カテゴリー「妻への挽歌18」の記事

2017/04/28

■節子への挽歌3524:ほっこりさに飢えてきた社会


節子
昨日、電車で出会った小さな出来事をブログとフェイスブックに書きました。
「じゃんけんで勝ったものが席を譲る」という記事です。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2017/04/post-6f8a.html

最近、北朝鮮と日米韓の関係がきな臭くなっています。
それを揶揄しての、ささやかな話のつもりだったのですが、フェイスブックでの反応が大きく、書いた日だけで、200人を超える「いいね」があり、10人を超える人がシェアしました。
私はむしろそのことに驚きました。
というのも、そんな風景は時々見る風景だからです。
にもかかわらず多くの人が「とてもすばらしい」「ほっこりする」などとわざわざ書いてくれているのです。
天邪鬼の私としては、むしろそこに奇妙な違和感を持ってしまいました。
こんなことさえそんなに拍手すべきことになったのか。
そんな気がしてきたのです。

私たちが若いころの社会は、あたたかさがありました。
しかし経済的に豊かになるにつれて、人間的なものがどんどん変わってきた気もします。
そうした動きに、どこか違和感があり、私はそこから脱落してしまいましたが、たぶん節子もまた、そうした変化には調和できない人間的な時代の生き方の人でした。
もっとも節子は、奇妙にそうした現代的な、都会的なものへの関心もありました。
東京の丸の内界隈が開発されたり、何か現代的なイベントが行われたりするとき、節子から誘われたことも何回かあります。
私もついついそれに付き合いましたが、新しいところはどうも好きにはなれませんでした。
節子がいたころまでは、それでもまだどこかにあたたかさがありました。
しかし、最近の都心のビル街は、居場所がなかなか見つかりません。
私ももはや時代遅れの人になってしまっているんでしょう。

湯島のビルのエレベータであれば、小さなので一緒になった人に気楽に声もかけられますが、高層ビルのエレベータは最近は大きくなって、声をかけるような空間ではなくなってしまいました。
さすがの節子も、最近の新しいビル街は好きにはなれないでしょう。

節子はいい時代に生きていたのかもしれません。
私は少し長生きしすぎているのかもしれません。

今日はちょっと思いついたことがあるのですが、それを書くのは明日にしましょう。

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2017/04/27

■節子への挽歌3523:人は、思わぬところで生きていて、思わぬ人に会っている

節子
ある人からメールが来ました。
こんなメールです。

友人の紹介で、コミーという会社に行って小宮山さんに案内してもらいました。 ところが小宮山さんから、「しゅうさん」と言う言葉が何度も出て、どなたかなあと思っていたら、佐藤さんなんですね。 不思議なご縁にびっくりです。

私もびっくりです。
それに小宮山さんは、その人が私の知り合いなどとは知る由もありません。
なぜ「しゅうさん」の名前が何回も出てきたのか、いささか気になりますが、おかげでまったく無関係な3人がつながっていることがわかったわけです。
その人は群馬県在住ですし、小宮山さんは埼玉在住、私は千葉在住で、地域的にも離れていますし、活動分野もそれぞれ全く違うのです。

ところで、このことからこんなことがわかります。
人は、思わぬところで生きていて、思わぬ人に会っている。
私は、自分では気づかないままに、埼玉で群馬の友人に出会っていたわけです。
今回は、友人が教えてくれたからわかりましたが、私はもっとさまざまなところで生きているのでしょう。
そう考えると、孤独の人などいないのです。
みんないろんなところで生きていますから、たとえ引きこもろうとも寝たきりになろうとも、決して一人ではないのです。
孤独死など、あろうはずもないのです。

今度の土曜日に、「看取り」をテーマにしたサロンを開きます。
その参加を連絡してきた友人が、こう書いています。

私は、誰にも看取られずにウマク🐴鎮かに死にたいと願っていますがー。 こういう人間もいるのですよね。
ちなみに、「ウマク🐴」というのは、この人は乗馬が趣味の人で、人よりも馬や猫が好きな人なので、こんな表現をしています。

誰にも看取られずに死ぬことになるだろうなという人は私のまわりにも何人もいます。
でもそんなことはありえないのです。
みんな誰かに見守られて生き、最後も看取られているのです。
自分では気づかないかもしれませんが、どこかで誰かの中に生きているのです。
そして自分では知らないうちに、誰かの世界の一部を構成し、誰かに会っている。
そんな気がします。
この世に生を享けた以上、孤独であるはずがないのです。
でもそれが実感できないのが現在かもしれません。
しかし、それはそう思えばいいだけなのです。

