢」とはいわないでしょうが。

今日はとても寒い日になりました。
それで娘がいない間に和室にコタツをたててしまいました。
私はコタツが大好きなのです。
いつも節子には、まだ早いと言って止められていましたが、それにしてもこんなに早くコタツを出したのは初めてかもしれません。
寒いばかりでなく、今日は朝から雨です。
それでオフィスに行くのをやめて、たまっている仕事に取り組みだしましたが、寒いのでやはりコタツにはいりたくなりました。
コタツに入ると仕事をする気分が出てきません。
そこで最近気になっている友人に電話することにしました。
電話をするとまた引っ張り出されかねないので、あんまりしたくはないのですが、「便りがないのは元気な証拠」ともいえない友人も少なくないのです。

まずは小学校時代の同級生のS。
一人住まいで、前回の電話ではあまり元気がなかったのですが、今回は元気そうでした。
まずは安心。
しかし案の定、会うことになりました。

続いて、大阪にいるMさん。
Mさんは私より年上なのに今年から大学院に通いだしているのです。
そのせいか、この半年、全く連絡がなくなっていました。
ダウンしたのではないかと気になっていたのですが、これまた元気でした。
話の成り行き上、大阪まで会いに行く約束をしてしまいました。
だから電話はしたくないのです。

3番目はさらに気になっていた難問を抱えているBさん。
今度こそ少しどきどきして電話しましたが、やはり元気でした。
心配していたのが損した気分です。

要するに、一番元気でないのは私だということがわかりました。
元気だったら元気だといってこい、と言いたい気もしましたが、まあ元気で何よりです。

そういえば、広島のOさんから、寒いのでコタツが登場、というメールが今日、届きました。
Oさんももう半年以上、連絡がありませんでした。
とても元気そうで、家の近くには沢蟹がたくさんいるよと書いてありました。
私の挽歌を読んでくれているようです。


それにしても今日は寒いです。
娘に頼んで夕食はあったかいうどんにしてもらいました。
予定していた仕事は、また先送りになってしまいました。
困ったものです。

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2011/10/04

■節子への挽歌1493:節子がいないので疲れます

節子
お風呂の湯ぶねで寝てしまいました。
最近、ちょっと疲れが溜まっているのでしょうか。
節子がいた頃に比べると、私の行動量は半分どころか、三分の一にも満たないでしょう。
にもかかわらず、疲労感は倍増しています。
充実感や達成感がないからかもしれません。

人は何かのために生きるのではなく、誰かのために生きる、というのが私の考えですが、その「生きる目標」を与えてくれた「誰か」がいなくなると、どうも生きる意欲が損なわれます。
意欲がないと、同じことをやっていても疲労感は違います。
本来はワクワクすることでさえ、時にむなしくなります。
ワクワクしないわけではありませんが、節子がいた頃とは何か違います。
「ハレ」の日はなく、毎日が「ケ」なのです。

節子はいつも私に言っていました。
「たまにはすこしゆっくりしたら」と。
いまなら節子はこういうでしょう。
「たまにはすこし急いだら」と。
それほど時間を無駄にしています。
だから忙しくなるのです。

充実感がないまま、疲労感が溜まっていきます。
お風呂に入っても身体を洗う気にもなりません。
そして今日は湯ぶねで寝てしまい、気がついたら15分も寝ていました。
あのまま眠り続けられたら、とも思います。
ちょっとあぶない兆候です。

生活が単調になってきたということもあります。
節子がいた頃と違い、いまや私が真ん中にいる生活ですから、どうしても私好みのものになります。
節子がいた頃の私たちの生活は、お互いに相手の生活に付き合っていましたから、生活に変化がありました。
その変化がなくなり、私の生き方をさえぎる人もいません。
さえぎる人がいなければ、あえて何かをやろうともしなくなるものです。
そして、ますます無気力になる。

伴侶を失った人はみんなこうなのでしょうか。
私の周辺には伴侶を失った人は少なくありませんが、その人たちも私と同じなのでしょうか。
ちょっと違うような気もします。
それとも本当は私と同じなのに、見栄を張って、しゃんとしているだけなのでしょうか。
まあ、私もこの挽歌を読んだりしなければ、しゃんとしているように見えるかもしれません。
しかし、本当は疲れきって、ようやく生きているというのが実態なのかもしれません。

節子に無性に会いたくなることが、時にあります。
今日は、その「時」です。
そう思いながら、この挽歌を書いていたら、急に節子がとても近くにいるような気がしてきました。
目の前にある節子の写真の温もりが伝わってくるようです。
節子が会いに来ているのかもしれません。
今夜は、夢に節子が出てくるかもしれません。
今日は早く寝ましょう。
長い夢が見られるように。

