カテゴリー「妻への挽歌18」の記事

2017/10/19

■節子への挽歌3683:アイヌと共に1日を過ごしました

節子
今日も寒い日で、ほとんど自宅で読書をしていました。
先日湯島で開催したアイヌのサロンで触発されて、3冊の本を読みました。
といっても、1冊は北海道で使われている中学校の副読本です。
3冊の本を読んで、私がアイヌについてあまりに知らないことに改めて反省しました。
50年前に読んだ「アイヌ民族抵抗史」がいまなお出版(しかも2年前に復刊)されていることにも驚きました。
事態はほとんど変わっていないのかもしれません。

一昨年出版された「アイヌ民族の歴史」を読むと、アメリカのネイティブ、いわゆるインディアンの歴史と同じような状況だったことを知りました。
当時、アメリカの西部開拓史を読んで、多くのネイティブが惨殺されたことに衝撃を受けたことを覚えていますが、なぜか同じころ読んだはずの「アイヌ民族抵抗史」の内容は忘れていたこともショックでした。

節子がいた頃は、こうした話をよくしたものです。
節子が特に関心があったわけではありません。
しかし、私が知った衝撃を、いつもシェアしてくれました。
そして素直に話を聞き、反応してくれました。
人は話しながら思考を深め、広げます。
節子はまさに私の思考を広げてくれる存在だったのです。

そういうことがもう10年以上できなくなっています。
湯島でサロンをやると世界が広がります。
新たな関心が生まれてくる。
そのやり場がなくて、ちょっと困っています。

これから50年ぶりに「アイヌ民族抵抗」を読もうと思います。
それが終わったら、次はこれも久しぶりに「アイヌ神謡集」です。
今度は少しは理解できるでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/18

■節子への挽歌3682:「癒える」こともなければ、「癒す」必要もない

節子
昨日、お会いした人が、帰り際に「まだ癒えませんか」とつぶやきました。
1年ぶりくらいにお会いした方です。
お会いした件とはまったく関係のない問いかけだったので、意表を突かれた感じで、しかし即座に「癒えません」という言葉が出てしまいました。
なぜその方がそういう問いかけをしたのか、冷静に考えると理解できないのですが、もしかしたらその方はこの挽歌を読まれたのかもしれません。

その方は江戸っ子を思わせるような雰囲気を持った女性です。
最近、お父上を亡くされました。
それと重ねた問いかけだったかなとも思いますが、彼女は最近夫を亡くした友人が2年たっても涙が止まらないという話をしてくれました。
止まるはずがない、とこれも即座に言葉が出ました。
その人は、きっと「癒えたい」などとは思っていないでしょう。

しかし、そういう言葉を発しながら、「癒える」とはいったい何なのだろうかという疑問も浮かんできました。
今日は歯医者に行ったのですが、治療台の上でそのことを考えていました。
そもそも、悲しみは、悲しみとして残る以上、「癒える」ことなどあるはずもない。
それに「癒す」必要もない。
それが結論です。

癒えてしまったら、それは悲しく寂しい思い出ではなくなってしまう。
死者はそれを喜ばないでしょう。
思い出すたびに、笑いと涙が浮かんでくる。
そういう関係をつづけることこそが大切です。
悲しい時には素直に涙し、楽しい時には素直に笑う。
生前もそうだったように、そういう付き合いを続けるのがいい。
そう思います。

歯医者の治療台の上では、もっといろいろと考えが浮かんできたような気がしますが、要は、改めて、「癒える」こともなければ「癒す」必要もない、ということです。
だからきっと昨日は即座に言葉が出たのでしょう。

今日も寒い日です。
身心がとても寒い。
冬がもうすぐそこなのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/17

■節子への挽歌3682:歯がないだけでも日常に戻れません

節子
前歯がないと気分が落ち着きません。
欠けた部分を残っているところに押し付けたのですが、話しているとはずれてしまいます。
うっかり飲み込んで窒息したら大変です。
それで無理してくっつけるのはやめました。

今日は2つのミーティングと3人の人に会う予定だったのですが、ミーティングの一つは延期になりましたので、少しほっとしています。
午前中のミーティングもなんとか終わりましたが、どうも気が入りません。
来週開催のイベントの相談でしたが、まあジャムセッション風にやろうということになってしまいました。
歯がないための結論とは言いませんが、まあ企画を詰める気力が出てきませんでした。

