カテゴリー「妻への挽歌18」の記事

2019/10/14

■節子への挽歌4424:久しぶりに風邪で完全ダウンです

節子

台風は何事もなく通り過ぎました。
しかし、台風通過中にのどの調子が悪くなり、せきが止まらなくなりました。
翌日はサロンでしたので、やめようかと思ったのですが、台風騒動を体験した直後の今こそ、開催するべきだと思い、湯島に出ていきました。
まあ2~3人くらいだと思っていたのですが、なんと10人集まりました。
まだまだ日本も捨てたものではありません。

話し合いも盛り上がり、なかなか終わりません。
結局、いつものように3時間を超えそうでしたが、あまりに私の体調も良くなかったので打ち切らせてもらいました。

そしてつらい思いをしながらなんとか帰宅。
駅まで娘に迎えに来てもらい、入浴もせず、7時に就寝。

ところが発熱までしてきて眠れません。
普段なら絶対見ないだろうラグビーの試合を見てしまいました。

今朝は早く目が覚めたのですが、不調です。
せきは少し収まりましたが、熱は改善されず、思考力がないのはともかく、動きにもなれません。
節子はよく知っていますが、私が一番きらいなのは風邪の状況です。
風邪ほどつらい症状は私にはないのです。

食欲は皆無、気力なし、寝る気もしない。
困ったものです。
寒いのでかなりの厚着をして、パソコンに向かって、サロンの報告などを書きましたが、その反論が届いて、ネット論争に巻き込まれて疲れました。

夕方になりまた熱が出てきました。
もう3日も入浴していないので、これから入浴して寝ることにします。
こういう時は、節子に添い寝してほしいです。
まあ節子が現世にいたころは、添い寝してもらったことは一度もありませんが。もしかしたら今日は出てくるかもしれません。

それにしても風邪はつらいです。
ちなみに普通の風邪は無視して意志で直すのですが、心身が萎えてしまう風邪に時々かかるのです。
この歳になると風邪で死ぬこともあり得ますので、そう楽観はできません。

こんなことを書くと、また遠くから死ぬ前に会いに来ましたというような人がいないとは限らないのですので、念のために言えば、年内は死ぬ予定はありません。
ただこの数日が憂鬱なだけです。

困ったものです。

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2019/10/12

■節子への挽歌4423:「非常に強い台風」の襲来

節子

「非常に強い台風」が日本列島に近づいてきていて、数日前からテレビはその話題で持ちきりです、
昨日の夕方にジュンが近くのスーパーに行ったら、パン売り場は見事に空っぽだったそうです。
テレビが盛んに買いだめを煽っているからかもしれません。

午前中はまだ静かでしたが、お昼過ぎから我孫子も風が強くなってきました。
大雨警報や土砂崩れ警報、暴風警報などがすでに発令されています。
わが家は後者の2つに該当します。
すでに避難所は設置されていますが、近くの避難所はわが家よりも低いところにある手賀沼沿いなので、手賀沼の反乱の場合はわが家より条件は悪いです。

問題は強風ですが、わが家は東風も南風ももろぶつかりますんで、いささか心配です。
前回の台風の時でさえ、眠れないほどでしたから、今日は眠れそうもありません。
2階はシャッターがないので、ガラスが破れたらどうしようもありません。
養生シートで補強しておけばよかったといまになって思うのですが、すでに遅しです。

3時半に東京や神奈川、埼玉などに「特別警報」が出されました。
これはめずらしいようですが、昨今の警報やテレビ情報はいささか「脅かし」要素を感じてしまい、素直には受け取れません。
しかし気象データを見ても、今回の台風はかなり大きいことはよくわかります。

あいにく私自身が数日前から喉をやられてしまい、咳き込んで、夜も眠れませんし、今日になって少し発熱までしだしました。
本も読めず、我孫子のプロジェクトの企画も考えられない。
やることがないので、テレビの台風情報を朝からずっと見ています。

そして先ほど気づいたのですが、こうなることは数日前からわかっていたのに、どうしてみんなきちんと準備しないのかということです。
すでに自動車は水没し、水に囲まれた自宅の2階で孤立している人も出ています。
行政や住民たちがやれることはいろいろとあったはずです。
何かが、やはり間違っているとしか思えません。

