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2004/07/06

■殺人罪の償い方   

今日は暴論を書きます。

16年前に殺人を犯した人が10年の刑期を終えて、出所し、また同じような事件を起こすということが起こりました。
殺人事件を起こした人の再犯率は高いそうです。

やりきれない気がしますが、刑罰のあり方を見直すべき時期だろうと思います。
「眼には眼を」がやはり原則であるべきです。それも最小の、です。
殺人に対しては、死刑よりも重い刑罰を与えるべきでしょう。
もちろん、冤罪や特殊な事情を無視しての、原則の話です。

社会を維持していくためには、子供が納得できる原則を大事にすべきです。
そして、子供の犯罪に関しては、もし子供を特別扱いするのであれば、親を罰するべきです。親を罰しないのであれば、子供も厳罰に処すべきです。今の状況は、論理整合していません。
人を罰するのではなく、罪を罰するとは、そういうことだと思います。
必殺仕事人の中村主水やチャールス・ブロンソンの「狼よさらば」シリーズのポール・カージーの人気は、人間の素直な気持ちの現れです。

それはともかく、私が奇異に思うのは弁護士の役割です。
弁護士が弁護すべきは、被告ではなく、社会ではないかと思います。
不法に裁かれない社会を守るために、弁護制度があるのであって、個人としての犯罪者を守ることが目的ではないはずです。
殺人の罪を問われている状況を正すことと、明確な殺人者をかばうことは同じではありません。その境界は難しいですが、明確な場合もあります。

「犯罪者の人権」という表現がありますが、犯罪者はその犯した犯罪の大きさによって人権が考えられるべきです。人を自分の都合によって殺した人に対しては、生きる権利はよほどの条件がなければ認められるべきではありません。
そしてまた、犯罪者を厳しく罰することこそ、犯罪者のためになることもあるのです。
そこを勘違いしているような気がしてなりません。
弁護士のミッションがいい加減に考えられているように思います。
たとえば、オウム事件の弁護士の言動には大きな違和感があります。

ついでいえば、検事が守る対象もまた、社会です。
権威や制度ではなく、社会です。

法は、誰のためにあるのでしょうか。

大学(法学部でした)でしっかり講義を聴いた先生が二人います。
憲法の小林直樹さんと刑法の団藤重光さんです。
卒業して40年ですが、その講座がとても懐かしいです。
日本が法治国家であるということの意味が、最近ちょっとわからなくなってきました。

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