歯がないだけでも、人間はこんなに落ち着かなくなるのです。
伴侶がいなくなったら、それが10年続いても、まあおかしくないなと思います。

ところで歯ですが、意識しなければいいのですが、どうもはがないと唇や下の感触が違い、ますます意識してしまいます。
困ったものです。
思考がそこに向いてしまう。
明日は歯医者さんに予約ができたので、それまでの辛抱です。

今日はこれから2組の人がやってきます。
まあ最初の人はよく知っているのでいいのですが、続いてくる人は久しぶりの人で、私のことを必ずしもきちんと知っているわけではありません。
歯がない私を見て、笑うわけにもいかずに悩むかもしれません。
その人と最初は食事でもしようかと思っていたのですが、食事にしなくてよかったです。

歯は大事にしなければいけません。
欠けるかどうかやってみようなどと、馬鹿な考えを起こしてはいけません。
まあしかし、私の人生は、もしかしたらそんな感じだったのかもしれません。
笑われるようなことばかりしてきたような気もします。

今日は湯島ですが、めずらしくランチタイムがとれたのに、食事をする気なれません。
結局、ポタージュスープを飲んだだけです。
さてこれから2つのミーティングをうまく乗り切れるでしょうか。
おなかが鳴らなければいいのですが。

チャイムが鳴りました。
お客さまがきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/16

■節子への挽歌3681:自分を生きるということ

節子
一昨日、アイヌをテーマにしたサロンを湯島で開きました。
アイヌの島田あけみさんが参加してくれましたが、彼女は「45歳からアイヌになった」といいます。
つまり、それまでは自分がアイヌであることをできるだけ隠して生きていたということです。
たしかにそういう時代でした。
それから16年、先日お会いした島田さんにはオーラを感じました。
自分に戻れば、人は生き生きとしてくるのです。

しかし、自分をしっかりと生きることはそう簡単なことではなさそうです。
社会に合わせて生きていくのが一番楽かもしれません。
しかし、そうできない人もいます。

私は、それなりに自分を素直に生きてくることができました。
それがよかったのかどうかはわかりません。
節子がもし今も隣にいたら、よかったといえるでしょうが、いなくなった今となっては、そう確信することもできません。
しかし、私が私らしく生きることができたのは、節子のおかげです。
私のことを信頼し、理解してくれた、たぶんただ一人の人ですから。
感謝しなければいけません。
人は、自分を無条件に信頼してくれる人がいる時には、自分に素直に生きていけるものです。
節子がいなくなってから、それがよくわかります。
いまの私は、時にちょっと自分らしくないような気がするのです。

今日は寒い日でした。
寒い日は、節子を思い出します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌3680:歯が折れました

節子
昨日、前歯がまっぷたつに折れてしまいました。
困ったものです。

実は、あまり詳しくは書きたくなのですが、硬いものを歯で割ろうとしたのです。
これまで実は数回その行為をやっているのですが、その度に、歯が欠けるかもしれないので止めようと思っていたのです。
その一方で、欠けるかどうか試してみるというワクワク感もありました。
しかしなかなか欠けません。
それでますます続けてしまっていたのですが、昨日、欠けるどころか前歯が完全に根元から折れてしまったのです。
歯医者さんはもう終わっていましたし、月曜日は休診なので、今日は歯なしで過ごしています。

こういう事が起きるたびに思い出すのが、映画「荒野の七人」で、スティーブ・マックイーン演ずるヴィンが語っていたことです。
「裸でサボテンに抱きついた男がいた。どうしてそんなことをしたのかと訊いたら、その時はそれがいい考えだと思ったのだのだそうだ」
とても納得できる話です。
この映画を観たのは、たぶん大学生の頃だったのですが、以来、その言葉が忘れられません。
忘れられないばかりか、そういうことをやってみたいという気持ちが、無意識の中で続いているようで、後から考えるとあまりにも馬鹿げたことを私も何回もやっているのです。
今回の歯が欠けるかもしれないがやってみようと、言うことも、その一つです。
欠けてみて、一方ではしまったと思いながら、やはりね、と安堵もしています。
欠けるのではなく、根元から折れてしまったのは予想外でしたが。

それで今朝から食事が怖くなってしまっています。
それに、歯が1本ないだけでも、実に奇妙な感覚なのです。
今日はちょっと出かける気にならずに在宅で済ませています。
寒い雨の日になったので、在宅できてよかったです。
でかけていたら、風邪をひいてしまったかもしれません。
出かけるなという神の警告だと受け止めましょう。
ありがたいことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/14

■節子への挽歌3679:「いい人生だったのだろうか?

