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2004年6月

2004/06/30

■リゾーミックに絡み合うホームページ

ふなばしで多角的な活動をされている、コミュニティアート・ふなばしの下山さん が、最近、コメントしてくれないので、とても気になっていました。
ホームページで自らをさらけ出すことのモチベーションは、私の場合は、反応です。
今日も、高知県の八木さんからメールをもらいましたが、思っても見ない人から反応があるとうれしくなります。
つながりを実感できるのです。

下山さんは、このブログに直接コメントしてくれる一人です。
しかし、私がちょっと消化できなかった内容のコメントを最後に、ぷつんとコメントがなくなっていたのです。
そこで下山さんの「鳩の目日記」をのぞいたりしていたのですが、相変わらず多方面に活動しています。
安心したり、ちょっと気になったりしていたのです。
こんなところもホームページの面白さです。

今日、久しぶりにコメントがきました。
私も鳩の目日記を見に行きました。
そうしたらこんな記事がありました。

「NPOと商店街のコラボレーションはうまくいっていない例が多い、と佐藤修さんが以前いっていらしたが、財力も権力もない我々は足で稼いで築く信頼関係がすべて、と常々から心がけているせいか、ウチの場合はなんとかうまくいっているようです。」

うれしいことです。とてもうれしいです。
ところで、この記事の「佐藤修さん」をクリックするとCWSコモンズのホームページが出てくるのです。
この絡み合い、すごいですね。
まさに私が目指すリゾーミックなホームページです。
そしてこの記事もまた、下山さんのブログにトラックバックしたのですが、
初めての試みであり、うまく行くかどうか不安です。
このやり方を教えてくれたのが、ノーマライゼーションねっとの矢辺さんです。
彼のブログにも、私の言葉を引用してくれています。

こうしたホームページの絡みあいから、次はどういうつながりへと進化していくのでしょうか。
楽しみです。
情報の流れ方やつながり方の進化はすごいです。

ところで、NPOと商店街ですが、
9月に山形市でリサイクル商店街サミット山形大会を開催します。
ささやかに私もかかわっています。
やはりNPOをまきこみたくなりました。
また案内をしますので、よかったら遊ぶに来てください。
商店街の若い世代が楽しみながらがんばっています。

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2004/06/29

■殺し合いを止められない社会、止めない社会

イラクの殺し合いが止まりません。
毎日のように報道される死者のニュースに、だんだんと慣れていく自分に気づいて、ぞっとします。
この解決策は何でしょうか。

たまたま20年前に書いた論文が出てきました。
「21世紀は真心の時代」。
毎日新聞社の懸賞論文で入選したものです。
そこに、私なりの解決策が書かれていますが、しかし時代はそうはなりませんでした。
この論文を、次の更新時にCWSコモンズに掲載します。ぜひ読んでください。

イラクの惨状は、理由があります。
しかし、私にとって、もっと許せないのは、脱北者を北朝鮮に強制送還する中国の対応です。日本も、つい最近までは同じ姿勢だったと思いますが。
最近、話題の野口さんの事件で中国政府に逮捕された脱北者の人たちは、おそらく北朝鮮に送還され、もしかしたら「死刑」になっているかもしれないといわれています。北朝鮮の「死刑」は「リンチ」かもしれません。
送還したら殺されるかもしれない、と知りつつも、送還するということはどういうことでしょうか。
人間の感情として、どうしてそんなことができるのか。
イラクの「テロ」集団による殺人とどこがちがうのか。
子供たちにもわかるように説明してほしいものです。

もっと違和感があるのは、
北朝鮮の体制を知りながら、国家としての正当性を認めていることです。
テレビで報道されている北朝鮮の社会状況がもし本当ならば、
手をこまねいている私たちもまた、殺人幇助の咎を受けなければいけません。

殺人に加担しないと生きていけない時代の不幸を嘆かずに入られません。

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2004/06/28

■対話ができない首相と連帯できない野党党首 

参議院選挙の関係で、党首討論が盛んに行われだしました。
しかし、どこも同じ討論で、話の内容に深化がありません。
ほとんど意味のない討論かもしれません。
問題は、おそらく三つあります。

まず、小泉首相には討論の意味がわかっていません。
相手の質問の意味を理解できないのかもしれませんが、ほとんどの場合、答えていません。まさに頭脳のない20世紀のロボットのようです。最初にインプットされた話しかできないのです。話に内容がありません。
しかし、時折、追いつめられて表情を見せることがあります。
野党側が、それを契機に対話にもちこめばいいのですが、
次の問題は野党側が連携していないので、せっかくのそうしたチャンスを壊していることです。
もう少し突っ込めば対話が成り立つと思った瞬間に、また自分のことしか考えていないほかの野党党首が論点を変えてしまうのです。
そのおかげで、小泉首相はまた対話しない機械に戻るのです。
3つ目の問題は、そうした構図を変えられない司会者と構成者です。
テーマを絞り込んでのシナリオが用意されていない上に、司会者が役割を果たさないために、ただのがやがやわいわい会になってしまっています。土曜日のニュース23の筑紫さんが一番ひどかったですが、彼は討論の意味を理解していないのです。
日曜日の報道2001の司会はとてもよかったですが、それでも全体のシナリオがつめられていないせいか、議論はやはり拡散しました。残念でした。これは司会者の責任ではないでしょう。竹村健一のコメントも今回はちょっと趣旨不明でした。

いずれにしろ、どこでも同じレベルのやり取りで、議論が深化しないのです。
つまりここから見えることは、国会の審議も成り立っていないという推測です。
彼らは普段から議論していないことがよくわかります。
国会崩壊が起こっているのです。

しかし、そうした流れの中で、民主党の岡田代表だけが討論を志向していました。
視野の狭い他の野党党首のおかげで、その意図は邪魔されていましたが、思いは感じました。時折、我慢できずに防衛的な発言もありましたが、全体的には具体的に小泉首相に答を迫ろうとしていました。
民主党に投票するつもりはなかったのですが、この2日の党首のやり取りを見て、私は民主党に投ずることにしました。
共産党や社民党は、もっと大きな歴史認識を持ってほしいです。

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2004/06/27

■100円ショップでの疑問  

取手の東急にあるダイソーの100円ショップに行きました。
この近くでは一番大きな100円ショップだそうです。
実にさまざまなものがあります。
ほとんどの生活用品が揃ってしまうのではないかと思います。
時計や電卓まで100円です。
モノの価格に対する感覚が混乱してしまいます。

今回初めて見つけたものがあります。
娘がスペインから買ってきた、キツツキが上から下りてくるおもちゃ。
女房がギリシアで買ってきた方解石のりんごと洋ナシの置物。
4500円で購入したヴェネチアンのものと全くデザインが同じガラスのお皿。
(これはたぶんベトナム製です。ベニスのメーカーが困っているそうです)
いずれも我が家にあるものと区別がつきません。

上記の二つは購入して比べて見ました。
全く同じです。
つまり輸入品です。
キツツキはスペインでも100円以上だったそうです。
方解石のりんごも100円では買えなかったはずです。
いずれも大量に購入することで価格を安くしたのでしょう。
それにしても安いです。
フェアトレードになっているのでしょうか。
いやそれ以前に、こういう形で購入することによって、
それらの国の経済システムや文化を壊すことにはならないでしょうか。
悪評高い日本の海外収奪型ビジネスになっていなければいいのですが。
と思いながらも、買ってしまいました。
長江の石も100円でしたので、我が家の沢蟹用に買ってしまいました。
消費者は勝手なものです。

