カテゴリー「妻への挽歌18」の記事

2018/10/17

■節子への挽歌4051:人生の向う方向

節子
今年もいろんな人が新米を送ってくれます。
季節が変わったのを実感します。
新米が届くと、なんだか新しい年が始まるような気もします。

最近畑に行かなくなってしまいました。
台風で悲惨な状況になったので手入れに行かねばいけないのですが、雨が多かったり早くから湯島に行かねばいけなかったりで、さぼっているのです。
挽歌もそうですが、人は習慣を破ると、ついついその快適さに引き込まれてしまいます。
生きつづけるということもそうなのかもしれません。

昔、誰かが通学や通勤の時、反対方向の電車に乗ってみたら人生は変わるのではないかというようなことを書いていました。
その頃は共感しましたが、やったことはありませんでした。
会社を辞めた後、箱根の小涌園のホテルで合宿した時、朝東京に戻る予定だったのですが、そのことを思い出して、帰りのバスを反対方向に乗りました。
たぶん挽歌でも書いたと思いますが、人生は変わりませんでした。
まあ、地球は丸いですから、地上での方向の違いなど瑣末なのかもしれません。

昨日は1日、在宅でした。
ちょっと疲れたので予定を変えてしまったのです。
生き方の向きもちょっと変えたくなったのですが、それはなかなか難しい。
一昨日、自宅で使っているパソコンが突然クラッシュして、動かなくなってしまいました。
その時に、ふと、もうパソコンもやめて、生き方を変えようかと一瞬思いました。
しかし、2時間後、なぜかパソコンが動き出しました。
それでその一瞬の思いは、消えてしまいました。
宮沢賢治を思い出さなければいけません。

今日はまた3日前までの生き方に戻ります。
そこに困った人がいれば、出かけなければいけません。

彼岸には、困った人などいないのでしょうか。

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2018/10/16

■節子への挽歌4050:信条のジレンマ

また挽歌が書けなくなりました。
時間破産を理由にしていますが、もちろんそんなのは口実です。
私の体験では、時間がないと言っている人ほど時間があります。
これまで「忙しい」と言っている人で、時間がない人に会ったことはありません。
「忙しい」とは「心を亡くすこと」と言われますが、ないのは時間ではなく意志なのです。
私もこの1週間、挽歌を書く意志がどこかに行ってしまっていました。
いや「意志」というと、これもまた不正確です。
書こうと思う意志はあるのですが、書く意志が起きてこない。
まあ節子は、こういう私をよく知っているので、仕方ないかと赦してくれているでしょう。

この1週間、無駄な時間の使い方をしています。
湯島に行かなくてもいいので、わざわざ友人を呼びだして、それらしいミーティングをしたり、読まなくてもいい本を探し出してきて読み直してみたり、まあ暇をつくらないようにしていますが、いずれも自分で創りだしている用事なのです。
そのくせ、1か月までにやっておかなければいけない宿題は放置しています。
その気になれば30分もあればできることです。
やらなければ約束を破ったことになり、私の信条に反しますが、やろうという気が起きないのですから仕方がありません。
困ったものですが、やる気が起こらないのにやるのは、これもまた信条に反します。
信条には優先順序をつけておかないと、こういうジレンマが起きますが、優先順序をつけることもまた、私の信条に反しかねないのでややこしいのです。

今日は1日、何もしないで過ごしました。
何もしないわけではなく、テレビを見たり本を読んだり、来客の対応をしたり、フェイスブックに少しだけコメントしたり、メールの返事を出したり、まあちょこちょこ動いていましたが、何もしていなかったの同じ空虚な1日でした。
それに寒い1日でした。

最近どうもこういう日が増えてきました。
こうやって人は世間から離脱していくのでしょうか。
明日はまた世間に舞い戻っての1日になるでしょう。

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2018/10/10

■節子への挽歌4049:善い人は神さまはきちんと助けてくれる

節子
また挽歌をさぼってしまっています。
人生はなかなかうまくいきません。
すっきりしない日が続いています。
もちろんうれしい話もあります。

一昨日、何とはなしに湯島に相談に来た人がいます。
ちょっと遠いところに住んでいるので、東京に出てくるたびに時間調整しているのですが、なかなか合わず、ようやく会えたのです。
彼女はいつも何か食べ物や飲み物を持ってきます。
それも必ず3人分です。
そして私と2人でそれを食べて、余った一つを置いていくのです。
彼女は経済的には私よりも厳しい状況にあり、しかも11月中にいま住んでいる家を退去しなければいけないほど追いつめられているはずですが、まったくめげていません。
ですから持ってくるものもお金がない時は食べかけのチョコレートだったりします。
でもいつも何か持ってくるのです。
いまお金があれば、ポンと彼女に提供したいところですが、節子が残したお金は全部なくなってしまいましたので、そういうわけにもいきません。
ですから何の役にも立てず、せいぜいが雑談相手になれるくらいです。
でもまあ雑談しながら頭を整理するお手伝いはできるかもしれません。