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2011/10/03

■節子への挽歌1492:「くじのせいだ」

節子
「一枚のハガキ」の映画は、新藤監督の作品らしく、見終わった後も、時間が経つにつれてむしろ心の底からじわじわと思いが染み出してきます。

映画のキーワードのひとつが「くじで決まった」ということです。
友子のつれあい(森川)が戦地に派遣されることになり、その仲間の啓太が終戦まで戦地に行かずにすんだのは、移動先を決める「くじ」の結果です。
知子は夫の死を「くじ」のせいにして、自分を納得させようとします。
そこに意味を持たせたくないからです。
啓太は、しかし、「くじ」では納得できません。
なぜ自分が生き残ったのかを煩悶します。
実際にはそんなに簡単ではなく、そうした思いがそれぞれに交差しているのですが、友子は繰り返し「くじのせいだ」と叫びます。

愛する人を奪われた人は、たぶんみんな、「なぜ自分たちだけ」という思いに苛まれます。
自分たち、とりわけ自分に、落ち度があったのではないかと煩悶します。
そしてとても惨めな気持ちになってしまうのです。
それが世間に対する「負い目」にまでなることさえあります。
そうした体験をすると、さまざまな「弱い立場の人」たちと、少しだけ気持ちを分かち合えるようになります。
そして、それができるようになれば、惨めさはしなやかさに変わります。
いささか図式的に書きましたが、これが私のこの4年の気持ちの変遷です。

しかし、友子はそんなまどろっこしいことはしません。
啓太が言った「くじ」という言葉に、解決策を見出すのです。
ちなみに友子の義理の両親の自己納得の言葉は「運」でした。
ここでは、「運」も「くじ」の同義語です。

「くじ」は、言い換えれば「定め」です。
個人の問題は、そこでみんなの問題になるわけです。
くじに当たる意味合いが反転します。
残された人を生かすために、くじを当てた人は従容と「定め」に従うわけです。
そこで「惨めさ」は「誇り」に転化できるかもしれません。
それがいわゆる「英霊」思想です。

「一枚のハガキ」を観ながら、そんなことを考えていました。
節子との別れは「定め」だったのだろうか、と。
そう考えると、いろんなことが意味ありげにつながってきます。
節子との、あの別れは、節子に会った時から、いや会う前から決まっていたという物語ができそうです。
しかし、それこそが「英霊発想」なのかもしれません。

節子との別れが、くじによるものであるかどうかは、瑣末な話です。
ただただ悲しむこと、悼むこと、思い続けること。
それこそが大切なことだと改めて思います。
やはり新藤監督の世界は、私の世界とは違うようです。

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■節子への挽歌1491:沢蟹の棲家への入居者募集中

昨日は実現しなかった夢のことを書きましたが、私にはまだ実現していない夢もあります。
それはわが家の庭の池に、沢蟹を定住させることです。
節子が元気だった頃は、毎年、福井の節子の姉の家に行くと必ず沢蟹を見つけて連れてきました。
そして庭の池に放すのですが、すぐに居場所が分からなくなり、二度と姿を見つけることができません。
最初の頃は、節子はあまり本気に受け止めていませんでしたが、次第に理解してくれて、福井への旅行の度に沢蟹探しに付き合ってくれました。

茨城にも探しに行ったことがあります。
それを思い出して、今日、茨城に沢蟹探しに行きました。
節子と以前、一緒に行ったあたりですが、やはり沢蟹がいそうなところにまで行き着けませんでした。
節子がいないのもさびしいですが、沢蟹がいないのもさびしいです。

節子は植物と一緒に暮らすのが好きでしたが、
私は、沢蟹に限らず、小さな生き物と一緒に暮らしたいと思います。
昆虫が飛んできたら、家の中に入れたいというタイプです。
もちろん家の中では昆虫は生き続けるのが難しいので、分別がついてからは、迷い込んだ昆虫は外に出してやるようにしていますが。

庭の池に沢蟹が定着するはずがないと節子はいつも笑っていました。
しかし、笑いながらも私の沢蟹取りにはいつも付き合ってくれましたし、姉夫婦にまで頼んでくれていました。
まあ姉夫婦は、私の気まぐれの一つで、さほど真剣ではないと思っていたと思います。
しかし、私は正真正銘、沢蟹と共に暮らしたいのです。
水槽で飼われた沢蟹ではなく、池に自発的に定着した沢蟹とです。

昨年、敦賀の姉から「カニを送ったから」と電話がありました。
こんなうれしい電話はなかったのですが、送られてきたカニは、沢蟹ではなく、越前蟹でした。
カニは蟹でも、越前蟹では食べることしかできません。
がっかりしました。
娘たちは喜んで食べていました。まあ、私も食べましたが。

私が好きなのは、毛蟹でも越前蟹でもタラバ蟹ではなく、生きている沢蟹なのです。
蟹を食べるのが好きなのではなく、蟹と共にあることがうれしいのです。
前世のいずれかでは、蟹だったのかもしれません。

どなたか我孫子の近くに、沢蟹が生息している場所をご存知ありませんか。
連れてきた蟹は決して食べたりはせず、棲みやすい棲家を提供します。
自由を拘束することはありません。
食べられる蟹はいりません。

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