節子
今日も寒い日です。
こたつが欲しいほどです。

最近なぜか「煩悩」が増してきているような気がします。
方向が反転してしまったのです。
困ったものですが、周りの人たちの生き方への羨望の念が高まっています。
みんなが幸せそうに感ずることが多くなってきています。
ここで「みんな」と言うのは、「すべての人」と言ってもいいでしょう。
それに比例して、何やら自分の生き方が貧しく感じてしまうわけです。
自分の生き方に否定的になる経験はあまりなかったのですが、どうも最近はそんな気分が生まれてきています。
この歳になって、おかしな話ですが、どうもすっきりしない日が続いています。

これは言い換えれば、自分への「肯定感」のゆらぎです。
彼岸への旅立ちの時に、「いい人生だった」と言えるかどうかはとても大切です。
節子は、「いい人生」だったと言っていましたが、果たして私には言えるかどうか。
最近、あんまりそうも思えなくなってきたのです。
ちなみに、ここで「いい人生」と言うのは、自分に恥じない人生だったという意味です。
今年の春までは、私はその意味では「いい人生」だったと確信していました。
でもどうも最近はそう思えないのです。

何があったのでしょうか。
心当たりはありませんが、最近、長い人生を振り返ると何やらたくさんの「後悔」のようなものが押し寄せてきます。
それが私の気持ちを萎えさせているのかもしれません。
この気分がいつ反転するか。
待つしかありません。
いまさらこれまでの人生を変えることはできませんから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/13

■節子への挽歌3678:認識障害

節子
今日はまた雨です。
それに寒いくらいです。
私の気分と同じように、天気も毎日変わります。
自然の影響を受けやすい私はそれに振り回されそうです。

影響を受けるのは自然からだけではありません。
一番大きいのはやはり「人」でしょう。
今朝もパソコンを開いた途端に、心が沈んでしまうメールが3通。
人と付き合うのは大変です。
どうして人との付き合いはこんなにも食い違うものなのでしょうか。
善意のつもりが他者を傷つける。
相手の善意の行為が私を傷つける。
たぶんあまりに気楽に人と付き合いすぎているのでしょう。
節子が言っていたように、そしてある友人が諭してくれたように、付き合う人は選ばなければいけないのかもしれません。
でも私には選ぶことができないのです。
みんな同じに見えてしまう。
たぶん「認識障害」なのです。

しかし、こうした「身心が沈む出来事」も、ある意味では、私の世界を広げてくれます。
他者が起こすことは、私にもまた起こす可能性があることです。
自分と無縁でないと思うと、私と他者が重なってきます。

昨日、ある人から相談を受けました。
知人からとても不快な仕打ちを受けたようで、それに関しての相談でした。
電話などで話して一応解決したのですが、その後もまたメールで、いろんな情報を送ってきてくれました。
やはり忘れられないのでしょうか。
その人にメールしました。

忘れるというよりも、まあそういう人だったと思い、ある意味では赦してやるのがいいと思います。 そうしないと自分の心が乱されかねませんから。 そんなことで心を乱すのはもったいないです。

実はこれは、私自身がいまの私に行っていることのような気がします。
その人からメールが届きました。

〇〇さんのことは、気持ちのよいものではなく嫌な、苦い感じがいまだに残っていますが、 〇〇さんは、何も感じていないと思います。 人は、分かりませんね。 自分にとっては辛いことでしたが、赦す、諦めるようにします。

私もそうしないといけません。
しかし私が「認識障害」であることをもっと早く知るべきでした。
今となっては、認知症と間違われそうです。
困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/12

■節子への挽歌3677:「人の痛み」と「金の力」

節子
今朝の日の出時には靄がかかっていましたが、8時過ぎから陽が出はじめ、さわやかな秋日和になりそうです。
しかし世間は相変わらずいろいろとあって、早朝から電話がありました。
ちょっと内容は書けないのですが、昨日、駆け込み寺的にあった電話の続きです。
調べてみたらこんな事実がありましたという内容ですが、人を信じてだまされそうになったという内容と言っていいでしょう。
まあよくある話ですが、その双方が私の知っている人なので、いささか事情は悩ましいのです。