自分だけで自分を守るのは限界があります。
自己責任や自衛を勧める風潮がどうも気になります。

 

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2019/10/11

■節子への挽歌4422:娘の義父の告別式

節子

ジュンの連れ合いのお父さんが亡くなりました。
今日は告別式に行きました。
私よりも5歳ほど年上でしたが、見事な最後でした。

10日ほどまえに食事があまりできなくなり、病院に行って、自宅での訪問医療を受けていましたが、自然のままに、逝ったようです。
孫のにこは、亡くなる2日前にお見舞いに行きましたが、手を握って話までしたそうです。

数日、自宅で往診医に診てもらっていましたが、最後に状況が急変した時には、その往診医ではなく一度かかった病院に行きたいと言い、家族もその意向を踏まえて、結局、その翌日、病院で延命治療などすることなく逝ったそうです。
最後まで自らの意思を貫いたと言っていいでしょう。
見事な往生ぶりです。

葬儀は最初は家族関係だけを想定したようですが、生前のスキー仲間や近隣の人が集まって、結局50人くらいの葬儀になりましたが、とてもあたたかな葬儀でした。
スキー仲間が「別れのことば」を述べてくれましたが、それが心にしみるものでした。

最近、コムケア活動のなかで、友人からの提案もあって、私も葬儀に関わる方向で少し考え始めていたのですが、うまいパートナーシップが組めずに事業自体には私は直接かかわらないまま、止まっています。
そんなこともあったので、いつもとは違う目で今回の葬儀に列席させてもらいましたが、節子の時とは違い、葬儀のやりかたもとても改善されているような気がしました。
しかし、その一方で、葬儀の位置づけはあまり変わっていないように思いました。
やはり根本から考えなおす必要があります。

今回、看病、看取り、葬儀の段落などを中心になってやって来た個人の娘さんが、「死は不幸ではないと思いました」と話してくれたのが印象的でした。
この言葉は、長年冠婚葬祭に関わっている佐久間庸和さんがずっと言い続けていることです。
いろいろと考えさせられる葬儀でした。

そしてなによりも、気持ちのいい、葬儀でした。

 

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2019/10/10

■節子への挽歌4421:新米の季節

節子

新米が届きだしました。
この季節にはいろんな人たちが新米を送ってくれます。

新米が届くとお礼の電話をします。
ところがだんだんみんな高齢のためにお米づくりを自分ではやらなくなってきています。
若い世代に代わりにつくってもらったり、あるいは購入したりして、わが家に送ってくれるのです。

台風が近づいているので、畑を見に行きました。
強風で何かが飛び立って近隣の家に迷惑をかけてはいけません。
そのついでに野菜を見たら、トマトやナスやピーマン、そしてピーナツかぼちゃが成っていました。
収穫してきましたが、最近は何の手入れにも行っていませんでした。
こうした体験を重ねると、農作物は天からの授かりものだと思えてきます。
みんなにおすそ分けしなくてはいけないという気分が自然に生まれてきます。

自分のものでもありみんなのものでもあるという、ゲルマン法理の「総有」の感覚がよくわかります。
「総有」は、正確にはちょっと違う意味でしょうが、私は同じ感覚で理解しています。
私のものであって、みんなのもの。
そういう感覚があれば、多くのものを持つことは負担でもあります。

高齢になったために、自分では米づくりできなくなった人は、いずれもちょっとさびしそうでした。
自分で汗して育てた新米だからこそ、私に食べさせたかったのでしょう。
でも誰か育てようと、贈ってきてくださった方のお気持ちはきちんとつたわってきます。
ありがたいことです。

さて私には何ができるでしょうか。

 

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2019/10/09

■節子への挽歌4420:激しい気象変化

節子

家の玄関の植木に今年も赤とんぼが止まっています。
年々、赤とんぼは少なくなってきていますが、この木はどうも赤とんぼ好みのようです。
玄関の両側に同じ木があるのですが、なぜか一方の木だけです。

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最近、自然が少しおかしいという話をよく聞きます。
先日も湯島のサロンで、キンモクセイが今年は香りを発していないという話がありました。
たしかにわが家のキンモクセイも沈黙したままです。

友人が太陽も付きもなぜか最近東側に偏ってきている気がするとメールしてきました。
もしそれが本当ならば、大変です。
しかし最近の異常気象続きは「異常」とは言えないような気がします。
つまり自然状況が大きく変わってきているのです。

