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2005年1月

2005/01/30

■全国総合開発計画(全総)制度の廃止  

「国土交通省は戦後の開発行政の指針となってきた全国総合開発計画(全総)を廃止する方針を固め、06年にも始める新たな国土利用計画の概要をまとめた」そして、「今後の社会資本の整備は、既存施設・設備の有効活用を掲げ、脱開発型に改める」と朝日新聞が報じています。

新たな国土利用計画なるものが、これまでの全総とどう違うのか、またそれを支える「有識者」たちはどういう人なのかをもう少し見極めないといけませんが、方向は歓迎します。

全体から考えていく時代は終わり、個々の現場や個人の生活から考えていく時代へと換わらなければならない時代になったという認識を持っている私は、「国土を利用する人たちのために」と言う統治者の視点ではなく、「生活を豊かにするために」という住民の視点で、社会や国土のビジョンは描かれなければいけないと考えます。もちろん生活を豊かにすることの根底には、宮澤賢治的な豊かな想像力が必要ですが。

自分の生活しか考えない「住民エゴ」に任せていたら、それこそ国土はめちゃくちゃになると反論する人がいるかもしれません。そういう人には、そういう判断から、自分の生活を離れて客観的に判断できる「有識者」や「専門家」に任せていた、現在の結果はどうですか、と問いただせばいいだけの話です。
生活から発想するということは、生活者こそが有識者で専門家であるということです

しかし、都市計画マスタープランや地域福祉計画など、これからの行政計画は住民と一緒に創る方針が打ち出されていますが、寡聞にして、そうした主旨がきちんと守られた事例をほとんど知りません。今回はどうなるでしょうか。たとえば、NPOの広がりなど、社会状況の変化を踏まえた展開を期待したいです。

道路も新幹線も決して悪いわけではなく、公共施設も重要です。
しかし、それらが住民生活に立脚していればこそ、です。
昨今の政治議論は、ほとんどが問題の立て方を間違えていると私は思っています。
これからの社会資本(ソーシャル・キャピタル)は、開発とかそういう話ではなく、人と人との絆であり、信頼関係です。ものを壊す方向で豊かさを追求してきた発想を反転させなければいけません。

そういう理念がきちんと踏まえられているか、どういう人がこの方針を担っていくかが気になっています。しかし、これまでの全総に関わった人が絡まなければきっといい方向に動き出すでしょう。


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2005/01/27

■司法改革の前にやるべきこと 

昨日、2つの判決が出ました。
東京都管理職試験訴訟と桶川女子大生刺殺賠償訴訟です。
皆さんはどう評価されたでしょうか。
私はまた裁判官と法曹界の非常識さを感じました。
被害者の目線に立つことは今の裁判官には望むことは無理なのでしょうか。
いずれも責任放棄しているとしか考えられません。
彼らをこそ裁判にかけてやりたいです。
事実、裁判の当事者になった法曹界の人が被害者の会に入って活動していますが、
当事者にならなければわからないような人には法曹界には入ってほしくありません。

私は法学部で学びましたが、リーガルマインドを身に付けたと自負しています。
しかし法曹界に入るには条文の暗記や解釈の暗記が必要だったような気がします。
その現実を知って(認識違いだったかもしれません)、目指していた検事になるのをやめたのですが、今から思うと悔やまれます。裁判官になって、内部告発すればよかったです。いや、また口がすべりました。

裁判は何のためにあるのか。
秩序維持のためにあります。
その秩序は、組織の秩序です。
個々人の生活の秩序ではないのです。
組織起点の発想から個人起点の発想に帰ると、裁判の問題点が見えてきます。
司法改革は、その視点を変えることでなければ、悪くなるだけの話です。
裁判員制度を司法改革などと思っている法曹界の人たちは、小泉首相の構造改革と同じ発想の人たちでしょう。
残念でなりません。
先ずは自らを変えずして、改革などは行えないのです。

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2005/01/25

■忙しすぎて事実を見ない生活への反省  

昨日に引き続き、ついつい衆議院本会議の中継を少し見てしまいました。
小宮山さんの質問の、最初の2分間は国民みんなに見てほしかったです。
きっと誰かがネットに採録してくれるでしょうから、わかり次第ここにも掲載しますが。