彼女にとっての選択肢は、今3つです。
しかしいずれもよほどの幸運がなければ11月には間に合いません。
でもまあ、彼女はめげる様子もなく、帰っていきました。
しかも、何かお手伝いすることがあればやりますとさえ言いながら。
私が言ったのではなく、彼女が言ったのです。
念のため。
もちろん彼女は手伝ったからと言って、対価などは全く考えていない人です。
彼女もまた、私と同じでお天道様に守られているのです。

ところがです。
私と会って帰宅した夜から、事態がどんどんいい方向に動き出したのだそうです。
思ってもいなかったことです。
2人で話して、理想的な選択肢だと合意した方向に、まわりが動き出したのです。
その動きは翌日も続いて、なにやら11月以降ホームレスになるどころか、彼女のビジョン通りに動き出しそうあのです。
善い人は神さまはきちんと助けてくれるのです。

彼女はいいとして、私もきちんとお天道様に従って、それなりに「善い生」を過ごしているつもりですが、あんまりいいことが最近ありません。
それどころか、小さなことではありますが、心にひっかかることが周りで頻発していて、憂鬱なことが多いのです。
でもまあ彼女のことを知って、もうじき私にも光がまわってくるだろうと思いながら、今日は溜まっていた宿題をこなし始めました。

だんだん勢いがついてきたところに、電話がかかってきました。
昨日から何回も電話してもかからなかった人からです。
それもちょっと気が萎えていることだったのですが、電話に出た途端に、一方的に思いもかけない言葉が飛び込んできました。
それも、なにやら怒っているのです。
よく聞くとどうも「八つ当たり」なのです。
かなり興奮していて、私までもが理由もなく怒られてしまいました。
その人は、この2か月ほど、私どころではない「不運」に見舞われていたのです。
私と同世代の人ですが、多分八つ当たりする人がいなかったのでしょう。
せっかく調子が出そうだったのに、八つ当たりを受けて、ちょっと気が抜けてしまいました。
私が抱えている宿題の内の4つが、その人に直接間接に関わっていることだからです。
昔の私なら、「はい、さようなら」となったかもしれませんが、最近の私は成長したので、最後に「八つ当たりしたくなったらいつでも受けますよ」といいました。
もちろん皮肉などではありません。
素直にそう思っているからです。
怒りのやり場のない人の八つ当たりは誰かが受けないといけません。

人生はうまくいかないものです。
だからこそ、人生は豊かなのですが。
でも疲れます。
最近は毎日栄養ドリンク剤を飲んでいますが、一向に疲れが抜けません。
困ったものです。

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2018/10/08

■節子への挽歌4048:神の助力は必要か

節子
4世紀のローマの異端のキリスト教徒ペラギウスは、人間が神の助力を受けることなしに善を行い完全な存在になることができる、と主張したそうです。
正確に言えば、そう言う考えだったから、「異端」とされているわけですが、彼が人は神によって完全に創られたと考えたのは、神への信仰が強かったからにほかなりません。
神が不完全な者を創りだすと考えるのは、神を信じていないことにつながるはずです。
私もどちらかといえば、そうですが、そこに悩ましい問題がある。

しかし、問題は「完全」とは何かということなのかもしれません。
言語矛盾ですが、欠陥もまた「完全」の要素の一つかもしれない。
そんな気がしてきています。
人生もまた、完全な人生などあるはずもない。
でも「お天道様の世界」は、きっと完全でしょう。
そして私は、その世界の一部ですから、完全の一部として、完全な存在なのです。
ややこしい話ですみません。

この2日間、ちょっとまたサロンに深入りしすぎて、思考力が枯れてしまい、挽歌を書く気力まで失っていました。
同じような繰り返しをどうしてもしてしまう。
適度ということがなかなかできないのです。
困ったものです。