孤独だという「傲慢さ」は捨てなければいけません。
孤独では生きてなどいけないのですから。
生きている以上は、孤独ではないということなのです。

あれ!
書こうと思っていたことがいつの間にか違うことを書いてしまいました。
書こうと思ったのは、節子もまだ生きているということだったのですが。
困ったものです。

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2017/04/26

■節子への挽歌3522:話を聴いてくれる人の大切さ

節子
やはり喉風邪のようです。
昨日はかなり回復してホッとしていたのですが、やはり順調に風邪に向かっているようです。
困ったものです。

もう風邪はやめようと思っていましたが、どこかに油断があったようです。
まあ心当たりはいろいろとあるので、油断だらけだったというべきかもしれません。

あいにく今日はいささか気の重い話ばかり予定されています。
こういう時に限って、なのです。
節子がいた頃は、気の重い話もいつもシェアしてくれましたし、少なくとも私の立場を理解してくれていました。
それだけでも、まったく違います。
すべてを一人で、それも内に込めて、抱え込んでしまうのは精神的にも身体的にもよくありません。
かといってこういうところに書きこむこともできません。
「王様の耳はロバの耳」という話が思い出されます。

先週、テレビの「こころの時代」で、ノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんが被曝後の福島の人たちを訪ねて耳を傾ける「“小さき人々”の声を求めて」を見ました。
それに触発されて、ソ連崩壊後のロシアの“小さき人々”を聞き書きした「セカンドハンドの時代」を読みました。
彼女はベラルーシの作家ですが、彼女が「小さき人々」と呼ぶ民の声を発掘し、それを自分の耳に聞こえるままに記録するという独自の文学を築いた人です。
チェルノブイリ原発事故の後も被災者の声を聞き歩いた彼女にとっては、福島取材をずっと待っていたのだそうです。
小さき人々の声は、ほとんどが体制への批判を意味しますので、大変な勇気と忍耐が求められます。
それに、小さき人々の声を聞きだす作業は、自分から話したがっている「大きな人たち」と違って、苦労も多いでしょう。

本やテレビで、小さき人々の発言に触れると、発言することの意味がよくわかります。
そして、発言を聴いてくれる人の存在が、とても大事なことがよくわかります。
聴いてくれる人がいなくなって、それは真に知ることです。

今朝、また、tugiさんがコメントくださいました。

いつも今でも一緒にいると思っていても、さがしても、さがしても、もう声を聞くことも、触れることもできません。

tugiさんも、話を聴いてくれる人との別れを体験された方のようです。
お気持ちがよくわかります。

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2017/04/25

■節子への挽歌3521:久しぶりに献花台をきれいにしました

節子
昨日、挽歌103「まさか節子が献花にきたのではないでしょうね」にコメントがありました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_72f6.html
それで私も久しぶりにその挽歌を読みました。
そういえば、そんなこともあったなと当時を思い出しました。
挽歌をまた最初から読み直してみたら、いろんな気付きがあることでしょう。

ところでそのコメントを読みながら、そういえば庭の献花台の手入れを最近していないことに気づきました。
もしかしたら、それを知らせるために、節子が Tugiさんを名乗って、コメントしてきたのかもしれません。
そんな気もして、今日は献花台のまわりを少し整理しました。
といっても、あんまり体調が良くないため、まあいつものように「適当」にですが。
献花台に供えていた花瓶がないのに気づきました。
いやはや節子は怒っているか、嘆いているかしていることでしょう。
花瓶を探しましたが、見つからないので、花の咲いている鉢を両側に置くことにしました。
まあそれで許してもらえるでしょう。
それにもうじきチューリップが咲きだすでしょう。

庭に鉢植えしていたモッコウバラが咲いているのに気づきました。
手入れが悪かったせいで、この数年、あまり咲かなかったのです。
これは節子が植えたもので、香りのよい白い花のモッコウバラです。
私はどちらかというと、黄色のモッコウバラが元気で好きなのですが、節子は白が好きだったのです。
娘によれば、節子が植えたのに、節子が病気になったためか、節子がいた頃には咲かなかったのだそうです。
義理堅い花です。

5月に例年やっている庭でのカフェサロンを予定していますので、
少し庭をきれいにしなくてはいけません。
例年なら藤が咲いてくれるのですが、昨年全滅してしまったので、今年は咲いてくれそうもありません。
かなりの鉢植えの花木も枯れてしまったので、今年は少し殺風景かもしれません。
それにすぐ隣に家が建ってしまったので、展望も悪くなりました。
でもまあ天気さえ良ければ、5月27日~28日にフリーカフェを開店する予定です。

