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2004年12月

2004/12/31

■冷え切った社会  

スマトラ島沖で起きた地震による津波は10万人近い死者を出す結果になりました。
次から次への天災で、日本の台風や豪雨、さらには地震の災害も忘れられてしまいそうです。これほど天災が続くのはめずらしいでしょう。
人災も同じです。子どもを対象とした事件や家族殺人事件なども次々に起り、どれがどれやら混乱してまうほどです。

これは偶然なのでしょうか。
それとも大きな大事件の予兆なのでしょうか。
社会は冷え切っています。
何が起きてもおかしくないような不安があります。

大晦日の今日は、ものすごい寒さです。
これがその始まりでなければいいのですが。

来年は少なくとも週1回は、明るい話を書こうと思っています。
今年は愚痴と罵りにお付き合いいただき感謝します。
明日の朝は、初日の出を見たいものです。

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2004/12/29

■判断が出来ない問題 

こんなメールが来ました。

北朝鮮側の挑発に乗ってしまい、「制裁」発動推進、容認が大勢になりました。 広辞苑によれば、「制裁」とは、「しおき、こらしめのための罰」です。一国の判断による他国制裁を容認すれば、ブッシュの「ならずもの国家」論を批判できなくなります。イラク開戦反対だった7割の日本人はどこへ行ったのでしょう。
詳しくは、次のホームページをご覧ください。 http://homepage1.nifty.com/thinkbook/ 昨日の「イワン・フロール老人の教え」を思い出します。 まずは「許すこと」から平和は始まります。 オズグッドのデスカレーションへのイニシアティブ理論に私は共感しています。 もし、そうであれば、当然、このメールの通り、北朝鮮への経済制裁は避けなければいけません。 しかし、どうもその気にはなれないのです。

理由はいくらでもあげられます。
しかし、そんなことはどうでもいいことです。
大切なのは原則です。

このメールを読んでから4日目になりますが、
この呼びかけに賛同するかどうか、まだ結論を出せずにいます。

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2004/12/28

■イワン・フロール老人の教え 

昨日のドンキの放火事件に関する記事に、友人がコメントしてくれたのですが、そのコメントは私へのたしなめが感じられました。そこで少し反省して、思い出したことを書きます。

トルストイの小品に、「火を粗末にすると―消せなくなる」というのがあります。
隣人と仲よくやっていたイワン家族が、代替わりしてから、些細なことで隣人と争いだします。争いはどんどんエスカレートして、訴訟合戦にまでなります。そしてついに、その恨みをかって、イワンの家に隣人が火をつけます。放火です。イワンはその現場を見つけるのですが、火を消すのではなく、その犯人を追いかけてしまいます。そしてもみ合っているうちに火は広がり、ついに村全体を燃やしてしまいます。
イワンは犯人を追いかけるのではなく、火が付けられた藁くずをもみ消していたら火事にならずに済んだのにと悔やみます。
イワンには寝たきりの老父がいました。やっとのことで助け出すのですが、死ぬ間際に老父はイワンを呼んで質問します。「イワンよ、村を焼いてしまったのはだれだな?」「あいつだよ、父さん」とイワンは答えます。
老父は、若い世代になってから争いの絶えないことを心配して、相手の立場で考えるように息子を諭しつづけていたのです。
父はいいます。「それはいったい誰の罪だね?」答えられずにいるイワンに父はいいます。「神様の前で言うがええ、誰の罪だな?」。イワンはやっと気がついて「わしの罪だよ、父さん」と言います。
「これからどうしていったらいいのだろう、父さんよ」と訊くイワンに老父は答えます。「ええかの、ワーニャ、気をつけて、だれが火をつけたかってことを、決してだれにも言うでねえだぞよ。お前が人の罪を隠してやれば、神様はふたつの罪を許してくださるじゃ」。それが老父の最後の言葉でした。
イワンと隣人にはまた父親たちのような隣同士らしい暮らしが戻ったといいます。

若い頃、私が好きだった作品の一つですが、恥ずかしながら、なかなかイワンの心境にはなれないのです。もちろん頭ではそうありたいと思っており、かなり身についてはきましたが、時折、その正反対の気分になるのです。つまり許せなくなるのです。
今日、1時間かけて、この本を山積みの書籍の中から見つけました。2回読み直しました。まだまだ意味を咀嚼できていない自分に気づきました。

ドン・キホーテの社長にもぜひ読ませたい小品です。きっと多くのことを学ぶはずです。

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2004/12/27

■ドンキの放火事件 

ドン・キホーテが連続放火されています。
この事件はたくさんのことを示唆してくれています。

こうした事件が起こるのは、それなりの理由があります。
同社の事業展開のあり方のどこかに問題があるはずです。
同社店舗への放火事件が続いても、誰も同情しないのはなぜでしょうか。あるいはほとんどの人はあまり不思議にも思わないのはなぜでしょうか。それを考えなければいけません。