それが工業化による二酸化炭素によるものかどうかに関しては私はかなり否定的ですし、人為活動の生であるかに関しても疑問を持っていますが、気象状況が激変しつつあることは否定しがたいと思っています。
おそらく地球そのものが、ある意味での変化の渦中にあるのでしょう。

明後日ころからまた強い台風が日本にやってきそうです。
前回の台風による被害からまだ千葉県は回復していませんが、それよりも大きな台風だと言われています。

気のせいかもしれませんが、節子がいなくなってから、気象の変化は激しくなってきたような気がします。
それが節子の不在と関係あるなどとはもちろん思っていませんが、節子がいたころはまだどこかのんびりしたところがあったようにも思えます。

明日は台風に備えて、庭の整理をしないといけません。

 

 

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2019/10/08

■節子への挽歌4419:死のイメージ

節子

今日は抗がん治療をしている友人からの相談です。
一人暮らしのため相談は私にやってきます。

今回はオブジーボを使用するかどうか迷っているのです。
私には適切なアドバイスをする能力はありませんが、節子と一緒に抗がん治療に取り組んでいたころを思い出すと、彼の迷いや悩みがよくわかります。

いや「悩み」とか「迷い」というのとは少し違うかもしれません。
実はすでに答えを決めた上で、電話をしてくるのです。
私はただ、それを肯定すればいいわけです。
節子と一緒に考えていた頃の私も節子もそうでした。

一緒に問題を共有することが大切なのです。
それにもし結果が思わしくなかったとしても、自分だけを責めずに済みます。
私を恨めばいいのです。
ですから私は、彼と一緒に迷いながら考えるわけです。

彼は私の小学校時代の同級生ですから、お互いいつ何が起こってもおかしくありません。
もしかしたら、関係は逆転するかもしれません。
まあ今は彼ががんなので、私が相談を受ける役割を果たしているだけです。
こういう友人が、いま数名します。

私もそうですが、死が身近になると死は怖くなくなります。
ただできれば死を先に延ばしたいと思うのは自然です。
ただ苦痛に見舞われるとか生きるのが面倒だというのであればともかく、不都合もなく生きているのであれば、まあ「死を避ける」ことこそが生きる意味にもなってきます。
生きるために生きるという言い方が当てはまるかもしれません。
生きることは手段ではなく、目的なのです。

若いときにはこんなことは考えもしなかったのですが、最近はそんなことも納得できるようになりました。
生きることが少しわかってきたと言えるかもしれません。
たぶん完全にわかるのは、死の直前でしょう。
まあそれも楽しみではありますが、わかったところでどういう意味があるかはわかりません。
ただきっとそれは幸せにつながるのではないかと思っています。

ただしこれはすべて自然に死を迎えられる時の話です。
突然の事故死の場合は、まだイメージできずにいます。

 

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2019/10/07

■節子への挽歌4418:幸せな死

節子

今度は深夜に電話でした。
娘の義父が亡くなりました。

病院に搬送後、一時、回復した感じでしたが、家族などみんなに会ったせいか、夜になり状況が変わったようです。
最後の孫であるにこにも会えて、笑ってくれたそうです。
家族に囲まれ、10日前までは元気に暮らしていたようですから、幸せな死だったと思います。
私も、こういう死を迎えたいと思います。

私にとっては、死は生きることの一時点でしかありません。
物理的に生きていても、会うこともないし、滅多に思い出しもしない友人知人もいますが、そういう人との違いさえ感じません。
会わなくなった人と死者との違いは、私にはほとんどありません。
ですから、「死者」に再会することさえあるわけです。

それに、死後の生も否定はしていませんので、他者の死も平常心で受け入れられます。
自らの死は、これもまたたぶん大丈夫でしょう。

ただ、一緒に日常を過ごしている家族の死にはたぶんまだ立ち向かえないでしょう。
節子の場合が、そうでした。
しかし、節子の死によって、私の死に関する考えや態度が変わったのかもしれません。
12年間、死は私の隣にずっとありましたから。

ちなみに、死にこころ乱さないためには、直接に会う機会を減らしていくことかもしれません。

死者のご冥福を祈ります。

 