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■節子への挽歌3520:眼科医に飽きてきました

節子
昨日は眼医者に行ってきました。
すごく混んでいる眼医者なので、いつも2時間はかかります。
私は待つのが苦手なのですが、ここはとても巧妙に仕組みられていて、私でも大丈夫です。
まず10~20分待っていると、看護師さんが診察券と保険証を返しに来ます。
それから20分ほどたつと検査室に呼ばれて、眼圧検査や視力検査を行います。
そして瞳孔が開く目薬を点滴されます。
20分ほどたつと薬が効いてきて、検査がしやすくなるのだそうです。
20分近く経つと看護師が来て、その目薬の効果を確認しに来ます。
そしてもう大丈夫なので、そろそろ診察ですと言われます。
そしてそれから少しして診察室に呼ばれるのです。
診察は5~10分で、医師との人間的な交流があります。
こんな次第で、診察終了までに1時間から1時間半かかるのですが、適当な時間をおいて、なんらかの声かけがあるので、待つのがさほど苦痛ではないのです。
20分単位で次の工程に送られる感じですので、飽きることがありません。
苦痛なのは、診察終了後の会計が遅いことです。
これがまた20分ほどかかるのです。
会計が遅い理由は、会計担当者が専門化されていないからです。
この点が、この眼科医の欠点で、これさえ直せば、もっと不満は減るでしょう。
しかし、ここに多くのヒントが含まれているのかもしれません。

私はいつも、どこに改善点がないかと観察しているので、あまり待たされ感がありません。
しかし、もう少し工夫したらもっとみんなが満足するし、待たされ感をもたないだろうなと思うこともあります。
私にコンサルティングさせてもらえれば、待合室の混み具合は減るはずです。
レイアウトや椅子などにも改善点があることにも気づきます。
だから退屈はしませんし、待つことの苦手な私もそれなりに楽しめます。
それにベルトコンベアの上を流れる商品の気持ちも味わえますし。
それはけっこう快適なものです。
まあ、最近の多くの人の生き方はそれに近いのでしょうが。

しかし、時に流れが乱れることがあります。
昨日がそうでした。
最初に50分近くも待たされてしまったのです。
いま来ているのは白内障予防のためですが、白内障の手術をしてしまえば、来なくてよくなります。
定期的に通うか、手術で終わりにするか。
というわけで、うっかり手術をしようと決めてしまいました。
まあこういう無思慮な決断が最近増えています。
さてさてどうするか。
フェイスブックに書いたら、賛否両論で、ますます迷います。
主体性のない生き方は、面白いですが、面倒くさいです。
秋になったら手術をしようと思います。

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2017/04/24

■節子への挽歌3519:体調が悪いと気持ちが暴発します

節子
この数日、どうも他者に対する対応がよくありません。
私は、気持ちが表情に出てしまうだけでなく、機嫌が言葉にでてしまうタイプなのです。
たぶん心身の作りが単純なのでしょう。
自分で自分をコントロールできない、未成熟な人間なのです。
しかもその表情や態度が、自分でもわかるのです。
そうした、「性格が悪い自分」への嫌悪感に襲われてしまうことが時々あるのです。
この数日が、そうです。
この数日、私にあったり電話したりした人の中には、不快感を持った人もいるでしょう。
困ったものです。
しかし、表情も言葉も、そこには嘘はないのです。
その時の素直な私が出ているわけです。
だからなおさら困るのです。
その時の自分は、本来の私ではないと抗弁したい気もしますが、まあどちらも私であることは間違いない事実です。

人は、自分でも気づかないうちに、気持ちを鬱積させています。
それが時に、はけ口を求めて暴発してしまう。
運の悪い人が、その相手になってしまう。
多くの場合、その人は鬱積した気持ちの犯人ではないのですが、しかしどこかでつながっているのかもしれません。

昨日は電話でかなり暴発してしまいました。
少なくとも3人の人が犠牲になりました。
こんな時に電話してきてほしくないのですが(私は電話が嫌いです)、相手は私の状況など知る由もありません。
とばっちりを受けてしまったわけです。
まあそのおかげで私はかなりバランスを取り戻しました。
デモなんだか昨日は疲れ切っていて、9時に寝てしまいました。

しかし、この数日、なぜ暴発気味だったのか。
今朝、原因がわかりました。
風邪を引いたのです。
そういえば、この数日体調があまりよくありませんでした。
いま思えば、風邪の予兆でした。
朝起きてすぐに歯を磨けば風邪はひかないと教えてもらったので、そうしていましたが、1週間ほど前からそれをやめてしまっていました。
そのためにどうも風邪をひいてしまったようです。
困ったものです。
体調の悪さが機嫌に直結しているのも、私の未熟なところです。
それで、ただでさえ未成熟な心身が気持ちを増幅させて暴発させてしまった。
そう考えることにしましょう。
性格の悪さではなく、体調の悪さのせいにすれば、少しは心やすまります。