同社のホームページで、社長のコメントを読ませてもらいました。
http://61.206.41.90/041217.pdf
とても違和感のあるコメントです。
危機管理を履き違えている日本企業は多いですが、同社も完全に履き違えています。
最悪の事態にならなければいいですが。

これまでの同社の事業戦略や店舗活動を評価したり支援したりしていたコンサルタントや評論家、あるいはマスコミや消防署にも反省を期待したいです。消防者は法規違反を警告したと言っていますが、警告してもそれが実行されていないとしたら、しかもそれが何年も続いていたとしたら、悪いのはむしろ消防署ではないかと私は思います。

話が変わりますが。外食産業の和民がいま元気です。
テレビでも良く取り上げられます。
渡邊社長は外食産業のカリスマ経営者だと昨日のテレビはもてはやしていました。
私も渡邊社長の本を2冊読みました。
社長の思いは伝わってきました。
それに娘によると、類似のところに比べてお店の対応はとてもいいそうです。

しかし、昨日の渡邊社長を紹介したテレビを見て、がっかりしました。
もしテレビがやらせでないとしたら、
彼は社員の人間としての尊厳を認めていません。言葉が完全に間違っています。
和民のこれからが心配です。

評論家の皆さんは、もっとしっかりと実態を見据えて、企業を評価すべきです。
利益をあげるのが企業の目的ではありません。
利益をあげるのは企業の目標です。間違ってはいけません。

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2004/12/25

■市町村合併の効果 

霞ヶ関主導の市町村合併がさまざまな歪みを起こしています。
みなさんの市町村ではどうなっていますか。

私が関わらせていただいている市町村はほとんどみんな合併に取り組んでいますが、すべて問題を起こしています。
なぜでしょうか。
それは住民不在だからです。
組織を管理している人たちが、責任逃れのために合併に取り組んでいるのがほとんどのように思います。
都市銀行の合併と同じです。
銀行の場合、すべてが合併して最後にそれが倒産すれば問題は解決しますが(銀行機能はもうじき不要になるでしょう)、自治体の場合はそうはいきません。

合併問題のために、この数年、多くの自治体の職員は無駄な仕事に取り組まされています。そして、合併が頓挫しそうになると職員の仕事は停滞します。そんな現実をいくつか見ています。本当に無駄な話です。
この数年、私が関わらせていただいている市町村の多くの職員はまじめに仕事をしているようには思えません。

市町村合併は一体どういう効果を発揮するのでしょうか。不思議なことに、そうした議論をする人がいないのです。
どなたか合併の効用を教えてくれませんか。
もちろん住民にとっての効用です。

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2004/12/24

■がんサポートキャンペーンとメディアガバナンス 

NHKが、がんサポートキャンペーンを開始しました。
やっと、という気もしますが、大きな期待を持っています。
こうした活動を、いろいろな分野で展開してくれたら、視聴料不払いなどは起こらないばかりか、もっと払ってもいいという人が出るだろうと思います。私は、その一人です。
テレビができることはたくさんあるのです。

今日の「生活ほっとモーニング」で、活動の内容が説明されました。
「変えよう日本のがん医療・支え合おう患者と家族たち」をキャッチフレーズに、患者や家族の助けになる情報を提供し、日本のがん医療の改革にも取り組んでいくことが、このキャンペーンの目的です。
ホームページも開設されました。
http://www.nhk.or.jp/support/

私も番組を見ながら、ホームページも見せてもらいましたが、とても期待できます。
がんに関する情報のホームページはたくさんありますが、評価能力がないのとあまりに分散されすぎているので全体像が逆に見えなくなります。
サプリメント情報も、ひどい商業主義にあらされていますので、これまた評価できませんが、こうした問題もこのホームページで整理してほしいと思います。NHKの保証が絶対というわけではありませんが、参加者の広さにおいては群を抜いているでしょう。参加者が多ければ、それだけたくさんの異質の目が集まりますから、全体像が見えやすくなるように思います。

番組には柳原さんや岸本さんがでていましたが、半年前の番組と比較するとNHKの関係者の理解も深まったように思います。よかったです。

私が、今回のNHKの試みに大きな期待を持つのは、それがメディアの新しい役割を創出すると思うからです。
しかし、その場合、重要なことは、その役割を誰かの私欲や偏った正義感や理念に支配されることがないようにすることです。
メディアガバナンス。メディアの主役としてのガバナンスシステムが構築されることが緊急の課題です。
その方向性は、いうまでもなく、信頼をベースにした個人起点にあると思いますが、それをどうやって育てていくかも、今回のプロジェクトのこれからの展開にかかっているような気がします。