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2019/10/06

■節子への挽歌4417:早朝の電話

節子

朝の7時前に電話が鳴りました。
早朝の電話はセールスではなく、あまりよくない電話の心配があります。

やはりそうでした。
救急車で病院に搬送されたという電話でした。
幸いにその後、小康を得ましたが、娘たちは病院に行きました。
まだ気は許せませんが。

というような電話をいくつか抱えています。
まあこの歳になると仕方がないと言えば仕方がないのですが。

しかし深夜や早朝の電話はきらいです。

 

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2019/10/05

■節子への挽歌4416:引き落としができないと連絡が来ました

節子

また引き落としができないとガス会社からハガキが来ました。
預金残高には最近気を付けるようにしていますが、絶対額が不足してきたのでしょうか。
困ったものです。

しかし、ガス代金はどこから振り込んでいるのかわかりません。
どうも最近の引き落としの仕組みはわからない。
といっても、カードは2つしかありませんし、銀行口座も最近は2つしかありません。
昨年、税金を払うお金が無くなって困っていたら、忘れていた口座が出てきたことがありますが、もうそういう幸運には恵まれないでしょう。

実は今年の春に、ちょっと余分なお金を使ってしまったので(自分のためではありません)、残高が不足してしまっているのかもしれませんが、それがどの口座なのかわからないのです。
幸いに、大した金額ではないので、今回は苦労せずに振り込めますが、問題は残高不足になっている預金口座です。
節子がいたら、節子がすべてやってくれるのですが、いまはもう私がやらないといけません。
お金はほんとうにやっかいです。
早くお金がない社会にならないものでしょうか。

節子もかなり金銭感覚はおかしかったですし、家計簿さえつけられなかった。
それでも私よりはましでした。
私は経済感覚はすぐれているはずですが、お金は苦手です。
お金には本当の経済価値はないことを知っているからです。

それでもお金で困ることはあります。
料金をきちんと払わないとガスを止められてしまう。
まあ一度、体験したい気もしますが。

それで私の銀行口座をネットで調べようとしたのです、なんと65歳未満しかネットでは調べられないことがわかりました。
それでちょっとムッとしています。
高齢になるとわざわざ銀行窓口やATMなどに行くのは面倒です。
困ったものです。

しかし、今回いろいろと調べてみて、使っていないカードで年会費をとられていたり、気づかなかったことで会費を取られていたりしていることが見つかりました。
カード払いは、やはり気づかないままに支払いを毎月してしまったりしていることもあって注意しなければいけません。
やはり65歳を超えたらネットバンキングは向いていないのかもしれません。

しかし、問題は引落しできないのはガスだけではないでしょう。
それが心配です。

 

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2019/10/04

■節子への挽歌4415:朝のさびしさ

節子

朝起きたときに、節子がいないのが、私がどうもすっきりしないことの理由なのかもしれないと今朝気づきました。
先日、那須に行ったときには、節子はいなかったけれども朝目覚めたときに、一緒に一日を過ごす仲間がいたので、目覚めがよかったのかもしれません。
自宅での朝も、同居している娘がいるのですが、娘はやはりちょっと違う存在です。
それに自宅には節子がいるはずなのに、姿も見えず声のやり取りもできない。
自宅には、やはり伴侶がいないと何かが欠けている気分で、ともかくさびしい。
外出先の朝は、節子は自宅にいると思えるのでさびしさはないのです。

自宅での私の朝は、仏壇に水を供え、節子に挨拶してから灯明をつけて線香をあげて、般若心経を唱えるところから始まります。
それまでの時間が、いつもどうもモヤモヤした不安感があるのです。
その朝のお勤めが終われば、寂しさも消えて動き出せるのですが。

朝のさびしさは節子がいなくなってからずっと変わることはありません。
伴侶を喪って10年もたてば、気持ちは変わるだろうと思う人もいるでしょうが、気持ちが変われる人はたぶん1~2年で変われるのでしょう。
逆に1~2年で変われなければ、たぶんもう変われない。
私の小学校の時の同級生は、夫を亡くしてもう20年ですが、今もって全く気持ちは変わらないそうです。
時が止まってしまった。
私も同じような気持ちです。

そうした「さびしさ」に、さらに何かが加わると、もう気力がなえてしまう。
今日はまた大きく気持ちの萎えることがありました。
試練の嵐は、なかなか吹き止みません。

困ったものです。

 

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