ところで、昨日の顛末の報道ですが、いささかの失望があります。
マスコミやテレビのキャスターはもっと掘り下げて報道してほしかったです。
私は幸運にも中継を見たからいいものの、そうでなくてニュースだけを見た人は、どっちもどっちだと思ったでしょう。新聞もテレビも、そのトーンでした。つまりリスクをとっていないのです。
またこれは小泉対小沢の政治のかけひきだという指摘もありました。たとえば報道ステーションです。そんなことは瑣末な話です。問題を摩り替えてはいけません。
大切なのは、対話を拒否した首相の不真面目さなのです。そしてそれを批判できない、あるいは適切に表現できず、従って質問もできないジャーナリストの現状です。

彼が首相でいられるのは国民が忙しすぎて、こうした彼の素顔を見る機会がないからなのかもしれません。知らないところで、勝手にやっているわけです。
それは首相だけではないかもしれません。
社会保険庁の偉い人たちが相変わらずの仕事をし、拉致問題はなかなか進まず、企業不祥事もなくならない。みんな忙しすぎて、かまっている暇がないからでしょうか。
いや、私たちはいま、みんな忙しすぎて、事実をきちんと確認せずに物事を判断しているのかもしれません。忙しさは、本当に心を失わせます。反省反省。

団塊の世代に暇ができたら、社会は変わりますね。
もう少しです。

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2005/01/24

■衆議院本会議場から退席した民主党を支持します 

今日は仕事をするために自宅にこもっていました。オフィスに行くと来客で仕事はできないからです。
昼食が終わった1時過ぎにテレビで衆議院の本会議の中継をやっていました。会場で寝ている人も見えました。そういう人をもっとクローズアップしてほしいものです。
代表質問で民主党の岡田党首が質問をしていました。なかなかの熱弁です。そして小泉首相の答弁。ここまではまあ退屈でした。
テレビを切って仕事に戻ろうとしたら、首相の答弁に岡田さんが論点を少し絞って再質問を始めました。それがなかなかのものでした。岡田さんを見直しました。そして、小泉首相が用意されたペーパーなしに、どう答えるか楽しみになりました。
ところがです。小泉首相は再質問された項目を並べ上げた上で、それらについては既に説明してあると答えて、終わったのです。唖然としました。
議会も唖然としたのか、早速、議員たちが集まって収拾策を議論しだしました。そのすぐ近くで、首相はニヤニヤしていました。岡田さんは遠くでムッとしていました。
議長が岡田さんの再質問を認めましたが、岡田さんはそれが納得できず、席を立たずに再調停させる指示を出したようです。また各グループの交渉係が集まって議論を始めました。そして今度は首相が補足答弁することが議長から発せられました。首相は、なんと再質問には民主党の意見も含まれていたが、質問には最初の答弁ですべて答えていると回答しました。これは補足とはいわないでしょう。人を馬鹿にした発言です。私ならすぐに切れて席を立つでしょう。岡田さんはこらえました。そしてまた議員の調整。そしてまた首相の補足とはいえない人を馬鹿にした「補足意見」がありました。ついに岡田さんは呆れて席を立ちました。民主党議員はみんな退場です。そして、その後は、残った人たちで継続です。次の質問者は自民党の幹事長です。もちろんテレビを切りました。茶番は退屈ですから。
この中断の時間はほぼ1時間です。それにすべて付きあいました。腹がたちました。
しかもです、その中継の解説をしているNHKの記者が、ひどいのです。この人は2人のやりとりを聞いていたのだろうかと思うようなバカな解説をオウムのように繰り返していました。主体性は全くありません。自民党に気兼ねしているか、あるいは解説能力のない人かのいずれかとしか思えません。解説記者とは言えないでしょう。小泉首相と同じ種類の人なのでしょうか。

そんなわけで、折角休んで仕事をしようと思っていたのですが、すっかりやる気をなくしてしまいました。首相がこんな手抜きをして許され(質問に答えずにニヤニヤしているだけです)、国営放送でもこんな映像しか送れないのであれば、もっと楽をしても、許されるなと思ったわけです。それで、女房と散歩に出かけてしまいました。また仕事が出来ませんでした。はい、すみません。

この番組をみていなかったら、きっと退場した民主党を非難したでしょうね。しかし、ずっと見ていたおかげで岡田さんの気持ちがよくわかります。
国会中継はやはり日曜日か夜にやるべきですね。平日の昼間では普通の人は見ることができません。やはり実際にみないと理解はできません。新聞で読んでも全くわかりませんし、部分をニュースで見てもモンタージュ効果でいかようにも編集できます。

実にいろいろなことがわかりました。
今日は完全に仕事をやる気分にはなれません。
こうやって、やるべきことを先延ばしている私も、もしかしたら首相と同じかもしれませんね。まあ、サルでも首相がつとまる国家の国民は、そんなものかもしれません。
反省。