いずれにしろ、何のわだかまりもなくNHKの視聴料を払えることになってうれしいです。NHKの改革は、番組や事業で変えなければいけません。
このキャンペーンに期待します。

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2004/12/23

■何もかも売買の対象になる社会  

権利か義務か」「お金の自己増殖」の話につなげて、今回も経済についての疑問を書きます。
材料は「空中権」です。
月の土地が売買されていると言う話もありますが、もっと現実的な話です。

今日の朝日新聞の記事です。

東京駅丸の内口の正面にある「新丸の内ビル」が、高さ198メートルの高層ビルに建て替えられることが、22日開かれた東京都都市計画審議会で認められた。同駅が利用していない「空中権」を新しいビルに移して高層化する。

前日の読売新聞はこう書いています。

東京・千代田区のJR東京駅の上に広がる空間が、周辺で建設計画の進む超高層ビル4棟の高さを引き上げるのに、“一役”買っている。 JR側が、本来は駅の上に高いビルを建てられるのに使わない空間を、「空中権」として譲渡したからだ。国の規制緩和で、都が同駅周辺に特例制度を適用したためだが、専門家からは疑問の声も出ている。

同紙によれば、「空中権は、米国で発達した概念で、土地の上の空間を利用する権利の総称。日本では法律に明記された権利ではないが、土地にどれだけの床面積の建物を建てられるかを指し、実際には容積率を譲渡する形でやり取りされ、土地のように売買されることもある」ということです。

土地の所有権が垂直方向にどこまで及ぶのかも議論の的ですが、私の違和感はそれ以上に、あらゆるものが経済的な権利となって金銭評価され、金銭経済に組み込まれていくことです。
生活のあらゆる分野が市場化されてきているのも不愉快ですが、それ以上に何でもかんでもが売買の対象になっていくのが不安です。不動産も証券化されましたし、環境を汚染する権利(正確には規制以下の部分だけですが)今や商品化されています。
恐ろしい時代です。
そうした発想の延長に何が出てくるかは、少し想像力を発揮すれば見えてきます。
こうした方向に経済を進めている経済人や政治家は、一体何を考えているのでしょうか。

こうしたことの意味はもっと真剣に考えなければいけません。
それが経済学者の倫理だと思うのですが。

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2004/12/22

■お金がお金を生む経済の不思議さ 

私がずっと理解できないでいるのが、お金がお金を生む仕組みです。
銀行に預けていると必ず利子がつくという発想がどうも理解できないのです。
私の発想では、どう考えてもコストを払うのは預金者です。

まあ、しかし、それは私の理解力不足の問題かもしれません。おそらくほとんどの人は不思議に思わないのですから。

でも最近、どうも割りきれない気がしてきています。
ひとつは大手銀行がいとも簡単に巨額の債権を放棄するという話です。
もうひとつは、借金をかかえている政府や自治体が、年度予算のかなり大きな部分を借金の返済に向けているという話です。

後者の問題で気になるのは、誰かがお金を貸しているだけで確実に利益を上げている人がいるということです。何もしなくても利益が入ってくる仕組みを誰かがつくり、おそらくそれに乗って不労所得を得ている人が、ますますの借金構造を増大しているのではないかという気がしてなりません。もちろんそこには政府の大臣が絡んでいるわけです。彼らのお金の使い方を見れば、彼らがいかに現在の借金構造で利得を得ているかは明々白々です。しかし、おそらく彼らは黒幕ではないでしょう。その仕組みに乗っているだけの雇われ人のような気がします。せいぜい1億円の政治献金で責任が問われる程度ですから、そのポジションもたいしたものではなく、所詮は使い捨ての役割かもしれません。
そうした構造に銀行を初めとした金融期間が乗っているのも、また明々白々です。なぜなら、いとも簡単に巨額な債権を放棄できるのですから。しかし、彼らもまたおそらく雇われ人でしょう。

お金がお金を生み出す仕組みが自律的に動き出しているのではないかという気がしてなりません。
借金大国の仕組みから不労所得を得ている人は一体誰なのでしょうか。
あるいは、その黒幕は、人ではなくて、いまや仕組みそのものなのでしょうか。
なにやら不気味ですが、まあ、そんなことはないでしょうね。
きっと黒幕がいるのでしょうね。
あまりに規模が大きいので、私たちには全く想像すらできないのですが。

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2004/12/20

■義務を権利にし、権利を義務にする社会 

社員の不祥事などからにわかに顕在化した不信感を払拭するため、「NHKに言いたい」という思い切った番組を、NHKは放映しました。後半部分を見ました。
番組の意義は大きく評価するものの、内容はほとんど意味がなかったので、コメントはやめます。