22品も購入してしまいました。
100円なら捨ててもいいから買ってしまおうと、安直に購買を決定しがちです。
そこにも大きな落とし穴があります。
価格破壊は実は環境破壊でもあるのです。

今日もまた消費者倫理にもとる行動をしてしまいました。
反省です。
しかし100円ショップには、実にさまざまな示唆が充満しています。
大げさに言えば、未来が見えてきます。

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2004/06/26

■知は利なり、知は痴なり  

知は力のことを数日前に書きましたが、
「知は利なり」というべきかもしれません。
昔からもちろんそうでしたが、最近の状況は私にはかなり違和感があります。

まず航空運賃がわかりにくいのです。
安く買おうと思うと、半額くらいになることもあります。
得をした気分になりますが、いつも損をしている気分にもなります。

最近腹立たしいのが電話代です。
わけがわかりません。まあ年金ほどではありませんが。
たとえば、家庭の電話から携帯電話にかける時、0036とか0077をダイヤルしてかけるとかなりの割引になるそうです。ご存知ですか。
嫌なやり方ですね。ビジネス倫理に反します。
知らない人が損をする社会は、いやですね。
きっとこの制度で損をしている人は、お年寄りでしょうね。
小賢しい知者だけが得をする社会は許せません。

以前のリクルート事件に象徴されるように、
企業情報を持っている人だけが汗もかかずに大金を手にする仕組みは、おそらく今も変わっていないでしょう。インサイダー取引禁止などは制度化されていますが、その気になればいくらでも制度をすり抜けられるでしょう。
情報がもっとどんどんと共有される状況が生まれるまで、そうした状況はなくならないでしょう。それは仕方がありません。

しかし、最近は小賢しい細工で、知っている人だけが得をする仕組みが多すぎます。
しかも、公益性が高いといわれている企業によって行われていることが多いのです。
さびしいですね。

知は利。言い換えれば、利になる知が、知の世界で大きな顔をしているのです。
知の変質です。知が痴になってきているような気がします。

一番の知性は、額に汗して真っ当に生きている人の中にあります。
そうした人がもっと大事にされる社会に戻していきたいものです。

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2004/06/25

■商業倫理  

今日、山形市で家電販売をやっている人から聞いた話です。

プラズマテレビが売れているようです。
40インチが80万円くらいで買えるようになったそうです。
しかし、まだ高価な商品です。
ところがクレジットを組むと月額12,000円。
さらに1日だと420円、コーヒー代と一緒ですというと買おうかという気になるそうです。
コーヒー代でプラズマテレビ。う~ん。

中高年以上の世帯には、2日間の無料貸出をすると購入する確度は高いそうです。
ともかく2日間、見てもらい、その後、ともかく持ち帰るのだそうです。
そうするとかなりの確度で購入の電話が入るそうです。

さてみなさん、
みなさんはどうですか。買ってしまいそうですね。

こうした販売姿勢は、商業倫理からみるとどうなのでしょうか。
効果的な販売戦略というべきなのでしょうか。
いや、それ以上に、
商品を販売するということはどういうことなのでしょうか。

私は経営学者のドラッカーが嫌いです。
なぜなら、彼は「経営とは顧客の創造」と、かつてその著書で語っているからです。
経営が顧客の創造であるはずがありません。
そんなことにも気づかぬ経営学者のことは信頼できません。
そうした経営学者が社会をだめにしてきたのだと私は思っています。
「経営は愛」。それが私の経営観です。
ドラッカーにはとうてい立ち向かえませんが。

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2004/06/24

■沖縄「慰霊の日」  

昨日、ニュースで、平和祈念公園の戦没者追悼式をみました。

平和祈念資料館の壁に書かれていた「展示の結びの言葉」を、CWSコモンズに書き込んだことがありますが、それを再録します。

沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは これほど残忍で 
これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです
この なまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです
戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間 ではないでしょうか   
戦後このかた  私たちは   
あらゆる戦争を憎み   
平和な島を建設せねば と思いつづけてきました
これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです

2年ぶりに出席した小泉首相はこの言葉を読んでいるでしょうか。

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2004/06/23

■法の規範性と権力性   

携帯電話を使用しながら自動車を運転することを禁ずる法律が成立しました。
しかし、相変わらず携帯電話しながらの運転を見かけます。
昨日も帰りの狭い道で見かけて、ついつい横に逃げました。
ナンバーを記憶して、法律執行責任者に伝えたい気分です。
電話しながらの運転は減っているのでしょうか。
どうやって罰せられるのでしょうか。
目撃情報を警察に言っても、取り上げないでしょうね。
これは警察にまたひとつ気分で罰することができる手段を与えただけの話かもしれません。

スピード違反にしろ、路上駐車禁止違反にしろ、おそらく違反者に比べて、処罰を受けた人は少ないでしょうね。違反しても多くの場合、咎められない法とは何でしょうか。そして、咎めるかどうかを決めるのは、「公権力」を持っている警察だけというのが、法の本当の意味でしょうか。どこか違和感があります。
それ以上に、こうした法の存在が、法の規範性を否定し、社会を混乱させているのです。
法に違反しなければ出せない速度が出せる自動車まで作られているのも納得できませんが。

そう言えば、我が家から自動車で15分くらい行ったところに守谷飛行場というのがあります。利根川の河川敷の私有地に個人が開設している飛行機クラブです。
河川敷の場合、たとえ私有地であっても、勝手に建造物を作ったりしてはいけないのですが、そこでは10を超える建造物がつくられ、なんと廃車されたバスも数台放置されています。これは法律違反だそうです。所有者も認めています。
しかし、再三にわたる管理者(国土交通省ですが)の撤去指示にもかかわらず、放置されたままです。穴を掘って(これも禁止されています)、ゴミが捨てられているような状況にまでなってきています。所有者は違法であることが、犯罪だなどとは思っていないようです。なにしろ違反しても罰せられない法律は山ほどあるのですから。

法とは何か。
今の日本では、いざという時に、処罰するためのツールなのかもしれません。
いざという時とはいつか、また誰が処罰するのか。
これが問題です。

国家に盾突く時が「いざの時」。
処罰するのは、顔のない国家。
これでは、法は規範ではなく、支配権力のツールでしかありません。
ですから、警察は内部が壊れてきたのです。

法は、さまざまな人たちが、お互いに気持ちよく暮らすためのみんなのルールであってほしいです。そして、もし罰則法であれば、公平に適用される状況をつくってほしいです。破っても罰せられない法は見直したいです。

電話をかけながらの運転をみたら、どこかに通報する仕組みをつくれないでしょうか。
監視しあう、いやな社会だなと思われるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか。
悪いことには目をつぶらずに、きちんと告発していくことが、もし嫌な社会なのであれば、きっとその告発の基準が間違っているのです。
嘘の告発や嫌がらせが頻発すると思うのであれば、それは社会を信頼していないということです。
社会を信頼せずに、社会をよくすることなどできません。
最初の一歩は、常に相手を信頼することから始まるのですから。

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2004/06/22

■情報はだれのものか 

「知は力」といったのはベーコンだったでしょうか。
しかし、実際には「情報」こそが力です。
いや、正しくは、その情報のもとにある事実こそが力です。
事実をどう「情報」化するか、
そして、その「情報」をどう使っていくか。
それによって、世界は変わってきます。

