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2004/05/05

■障害者と障がい者

今日もまた仕事です。
しかし、ちょっと風邪気味になったので、ゆっくりのペースです。
漢方と化学薬品の薬とサプリメントと果物と、
まあ手元にあるあらゆるものを昨日は飲みまくりました。
これでよし、とうっかり早々と風呂に入ってしまったのが失敗でした。
状況は悪化しました。
しかし、仕事の締め切りは延ばせないのです。
いやはや。

さて、今日の話題は「障害者」と言う表記に関するものです。
いま、コムケアの報告書を編集しているのですが、
その原稿を各NPOに確認してもらっています。
そこで問題提起を受けたのです。
問題提起したのは、共同作業所づくりに取り組んでいる五十嵐さんです。
とても素晴らしい活動をしています。

五十嵐さんの活動を書いた記事に、「障害者」という言葉が出てきます。
これを私が「障がい者」と書きなおしたのです。
それに対して、五十嵐さんから、こんなメールがきました。

町田市でもこのような表記を使っていますが、私は賛成しかねています。
「害」という字が好ましくないからと言う理由だと聞きましたが、
「害」を「がい」と書いて何が改善できるのでしょうか。

共感しました。
私も、最近は「障がい者」という表記に従っていますが、
問題の本質を見えなくさせることになるのかもしれません。

私は差別語狩りが好きではありません。
行きすぎた動きを、時に感じます。
それに、言葉を問題する人に限って、差別言動を感ずることが多かったからです。
従って、私は、かつては無頓着でした。

しかし、1年前に少し変わりました。
女房の病気が契機です。
それ以来、少し過敏になっていました。

CWSコモンズのホームページに、君が代と日の丸の話を書きましたが、
渡邊さんのメッセージもこたえました。
よかったら読んでください。
日の丸と君が代(2004年3月13日)です。

日和見傾向のある私は、今また迷っています。

障害者と障がい者。
皆さんはどちらを使っていますか。迷いますね。

いや、そもそもこんな言葉があるのがいけないのですね。
五十嵐さんは

世の中には障害者に対する無意識の差別が蔓延しています。
「本当に暮らしやすい社会」と彼らが思う社会は、「障害」、「障害者」という概念
がない社会だと思っています。
人は場面場面によって「助けたり」、「助けられたり」ではないでしょうか。

と言っています。
まさにそうです。
障害者という概念を捨てたいですね。

14年前に、杉並区の児童館の若いスタッフと話したことがあります。
そこで、「障害者」という言葉を使ったら、
「佐藤さんから、そんな言葉が出るのはとても残念です」と言われました。
そのことを時々思い出します。
言葉のパワーは大きいです。

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コメント

トニーさん
ありがとうございます。

「障碍」ですね。
はい、知っています。
熊田さんの主張も読ませてもらいました。
「害」と違って、「碍」には、価値評価の要素が少ないので、
本来であれば、この表記がよかったように私も思います。
「碍」が常用漢字から外されてから、
障碍という表記もあまり見なくなりました。


安直に漢字を捨てるのは危険ですね。
文化が変わるおそれがありますね。

ありがとうございました。

投稿: 佐藤修 | 2004/05/05 18:05

「障害」(面倒なので、「障害」という表記に統一させてください。)という言葉について、議論されているようなので少しコメントさせてください。

個人的な意見ですが、呼び方は、言葉の裏に差別がなければ何でもいいのではないかと思っています。

つまり、「障害」という言葉の裏に、「可哀想」などの差別的な意識があるのであれば、それは問題だと思うのですが、「犬」というのと同様に、残念ながら今の社会は「障害」、「障害者」という概念がある社会です。その社会で、一般の人、「障害」に興味のない人に、一体「障害」のある人を説明するときにどのように説明するのでしょうか?「障害」という表記は、現状は、残念ながら致し方ないのではないのでしょうか?

「障害」、「障害者」という概念がない社会はもちろん理想ですが、現状はそのような社会ではないのです。であれば、「障がい」、「障害」、「障害者」などの表記にとらわれる事なく、「障害」、「障害者」という概念がない社会になるべく、努力をするべきです。

だから、ぼくは、表記に差別的な意味がなければ、なんでもいいと思っています。だから、万人がいい!と思う、表記がない以上、個人の判断に任せればいいと思っています。

ですから、ぼくは他の人が、「障害」であろうと、どう表記しても目くじらは立てません。それよりもっとやることがあるでしょう。しかし、「障害」の裏に差別の意味が見え隠れしていた場合は、一言いいます。

もちろん、修さんや、五十嵐さん(会ったことはありませんが。)は差別の意味はないと思っています。

そんなことよりも、許せないのは新聞記者です。平気で、「障害」のある人や高齢者を社会的弱者と言います。呆れてものが言えません。こういうのを差別というのではないのでしょうか?
詳しくは、こちら↓
http://www.normalization-net.com/modules/weblog/details.php?blog_id=22

