■地に落ちたスポーツ
オリンピックの金メダル獲得選手への対応振りは、いささか常軌を外しています。
ここまで堕ちたか、と思います。
今日のプロ野球のオーナー会議や選手会のスト宣言も、同じような苦々しさを感じます。
福原愛さんのCM出演料が7000万円。
なにか違和感を感じます。
みなさんは感じませんか。
女房には、愛ちゃんをCMに使っている企業の商品は買わないでほしいと頼んでいますが、みんなで不買運動を起こしたいですね。
彼女の人生を商売に使うな、などというつもりはないのですが、
お金をそんなふうに使ってもらっては困るのです。
それはプロ野球の有名選手の契約金や年俸の問題にも言えることです。
その結果がいまのプロ野球の現状でしょう。
スポーツはまだバブル経済を続けています。
しかし、そんなこともまあ、いいのです。
プロ野球について言えば、自業自得なのです。
知恵のない関係者がお金で、しかも組織の金で、選手を囲い込んでいくとどうなるか。2軍選手のことも考えない欲得で、その仕組みに乗っていくとどうなるか。結果は当事者たちに向かいます。
そこまでは口は出しません。哀しくとも、彼らの人生ですから。
私が問題にしたいのは、
そうした心ない人の言動が、私が住んでいる社会をおかしくしてしまうことです。
2つだけ書きます。
まず、お金は「モノ」ではないということです。
システムなのです。
自分の金だから勝手に使っていいモノではないのです。
誰かが使えば、必ず全体の価値に影響を与えるのがお金なのです。
舌足らずのコメントですが、わかってもらえるでしょうか。
ものすごく重要な問題提起のつもりです。
マラソンの野口選手は話題になりますが、他の2選手はほとんど話題になりません。そして、たぶん、報奨金もCM契約料も桁が違うことでしょう。
そこにも大きな問題があります。
いじめの構造、差別の構造、儲け主義の構造、いろいろなことにつながっています。
戦争につながるというと大げさでしょうか。
しかし、ドーピング問題につながっている事は間違いないでしょう。
それにどうして、みんな気づかないのか。
私が、誇大妄想に陥っているだけであれば、とてもうれしいのですが。
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コメント
「自分の金だから勝手に使っていいモノではない」というのはショッキングなお言葉ですね。
大げさでなく、目からウロコが落ちる思いです。
自分は正しく理解したつもりですが、もう少し説明をしていただいた方が、佐藤さんの意図が正確に伝わると思います。
今度、コミュニティアート・ふなばしで佐藤さんを囲む会をやりたいです。
いらしていただけますか?
投稿: shimoyama | 2004/09/12 11:52
はい
そうします。
ただ、いま、時間破産で死に僧ですので、少しご猶予を。
それから下山さんのお呼びには断れませんので、でかけます。
はい。
投稿: 佐藤修 | 2004/09/13 22:49
「自分の金だから勝手に使っていいモノではない」
と言う事に関するコメントを書き忘れてました。
すみません。
簡単なことなのですが、
お金そのものには価値は全くないと言う事なのです。
お金をいくらもっていても、一人になってしまったら、全く何の役にもたちません。つまり関係性の中でしか、お金は意味をもちません。
ということは、逆に関係性に大きな影響を与えかねないと言う事です。
みんながチューリップの球根を買い出すと球根の値段が暴騰するのです。そして、ある段階でバブル化し、経済は破綻します。
大恐慌もそうして起こされましたし、
日本の最近のバブル破綻も、土地への投機が原因です。
お金はそうした価値交換システムのツールですので、
勝手に使っては行けないのです。
最近、ようやく経済や政治においても、関係性が重視されてきています。これまでのスタティックな机上論ではなく、ホリスティックな視点で動態的な関係性で物事を考えようという動きです。
いちじき流行した複雑系はそうした発想の枠組みだったと理解しています。
この視点からいくと、
実は資金助成や寄付という行為の危険性への不安が出てきます。
私が資金助成プログラム(私自身がそうしたプログラムの事務局をやっていますが)や企業による利益の社会還元プログラムに否定的なのは、その危険性がよく把握できていないからです。
私は、死ぬ前に1冊だけ本を書きたいと思っています。
そのテーマは「コモンズの回復」ですが、
以上の話は、そこでの重要な課題です。
私の頭の中では、すでにすべての構造はなんとなく見えているのですが、まだ言葉にできない未熟な段階なのです。
もしかしたら、今生では完成しないかもしれません。
なにしろ本を書くよりも、現実の方が面白いですから。
下山さんの答えにはなっていませんが、
もう少しきちんとした文章を年内には書いてホームページに掲載します。
投稿: 佐藤修 | 2004/09/26 12:12
「コモンズの回復」
坂谷も、是非、拝読したいです。佐藤さんの今生どころか、今日にも読みたい本です。
本来、人類が誕生した後、自分や家族が「必要とすること、生存する」以上のお金持ちになること、それが「罪悪」であるという発想が常識であったのが人類の歴史の中では、ずっと長いはずです。辛うじて「清貧」という言葉が死語にならずに残っています。
が、今、「清貧」といったら、残念ながら「金持ちになり損ねた貧乏人の言い訳」としか、思われないのかもしれません。
M・ウェーバーという学者が、「プロテスタンティズムと資本主義の精神」という論文で、「プロテスタンティズムの誕生を契機に、人が自分の職業を一生懸命に励む結果、資産をもつことは「必ずしも悪いことではない」という思想をうみ、やがて、それにとどまらず、お金を儲けることが一義的目的という以上な怪物(会社)を生んだということをいっていたような記憶があります。(ここは、うろ覚えですみません、ウェーバー自身、プロテスタンティズム=資本主義の誕生と主張していると勘違いされることを恐れていたはずです。また、私も、ここでプロテスタントを批判する意図はありません。)
ただ、はじめは、純粋な宗教問題のはずが、やがて不幸にも、「お金もうけこそ、人生の成功・失敗をはかる物差し」「公共の概念、公共のモノ、みんなの共有財産・社会の概念、つまりコモンズ、入会地という概念を消滅させ、人が財産の拡大に固執する異常な事態の引き金になった。」ということです。
なぜ、異常かというと、人間は必ず死ぬべき存在であることを生きているうちに自覚している唯一の生物です。だから、いくらでお金が大切だと「金の亡者になりたくても」、実際あの世にもっていけないことも自覚せざるをえない存在だから、成功しても年齢を重ねるにつれ、自分の死という「最後の審判」を受けないわけにはいかない。
そうすると、人は、どこに不死性や価値を求めるのか、自分の子か、それとも、国家か、会社(栄光の我が社は永遠に不滅)か。・・・・
それとも、コモンズか、
でもどうやって現実社会にコモンズを「回復するか」?