情報社会では情報はもはや隠せません。
しかし、情報が広がっていくには、今の段階でもまだ時間がかかります。
その時間差を利用してきたのが企業であり政府でした。
今もなお、その延長で行動している人がほとんどです。

その時間差を埋める動きのひとつが、内部告発です。
名前がよくないですが、要は情報活動を支援する活動です。
三菱自動車の場合、ちょっと遅きに失しましたが、
もっと早く情報が公開されたら、会社にとっての被害も少なくなったはずです。
今ではもう遅すぎます。

イラクを破壊した後で、大量殺人兵器がなかったなどといっても取り返しはつきません。
死刑を行使した後で無罪が立証されてもどうしようもありません。

意思決定の判断基準になるような情報(事実)を後から出してくる、最近の政府のやり方が問題になっています。
いまなお各地で行われている悪徳商法と同じやりかたです。
確かに問題です。
しかし、政府の責任者がその情報に触れる前に、情報を知っている人がいるはずです。
問題は、その人がどう行動するかです。

組織活動のなかで得た事実認識(情報)はだれのものでしょうか。
たとえば出生率のような、個々の事実の集積結果は、その情報を得るための仕組みをつくった人のものでしょうか。もしそうであれば、この情報は国民に所有権があると言っていいでしょう。
三菱自動車のクレーム情報はだれのものでしょうか。その情報によって深刻な被害を受けるかもしれない人には権利はないのでしょうか。
医師会が公表を妨害しているフィブリノゲン納入先の情報はだれのものでしょうか。


事実をどう情報化し、いつ発表するか。
それが、人命に関わることもあり、歴史を変えることもあります。
情報ガバナンスの問題はもっとしっかり考えて行く必要があります。
「知る権利」は民主主義国家の基本です。
情報が共有化される社会に向けて、少なくとも情報所有権の考えを改める時期に来ているように思います。これはソーシャル・キャピタルの議論にもつながります。


あまりに情報を私物化し、小賢しく操作している政治家たちに怒りを感じます。
お上意識をそろそろ捨てないと、革命が起こるかもしれません。
不幸なことですが。

ちなみに、
企業における情報参謀(CIO:Chief Information Officer)が話題になったことがありますが、定着しませんでした。組織内部志向ガ強すぎたためです。日本においては、組織のコミュニケーション戦略や危機管理に、社会的視点がないですから、結局はこれまでの経営手法のサブシステムにしかならないのです。
社会的視野で情報問題を考えたら、全く違うスタイルになるはずです。そして、きっと、社会にとっても組織にとっても、win-winになるでしょう。組織は社会につながってこそ、発展していきます。
情報の問題を考える場合は、基本的な視座を社会に置かなければいけません。
情報格差で利益をあげたり、支配したりする時代は終わろうとしているのです。

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2004/06/21

■自然の力 

台風です。
湯島のオフィスで空を見るのが、私はとても好きなのですが、
今日の空はとても悲しい灰色です。
昨日の真夏のような空とは全く違います。
私の気分も、昨日とは全く違います。
午後からは雨が降ってきました。

自然の力は大きいです。
自然の大きな力の前では、人間は微力な存在です。
「沈黙の春」の著者であるレイチェル・カーソンは、
環境が、動植物の形態や習性をつくりあげてきたと言った後で、こう書いています。

地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、
生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものに過ぎない。
だが、20世紀というわずかのあいだに、
人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。

この下りが、私をエコロジストに引き込んだのですが、
数年前から少し疑問を持ち出しています。
CWSコモンズでもいつか書きましたが、
宮崎の綾町の照葉樹林に出合ったのが契機です。
結局は自然の前では、人間などは小さな存在だと思ったのです。
目前に広がる照葉樹林の迫力にただただ圧倒されました。

30年ほど前に、ベトナム上空を飛行機で飛んだ時に、
ベトナム国土がまさに砂漠のように見えた記憶があります。
米軍の焦土作戦は自然を破壊したのでしょう。
しかし、まあ自然の尺度から見たら、そんなものは瑣末なことだったのかもしれません。

こういう考えが間違っていることは自覚していますが、
豊かな自然やパワフルな台風をみていると、
なぜか環境問題への取り組みが小賢しく思えてなりません。

風が強くなってきました。
わくわくします。
私は台風が大好きなのです。
急いで帰って、台風を満喫します。

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2004/06/20

■党首会談の空しさ

NHKで党首会談が放映されました。
用事があったのですが、出発を遅らせてしっかりと見せてもらいました。

感想を一言で言えば、コミュニケーション不在の空しい会議でした。
それぞれが単発的に言いたいことをいい、議論にならないのです。
コーディネーターの問題もありますが、とりつく島のないほど、みんなコミュニケーション志向が欠落しています。
みんな、自分の党の姿勢を見せるための場と捉えているのでしょうが、そうした姿勢からは新しいものは創発されません。それでは会議にはなりません。

いいかえれば、5党首とも、国民のほうを向いているのではなく、自党のことしか考えていないような印象を受けました。
国民を意識した発言を、だれからも聞けませんでした。
小泉首相は相変わらず、質問には答えずに、理屈では正しい一般論的な言葉の羅列を重ねていましたが、もしかしたら彼は本当に「善意」で語っているのかもしれないと感じさせるほど、内容のない話でした。内容がないだけに国民には理解されやすく、それが小泉人気の秘密なのかもしれないと改めて実感しました。知識も思慮もない人ですから、迷いもなく反省もなく、かえって堂々としているのです。国民にはきっと受けるでしょう。
あとの4人は、独裁者に異議申し立てする無能な評論家という構図です。
裸の王様と小賢しい知恵者のすれ違いを1時間見せられてしまいました。

国民の目線をもたない限り独裁者や権力者には勝てるはずがありません。
なぜなら、自らもまた、独裁者のミニ版になっているわけですから。
岡田さんが、もし脱永田町を目指すのであれば、こんな馬鹿げた対応をすべきではないでしょう。
私が発言にわずかながら共感できたのは、共産党だけですが、共産党は全国的なシステムがあるのですから、もっと違った戦略があるはずです。党首会談も、相手の土俵ではなく、もっと自分の土俵を用意し、実際の全国的実践を背景に実践的なコミュニケーションを目指すべきです。

責めあうだけの話し合いではなく、
どうしたら年金制度の改革を進められるか、
どうしたらイラク復興に役立てられるか、
そういうテーマで、もっと共創的な話し合いができないものでしょうか。

責めあいからは何も生まれません。
小泉首相を相手にして、いくら議論をしても意味はありません。
彼には話し合おうという意思はたぶんないのです。
そろそろそれに気づくべきです。
以前ホームページ(CWSコモンズ)に書いたように、
小泉首相はクーデターを起こしたのですから、そもそも話し合う素地はないのです。

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2004/06/19

■「常識」の呪縛からの自己解放 

17日の記事へのコメントを坂谷さんからもらいました。
そのコメントを材料にさせてもらって、
私の生き方の根底にある考えを少し書かせてもらいます。
坂谷さんのコメントには直接答えていないのですが。

坂谷さんは次の2点を書いてくれました。
① 日本の少子化がすすみ、逆ピラミッドの人口構成では、改革するとなれば、年齢層により、どんな改革でも不利益をこうむる人が出てきます。「年金改悪反対」だといっても、どのようにするかを具体的公約なり改革案になると、総論賛成、各論反対的状況になります。
② イラク派兵についても、「自衛隊を撤退させることで、日米案を基軸とする安全保障はどうなるのか、石油がこなくなったら、どうするんだ。」という恫喝には、沈黙せざるをえない、そんな構造があるのではないでしょうか。