投稿: やべ | 2004/05/07 15:09

矢辺さん
お怒りは共感します。
しかし、まあ彼らもきっと「社会的弱者」なのでしょう。

私には障害と言う概念はありますが、
障害者という概念はほとんどありません。
もしあるとすれば、私も間違いなく障害者です。
いや、すべての人が障害者です。
障害者でないのは、神様だけです。

だから、矢辺さんと最初に話した時に、
ノーマライゼーションとはポジティブ発想することだと話したのです。
今のノーマライゼーション論やユニバーサルデザイン論は、すべて目線が高すぎます。
子育ても、介護も、医療も、すべてそうです。
その延長に、
一挙に飛躍しますが、
イラクがあります。

障害者と言う言葉を無くすにはどうしたらいいか。
自らの障害に気づけばいいのです。
そうしたら、きっとみんなにやさしくなれるでしょう。
そして使わなければいいのです。

しかし、中途半端に気づくと、逆に、さらにいじめの対象を探し出すのです。
それが人間の弱さです。

価値尺度を逆転させれば、障害は能力です。
むかし「音の無い記憶」というろう者の写真家の本の書評を書いた時に、確か「障害は能力」という題にした記憶があります。

とまあ、こうは書いたものの、
実際には障害は障害です。
私も62歳ですので、
身体的障害がどんどん増えています。
これは能力が増えたとは言えませんね。
どこかに論理の破綻がありそうです。
いやはや。


投稿: 佐藤修 | 2004/05/07 16:29

Trackbackさせていただきました。

さて、

> 障害者と言う言葉を無くすにはどうしたらいいか。
> 自らの障害に気づけばいいのです。
> そうしたら、きっとみんなにやさしくなれるでしょう。
> そして使わなければいいのです。

本当に同感です。

> 価値尺度を逆転させれば、障害は能力です。

これまた、同感です。ぜひ、その書評を読ませてください。

あと、知的障害のある人の能力は何だと思いますか?

> どこかに論理の破綻がありそうです。

大丈夫です!そのうちぼくがこの理論を実証してみせます!

投稿: やべ | 2004/05/07 20:58

トラックバックしたら、どうなるのですか。
コメントと変わらないような気がします。

今度会った時教えてください。
書評は探して見ます。

投稿: 佐藤修 | 2004/05/07 21:55

矢辺さんへの回答

「音のない記憶」の書評が見つかりましたので、掲載します。

■ 障害も能力――人間観の転換
(「音のない記憶」書評 『人材教育』2000年3月号)

 人間の能力の捉え方にはふたつの視点がある。「何ができるか」とい
う視点と「何ができないか」という視点である。能力という以上、大切
なのは当然前者だが、なぜか企業における人材教育や人材活用において
は後者で発想しがちである。私たちの日常の発想でも、ともすると後者
の視点になっていることが多い。
 社会福祉法人太陽の家とオムロンの合弁会社であるオムロン太陽電機
の工場を見せてもらったことがある。感激した。重度の障害を持つ人た
ちが見事に製造ラインを構成していたからである。まさに後者の発想に
もとづく工場づくりだった。
 『音のない記憶』は、井上孝治という聾唖の写真家の生涯を丹念に追
跡した評伝だが、この本には「人の能力」に関する実にさまざまなメッ
セージがこめられている。
 井上孝治は、日本ではあまり知られていないが、フランスのアルル国
際写真展に招待されるなど、世界的に実力を認められたアマチュア写真
家だった。大正8年に生まれた井上は3歳の時に事故で聴覚を失った。
そこからドラマが始まっていく。
 著者は「彼の障害も、実は写真を撮るうえではプラスに働いていたの
ではないか」と言う。「障害」という言葉には否定的な意味合いがある
が、決してマイナスだけではないことに気づかされる。固定的な障害者
観のために、その人の能力に気づけないことは少なくない。それは人材
教育や人材活用を考える場合にも当然あてはまる。「何ができるか」と
いう積極的な視点で考えれば全く違った人間像が見えてくる。その「で
きること」を活かし磨く組織になれば、企業は元気になっていく。
 作品から伝わってくる、あたたかさと面白さについても、考えさせら
れる。作品を見た福岡シティ銀行の四島頭取は「不自由な人のなんとひ
ろやかな自由な心」と感心したが、そこにもまた障害者観(人間観)の
見直しの契機が含まれている。
 聾唖の井上との取材などを通して著者がコミュニケーションについて
語っていることも含意に富む。
 仕事の合間に、是非一読されることをお勧めしたい。

投稿: 佐藤修 | 2004/05/15 22:06

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