あまり論点にはなりませんでしたが、テレビマンユニオンの今野さんが視聴料は義務ではなく権利にしたいと言う趣旨の話をされていたのが印象的でした。
権利と義務。これはコインの裏表ですが、どう考えるかでまったく世界は変わります。

今野さんの説明では、椎名誠さん(だったように記憶していますが)は良い放送を確保していくためにNHKに資金を出して応援できることは権利なのだと言ったそうです。それに比べて、民放の場合、資金は作り手が出しますから、視聴者は資金をだせず、当てがいぶちの番組に甘んじなければいけません。ですから、この論理はよくわかります。
ところが現状では、ほとんどの人は視聴料を義務だと考えています。ですからNHKに対する抗議が視聴料不払いになってしまうわけです。
権利発想であれば、番組の内容の評価にも口をだすことになります。これは、今度は逆に権利ではなく、義務になるでしょうか。
この論理構造は今の多くの人の意識とは正反対です。
しかし、これからの社会のあり方を考える上では、とても重要なポイントです。
私は、もちろん、権利と考える社会を望んでいます。

同じようなことが税金にも言えます。
納税は権利か義務か。権利であれば、節税とか脱税は問題にはなりません。
権利として払いたくなるような税金であれば、今のような状況は一変するでしょう。
しかし、国家に税金を収める仕組みでは難しいでしょうから、まずは基礎自治体に税金を納めていくというように、税金の流れが地方から中央へと変わらなければなりません。
そして、もしそれができれば、行財政改革は一挙に進むでしょう。

逆のケースもあります。
教育を受けることは権利か義務か。
憲法には権利と書いていますが、多くの人は義務と思っているでしょう。
国家を歌うことすら、学校では義務なのですから。
権利としての学びの場は、おそらく教育とは原理が違いますから、これは教育を受ける権利ではなく、学ぶ事ができる権利になるでしょう。つまり、教育を受けるのはやはり権利ではなく、義務であるべきです。どこまでの教育が義務かどうかが重要な論点になります。

権利から考える社会と義務から考える社会は、全く違った展開になるでしょう。
「NHKに言いたい」の番組から、私が得た感想はこの程度です。
しかしだれもそんなことには無関心でした。
みんな義務から考える人たちなのでしょうか。

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2004/12/19

■砂上の楼閣 

核問題を中心とする6ヶ国協議の前に、拉致事件に対する経済制裁措置への慎重論が出ています。拉致事件という各論だけで考えるのではなく、もっと大きな視点で考えなければいけないというわけです。
各論的最適解が全体としての最適解ではないことは当然ですが、そんな論理のまやかしにだまされてはいけません。
各論には構造があります。構造を捉えなければ、何が全体かは構造との関係で決まってきます。そこが無視されているのです。学者や権力者の得意な論法です。
拉致事件への対応で見えてくるのは、北朝鮮の金正日体制は、いわゆる国家ではないという現実です。そこには通常の論理は働きません。平気で嘘をつき、約束を破ることを何とも思わないのが金体制です。そんな相手を対象にして、まずは核問題などと言う発想には首を傾げたくなります。まずは嘘をつかず約束を守ることを実現させてから交渉に入らなければ、たとえ核で合意ができても、実効性が疑わしいです。まさに砂上の楼閣です。出発点を間違えてはいけません。

昨日、ローカルマニフェストに関する議論をしてきました。政治家の公約は守らなくてもだれも不思議に思わない。しかし、ローカルマニフェストになれば、内容が具体的で評価もしやすいので日本の政治は変わるだろうという「有識者」は少なくありません。
しかし、約束も守れない人が、あるいは約束を守らないことを咎める仕組みも文化もない社会が、ローカルマニフェストを導入するだけで変わるのでしょうか。
学者や有識者が得意な、言葉の浪費で終わるでしょう。約束を守ることの大切さを回復することもしないで、いくら制度や言葉を変えても、それこそ砂上の楼閣です。

イラクの復興はどうでしょうか。
昨日、めずらしくNHKが、アルジャジーラとブッシュ体制の情報戦を特集していました。それを見ている限りでは、イラクの復興もまた砂上の楼閣になりかねないと思います。

私たちの豊かさも、砂上の楼閣だったわけですが、そろそろそれに気づく政治家が出てきてほしいです。

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2004/12/18

■日本国憲法を読んだことはありますか 

「自民党は16日、来年11月に公表する憲法改正草案をまとめる新憲法制定推進本部の下に置く起草委員会の委員長に森喜朗前首相を充てることを決めた」と朝日新聞が報じています。
小泉首相の独走はますます進みそうです。
憲法に関しては、民主党もさほど思想は違っていないような気がしますので、独走とは言えないかもしれませんが。