このコメントには賛成です。それを前提に読み進んでください。

子どもの数が減れば、年金の保険料を上げ、給付額を減らさないといけない、という発想に、私は間違いを感じます。子どもの数が減るから年金の運営がむずかしくなるというのは、今の年金制度を前提にした発想です。それを変えるのが「改革」です。
日本の改革の多くは、行政改革も企業改革もすべて、大きな枠組みを変えるのではなく、制度をいじるだけですから、成功しないのだと思います。
年金についていえば、少子高齢化社会における年金のあり方を考えればいいのです。たとえば、社会的引退時期を70歳にすればいいのです。私の友人は、63歳にして仕事をしていない人がたくさんいます。彼らは働けないのではありません。社会的に「働く世界」から出されただけです。そして、その一部はNPOなどで無償の仕事をしています。それが悪いわけではありません。しかし、彼らはまだ年金保険料を払える生き方もできるのです。そして、それが幸せかもしれません。
壮年時代に徹底的に過剰な労働をさせる仕組み、あるいは本当に役に立つ仕事をせずに役職だけで高給をとる仕組み、そうした仕組みを変えなければなりません。
つまり、年金制度が問題なのではなく、社会のあり方、働き方、支え合い方が問題なのです。
暴論であることはわかっていますが、ともかく、子どもの数が減るから年金保険料を上げ給付額は減らさなければいけないという常識から解放されなければいけません。

「自衛隊を撤退させることで、日米案を基軸とする安全保障はどうなるのか、石油がこなくなったら、どうするんだ」という発想にも、いくつかの呪縛があります。
日米安保体制がなくなったらどうなるか、石油がこなくなったらどうなるか。やって見なければわかりませんが、たいした問題は起きないのではないかと思います。いま起きている「たいした問題」に比較してですが。
これまた暴論ですが、大切なのは、変化を恐れて変革に挑戦しないことです。
いわゆる「ゆでがえる現象」です。
「常識」の呪縛から自由にならなければいけません。

先日、大学の同窓生に会った時に、
「佐藤の常識は社会の常識とは違うから」
といわれました。
しかし、その私の常識も少しずつ社会の常識になってきたものもあります。

常識とは、その社会で生きやすくするためのルールだと私は考えています。
しかし、今やそのルールを根本から見直さなければならない時代になったのです。

日米関係が壊れても北朝鮮は責めてこないでしょうし、
石油がこなくなっても、対応はできるでしょう。
困ったらみんなで工夫すればいいのです。
額に汗して働いている生活者には、そのくらいの知恵があると確信しています。
私は飢え死にするかもしれませんが、もしそうならば、私がしっかりと自活していなかったためです。諦めなければいけません。

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2004/06/18

■オブコニカの攻撃 

先週末に庭の草花の攻撃を受けて、皮膚に炎症が広がっています。
痒くて、夜に目が覚めるくらいです。顔にまで飛び火しだしました。
皮膚科の医院にいったら、オブコニカに触らなかったかと言われました。
オブコニカは外来の桜草です。
あまり記憶にありませんが、いずれにしろ草木との接触によるかぶれです。

オブコニカはやさしそうな花です。
とてもそんな毒性を持っているとは思えません。
しかし、彼らにとっては、自らを守るための反応なのでしょうね。

自衛と攻撃はコインの裏表です。
子どもの殺傷事件やイラク事件に、どこかでつながっていそうな気がします。
どちらから考えるかで、事態は全く別の見え方になります。

薬を飲んだり、塗ったりしていますが、皮膚の炎症はまだ変化なしです。
1週間くらいはかかるそうです。
気が萎えていると、次々と不幸がやってきます。

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2004/06/17

■参議院選挙への関心の低さ 

マスコミによれば、6月の参議院選挙への関心は低いそうです。
争点がないためだそうです。
「争点がない?」
イラク派兵も年金も、争点ではないのですかね。
日本にはジャーナリズムは不在ですね。能力がないのです。
それを争点にする政治家もいない。志がないのです。

イラク派兵も年金も国論を二分した大きなテーマです。
政治家は、それらを自分の欲得のツールにしたために、争点になりませんでした。
ジャーナリズムは、それを表層的な話題にして消耗させてしまいました。
残念です。

国民の半分が異論をもっている大きなテーマがあるのですから、
国民のほうを向いて、一緒になって行動を起こせば、流れは変えられます。
岡田さんも永田町から出てくれば、世界は変わるのです。
脱永田町を標榜しながら、国民のほうに目を向けない岡田民主党は、やはり小泉自民党と同じに見えます。
万一、民主党が勝っても、同じ政治が続くと思うと、
たしかに選挙には無関心になりますね。

しかし、変化を起こさなければいけません。
バタフライ効果が起こることを期待して。
みなさん、参議院選挙には投票に行くように、まわりに働きかけましょう。

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2004/06/16

■動いていないエスカレータでつまずいたことはないですか 

止まっているエスカレータに、なぜか2回乗りました。
もちろん動いているものと思って乗ったのです。
危なくつまずきそうになりました。
2回ともです。
動いていないのに気づいて、歩き出したのですが、おかしな気分で、うまく歩けません。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、嘔吐感に襲われました。
実に不快で、めまいがして、自分が頼りないのです。
動いていないのに、私の五感は動いているように受け止めているのです。
動いていないエスカレータは、私の頭の中には存在していないのかもしれません。

人間は、事実を見るのではなく、思い込んでいるイメージを見ていることがよくわかります。
みんな思いこみで生きていることを、この頃、強く感じます。

一昨日、大学の同窓生仲間で会食をしましたが、
みんなそれぞれが創りあげた相手と話しているような気がしました。
それぞれが思っている「私」と私が自覚している「私」とはかなり違います。
私が思っている「相手」と、その人が思っている「自分」とも大きく違うのでしょうね。
まさに人は、付き合いたい相手を勝手に創りあげて、付き合っているのでしょうね。
時にそれが破綻するわけです。

コミュニケーションなど、できるはずがない。
私が若いころ、書きたかった小説のモチーフは、「ディスコミュニケーション」です。
ちなみに表題は「メビウスの男」でした。

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2004/06/15

■コミュニケーションできないほどの情報のやりとり  

昨日の記事は、裁判を傍聴して、まだ怒りの気分が弱まらないうちに、急いで書いて、出先からアップしました。できるだけ生の感想を残したいと思ったのです。
もう少し時間をおくと、気持ちが治まり、きれいに書きかねないからです。

今、読み直しました。
やはり感情的で説得力がありません。
記事自体に、「知的レベルと人間的レベルの低さ」を感じます。余計な一言も入っています。消去したい気分です。私の性格の悪さや欠陥を象徴しています。
これは、ネットやメールの怖さを示唆しているのかもしれません。
手紙だと投函するまでに時間があるので、どこかでストップがかかり、表現が直される機会がありますが、メールは即座に発信できます。まさに瞬時です。私のように、ほとんど読み直すこともなく、発信するタイプにとっては、便利ですが、生々しすぎて誤解や反発を与えてしまうこともあるでしょう。それではコミュニケーションは成立しません。

ネットやメールは、情報伝達量を激増させましたが、コミュニケーションを激減させたのかもしれません。佐世保の事件は、その結果なのかもしれません。コミュニケーションできないほどの情報のやりとりが可能になったのです。

