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2004/05/01

ロードオブザリング王の帰還

アカデミー賞を総なめした映画「ロードオブザリング王の帰還」を観ました。
一言で言えば、駄作です。B級映画と言うべきでしょう。
前の2作はテレビで観たのですが、そのせいかまあほどほどの映画と思っていましたが、
今回、劇場でしっかりと観るとあまりのひどさに驚きました。
ハリーポッターの時も同じでした。
こんな愚作がアカデミー賞では、映画はもはや終わったと言うべきでしょう。

なぜかイラク攻撃や経済のグローバリズムと同じ、思考停止と暴力主義的脅迫を感じました。
それにしてもお粗末なシナリオとキャラクターづくり、編集不在と物語不在です。
メイクやキャラクター設定も問題です。
それに根底に人権問題にかかわる醜い含意を感じます。
イラク攻撃と同じ話のように思います。
ケアやノーマライゼーションの視点から考えると到底受け入れられません。
想像力が微塵もない人がつくった映画です。
いや、権力者の手先としてのプロパガンダでしかありません。

とまあ、悪口の限りを尽くしてしまいましたが、
これがあの「指輪物語」と思うと、腹も立ちます。

私は学生の頃、大学に行くよりも映画館に通っていた日が多かった年があります。
3年の頃です。3本立ての映画館をはしごしたこともあります。
映画評論家になろうかと思った時もあります。
映画からの影響はとても大きかったと思っています。
もしそうであれば、最近の映画がどういう人を育てるか、いささかの不安があります。
映画人は、そうした事をもっと考えてほしいです。
映画の持つパワーはとても大きいです。

また当分、映画は観にいかなくなるでしょう。

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社会時評」カテゴリの記事

コメント

橋本です。
CWS PRIVATE 初めてのコメントを書かせてもらいます。
映画は、僕も大好きです。
ロードオブザリングなどの大作映画は見ないのですが、いわゆる単館系と呼ばれる作品はよく見ています。

映画には特別な感情があります。ただの娯楽とは思っていないということです。
うまく説明できないので、僕が大好きな監督の一人であるイランのアッバス・キアロスタミ監督が
映画「風が吹くまま」のパンフレットに寄せた文を引用したいと思います。
これを読み、とても感動しました。

長いですが、是非読んで下さい。
そして、キアロスタミ監督の作品も見てください。

-以下引用-

【未完成のシネマ】

最初は、映画館を暗くするのは、映像が見えるようにするためだと思っていました。しかし、椅子にゆったりと身体をあずけている観客をよく観察してみると、それよりもっと重要な理由があることがわかりました。暗闇によって観客はそれぞれ他の観客から切り離されて、一人きりになれるのです。彼らは一緒にいますが、それぞれ隔絶しているともいえるのです。
私たちが作品世界を観客に示すとき、観客はそこから一人一人自分自身の豊かな経験に照らし合わせて、独自の世界を作り出すようになるのです。
一人の映画作家として、私はこの観客の創造的介在に頼っています。さもなければ、映画と観客は同時に死んでしまいます。完璧に調和のとれた完全無欠のストーリーには、一つの大きな欠陥があります。あまりに話がスムーズに運ぶあまり、観客が介在する余地がなくなるのです。
物語のない映画はあまり観客に人気がないのは事実ですが、物語があっても、そこにはクロスワードパズルのような隙間や空白、観客が埋めていくための空間が必要です。あるいは、それは推理小説の私立探偵のように、観客に足りないものを発見させるということでもあります。
私が価値を認めるのは、観客に素晴らしい可能性と時間を提供するタイプの映画です。観客の創造的精神が完成させる、創造途上の映画、未完成のシネマです。そして、それは結果として何百本もの映画として完成するのです。それは観客の一人一人に属し、彼ら自身の世界と呼応する映画です。
個々の作品や映画の世界は新しい真実を物語ります。真っ暗な映画館で、私たちは皆に夢を見るチャンスを与え、この夢を自由に表現するチャンスを与えるのです。芸術は、それが向けられた人々― 観客の一人一人 ― の自由な創造性を通して初めて、物語を変えたり、新しい考え方を提案することに成功するのです。
芸術家(アーティスト)によって作り出された、芸術家が理想とする世界と、その芸術家がその作品を向けた人の世界の間には、固い永久的な結びつきがあります。芸術は、見る人が、それぞれの願望や価値基準に合わせて自分自身の真実を作り出すことを可能にします。また、それは、観客がそれ以外の押し付けの真実を拒否できるということでもあります。芸術は、個々の芸術家とその観客に、普通の人々が日々経験する苦悩や情熱の後ろに隠された真実をより明確に理解する機会を与えるのです。日常生活を変化させようという映画作家の挑戦は、観客との連携(共犯、共謀)によって初めて実を結びます。しかしそれは、観客が納得できるような矛盾と対立に満ちた世界を描き出すことができて初めて成り立つのです。公式は簡単です。私たちが考えるリアルな世界とは、必ずしも公正な世界ではないということです。この世界は私たちの心が生み出したものではありませんし、それほど私たちがその世界にしっくりいっているわけでもありません。しかし、映画的な技巧によって、私たちは、身近な現実よりも100倍もリアルで公正な世界を作り出すのです。私たちはそれによって公正、正義の間違ったイメージを与えようとしているのではなく、逆にそうすることによって、理想と現実世界との間の著しい相違がより強調されるのです。この映画の世界で、私たちは希望や悲しみ、情熱について語ります。
映画は私たちの夢につけられた窓です。その窓を通して見ると、私たち自身のことがよく見えてきます。私たちは、身につけた知識や情熱を糧に、人生を夢に近づけていくのです。
映画館の椅子は精神分析医の診療室のカウチよりずっと大きな助けになります。
映画館の椅子に座って、私たちは助言も援助も与えらず勝手に思いを巡らせます。そこは多分、私たちが強く結びついていながら、同時に互いに遠く離れている唯一の場所です。それが映画館の不思議なところです。
映画の次世紀には、知的で建設的な要素としての観客との関係は不可欠です。これを獲得するためには、観客が絶対的な支配者であるという考えから離れなくてはなりません。監督もまた自分自身の映画の観客でなくてはならないのです。

100年の間、映画は映画作家のものでした。しかし映画の第2世紀に入り、私たちはいよいよ観客と強く結びつくことができる時が来たと期待しています。

アッバス・キアロスタミ

投稿: 橋本典之 | 2004/05/01 22:51

橋本さん
コメント、感謝します。
コメントはとてもうれしいものです。

確かに映画は、見る人との共創活動ですね。
私の場合、それがうまくできていないのかもしれません。
最近の映画への私の不満は、前半で世界を大きく膨らませておいて、その結末を安直につけてしまうところです。
今回の不満もそれです。
しかし、それは過大な期待かもしれませんね。
自分で膨らませた世界を完結させればいいのかもしれません。

最近、といってもかなり前ですが、
「永遠と一日」という映画を観た時は、嗚咽するほどの感動でした。しかも、見終わった時に、そう言う感動が出てきたのです。
映画館を出るのが恥ずかしいくらいでした。
ギリシア映画ですから、テンポも遅いし、重苦しい映画です。
しかし、なにかすっきりしました。

「風が吹くまま」は観ていません。
気にしておきます。
観たら、また感想を送ります。

ロードオブザリングは、
ちょっと口汚く罵りすぎましたね。
少し反省です。

投稿: 佐藤修 | 2004/05/02 09:21

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