ところでみなさんは日本国憲法を読まれたことはありますか。
私は一応、大学で一番熱心に読んだのが憲法ですので、読んでいますが、
実はその後は、昨年まで読んだことがありませんでした。
読んだきっかけは、平和の話し合いをする場の進行役をやることになったからです。
そういうことでもない限り、憲法は読まなかったかもしれません。
そのくせ、憲法維持を主張していたでしょう。

最近、ふたりの友人が憲法の本を出したので、改めてまた読みました。
私は法文にはほとんど関心のない人間ですが(その奥の意味や解釈に関心があります)、
やはり読んでみるとそれなりに発見があります。

平和に関するメーリングリストがあります。
そこに武田さんの「赤ペンをもって憲法を読もう」の本の紹介をしたら、いきなり、きついお叱りを受けました。
平和憲法にケチをつけるのかというわけです。
恐ろしい時代です。

川本兼さんがまた「Q&A『新』日本憲法」という手ごろな本を出版されました。
840円です。若者向きの本ですが、多くの人に読んでほしいです。
憲法も読まずに、憲法論議をしている似非「平和主義者」には辟易しています。
皆さんも一度、ぜひ憲法を読んでみませんか。
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1946C.html
読んでどうなるの、と言われそうですが、読んでも毒にはなりません。
ちなみに2月頃、憲法サロンをまたやろうと思っています。

CWSコモンズに明日、掲載しますが、
12月13日の毎日新聞に、漢字学者の白川静さんが、こう書いています。
戦争をどこまで知っておるのかね。小泉さん、62歳か、ご存じなかろう。
この記事のとても感動しました。ぜひお読みください。
http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2004/12/13/20041213dde012070096000c.html

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2004/12/17

■NPOの信頼性

今日の朝日新聞の記事です。
マンション建設大手「長谷工コーポレーション」などから現金計3300万円を脅し取ったとして、恐喝の罪に問われた特定非営利活動法人(NPO法人)「消費者問題研究会」会長で、元暴力団組員の榎原一吉被告(56)に対し、東京地裁は17日、懲役6年(求刑懲役7年)の実刑判決を言い渡した。

2つのタイプの組織が出てきます。NPO法人と暴力団です。

「暴力団」という組織が存在を認定されていることを、私は以前から不思議に思っています。
法律(暴対法)によれば、暴力団とは、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」と定義されています。そんな団体は存在しないようにすればいいと思うのですが、法的に存在が認められているということです。しかも、指定暴力団というのまであります。すごいネーミングです。

それとは逆に、NPO法人、正確には特定非営利活動法人は、実態に関係なく、非営利活動に取り組む組織というかたちで、組織の公益性や信頼性を保証されています。最近の社会風潮もまた、NPOの公益性を強調する方向にあります。
しかし、その二つが、実はほぼ同じ活動ができることを、この記事の事件は示しています。
組織や制度は人間が使うものですから、それは当然起こり得ることですが、名前は組織の印象を大きく変えます。言葉にだまされてはいけません。

暴力団とNPOが同じものというつもりはありませんが、
同じこともありうることをしっかりと認識しておくことが大切です。
マフィアは企業になり、NPOになっていけるのです。

昨今の安直なNPO設立ブームに、いささかの違和感をもっています。
本当にNPOは信頼できるものなのでしょうか。
NPO支援にささやかに関わりながら、いつも頭から拭えないでいる悩ましい問題です。

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2004/12/15

■二項対立発想からの脱却 

新聞によれば、文部科学省は、「学力低下」に対処するために、「ゆとり教育」路線を転換して、授業時間を増やすことを検討しだしたそうです。
「ゆとり」か「学力」か、教育問題が語られる時に決まって出てくる座標軸です。
しかし、それらは全く対立軸にはならない、次元の違う話です。

先日もケアの話し合いで、「厳しさ」と「ケア」が対立軸で語られる場がありました。
これも次元の違う話です。
そうした次元の違う話が、二元的に話されることがとても多いです。
たとえば、「戦争と平和」「対話と圧力」「価格と品質」「公と私」などなど。

発想の視座を変えると対立概念だと思っていたことが、実は組み合わせの要素であることに気づくはずです。
言葉の定義はともかく、
学力があればこそゆとりが生まれ、ゆとりの中でこそ学力が育ちます。
ケアには厳しさも必要ですし、厳しさにはケアが不可欠です。

これらの話は、瑣末な一例ですが、問題は私たちが二元論に基づく二項対立発想にあまりに浸りすぎていることです。
「○○か××か」とすぐに考えてしまう思考から自由になれないのです。
大切なのは、「○○か××か」ではなく、その先にある目的であり、ビジョンです。
子どもたちをどうしたいのか、が明確であれば、「ゆとり」とか「学力」とかの意味も実体化してきます。行為の目的がしっかりしていれば、「ケア」も「厳しさ」も同義語になるかもしれません。