昨夜は大学時代の仲間と会食しました。
そのひとりは、3月まで日本弁護士連合会の事務総長でした。
いまの司法改革に取り組んでいる情熱家です。
そこでの話はCWSコモンズに書きこみます。

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2004/06/14

■平和に向けての個人訴訟傍聴記 

この記事を読まれる方はぜひ15日の記事も読んでください。

CWSコモンズのホームページでご案内していた、イラク派兵に関する憲法違反訴訟の北沢洋子さんの第1回口頭弁論を傍聴に行きました、私のホームページを見て参加した、前沢知成さんとも会場でお会いしました。残念ながらほかにはいませんでした。

私にとっては初めての裁判傍聴でした。
傍聴席は満席で、入れない人が出るほどでした。
しかし、補助椅子や立ち見は認められませんでした。
傍聴者の一人が、裁判所の建物はきれいになったが、昔は認められていた立ち見や補助椅子がなくなったのは改悪だと大声で話していました。

始まる前に、面白いやり取りがありました。
原告は北沢さん、被告は国ですが、国側の人が3人、被告席に座っていました。そこで北沢さんは名刺交換をしようとしたのですが、相手の人は名刺を出さなかったようです。そのためか、裁判官が来る前に、弁護人の人が、国側の人の所属省庁を教えてくれないかと呼びかけました。見事に断られました。答える義務はないというのです。北沢さんは、誰に話しているかを知りたいので、教えてほしいと重ねて頼みましたが、裁判官を通してたずねてくれとの返事でした。いやはや。裁判官に言われたら答えるのでしょうか。
傍聴席から、国民の税金で仕事をしているのに、国民に所属を言えないとは何事だと怒りの声があがりました。きわめて同感。

コミュニケーションの出発点は相手を知ることです。言いかえれば、自らを開くことです。
それを拒否しているのはコミュニケーションを拒否していることです。
この3人はよほどの悪行を重ねている人なのでしょうか。
あるいは悪いことをしているので自らの所属を明らかにできないのでしょうね。
そうは見えませんでしたが。
きっと誇りのない仕事をしているのでしょうね。同情しなければいけません。
それにしても国を代表するとはどういうことなのでしょうか。
それをなぜ誇りにできないでしょうか。
これが今の政府の実態ですね。

裁判が始まる最初に、北沢さんと弁護人が裁判官に国側の3人の所属省庁を明らかにしてほしいと頼みましたが、判事は、そう言う申し出があったことを記録します、と回答するだけでした。
この段階で私は日本の裁判は腐っていると思いました。そこにいるのは人間ではないのです。サルでも裁判官はつとまるのです。知的レベルと人間的なレベルの低さにあきれました。彼らに裁かれる被告は不幸です。
パサジェルカをまた思い出しました。
(この余分な記事に関しては、15日の反省記事もぜひお読みください)

北沢さんの口頭陳述は、残念ながら私には退屈でしたが、これもまた手続き上、仕方がないのでしょうね。すべてが儀式です。前沢さんに聞いたら、弁論は書類でやり取りされのだそうです。北沢さんは10分間の陳述をしましたが、それもほとんどないのだそうです。確かに次回は15分だそうです。信じられない話です。全く、税金の無駄遣いです。裁判官が忙しいのは仕事をしていないからですね、きっと。やはり裁判員制度は仕事ができない彼らの責任逃れでしかないように思えてなりません。

余計なことばかり書いてしましたが、こんなことをやっていて、平和は実現するのでしょうか。いや、みんな本当に平和を望んでいるのでしょうか。
このごろ、何か空しさだけが覆い被さってきます。
隠居すべきなのでしょうか。


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2004/06/13

■強制と自発  

CWSコモンズのほうで何回か話題にしましたが、
学校の式典で国歌斉唱が強制される動きがあります。

これまで何の抵抗もなく、国家を歌っていたのに、
強制されることによって歌うのを止めて、処分された体育系の教師の話が、テレビで紹介されていました。私とほぼ同世代の教師です。

イソップの寓話に、こんな話があります。
小学3年の時に読んだのですが、ずっと頭に残っている話です。
山にきこりがやってきて、樹に「枝を1本くれないか」と頼みました。
親切な樹は、枝の1本くらいならいいだろうと思い、分けてあげました。
きこりは、その枝をもらうと、持参してきた刃を枝につけて斧をつくりました。
そして、森の樹木を伐りだしました。
枝をあげた樹木も含めて、森はすっかり伐られてしまいました。

ナチスが欧州で活動を広げだした時に、
欧州の労働組合関係者は、まあポーランドくらいはと思って、侵攻を見過ごしました。
自らに被害が及びだした時には、もう止める力はなく、欧州はナチスに席巻されてしまいました。

ちなみに、私は国家も国旗も好きです。
しかし、強制は大嫌いです。
石原都知事も小泉首相も、愛国心の全くない人だと思います。

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2004/06/12

■メールが減ってきました  

最近、受信メールが減っています。
にもかかわらずウィルスによって発信されたであろう、無意味のメールは減っていません。
私は、発信者が日本名でなく、件名も日本語ではないメールは、原則として、読まずに削除します。例外はありますが、そのために、せっかく送ってもらったメールに気づかないことあります。できれば発信者名は日本語がいいと思います。

もうひとつ気になることがあります。
件名を見直さずに、古い受信メールへの返信で送ってくる人がいます。
ちょっとムッとします。

メールでの照会に回答しても、その後、音沙汰のないことも少なくありません。
私の照会に音沙汰ないのは、気にはなりません。
メールとはそういうものでしょうし、勝手に送って回答を要求するのは欲張りです。

メール上のマナーが盛んに言われた時期がありました。
ネティズンシップなる言葉もあり、私はその欠如を指摘されたこともあります。
最近はあまり言われなくなりました。

メールは味気ない、手紙がやはりいい、と言う人がいます。
いずれもそれぞれの良さがあると私は思っています。

最近、受信メールが減っているのは私だけでしょうか。
みんなに嫌われてきたのでしょうか。
そうであっても不思議はありません。
自分の性格の悪さに、ようやく最近気づきだしました。
困ったものです。

メールは、多いと多いで嫌ですが、
少ないとまたさびしいです。
人間の心情は複雑ですね。

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2004/06/11

■田中真紀子さんへのエール 

日本の政治家の中で、私が言動に期待と共感を持てるのは、田中真紀子さんだけです。
ほとんどの政治家はうさんくさいですが、彼女は素直だと思うからです。
まあ、独善的で傲慢で世間知らずで、冷たくてわがままで、自分勝手かもしれませんが、これまでのほとんどの言動に、私は好感を持っています。
田中角栄もそうです。確かに日本を駄目にした一人でしょうが、ずるくはなかったように思います。不勉強だと怒られそうですが、なぜか2人とも嫌いにはなれません。我ながら、矛盾しているとは思うのですが。

今、田中さんは日本に戻ってきた中国残留邦人の生活支援のための法案に取り組んでいますが、田中憎しという自民党政治家たちに邪魔されているようです。今の政治家が政治を私物化していることがよくわかります。国民などはどうでもいいのです。