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2005/01/23

■マイノリティのパブリシティの排除 

NHKへの政治介入事件、もしくは朝日新聞虚偽報道事件は、真実が見えてきません。
私は両方ともに、あまり信頼感を持てずにいますが、今回の両者のやり取りを見ていて、やはりテレビの暴力性を感じています。

例えば今日のNHKの夕方7時のニュースですが、朝日新聞の言い分は一切出てこずに、政治家の発言で自らの主張を客観化しています。政治家がこれまで証言してきたことの信用度を考えれば、まあどうでもいい話ですが、NHKのニュースだけを見ていれば、朝日新聞は嘘を報じたとみんな思うでしょう。国営放送の恐ろしさです。
スチュアート・ミルは民主主義とはマイノリティのパブリシティが確保されることだと言ったそうですが、今の日本ではマイノリティどころか、大新聞ですら、パブリシティの場での排除の対象になることが示されたわけです。

私はある体験で、朝日新聞に不信感をもち、学生時代以来慣れ親しんできた朝日新聞の購読を止めています。だからと言って、読売新聞が信頼できるわけではないのですが、まあ、それくらいしか選択肢がなかったのです。
いずれにしろ、朝日新聞もおそらくNHKと同じようなことをしているだろうと思っています。つまり自らが信念を持って主体的に報じているとは思っていません。その文化は残念ながらなくなっているでしょう。付き合ってよくわかりました。

ですから私にはまあ、どんぐりの背比べにしかうつりませんが、今回の件に関しては、NHKの現在の報道姿勢には、そうしたことを超えた驚きと怖さを感じます。
せめて反対側の立場の人の声も聞きたいものですが、それが出てこない。それをNHKの人はおかしいと思わないのでしょうか。その一事を持ってしても、おそらくNHKがより多くの非を持っていると思うのは私だけでしょうか。

でもまあ、そんなこともどうでもいいのかもしれません。
もっと怖いのは、真実と無関係に、別の事実を創出していくテレビの怖さです。
身の毛がよだちます。
北朝鮮の放送を喜劇視してきた自分を恥じなければいけません。
同じだったのです。

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2005/01/21

■強制送還の権利 

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民と認めたトルコ国籍のクルド人、アハメット・カザンキランさん(49)と長男(20)がトルコに強制送還されました。その経緯にはいささかの恐ろしさを感じます。

2人は家族とともに、難民認定を求めて国連大学前で座り込みデモを行っていたそうですが、その途中で、品川入国管理局へ仮放免の延長手続きに行ったところ、その場で身柄を拘束されてしまい、なんとその翌日、2人は飛行機で、トルコへ強制送還されてしまったのです。
彼らを支援していた人からのメールによれば、UNHCRが難民と認めた難民が本国に強制送還された例はないそうです。
いうまでもなく、強制送還は生命の危険につながります。幸いに、今回は空港内でトルコ警察の手に引き渡されたものの、アハメットさんは解放され、息子さんは軍隊に入隊させられたそうです。もっともその先はわかりませんが。

社民党の福島党首が20日、南野法相に「政府の措置は極めて不当。UNHCRの勧告や判断を十分尊重することを求める」と申し入れたところ、法相は「日本の裁判所で難民ではないという認定が出たので、国内法にのっとって送還せざるを得ない」と答えたといいいます。国連の勧告は無視されたわけです。
脱北者を強制送還する中国政府のやり方に、私は国家犯罪を感じています。しかし、ほぼ同じことが日本でも行われていることをまざまざと知らされました。しかも、その手際の良さには驚くよりも怖さを感じました。
自らの秩序を維持するために、個人の生命はコラテラルダメッジでしかないのでしょうか。こうした事件は、ほかにもたくさんあるのでしょうか。

強制送還できる国家はすごい存在なのですね。
改めて国家のすごさを思い知らされました。

追記(1月22日)
この件に関するトラックバックのホームページもご覧下さい。
また、これに対するアクションの呼びかけもまわってきました。
そのメールを次のところに臨時掲載しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/050122.htm

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2005/01/20

■混雑緩和のために道路をつくるとさらに混雑が増えてくる話 

離婚が増えているために母子家庭が急増し、離婚母子家庭への支援拡充が課題になりそうだと今日の新聞が報道しています。
何か問題が起こると「支援」です。
まさに今は支援社会です。

