■法の規範性と権力性
携帯電話を使用しながら自動車を運転することを禁ずる法律が成立しました。
しかし、相変わらず携帯電話しながらの運転を見かけます。
昨日も帰りの狭い道で見かけて、ついつい横に逃げました。
ナンバーを記憶して、法律執行責任者に伝えたい気分です。
電話しながらの運転は減っているのでしょうか。
どうやって罰せられるのでしょうか。
目撃情報を警察に言っても、取り上げないでしょうね。
これは警察にまたひとつ気分で罰することができる手段を与えただけの話かもしれません。
スピード違反にしろ、路上駐車禁止違反にしろ、おそらく違反者に比べて、処罰を受けた人は少ないでしょうね。違反しても多くの場合、咎められない法とは何でしょうか。そして、咎めるかどうかを決めるのは、「公権力」を持っている警察だけというのが、法の本当の意味でしょうか。どこか違和感があります。
それ以上に、こうした法の存在が、法の規範性を否定し、社会を混乱させているのです。
法に違反しなければ出せない速度が出せる自動車まで作られているのも納得できませんが。
そう言えば、我が家から自動車で15分くらい行ったところに守谷飛行場というのがあります。利根川の河川敷の私有地に個人が開設している飛行機クラブです。
河川敷の場合、たとえ私有地であっても、勝手に建造物を作ったりしてはいけないのですが、そこでは10を超える建造物がつくられ、なんと廃車されたバスも数台放置されています。これは法律違反だそうです。所有者も認めています。
しかし、再三にわたる管理者(国土交通省ですが)の撤去指示にもかかわらず、放置されたままです。穴を掘って(これも禁止されています)、ゴミが捨てられているような状況にまでなってきています。所有者は違法であることが、犯罪だなどとは思っていないようです。なにしろ違反しても罰せられない法律は山ほどあるのですから。
法とは何か。
今の日本では、いざという時に、処罰するためのツールなのかもしれません。
いざという時とはいつか、また誰が処罰するのか。
これが問題です。
国家に盾突く時が「いざの時」。
処罰するのは、顔のない国家。
これでは、法は規範ではなく、支配権力のツールでしかありません。
ですから、警察は内部が壊れてきたのです。
法は、さまざまな人たちが、お互いに気持ちよく暮らすためのみんなのルールであってほしいです。そして、もし罰則法であれば、公平に適用される状況をつくってほしいです。破っても罰せられない法は見直したいです。
電話をかけながらの運転をみたら、どこかに通報する仕組みをつくれないでしょうか。
監視しあう、いやな社会だなと思われるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか。
悪いことには目をつぶらずに、きちんと告発していくことが、もし嫌な社会なのであれば、きっとその告発の基準が間違っているのです。
嘘の告発や嫌がらせが頻発すると思うのであれば、それは社会を信頼していないということです。
社会を信頼せずに、社会をよくすることなどできません。
最初の一歩は、常に相手を信頼することから始まるのですから。
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