様々な法案に対して政治家どう反応するかは政治家を選ぶためのとても重要な判断材料になるはずです。
しかし、今のような党議拘束が強い政党制度の中では、個人の言動はほとんど意味を持ちません。彼らはもはや生きた人間ではなく、歯車なのです。自分では誰も「自己責任」をとらないのです。歯車を演ずることで、ただひたすら私利私欲を追及する雇われ人なのです。しかも、雇い主は国民(選挙民)ではなく、政党という組織なのです。政治はいまや、人の手を離れ、コンピュータの手に移ったといってもいいかもしれません。ですから政治家にはだれでもなれるのです。
ちょっと飛躍があるでしょうか。まあ、私の考えはいつも飛躍と独断があるのですが。

政党政治の時代は終わりました。
二大政党政治などは全くの時代遅れです。
小選挙区制などは論外です。
そう思いませんか。
馬鹿な政治学者や無知なジャーナリストにだまされてはいけません。
最近また怒りがこみ上げてきています。
小泉首相のはしゃぎようは見苦しいです。
新聞はすべてお追従しか言わなくなりましたし。

みんな自分の生活が不安なのですね。

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2004/06/10

■出生率低下は未来への夢とつながっています 

合計特殊出生率が1.3を切りました。衝撃です。
さまざまな委員会で議論されていましたが、下げ止められずにいます。
そろそろ方法論や議論するメンバーの間違いに気づくべきでしょう。
現場に立脚しない人の議論は何の役にも立たないのです。

10年以上前にある研究所が、
「あなたの子どもたちの時代はあなたよりも幸せになると思いますか」
という調査をしました。
私は講演の時に、この質問をさせてもらいます。
イエスと答える人は極めて少ないです。
10年以上前の調査結果は20%でした。
8割の人が将来に希望を持っていないという社会は異常です。
子どものいじめや自殺や事故の増加。
すべてがここに象徴されています。

そして出生率が下げ続ける社会。

会社を辞めてから、初めて関わりだしたことがいくつかありますが、
その一つが保育の世界です。
私の関心は幼児教育(保育という意味での教育)でしたが、
出生率が1.5を切ったので、話題が高まっており、そのおかげで研究会も開催できました。厚生省や日経連の人にも参加してもらいましたが、私自身がついていけませんでした。みんな産業論で考えているのです。

しかし、素晴らしい保育関係者との出会いもありました。
しかし、数年前から、保育の現場にも違和感が出てきました。
国庫からたくさんの補助金が流出したのでしょうか、なにかバブルを感じさせるような話がいろいろと耳に入りだしました。子育てに資金を出したら出生率が高まるという発想が、出生率を下げてきたのです。

10年前から日本は福祉バブルです。今もそうだと思います。
福祉の世界で真面目に仕事に取り組んでいる関係者の人は、今も資金不足に悩んでいるでしょうが、バブルとはそういうものです。
産業バブルの時も、結局は汗をかく真面目な働き手は辛いだけだったのです。

なぜ出生率が下がり続けるのか。
なぜ子どもの世界の事件の話題が多いのか。
なぜみんなが弱いものいじめをするのか。
夢が持てないからかもしれません。

「あなたの夢は何ですか」

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2004/06/09

■必然的な出会い

ある社会実験によると、すべての人は5~6人を介してつながっているといいます。
日本のテレビでも、北海道の身寄りの全くないお年寄りが東京の全く知らない人に、個人的なつながりを介して手紙を届ける実験をし、たしか7人ほどで無事手渡された結果を放映したことがあります。
そのテレビを見た、ある若者起業家が、私のところに飛び込んできて、
「佐藤さん、ひとはみんなつながっているのですね」
と、感動を伝えて、すぐに帰った「事件」がありました。
その後、彼と会っていませんが、いつかまた会えるでしょう。
人は会うべき人には必ず会えるものです。

昨日、地下鉄日比谷駅で岸田弘さんに会いました。
この駅は不思議な駅で、よく知り合いに出会います。
それも、その人のことを思い出したり、誰かと話題にした直後にです。
岸田さんは千葉の大原に民家を購入して、そこに徐々に転居している人です。
昨日、野原さんと食育の話をしていて、そういえば岸田さんはどうしているだろうと思ったところでした。その数日前にテレビで大原のニュースを見たのがその誘因でした。
岸田さんに出会えた意味は何なのでしょうか。

東京は様々な出会いに恵まれています。
数年前に御徒町の駅近くで、突然声をかけられました。
寺田実さんです。
異色の人です。
銀座のギャラリー悠玄で、17日から個展をやりますが、
17日のオープニングパーティに行くと彼に会えます。
作品はすばらしいです。彼の人柄も魅力的です。
彼の個展に誘われたのは、御徒町で偶然であったおかげです。
彼とは一度しか会ったことがないのです。
それもあるイベントに講演に来てもらっただけです。
それが偶然の出会いのために、個展の案内が届いたのです。

個展に夫婦で行ったら、私たち夫婦の共通の友人も出展していました。
彼の教室に参加していたのです。
2人とも滋賀の人なのです。
人は確かに無限につながっています。
そして、会うべき時に会うのです。

今日、コムケア仲間のCS21の叶内さん、村上さん、川副さんが訪ねてきてくれました。叶内さんの思いのたけをお聞きしました。私の思いとかなり重なりますが、まあそれはまたコモンズのほうで紹介します。
3人が帰り際に、私が美野里町の名前を出しました。
そうしたら、叶内さんたちは何と美野里町を訪問し、そこの文化センターを見てきたそうです。「文化がみの~れ物語」も知っていました。私がそれを編集したことには気づいていませんでした。
コモンズのほうに何度も出てきていますが、私は美野里町やそこの文化センターとかなり深いつながりがあるのです。
あまりの意外な話に驚きました。
しかし、こうした偶然は私だけではなく、叶内さんもたくさん経験し、そしてその結果、今日、仲間と一緒に私を訪ねてきてくれたのです。

みんなつながっているのです。
そう思うと生きるのがとても楽しくなります。

明日は誰と出会えるでしょうか。
東京の魅力のひとつは、偶然の出会いです。
念じていると、必ず会えるのです。
不思議なまちです。

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2004/06/08

■突然報道されなくなった年金改革法  

夢を見ていたのでしょうか。
年金制度改革法が「成立」した途端に、マスコミからその話題が消えてしまいました。
あれほどの混乱や国会欠席までしていた野党の声も聞こえません。
あれは夢だったのでしょうか。

7割にもおよぶ国民の反対は、何だったのでしょうか。
狐につままれた気分です。

マスコミがとりあげないと、事件は事件にならないことがよくわかりました。
イラク戦争って、本当に行われているのでしょうか。
すべてがマスコミがつくった虚構なのでしょうか。
自分の存在も少し不安になってきました。

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2004/06/07

■ユニバーサルデザインへの違和感 

ノーマライゼーションへの違和感について以前書きましたが
今日はユニバーサルデザインへの違和感です。
4日のユニバーサルデザイン生活者ネットワークのシンポジウムで話したことの一部を少し書きます。補足しながら。

ユニバーサルデザインという言葉が広がっています。
この分野で活躍している中川聡さんは、「あらゆる使い手に快適で使いやすい環境やモノを提供することを目指す社会的な意識や態度」と定義しています(「ユニバーサルデザインの教科書」)。
誰にでも使いやすいことを目指す設計思想。なんとなくわかったような気になる言葉ですが、商品や空間を設計する際には、「使いやすさ」を重視するのは当然であって、何をいまさらという気がしないでもありません。しかし、なぜかこの言葉が流行しています。いかに、そうでない状況になっているかの現われかもしれません。