話はとんでもなく変わりますが、アメリカのフーバー大統領の回顧録がようやく日本でも翻訳出版されました。
1300頁の大著なので読む勇気はまだでませんが、それを翻訳した人の書いた本を読みました。
そこにフーバー大統領の生い立ちが書かれていました。
貧しい環境で育ったようです。
だからこそ、人の痛みがわかり、生活視点での政治を行ったようです。
今日、電話があった事件に絡んでいる人も、貧しい環境に育ったようです。
そのために、お金の力を学んだようです。
それがその人の生き方につながったのかもしれません。
私も若干の被害を受けましたが、電話してきた方は、それを忠告してきてくれたのです。

同じ環境でも、そこから学ぶことは違います。
「人の痛み」と「金の力」。
そこから生き方が大きく変わっていきます。

同じ時代に育っても、人はこんなにも価値観が違ってしまうのだ、と最近痛感しています。
どうしてこんなに「貧しい時代」になってしまったのか。
とても哀しく寂しいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/11

■節子への挽歌3676:2週間ほど中断した挽歌を復活させます

節子
挽歌の遅れを挽回しようと思ったにもかかわらず、また書けない数日が続きました。
習慣は一度破ってしまうと破ることが習慣になってしまうのかもしれません。

まあそれはともかく、元気ではあります。
身心はあまり活性化していないのですが、どこかが悪いわけではありません。
しかし、そうした状況が問題なのかもしれません。

先日、上高地で「神様」らしき人に会ったと書きましたが、数日前にまた、電車の中でそれらしき人に会いました。
ちょっとトラブルで電車に走って飛び乗ったのですが、前に座っている人が席をあけてくれました。
座ってから、その人を見たら、あの上高地であった人に雰囲気がとても似ていました。
フェイスブックには書いたのですが、もしかしたらもしかです。
でもその人というか神様は、次の駅で降りましたので、確認はできませんでした。

守護神という人もいますが、ユカは、そろそろお迎えに来ているのではないかと言います。
死神が調査に来ているのかもしれません。
そういえば、上高地でその神様に会ってから、身心から生命力が抜かれたような気もします。
上高地であった神様よりも電車であった神様のほうが、少しだけ元気そうでした。
私のおかげかもしれません。
死神にも役立てたとしたら、それはもううれしい限りです。

とまあこんなことを書いているうちに、少しまた魂が戻ってきました。
今度こそ、挽歌を書き始めます。

天気予報とは大きく違って、今日は冬空で寒いです。
テレビ報道と違います。
これはもしかしたら、あの死神の仕業でしょうか。
困ったものです。
でももしかしたら今日もまた会えるかもしれません。
午前中出かけるのが楽しみになりました。

世界にはまだまだ解明されていないことが多いのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/10/02

■節子への挽歌3675:あれは節子だったのか?

節子
5日ぶりになってしまいました。
この間、いろんなことがありました。
今日は時間の合間にいくつか書くことにします。
まずは上高地での不思議な話から。

これに関しては時評編で書きましたので、内容はそちらにゆだねます。


上高地には節子とは2回行きました。
2回目は、たしか節子は闘病中でした。
3回目の予定も決めていましたが、それは実現されませんでした。
今回は、同行するはずもない娘が自分から行こうと言いだしました。
節子がいなくなってからはじめてのバスツアーでした。

もしかしたら、あの人は節子だったのではないかという気もします。
外見はもちろん節子とはまったく似たところはありません。
娘は、ずっと追いかけて来たのではないかというのですが、私たちの速さに追いつけるとは思えません。
しかも2回目はあまりに不思議な出会いです。
いるはずのないところにいたのですから。
私たちと同行していたのかもしれません。
もしそうなら、節子は何かを伝えたかったのでしょうか。
考えるといろんなことが浮かんできます。

またどこか節子と一緒に行ったところに行くと、同じようなことが起こるでしょうか。
試してみたくなりました。
どこが節子が一番出てきやすいところでしょうか。
間違いなく箱根でしょう。
冬が来ない前に、行けるといいのですが。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