私は、ペラギウスのように考え抜いた結果ではありませんが、「人間が神の助力を受けることなしに善を行い完全な存在になることができる」ということは、共感できます。
昨日、サロンの合間に4人で食事をしながら、性善か性悪かの話になりました。
この世に、性悪のものなどあるはずがない。
しかし残念ながら誰にも賛成してもらえませんでした。
善か悪か。
そもそもこの問い自体が、間違っているのでしょう。
悪もまた、大きな世界にとっては善なのだろうと思います。
存在するものには、すべて意味がある。

それにしても、人の心は弱い者です。
まあ私の場合は、どうも意志も弱いのですが。
「やれない」のには、意味がある、とすぐに言い訳を見つけてしまう。
しかし、その1日が終わりそうになると、やらなかったことで、罪悪感におそわれてしまう。
最近、やるべきことがどうもできないのです。
やはり「神の助け」は必要なのでしょうか。
そんなはずはないはずなのですが。

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2018/10/04

■節子への挽歌4047:20年ぶりの再会

節子
もう20年ほど前、宮城大学の教授だった半田さんの企画した特別授業に時々参加していました。
半田さんが、そこで立ち上げた日本構想学会の関係も会って、時々宮城大学にも行っていました。
その頃、まだ大学に入ったばかりの学生たちとの交流はいろんな気付きを与えてくれましたが、その時の一人の端田さんが、湯島に立ち寄ってくれました。
あの頃と変わっていないと感じました。
もちろんもう20年も経ちますから、変わっていないはずはないのですが、心は変わっていない。
ですから20年前にすぐに戻れました。

いまは仙台で仕事をしていますが、時々東京に来るそうです。
箸田さんが学生だったことの仲間の話もいろいろと出ました。
彼らの学生生活は、私にはいささかうらやましいほど恵まれていたような気がしますが、半田さんの影響もいろいろとあったはずです。
半田さんも含めて、またみんなで会いたい気がしました。

いまから思うと、あの頃は世界がまだ生き生きしていました。
とても懐かしく、楽しい時代でした。
しかし、過去を懐かしむようになるとは、私も老いたものです。

次の来客があったので、ゆっくり話せませんでしたが、またきっと会えるでしょう。
若い人と会うと、私も同世代になった気分になって、新しい課題に取り組みたくなります。
この数日疲れ切っていたのですが、ちょっと元気が戻りました。

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2018/10/03

■節子への挽歌4046:「気」は放さなければいけません

節子
いつものことではあるのですが、前の挽歌は、書きだす時に思っていたことと違ったことを書いてしまいました。
それで、いま挽歌の番号が2つほど遅れているので、もう一つ書くことにします。
病気治しの話です。

友人ががんになって、いまいろいろと悩んでいると書きました。
時々、電話したり会ったりしていますが、彼の一番の問題は、自らの思いをそれとなく解き放す場が少ないということではないかという気がします。
「がん」を宣告されると、その言葉が心を覆ってしまい、頭から離れなくなりかねません。
その友人は、家族がなく、独りで生活しています。
友人や知り合いは多いでしょうが、そうむやみに自分のがんの話はできません。
それに話をしたら、心配してくれて、いろいろとアドバイスや治療の紹介をしてくれる人も出てきます。
それがまた「うざったく」なってしまうこともあるのです。
心が定まっていないと、わらをもつかむ心境で、いろいろと試みたくなります。
私もそうでした。
そして疲れてしまう。

しかし自分の頭のなかだけで考えていると、悪い方向に考えが向いていき、逆に気が萎えていく可能性が強いような気がします。
これは病気に限ったことではありません。
いろんな問題に関しても言えますが、独りで考えていて、いい解決方向に向かう可能性は少ないような気がします。
自らの考えに、風穴を開けてくれるような、あるいは考えすぎて判断ミスを犯さないように立ち止まらせてくれるような、そんなことが必要です。
別に問いかけに答えてくれなくともよい。
アドバイスなどしてくれなくてもいい。
ただただ素直に話を聴いてくれて、相槌をうち、一緒に心配してくれる人がいるだけで、どれほど心強いことか。
私は、自らの体験からそう思っています。

自らのなかにある「気」を放し、離していくこと。
それこそが病気の人にとって大切なことかもしれません。
「グリーフケア」とは違いますが、どこか通ずるところがある。
しかしまた、「がん患者の集い」とは違うような気もする。

「気」は放さなければいけません。
湯島ではそういうことにも少し心がけています。
湯島に来れば、気が放しやすい。
そんな場所にできればと思っています。
節子から教えてもらったことの一つです。

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■節子への挽歌4045:人はみなそれぞれに違った「病」をもっている