ユニバーサルデザインには有名な7原則があります。
原則1:誰にでも公平に利用できること
原則2:使う上で自由度が高いこと
原則3:使い方が簡単ですぐわかること
原則4:必要な情報がすぐに理解できること
原則5:うっかりミスや危険につながらないデザインであること
原則6:無理な姿勢をとることなく、少ない力でも楽に使用できること
原則7:アクセスしやすいスペースと大きさを確保すること
どうですか。退屈でしょう。
当たり前すぎるほど当たり前であり、しかも言葉があいまいです。
なぜこんな内容のない言葉(概念)が流行するのか。

誤解のないようにいえば、ユニバーサルデザインへの関心の高まりはとても良い事だと思っています。ただ、その取り組みが、概念の吟味もせずに、言葉だけが安直に広がっていることに違和感があるのです。

そもそも「ユニバーサル」という言葉に違和感があります。ユニバーサルな発想で、本当に使いやすさが生まれるのか、むしろ作りやすさのための発想ではないか、などとひねくれて考えてしまうのです。
もっとも、中川さんによれば、ユニバーサルには本来「個を目指す」という意味があるそうです。「誰にでも」という意味は、「様々な個人一人ひとりにとって」ということなのです。でも何か違和感があります。

言葉はともかく、重要なことは、こうした動きの中に、作り手からではなくて、使い手、つまり個人の具体的な生活から発想するという視点の転換が込められているということだと思います。
提供された商品や環境に使い手を合わさせるのではなく、使い手に合わせた商品設計ということです。それも、目指すところは、マスとしての客観的な使用者ではなく、それぞれに事情をもった使い手、生活者ということです。

だとすれば、ユニバーサルデザインとは作り手にとっての商品開発のためのデザインではなく、使い手の生活支援のためのデザインということになります。
まさに、私の言葉でいえば、組織発想から個人発想へのパラダイムシフトです。
デザインの対象が変わったという点も重要です。もちろんデザインのプロセスも変わります。

ところで、生活は一人一人によって表情が違います。
ですから、実は誰にでも使いやすいということは、実は誰にでも不満が残るということでもあります。
カスタムメイドではなく、量産を基本とする企業と個人事情を持った生活者をどうつなげていくか。ここにユニバーサルデザインの大きな課題があります。
それは、実はモノづくりの思想や産業の枠組みを根底から変えることなのです。

しかし、今のユニバーサルデザイン議論には、そうした視点があまり感じられません。
これまでのパラダイムの延長でしか考えられておらず、ユニバーサルデザインは改善策なのです。
ユニバーサルデザインを、これまでの発想の先に位置づけるか、これまでの発想を壊す視点で考えるかで、内容は大きく変わります。
ちょうど、地方分権と地域主権が全く正反対のものであるにもかかわらずに、混同して議論されているのと同じです。百害あって一利無しです。

長くなりました。まさに論文ですね。いやはや。
読む人も飽きたでしょうが、書く私もつかれました。
なかなか書きたいことに辿り着けません。
メディアをまちがったようです。すみません。

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2004/06/06

■ネットを介したコミュニケーションの難しさ 

佐世保の事件で、ネットによるコミュニケーションの問題点が議論されています。

私もネットを使ったコミュニケーションの輪を広げている一人ですが、
確かに難しさを感じます。
ほとんどニュアンスが伝わらないのです。

5月31日の記事の最後に「教訓」という3行を載せました。
橋本さんがコメントしてくれました。異論の提出です。
橋本さんは私のことをよく知っているだろう人です。
翌日、コムケアセンターで矢辺さんから、
あの記事を読んで、「佐藤さんは疲れているのかな」と思ったと言われました。
つまりコミュニケーションができていないのです。
ある人からメールが来ました。
佐藤さんのジョークは若者には伝わっていない、と。

これは、しかし、ちょっとした世代文化の違いかもしれません。
ネットのやりとりのおかげで、それが顕在化したのです。

折口さんが、CWSコモンズのホームページの「折口さんのつれづれ日記」に、
言の葉の発する恐ろしさ。(6月5日)を投稿してくれています。
そうした恐ろしさもたしかにあります。

私はネットのやりとりで、これまでに舌禍事件を3件起こしています。
CWSコモンズのホームページでも一人の知人を失いました。
ですから、最近はかなり注意しています。
私自身は一応、ネットの性格を理解していますので、それなりの準備はできていると自負しています。

しかし、です。
その私ですら、週に1回は、メールや書きこみで、なにやら滅入ることがあります。
相手の善意や真意は一応理解した上での、何とはなしの不快感を味わいます。
すぐにおちつくのですが、そうした気分が自然と起こるのです。
そんな嫌なことがあるのなら、止めたらいいと思うかもしれません。
しかし、それを上回るうれしいメールもあるのです。

もっとも、うれしさと嫌さは、実は相殺できません。
別々のものなのです。
ですから、こうした言い方は正確ではないでしょう。

気持ちのいいネットのやり取りをできるようにするためにどうしたらいいのでしょうか。
私は、それは不可能なことだと思います。
時に不快感を味わうことこそ、健全なことなのです。
利便性や快適性を追求しすぎた結果は、退屈な人生です。

今日はどんなメールに、一喜一憂するのでしょうか。

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2004/06/05

■朝のあいさつ  

最近、女房と二人で30分の早朝サイクリングをやっています。
今日は手賀沼のあやめを見に行きました。明日からあやめ祭りなのです。
自転車で15分、途中は自転車も通れる散策道です。
人に会うたびに、「おはようございます」の挨拶をかけるのですが、必ず返事が返ってきます。
ヘッドフォンを聴きながら散策している若者ですら、気配を感じるのか返事を返してくれます。
とても気分のいいふれあいができるのです。

「おはよう」の一言で、人はつながりを感じ、つながりを育てられるのです。
それなのになぜ人は追いやられ孤立化し、犯罪を起こすのでしょうか。
人がつながっていれば、困ったことがあれば、きっと誰かが助けてくれます。
誰かを助けてやることもできます。
しかし、その「おはよう」がどんどんなくなってきているのです。
子どもの世界も、そうなのでしょうか。

たとえば一昨日の年金に関する委員会でのありさまは、そうした世界とは別世界です。
つながりをつくるどころか、つながりを壊そうとしています。
そこに、民主党の間違いがあったように思います。
国民に向けて、挨拶をしてくれたら、みんな動いたはずなのです。

日本の文化は、まだしっかりと残っています。
しかし、どうも国会や大企業にはもうなくなってしまったようです。
学校はどうでしょうか。

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2004/06/04

■年金改革法の成立をとめる方法 

年金改革法が成立しそうです。

いまさらという話をします。
とめる方法はひとつだけあったと思います。
民主党か筑紫哲也チームにメールしようかどうか迷いましたが、
これまでもいろいろメールしても反応があったことがほとんどないのでやめました。
自分で活動を起こせばいいのですが、それもやめました。

方法は国会デモの呼びかけです。
国民の多くが反対しているのですから、誰か影響力のある人がテレビを通じて呼びかければ、大勢の人が国会に参集したと思います。そうすれば事態は変わったはずです。
国会を埋め尽くすほどの人がきっと集まったはずです。
イラクでは埋め尽くせませんでしたが、年金では埋め尽くせたと思います。

その呼びかけをできる立場にいる人はたくさんいます。
委員会の暴挙がなされた夜のニュース23で、筑紫さんが呼びかけるかと期待していました。
しかし、その期待は実現しませんでした。
民主党が呼びかけるとも思っていましたが、それもありませんでした。
だれも本気で年金改革法を止めようと思っていないのですね。
私も、その一人ですが。