教育改革の問題に戻れば、ビジョンがあいまいですから、議論は迷走します。
明治維新以来、日本の学校教育は産業化社会の実現を目指してきました。
学校も教育はビジョン実現のための手段です。
そういう視点で考えると、学校の存在意義はなくなったのです。
そろそろ小中学校を含めて、学校を全廃する時期だと思います。
代わりに必要なのは、学びの場です。

二項対立発想による退屈な議論はそろそろやめて、
目指すべきビジョンを語る時期にきているように思うのですが、
ビジョンを語る人がいないのがとても不思議です。

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2004/12/12

■宝くじ売場での長い行列 

今日、東京国際フォーラムで日本構想学会の集まりがありました。
9時に有楽町に着いたら、同じ集まりに参加される向谷さんと会場ビルの入り口で会いました。
向谷さんは地下鉄で来たのですが、その途中に長い行列に出会ったそうです。
そういえば、今日はプレステーションの新機種の発売日でした。
長い行列ができる商品がプレステーションという点にどうも違和感がありますが、まあ、ヨン様に会いたくて並ぶ親の子どもたちですから、仕方ないでしょう。

帰りに、ちょっと用事があって、有楽町の駅の反対側にまわったら、そこにも大勢の人が並んでいました。今度は何だろうと思ったら、宝くじでした。
売り場窓口がたくさんあるのですが、100人を超える人が並んでいるのです。
今日は大安吉日なのだそうです。
売り場のところで、マイクが年末には222人の億万長者が生まれると言って、そそのかしているのです。しかし、宝くじを並んで買うのも何か違和感がありますね。

私たちは何か並ぶ対象を間違っているような気がしてなりません。

銀座に出てみたら、今度はブランドショップです。
そういえば、ブランドに並ぶのも日本人ですね。

並ぶ生き方は、私はあまり好きではありません。
並ばせる店舗にはとても違和感があります。
最近の銀行は、この点でも腐っていると思います。
銀行にはまともな人はいないのでしょうか。

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■馬鹿にされたことに気づかない馬鹿の責任(12月9日)  

12月9日に書いたのですが、ここに掲載するのを忘れていたのに気づきました。
今となっては少し遅いですが、掲載します。
12月9日の気分で読んでください。

横田めぐみさんの遺骨と称されたものが偽物だったことが判明しました。
この問題は誰の責任でしょうか。
小泉政権の責任であり、これは政治責任問題ではないかと思います。
これほど馬鹿にされた一国の首相は、最近はあまり例がないように思います。
しかも相手は、小泉首相が「信頼」している金正日です。
嘘がすぐわかることは相手も知っているわけですから、この意味はどう解釈すればいいのでしょうか。
難しく考えることはないでしょう。
ただ小泉首相が、そしてそれを支援している私たちが馬鹿にされただけです。
まあ、馬鹿なのだから仕方がありません。

しかし、国家の最高責任者が馬鹿だと国民は不幸です。
国民が馬鹿だから、せめて国家の指導者にはしっかりした人を選べれば良いのですが、馬鹿な国民は馬鹿な指導者を選んでしまうのが、民主主義制度です。民主主義理念と民主主義制度は全く違うものです。

日本の自治は、明治政府が壊し、シャープ勧告でさらに壊れ、そして今また市町村合併で破壊されつつあります。
いま、改めて福沢諭吉の自治論に関する本を読み直しています。
福沢諭吉はしっかりした地方自治の上に国家の発展があると考えていました。
個人を起点にした国家の展望がそこには感じられます。
馬鹿な国民が馬鹿でなくなる仕組みと言っていいかも知れません。

地域自治の破壊と思考停止した(つまり馬鹿な)国家政府。
これはおそらくセットなのでしょう。

日本に根強くあった名望家自治論が、いままた必要なのかもしれません。
もっとも今の日本に名望家なる存在がどのくらいいるかが問題ですが。

ところで、小泉首相は自らを恥じて、責任を取って辞職するのでしょうか。
だれか諭す人はいるのでしょうか。
馬鹿を諭す馬鹿はいないでしょうね。

ちなみに、私は通常は「馬鹿」という言葉を肯定的に使っていますが、この文章においては否定的に使っています。利口より悪い馬鹿の意味です。念のため。

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2004/12/11

■アクションを遅らす社会の仕組み 

世田谷の宮澤一家殺人事件に関する情報が新たに公開され、テレビでも改めて報道されています。当日、凶器となった同じ包丁を購入した人や事件当時に路地から走り出した人のスケッチも公開され、情報提供が呼びかけられています。

