■混乱のはじまり
ロシアの学校占拠事件は衝撃的でした。
私はどちらかというと、常にマイノリティの視点で考えてしまう、生理的な思考回路が働くタイプなのですが、今回だけはどうしても、立てこもりの首謀者には共感を持つ事ができませんでした。
今日になって、やっと少し理解できるような気がしてきました。
いずれにしろ、哀しい事件ですが、しかし、異常な事件として位置づけるべきではないでしょう。その意味をしっかりと考える事が大切です。
情報もほとんどないなかで考えるのは無理がありますが、少しだけ考えてみました。そうしないとどうにも前に進めないからです。
悲惨な結末は、彼らがいかに追いこまれているかから考えるべきでしょう。
自爆テロは先の大戦におけり日本の特攻隊とは全く意味が違います。その意味を、もっと世界は真剣に考えるべきでしょう。死をもって抗議するほどの怒りは、どうやって生まれるのかを、もっと私たちは真剣に考えなければいけません。カミロさんが気づいたように、人道支援などとだまされていてはいけません。
しかし、今回の事件は、自爆による異議申し立てを超えています。恐ろしいほどに超えているのです。
一つの理由は、悲しみが組織化されていな事だと思います。組織化されていれば、展望やビジョンによって、統制力が働きますが、個々ばらばらの絶望と怒りの集積は暴走しだしたら、個人の力を超えてしまいます。組織の論理と個人の情念は絶対にかみ合うことはないでしょう。戦争と喧嘩は似て非なるものです。
私は30年前に「21世紀は真心の時代」という小論を書きました。
世界は「管理の時代」に向かうか、「真心の時代」に向かうか、その分岐点が20世紀末だったと思います。そして、人類は真心の時代を選ぶだろうと私は考えたのです。
しかし、歴史はそうなりませんでした。まさに「管理の時代」が到来したような気がします。そして、口では文句をいいながら、その心地よさにみんな浸っています。私には息がつまりますが、まあ、私のような偏屈者が生きるだけの寛容さはまだ残っています。いや残しているというべきでしょうか。
このブログも、関連したCWSコモンズのホームページやコムケアのブログも、私の活動のすべての基本にあるのは、繰り返し延べてきているように、「組織起点の時代」から「個人起点の時代」へというパラダイム転換です。それは、「管理の時代」から「真心の時代」へというテーゼと同一なのです。
長くなりましたが、ロシア学校事件は、その時代転換のはざ間での、それぞれのコンテクストの違いから起こった事件だと、私は考えることにしました。
ですから、こうした事件は、これからまた起こるでしょう。
恐ろしいことですが、時代の変わり目にはこうした混乱は避けがたいのかもしれません。
混乱の時代が始まったのです。
国家が崩れだしたと言うべきかもしれません。
にもかかわらずに、それに代わる仕組みも発想も芽生えさえありません。
いや、ソーシャル・キャピタル論が、もしかしたら、その芽なのでしょうか。
正村公宏さんは、もしかしたらそう考えているかもしれません。
そんな気がしますが、私には接点がないので確かめようもありません。
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