それとも、みんなまだ民主主義を理解していないのでしょうか。
民主主義の最大のパワーは武器や戦術ではなく、人の言動です。
国民は誰かが声をかけてくれるのを待っているのです。

ちなみに私は年金制度にはあまり関心はありません。
国家に対する信頼感がもてないからです。
年金がなくても気持ちよく暮らせる社会づくりに関心があります。
それにもう年金の受け取り側になっていますので、制度変更の主役にはなれません。
もっとも不思議なことに、そうした人たちが年金制度改革出の主役になっているようですが。
坂口厚生相には失望しました。

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2004/06/03

■テレビタレントのサブリミナル効果  

佐世保の小学生殺人事件によって、私たちはまたひとつタブーを失ったように思います。
子供同士の殺人という、思ってもみなかったことが、この数年、次々と起こりました。
不謹慎ないい方ですが、そうした事件が「解禁」されたのです。
こういう「解禁」が、この数十年、次々と起こっています。
生命現象の危機かも知れません。

私たちの社会が何とか安泰を保てている大きな理由の一つは、タブーがあるからです。
天の摂理として、生命の一つひとつに、それは埋め込まれています。
陽光を浴びると元気になり、血をみると恐怖に陥る。
笑顔を見ると心和らぎ、涙を見ると涙が出てくる。
困っている人がいたら、自然と救いの手が出てしまう。
それは、生命現象が個々ばらばらにあるのではなく、つながっているからだと、私は思っています。
人が喜ぶと自分もうれしくなるのも、そのおかげです。

ところが、最近、どうもそうではないのです。
どこかで生命の連鎖が切られてしまっているような気がしてなりません。
埋め込まれているはずのタブーがどこかで動かなくなっているのでしょうか。

タブーは、誰かが破ってしまうとタブーであることをやめてしまいます。
問題は、誰も破らなくても破れることを確信させてしまうことがあることです。
タブーは実際には破らなくとも、頭の中の空想の世界で破ってしまうことがあります。
皆さんも、頭の中でタブーを破ったことはあるでしょう。
それが現実にならないところにタブーのタブーたる由縁があります。
もちろん全く気づかないタブーもありますが。

では誰がタブーが破られたと思わせたのでしょうか。

サブリミナル効果が話題になったことがあります。
多くの場合、隠し画面として特定のメッセージを入れることを指しますが、
それ以上に大きな影響は、テレビを舞台に活動している有名タレントたちの言動です。
最近のテレビは、彼らの主観的言動の露出空間になっており、そこからの繰り返しメッセージがサブリミナル効果を持ち出しているような気がします。
そうしたシグナルの中に、自らの頭の中のタブー破りを含意している言動が、かなりあるように思われます。しかもそれらは特別の物語としてではなく、日常的な人間生活の中につながっているために、現実との境界が見えなくなってしまっているように思います。
しかもそうしたことを売り物にしている存在が少なくありません。
要するにテレビの中が、日常をベースにした非日常になっているのです。
昔は逆だった陽に思います。
たとえば北野たけしは世界的に高い評価を得ていますが、私には全く理解できません。
私の体内に埋め込まれた感性からすれば、目を背けたくなる言動があまりにも多いからです。どこにでもいるただの人が、無理をして騒いでいるだけにしか感じません。
私の感性が狂っているのかもしれませんが。

いまや子どもたちの最大の「学びの場」になっているテレビに関わる人たちに、
今回の事件と自分の言動をつなげて考えてほしいと思います。
もちろんニュースキャスターも含めてです。

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2004/06/02

■医学の進歩と生命の大切さ

歯医者に行きました。
近くのミドリ歯科です。そこの先生の石川さんがすごく話し好きなのです。
今日はこんなことを教えてもらいました。

私には1本、まだ埋っている親知らずがあります。
埋まっているが故に、虫歯にもならずに健全です。
最近は、その親知らずを掘り出して、他の場所に移植することができるようになったそうです。ですからむやみに親知らずを抜いてはいけないのです。いざという時の財産なのです。
さらに最近は、歯の種のようなものを育てる試みも進んでいるようです。
歯が抜けても大丈夫の時代が来るかもしれません。
人間の身体はまだまだたくさんの可能性を秘めているようです。

しかし、その一方で、いとも簡単に生命は突然断ち切られます。
イラクの橋田さんや小川さんもそうですが、
今日はまた佐世保で子どもの殺人事件です。

経済的に豊かになったにもかかわらず、多くの人は豊かさを実感できないでいます。
医学は進歩したにもかかわらず、多くの生命が軽んじられだしています。
どこか似た感じがします。
どこが間違っているのでしょうか。

今日は女房の胃がん手術1年目です。
1年が無事過ごせたことに感謝しています。
がんになったおかげで生命や時間の大切さに気づいたと、多くのがん患者の方が話します。私もその思いを少しだけ共有させてもらっています。

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2004/06/01

■沈黙の春  

レイチェル・カーソンの「沈黙の春」はお読みになりましたか。
環境問題を最初に警告した本です。
日本では、私が会社に入った年に出版されましたが、
私が自称エコロジストを称えだすきっかけになった本です。
当時は「生と死の妙薬」という題で翻訳されました。
その題が私にはとても違和感があり、装丁の悪さも含めて、書棚には置きたくない本でした。出版社の新潮社のセンスを疑いました。こんな馬鹿げた書名にしなければ、きっともっと売れたはずです。そして社会に影響を与えたはずです。
10年ほどたって、書名が原題の「沈黙の春」に戻って、新潮文庫として出版されたので、ホッとした記憶があります。

レイチェル・カーソンは、最近は「センスオブワンダー」が有名で、その読書会も各地で行われています。
彼女は科学者ですが、沈黙の春の寓話のように、詩を感じさせることがあります。
彼女の作品のひとつ、「われらをめぐる海」には詩があると言われて、彼女は次のように答えています。
「海について真実を語ろうとすれば、詩にならざるを得なかったのです」
こうした彼女の姿勢が、私はとても好きです。

しかし、にもかかわらず、翻訳で読む彼女の作品はいずれも難解なのです。
それが気になっていたのですが、先日、科学技術倫理フォーラムの杉本さんから、「沈黙の春」の翻訳は技術者からするとわかりにくい。できれば改訳したいというお話を聞いて納得できました。真実をきちんと伝えないと、美しくはならないのです。

杉本さんから新潮社に打診してみるように頼まれたので、間接的に打診していたら、今日、連絡がありました。それによると、誤訳が多いという読者からの苦情があって、2001年に改訳をしたそうです。それも知りませんでした。早速新訳を読んでみようと、書店に行きましたが、残念ながらありませんでした。

杉本さんは、この本をしっかりした科学技術の素養を持った人が訳せば、もっと影響力を発揮できるだろうと考えています。
同感です。
そして、改めて、沈黙の春のメッセージをしっかりと受け止める動きを起こしたいものです。
ちなみに、米国では、1987年に「Silent Spring Revisited」という本が出ています。カーソンの問題提起を化学者たちが検証したものです。杉本さんは、技術士として、日本でもそうしたことを行いたいと、きっと考えているのでしょう。

ところで、今のところ、沈黙の春は避けられているようです。
鳥の声もよく聞けますし、花も昆虫も増えているような気もします。
しかし、本当に安心していていいのでしょうか。
いろいろと気になることの多い毎日です。

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