節子
抗がん剤治療をしている友人が、副作用もあって、どうしようか迷っています。
昨日も電話でいろいろと話しました。
私自身は、節子との体験から、抗がん剤治療には疑問を持っています。
だからといって否定することはできません。
自分の場合はたぶん抗がん剤治療は受けないでしょうが。

がんの免疫治療のオプジーボを開発した本庶佑さんが今年のノーベル賞の受賞者に決まりました。
そのニュースがマスコミをにぎわしているので、彼も免疫療法に大きな期待を持っているようです。
これもまたいろいろと思うことがあります。
しかし、当の患者としては、大きな期待を持つことは間違いありません。
これも心当たりがあります。
がんは、実に悩ましいものです。

病気は言うまでもなく「生命現象」です。
ですから、その人の心の持ちようや考え方によって、大きく影響されます。
ある意味では、病気とは心の持ちようで変化させられるはずです。
心が病んで身体が病むということもあるでしょう。
その逆ももちろんあります。
そもそも「病気」という表現に「気」という文字が入っていますから、基本は「気」なのだろうと思います。
身体的な傷みに心が折れることは、私もないわけではありません。
しかし、私は大切なのは「気」だと思っています。
高血圧も風邪も、ですから私は心で治そうと、それなりに心がけています。

節子の時もそうでした。
ですから最後の最後まで、治ると確信していました。
今となってはそれが少し悔いになっていますが、その反面、よかったとも思っています。
最後まで、節子とは「病気の節子」としてではなく「健全な節子」として付き合えたからです。
人は誰もが歳をとると老化します。
それを病気として捉えるのは、私には残念な気がします。
私は「老人」という言葉も嫌いではありません。
人が老化するのは、健全なことです。
病気になるのも、ある意味では健全なのかもしれません。
そんな気が、最近してきています。

言い方を変えるとこうなります。
人はみなそれぞれに違った「障害」をもっているように、それぞれに違った「病」を持っているが、それこそが「健全な人間」なのだ。

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2018/10/02

■節子への挽歌4044:秋の畑はなぜかさびしい

節子
もう10月です。
昨日は台風一過で、都内もきれいな青空でしたが、今日もさわやかな青空です。
吸い込まれるほどの碧過ぎもせず、心やすまる青さでした。
久し振りに畑作業をしました。
台風で畑はもうめちゃくちゃになっていました。
育ちだしたニンジンやキャベツなども危うい状況です。
小さく実っていたスイカモチベーションやはり傷みだしていました。
百日草もほとんどがたおれていました。
畑のなかに育っていた、なまえのしらない樹が折れていました。
風の強さがわかります。
これだけの被害でも、元気を失うのですから、農家の方の脱落感はすごいのでしょう。
久し振りだったのと土がぐちゃぐちゃだったので、ほどほどで帰ってきました。
開墾の時は、やみくもに野草を刈り取ればよかったのですが、今度はそう簡単ではありません。
いささか気が重いです。

気が重いのは、台風被害のせいだけではありません。
秋という季節も影響しています。
秋の畑は、なぜかさびしい。
バッタともあまり出合えませんし、暑さで汗をかくこともない。
熱中症で倒れるかもしれないという楽しみもない。
それに野菜も野草も、あんまり元気がない。
気のせいかもしれませんが、野草もあまり攻撃的ではありません。
これではまったく面白くない。

まあ、そんなわけで、今日は1時間も畑にいませんでした。
畑作業は、やはり暑い夏こそふさわしいです。
秋の畑は、なぜかとてもさびしいです。

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2018/09/30

■節子への挽歌4043:私は自然に愛されています

節子
大型台風が九州に近づいている影響もあってか、我孫子でも朝から雨が降っています。
午後からは風も強くなってくるようです。
午後に予定していた湯島のサロンは延期しました。
台風の影響でのサロンの延期は、今年は2回目です。
台風が来れば、むしろそれに向かって出かけていた昔とは大違いです。

雨は、時に生命を癒し育て、時に生命を萎えさせ抑えます。
同じ自然も、その時の自分の状況によって、意味が全く違ってきます。
しかし、自然の影響に左右されるのが、生命です。
私は、それを大切にしています。
自然の呼びかけには精いっぱい応え、その意にできるだけ従うようにしています。
今日の雨は、どうも私には実に悲しく寂しい雨です。
無性に悲しい。
なぜでしょうか

昨日、一度しか会ったことのない女性からメールが来ました。
先日開催した「宗教」をテーマにしたサロンの報告の記事を読んで、話しかけたくなったようです。
こんな文章がありました。