しかし今日はこれから眼医者さんに行かなければいけません。
いやそればかりではなく、今週はめずらしく約束の多い週なのです。
果たして身心は持つでしょうか。

こんな時に、風邪などひくとは、人生はなかなかうまくいきません。
困ったものです。
なんだかぞくぞくしてきました。
さてさて。

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2017/04/23

■節子への挽歌3518:心優しい人たちを思い出すと涙が浮かんできます

節子
秋山さんを覚えているでしょうか。
40代で事故に遭い、その後遺症が残ってしまい、人生を大きく変えてしまった人です。
障がいを持った人でも働ける場をつくりたいと相談に来ました。
秋山さんが立ち上げたNPOを、ささやかに応援させてもらいました。
秋山さんの主催するイベントに参加したり、館山まで行って相談に乗ったりしました。
一時は大きなイベントを主催するところまで行き、私の役割もなくなってきました。
物事がうまく動き出せば、私の存在意味はなくなるというのが、私の考え方です。

節子の葬儀には、身体が不自由にもかかわらず来てくださり、最後までずっといてくれました。
以来、気になりながら、ネットなどの情報にしか触れずにいました。
最近、その情報も途絶えてしまったので気になっていたのですが、昨日、秋山さんのNPOで活動していた人からたまたまメールが来ました。
それで秋山さんのことを訊ねたのですが、NPOは他の人に譲り施設に入居したのだそうです。
どこに入居したのか、NPOに訊いてもわからないというのです。

秋山さんのNPO活動は、新聞などでも報道されたり、華やかな時もありました。
しかし私にはなんとなくわかるのですが、秋山さんはそんなことは望んでいなかったのだと思います。
ただただ心許す人たちと支え合える生き方をしたかったのではなかったのか。

節子の葬儀の時、秋山さんは火葬場まで来てくれました。
私以外は知り合いがいなかったのと、足が悪かったため、みんなとはちょっと離れた場所に一人で座っていました。
気になって、みんなのところにお誘いしましたが、秋山さんは一人でいたいと言って、そこを離れませんでした。
喪主として私は秋山さんとゆっくりお話するわけにもいきませんでしたが、なぜかそれがずっと気になっていました。
秋山さんは、もしかしたら、あの時、何かを私と節子に話していたのかもしれません。

節子も秋山さんのことを知っています。
秋山さんは時々湯島に相談に来ていたからです。
身体に加えて秋山さんは言語障害もありました。
そのためそれまで経営していた会社もうまくいかず、家庭も壊れてしまったとお聞きしました。
とても心優しい人で、いつも前を向いていましたが、私にはちょっと周りに利用されたのではないかという思いもあります。

秋山さんに再会するのは、もしかしたら彼岸かもしれません。
どちらが先に彼岸に行くかはわかりませんが、彼岸でも、きっと私のことは覚えていてくれるでしょう。

心優しい友人たちの恵まれた人生でした。
いや、過去形ではなく、現在形で表現すべきでしょうね。
しかし、なぜか心優しい人たちは、此岸ではあまり幸せでないのかもしれません。
心優しい人たちを思い出すと、なぜかいつも心に涙が浮かんできます。

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■節子への挽歌3517:思いを放すことの大切さ

節子
時にドキッとする発言に出合うことがあります。
しばらく前の話なのですが、しばらくぶりに会った若い女性も交えて、ある話題に関して話をしていたのですが、別れ際にその女性が、私のところに寄ってきて、ドキッとする発言をしたのです。
残念ながら、たぶん予想しているような内容の言葉ではありません。

それは、「初期がんなのです」!
最初は耳を疑いました。
あまりにも唐突であり、しかもなぜそれを私に言うのか、と。
しかも、実にあっけらかんと、明るい調子で言うのです。
「まだ母にも話していないのです。心配するでしょうから」
その口ぶりからは、たぶん同席していた人は誰も知らないことでしょう。
しかし、その口ぶりから、がんの診断を受けたのはつい最近のようです。
もしかしたら、誰かに伝えたかったのかもしれません。
でも伝えられない。
そこであまり会うことのない私に、もらしたのかもしれません。
私からは他の人に伝わることはまずないでしょうから。