宮澤さんは知人でした。以前、私は日本CI会議体の事務局長をしていたのですが、宮澤さんはその会のスタッフワークを自発的に楽しそうにやってくれていました。
その関係で、私も何回か話を聴取されました。
たくさんの遺留品が残されていたので、事件はすぐに解決するだろうと思っていましたが、まだ解決していません。そこで情報提供を呼びかけたのでしょうが、いかにも遅すぎます。今頃言われても思い出せるものでしょうか。
この事件に限りませんが、どうしてもっと早く事実を公開して広く情報を集めないかと思うことが多いです。さまざまな事件が広がりだしていますが、公開捜査がもっと考えられてもいいと思います。当局だけで調べる時代は終わりました。
世田谷の事件にしても、事件直後にもっと事実を公開し情報提供を呼びかけたら、有益な情報が集まったかもしれません。大勢の警察官を全国から動員して膨大な数の人への聞き込みをしたと思いますが、テレビなどを通じての公開呼びかけの効果も大きいはずです。情報時代には情報時代の操作の方法があるはずです。

人間の記憶は加速的に劣化しますから、公開捜査は事件直後が効果的なはずです。
しかし、いろいろと公開できない理由もあるのでしょうね。

公開できないといえば、やっとフィブリノゲン使用病院の名前が発表になりました。
これまたあまりにも遅いというべきでしょう。
わたしもこれまで2回ほどホームページに書き込みました

ここでも、公開できない理由があるわけですが、
そうした「理由」を考えていくと、社会を劣化させているのは誰かが見えてきます。
その誰かを見える仕組みをつくることが、構造改革の出発点でなければいけません。
郵政が悪いのではありません。郵政を操っている誰かが悪いのです。それを棚上げした議論は、その誰かに利するだけではないかと思います。

話がそれましたが、アクションを遅らす社会の仕組みを壊す必要があるというのが今日のメッセージです。社会があまりにも複雑で、その仕組みが見えないことが原因ですが、誰が得しているかを考えると、仕組みも少し見えてきます。

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2004/12/10

■会社の資本金はなぜ必要か 

法制審議会の会社法部会が最低資本金の廃止を考えていると記事を新聞で読みました。昨年施行された「1円起業」が好評だったのが理由だと新聞に書かれています。
1円起業というのも、私には信じられない迎合策だと思いましたが、それが好評なので(だれの評判なのでしょうか)、制度を変えるという話には驚かされます。

社会の制度には信頼性が必要です。信頼が失われれば、制度は有効に機能しないどころか社会の秩序を壊す逆効果を持ち出します。
制度の保証にはそれなりの制約や障壁が必要です。だれでも申請すれば設立できるNPO法が市民活動にどのような影響を与えているか、もっと真剣に考えるべきでしょう。たしかに形の上では市民活動を支援したように見えますが、そのために失われたものも少なくありません。
会社を起こすためには、それなりの努力が必要です。その努力の一つは、その会社の存在意義への共感者を集める努力です。その一つが資本金の調達ですが、その障壁がなくなるというのでは、どうやって起業者の信頼性を担保できるのでしょうか。

今でも「悪徳」企業はすくなくありません。むしろそうした存在を無くしていく方向に議論を向けて、会社制度の信頼性を高めるべき時期なのではないかと思いますが、どうも審議会のメンバーは逆のことを考えているようです。制度の信頼性が高まれば、資金調達の仕組みも今とは変わるでしょう。

これに限りませんが、最近の行政の姿勢は、目的や価値の議論がなくて、ただ目先の問題対応を短視眼的に行うものが増えています。それが社会の劣化を促進しているように思います。利益を上げるためにラベルを貼りかえた雪印食品の管理者と従業員と同じことをみんながやっているのです。

時代は大きな変わり目にあります。
そろそろ、会社とは何か、を根本から考え直す時期に来ているように思います。
米国流のコーポレート・ガバナンスではない、新たな視点が必要です。
米国に追随しているのは小泉首相だけではないのが残念です。

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2004/12/08

■思考停止に立脚した社会 

国家、あるいは組織の立脚点は二つあります。
恐怖と信頼です。
北朝鮮は恐怖を、日本は信頼を基盤にしています。

と思っていました。
ところがどうももう一つの立脚点があることに気づきました。
思考停止です。
思考を停止すれば、恐怖も信頼も無縁になります。
今の日本は、どうやらそこに向かっているような気がしてきました。
忌まわしき歴史の再来です。

最近、現代政治の正当の手続きが行われずに国家権力を発動する仕組みが整いつつあるような気がします。
政治の世界には「単純化」理論と言うのがあります。戦時に例外的に元首や軍に与えられる独断的権限が、平時にも与えられていく傾向です。
わずらわしい問題には関りたくないという生活者と関らせたくないとおもう為政者との利害がぴったり合うのです。それを加速させるのが、「パンとサーカス」政策です。それと、単純な呼びかけ言葉も効果的に使われます。ヒトラーの「わが闘争」のスピーチは長いですが、心に届くマジックワードが繰り返し使われれば、人はそれに捕らえられてしまいます。