私は毎週教会にいっている一応クリスチャンです。 しかし信仰を持っているということを言うのに勇気がいりますし、隠しているわけではないですが、あまり人に言いたくない気持ちです。 なるべく言わないようにしている、と言ってもいいかもしれません。 言いにくい雰囲気があるのか、言った時の周りの反応が怖いのか‥自分にとっての信仰をいろいろ考えているところです。

この人にとって、「信仰」とはなんなのか。
他者に語りたくない「信仰」とはなんなのか。
一度、お聞きしたくなりました。

宗教や信仰を、なぜあっけらかんと語れないのか。
隠れキリシタンや隠れ仏教徒の歴史が、いまなお日本人の社会には影を落としているのかもしれません。
いや明治政府による、内心の信仰を個人の内部に抑え込む政策が功を奏したからかもしれません。
それによって、日本人はバラバラの存在になってしまった。
しかし、信仰のない人を、私は信頼できません。
信仰とは、自らが生きていく上での基軸ではないかと思います。
もちろん、信仰の対象はキリストやムハンマドやブッダである必要はありません。
むしろ彼らが進行したものこそが、信仰の対象でなければいけない。
それは、私には自然であり、自然の向こうにあるものです。
ですから、自然の摂理に身を任すことが、私の信仰の基軸です。

ですから、台風は私にはとても大きな意味を持っています。
最近の「異常気象」もそうですが、そうしたことを通して、自然は私に生き方を問うてきているとさえ思えるのです。
「防災」という発想には、どうしてもなじめません。
できるならば、私は自然と共にありたい。
そうすれば、自然が禍を起こすことなどあり得ない。
そう確信しています。
ですから防災グッズはわが家にはありません。
誤解されそうないい方ですが、それで誰かに迷惑をかけるような生き方をするつもりはありませんし、そうはならない心がけはしていますが。

ところで、今日の悲しさの気分ですが、これはたぶん最近陥っている「厭世観」のためでしょう。
だんだん人間がいなくなって、生きているリアリティがだんだん希薄になってきているのです。
しかし、訃報や入院の話は同じように届きます。
今日も知人の告別式ですが、参列する元気が出ません。
人に会うのが、少し疲れているのかもしれません。

寂しくて、哀しくて、そんな1日になりそうです。
しかし夕方には風が強まるそうです。
風が出てくるとまた気分は変わるでしょう。

私は、自然に愛されています。

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2018/09/29

■節子への挽歌4042:ひねくれた子供

節子
恒例の友人知人が多いからか、毎日のように入院やら訃報やら、あんまり楽しくない話が入ってきます。
他人事ではなく、私自身、いつその当事者になるかわかりません。
自分のことは、なかなかわからないものなのです。

昨日ようやく苦戦しながら読んでいた「反ヘイト・反自由主義の批評精神」を読み終えました。
しっかり消化できたとはとても思えませんが、頭が少し若返ったような気がします。
50年前の私を、少しだけ思い出したという程度の意味ですが。
著者の岡和田さんには、一度しか会っていませんし、この本に書かれているような話は一切していませんが、なにか伝わるものがあって、この本を読まなくてはならないという思いが生まれて来ていたのです。
世界がちょっとまた広がりました。

本の内容はともかく、私にも若い時代があったことを思い出したのですが、それは今はまさに若くないことの気づきでもあります。
あまりにも当然のことですが、自分の気持の成長や劣化は、なかなか気づきにくいものです。
少しは気づかなければいけません。

昨日、久しぶりに山口のKさんから電話がありました。
Kさんには節子も一度、山口で会っています。
湯島でも会っているかもしれません。
電話の後、メールが来ました。

先ほどは、突然の電話訪問、失礼しました。
いつも佐藤さんと電話でお話しさせて貰うと、大変に愉しいです。

幸いにまだ人を愉しませることもできるようです。
しかし、逆に私に電話をかけてきて、怒りだす人もいます。
Kさんのいう「愉しい」も、いろんな意味があるかもしれません。
昨日も電話で、Kさんがある意見を言ったので私は賛成できないとこれまた余計なひと言を言ってしまいました。
どうもなかなか大人になれません。
大人になれないままに、しかし、気持ちや考えが変化するというのは、あんまり良いことではないでしょう。
ひねくれた子供にならないように注意しなければいけません。
素直な子供として、死を迎えたいですから。

また台風が来るそうです。
明日のサロンはやめた方がいいかもしれません。
台風のなかを出かけるのは、本当は少し好きなのですが。

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