しかし、私としては何と答えていいかわかりませんでした。
あまりにも突然のことであり、しかも別れ際だったからです。
みんなのところに戻ったら、彼女は何もなかったように、それまでの会話に戻りました。
ますます対応ができなくなりました。
でも、私には、「初期がんなのです」と誰かに言えたことで、彼女の心が少し晴れたような気がしました。
同時に、その日の彼女の話しぶりに圧倒されていたのですが、もしかしたら、彼女が私が席を立つ暇もないほどに話し続けていたのは、「初期がんなのです」という思いが、身心に充満していたためかもしれないという思いもしました。
帰宅してから、彼女にメールを送りましたが、返事はありませんでした。
以来、ずっと気になっています。

この話は少し前の話なのですが、昨日、サロンに参加した人が、サロンのテーマとは関係ない、ちょっと自分に降りかかってきているトラブルを話しだしました。
幸いに、サロンに参加していた数名がその話を熱心に聞きました。
サロンが終わった後、彼女が私に言いました。
今日はみんなに聞いてもらって、それだけで心が晴れました、と。
彼女の安堵した表情を見て、しばらく前のこの「初期がん」発言を思い出したのです。

たしかそろそろ検査結果が出るような話でした。
私も少し動じてしまい、正確に記憶していないのですが。
節子のがんが発見された時のことも思います。

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2017/04/22

■節子への挽歌3516:人は居心地のいいところで人生を終える

節子
昨夜、少し古い「小さな村の物語212」を録画で見ました。
オーストリア国境近くの谷あいの小さな村プレドーイが舞台です。
半年を山小屋で過ごす畜産農家のヘルムットさんが、主役の一人でした。
冬が近づくとふもとの実家に戻るのだそうですが、冬の到来を前に、ヘルムットさんがこう話していました。

自然は死があるから、また新しく生まれ変われるんです。

何気なく聞いていましたが、昨夜ベッドに入ってから気になってしまい、今朝起きてからすぐにその部分だけを見直しました。
死があるから生がある。
死は誕生なのです。
自然の中で、自然と共に生きていると、それが自然とわかってくのでしょう。

もうひとりの主役の銅鉱山博物館の職員のルイーザさんはこう語っています。

真っ直ぐだったり曲がりくねった人生だったけど、居心地のいいところに落ち着きました。

それもまた自然から学んだことに違いないと思いました。
なんでもない2つの言葉ですが、いろいろと考えさせられました。
嘆いていても何も変わらない。


同い年の友人の訃報が届きました。
世界はこうしていのちを受け継いできているのでしょう。
人はきっと、居心地のいいところで、人生を終えるのでしょう。
他の人にはわからなくても、きっとそうに違いない。
節子もきっとそうだったに違いない。

そう思えるようになってきました


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2017/04/21

■節子への挽歌3515:鳩が巣を作りました

節子
庭の木に鳩が巣をつくってしまいました。
節子は死の直前に、また鳥や花になって戻ってくると書き残しましたが、私は、鳥があまり好きではありません。
困ったものです。
せめて蝶とかトンボとかと言ってくれたらよかったのですが、なぜか鳥でした。
節子は酉年でしたから、そのためかもしれません。
しかし私は、子どもの頃、手塚治虫の「ロック冒険記」を読んで以来、鳥にある種の恐怖感があるのです。
母が鳥を飼っていたことがありますが、どうも苦手でした。
嘴と足が特に生理的に苦手なのです。

そんなわけでわが家には鳥に住んでほしくないのですが、数年前も小さな鳥が巣を作りました。
2羽生まれましたが、1羽は育ちませんでした。
だから巣は作ってほしくないのです。

実は節子のいた頃から、毎年、庭の藤棚に鳩がやって来て巣づくりをしようとしていました。
節子もそれは反対で、鳩には悪いのですが、巣づくりは断っていたのです。
その藤棚が昨年の台風で壊れてしまったので今年は大丈夫だなと思っていました。
ところがあまり人がいかない家の横の木に巣がつくられているのに気づいたのです。
すでに卵が産まれていましたので、もう立ち退き勧告もできません。
巣の中にある卵を食べてしまう方法もありますが、不思議なもので、鶏の卵は食べられても、鳩の卵は食べる気が起きません。
そうなると今度は、この卵をカラスとヘビから守らないといけません。
なんだか理屈に合わない気がするのですが、それ以外の選択肢はありません。
困ったものです。

時々、親鳩が卵を抱いてあたためています。
その時には、目があっても鳩は動じません。
むしろ私が睨まれているようで、ついついあやまってしまいます。
しかしどう見ても、この鳩は節子ではなさそうです。

節子
できれば鳥になってやってくるのはやめてくれませんか。
せめて鳥ならば、スズメにしてもらえないでしょうか。


Hato2


Hato20170421


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