長くなりました。すみません。お休みなさい。
投稿: 坂谷信雄 | 2004/09/26 20:42
坂谷さん
とても示唆に富むコメント、ありがとうございます。
>本来、人類が誕生した後、自分や家族が「必要とすること、生存する」以上のお金持ちになること、それが「罪悪」であるという発想が常識であったのが人類の歴史の中では、ずっと長いはずです。
この部分を論証している論文などあれば、ぜひ教えてくれませんか。
私もそう感じていますが、確信がまだ持てません。
ところで、お金持ちになることは罪悪、という命題は、罪悪を犯さないとお金持ちにはなれない、ということと同値でしょうか。
さらに、金持ちになると幸せになるのか不幸になるのか、どちらでしょうか。
実は私自身は、もっとお金がほしいと最近強く思い出しています。使い方がやっとわかってきましたので。
だれか3億円くらいくれないでしょうかね。
10億円でもいいのですが。
まあ、そのくらいがまだ限度なのですが。
投稿: 佐藤修 | 2004/09/26 21:12
早速ありがとうございます。
>>本来、人類が誕生した後、自分や家族が「必要とすること、生存する」以上のお金持ちになること、それが「罪悪」であるという発想が常識であったのが人類の歴史の中では、ずっと長いはずです。
>この部分を論証している論文
イヤー、(困ったな)先のウェーバーの論文のほかに、エーリッヒ・フロムの論文の中で、そんなことを書いたことがありましたが、実証的に論証しているというと、どうでしょうか。フロムの「生きるということ」が、坂谷が知る出典ですが、学生時代に読んだ本ですので、内容は、あいまいです。
アマゾンでのコメントを見てみると、そんなことが書いてあるようですね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/431400181X/ref=pd_bxgy_text_2/250-5108764-8184242">http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/431400181X/ref=pd_bxgy_text_2/250-5108764-8184242
むしろ、逆に、「必要とすること、生存すること」以上のお金持ちになることが、常識になってしまったことの歴史が短さ、それを命題として探した方が早いかもしれません。
>ところで、お金持ちになることは罪悪、という命題は、罪悪を犯さないとお金持ちにはなれない、ということと同値でしょうか。
必ずしも「お金持ちになることは罪悪」ではなく、「必要以上にお金、蓄財に固執することが罪悪で、お金持ちは、豊かな生活をしていると同時に、貧しい人への施しをしなければならない」という考え方ですね。
(昔から大金持ちや、王侯貴族はいましたしね。例えば、NHKの「おしん」のように苦労と努力の末お金持ちになったり、相続や宝くじで、お金持ちであることこに罪悪を感じなくてもいいですが、お金持ちになった後で、人が変わってえばり散らしたら愚かしいですね。結局、お金持ちになれるのか、どうかは努力・才能に加えて、運というのが不可欠ですね。)
イスラム教でも、ヒンズー教でも、それから、特に貧しい地域のカトリックでも、貧しい人へ施し(「施し」という言葉は問題かもしれないけれど)は、当然で、施しを受ける人も堂々と受け取るというのを聞きましたが、その発想からかもしれません。
>さらに、金持ちになると幸せになるのか不幸になるのか、どちらでしょうか。
本当の意味で、生きたお金を使えるお金持ちは、幸せでしょうね。ただ、なんとかして、今ある財産を守りたい、子どもに相続させたい。もっと増やしたいとなれば、不幸ではないでしょうか。特に秦の始皇帝みたいにありあまる財力を使って徐福を派遣して、不老不死の薬を探させるために、使う浪費はむしろ哀れですね。
おっと、現代にも、ハリウッドのスター達が若さを維持するための浪費は、ちっとも珍しくなかったですね。
佐藤さん、
お世辞ではなく、佐藤さんは生きたお金の使い方をご存知だと思います。
どうぞ、お金持ちに「あなたを幸せにするお金の使い方をさせてあげる」といって、堂々と10億ほど、出資させたら、長生きの研究に100億つかつている人たちに逆に感謝されるんじゃないですか。(アメリカの大富豪、カーネギーなんかも、あくどいことで金をもうけて、死ぬ前にカーネギーホールやカーネギー大学なんかつくっていますよね。失礼しました。言っちゃった、スミマセン)
また、よろしくー
投稿: 坂谷信雄 | 2004/09/26 22:41