いま、改めて信頼の大切さが意識されだしています。
ソーシャルキャピタル論が、そのひとつです。
しかし、信頼行為には主体的な判断のエネルギーとリスクが伴います。
パンとサーカスに浸っている人たちには、あまり人気はないようです。
そのためか、事態はますます信頼をないがしろにする方向に動いています。
それを加速しているのが、多くの政治家と財界人です。
もちろん企業のほとんども、それに加担しています。
今の産業構造は、信頼関係がなければないほど売上が高まる仕組みになっているからです。
いや、それだけではありません。
彼らもまた、思考停止しはじめたのです。
最近やっとそれに気づきました。
教えてくれたのは小泉首相です。そして多くの財界人たちです。

かつての日本も、かつてのドイツも、信頼の基盤を壊すことで、滅びました。
なぜ社会のリーダーたちは、それに気づかないのでしょうか。

最近、あまりにも事件が多すぎて、個々にコメントする気がどうも起きません。
そのため抽象的な書き方になってしまいました。
信頼を大事にする文化は、どうしたら回復できるのでしょうか。
思考停止から抜け出すにはどうしたらいいでしょう。
実は、私もまた、そこに陥っていたことに気づきました。

人生を変えることにしました。
まあ、そとからはその変化は見えないでしょうが、元気が出てきそうです。

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2004/12/04

■選挙はもはや有効ではなくなるでしょう

選挙の信頼性が揺らいでいます。
今に始まったことではないかも知れませんが、前回の米国大統領選挙(ブッシュ vs ゴア)の時に民主主義を標榜している国家でも選挙は必ずしも信頼できないことが意識されました。一度、意識されてしまえば、もう壊れる速度は加速されます。制度は、みんなの共同幻想になりたってできていますから、真実が一度見えてしまえば、それは広がるのです。

そもそも、選挙は大きなフィクションですから、制度的な論理性があるとしても、実体としての論理性はありません。
選挙が実体として成り立つのは、情報の共有と投票機会コストの均一性が不可欠です。しかし、そんなことは成立するはずがありませんから、選挙というのは形式論理だけの制度なのです。言いかえれば、多数決ということは、実体としては存在しない概念なのです。多数決の基本単位が不揃いですから、カウントしようがないのです。質の違いを数に置き換える、まさに近代の経済学の論理です。

制度的にも「1票の重さの格差」のように、実は破綻しているのですが、組織発想の社会では幻想を定着させることが可能だったのです。しかし、一度、壊れてしまえば、もはや幻想は成り立ちません。選挙制度はもはや有効な仕組みではなくなるでしょう。

一度ほころびだすとどんどん壊れていくというのは、有名なブロークンウィンドウ理論ですが、たとえば、昨今の子ども事件はまさに、その一例です。最初に壊した犯罪者は、極刑にすべきです。

難しい議論をしてしまいましたが、いずれにしろ、もはや選挙制度は役割を終えてしまいました。
それに変わる仕組みを考える必要があります。
これは実に面白いテーマです。

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2004/12/01

■流行語大賞ってなんで誰も怒らないのでしょうか 

最近のNHKの犯罪性に怒りを感じている私は、できればニュースも見たくないのですが、7時代のニュースは在宅の時はなぜか見てしまいまし。これは刷り込まされているのでしょうね。

今日見ていたら、流行語大賞を長々と取り上げていました。
しかも喜々としてです。
出版社がマーケティング戦略としてやっている時代はまだ勝手にしたらという感じでしたが、最近の取り上げ方はいささか遺憾です。
選ばれた人は日本語を壊したことで、罰金とか懲役刑を受けるのであれば、ともかく、なにか褒められたと思ってインタビューに応えているのをみると、可哀想になります。

それにしても、選ばれたものは、これが「言葉?」と思いたくなるものばかりです。
学校の国語の先生は意欲をなくすでしょうね。

言葉を大切にすることは文化の出発点です。
言葉をそまつにしてきたことが、いまの企業や行政をだめにしているのですが、
日本社会もまた霞ヶ関の無恥な権力者や実体のない無知な「有識者」たちによって、こわされようとしています。
テレビのアナウンサーの日本語はかなり壊れていますが、壊れていることが自慢になる時代になってきています。
そうした時代を象徴するものが流行語大賞なのかもしれませんが、それにしてももう少しまともな遊びや洒落があってもいいですね。

少なくともNHKではやってほしくないものです。
NHKの受信料を払いたくないという思いが強まっていますが、払わない方法はないものでしょうか。NHKの受信できないテレビはあるのでしょうか。

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