自動車の渋滞を緩和するために道路を整備し増やしていくと逆に渋滞が増えると言う話があります。道路を整備すると、自動車の利便性が高まりますから、自動車の利用者が増えて交通渋滞はさらにひどくなるというわけです。
問題の根本解決を図らずに、対症療法的に問題を解決するために「支援」の仕組みを充実していくと、問題はますます深刻になってくることは少なくありません。
なぜそうなるかと言えば、問題の捉え方が間違っているのでしょう。

環境問題解決のために静脈産業を拡大させようなどという馬鹿げた議論が一時期盛んでしたが、それと同じで問題の設定を間違えると解決どころか事態をさらに悪化させかねません。
安直に支援などというべきではありません。
問題をしっかりと見据える姿勢が、最近どんどん失われ、安直な問題設定と安直な解決策が打ち出されて、安直に問題が「解決」されてしまう昨今の風潮が気になります。

ところで、男性の皆さん。
みなさんの家庭は実質的な母子家庭になっていませんか。


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2005/01/14

■構造的介入

ノルウェイの思想家 J.ガルトゥングは直接的な暴力とは別に、構造がもたらす暴力に着目して、構造的暴力という言葉をつくりました。「社会構造のゆがみや不当な権力の発動による人権の剥奪状況」というような意味です。この概念は、平和の問題に大きな影響を与えてきました。
構造的暴力の対概念は主体的暴力です。つまり暴力の主体者が特定できるかどうかの違いです。誰が加害者か特定できない暴力状況は少なくありませんが、しかしその場合も、それによって誰が得をしているかから考えると問題の構図はかなり見えてきます。

さて、昨日、大きく取り上げられた「NHKへの政治介入」事件です。
何が真相なのかはまだ「藪の中」ですが、ニュースを見ていて、先ず思い出したのが、この構造的暴力の話です。
中川さんや安部さん、ましてや海老沢さんのような小市民の言動は、まあ私には瑣末なことのように思えますが、問題は彼らを生み出し支えている仕組みの存在です。
存在するだけで介入効果のあるカリスマ的な権力者やリーダーは少なくありません。西武の堤さんやダイエーの中内さんはそうだったのでしょう。その存在から生み出された主体を持たない構造的介入が組織を壊していきました。
しかし、そうしたカリスマ的な存在がなくても、構造的介入の仕組みが生まれ育っているのが現在の社会かもしれません。仕組みが人を支配しだしたのです。そして使いやすい小泉さんや安部さんを仕組みの走狗として使い込んでいるように思います。

今朝のNHKのニュースを見たわが家族の反応は、長井さんの話は嘘だったのかというものでした。そう感じた人も多かったでしょう。ここでも見事に構造的介入の仕組みが作動しています。
ちなみに、長井さんの記者会見(2005年1月13日)の放送映像を無料配信しているところがあります。見てください。
http://www.videonews.com/asx/011305_nagai_300.asx

権力者の喜びと利権は「介入」です。しかし、主体的な介入のほかに、こうした構造的介入の実態があるように思います。そして組織人は、その存在的介入の幻想に過剰反応して自己規制しがちです。それが多くの企業不祥事の原因です。
長井さんが「サラリーマンとしての苦しさ」を述べましたが、サラリーマンであることをやめれば、今の時代はとても生きやすい時代です。
組織の呪縛から自らを解き放しましょう。
最近の社会経済生産性本部の調査によれば、納得できない仕事を命じられたら、拒否すると答えた人が半数を超えたようです。
社会は変わってきているのです。

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2005/01/13

■司法制度改革が見落としていること  

昨日の読売新聞の夕刊に「刑事裁判官 対話に不慣れ?」という大見出しで、裁判員制度に向けて、最高裁は今春以降、一般市民との対話に慣れた民事裁判官を、刑事担当へ「配転」させる方針を決めたことが報じられています。
また、今朝のテレビは青色LED訴訟和解に対する中村さんの「怒りの記者会見」を各局がとりあげています。和解しながら怒りを公開するのはフェアではありませんが、中村さんが日本の司法制度に対して発言していることには共感します。

私は裁判員制度の導入には批判的です。
今の司法制度改革は行政改革や郵政改革などと同じく、ピントはずれだと思っています。
制度の目的に照らして実状を確認し、問題の根幹を正す方策を真剣に考えるのではなく、表層的な問題を解決するために対症療法的な、しかも悪く言えば、問題の焦点をずらすような仮説のもとに、新しい制度を導入し、それをもって「改革」と称しているからです。第一、改革を議論する人たちの人選を間違えています。問題解決を先送りするために、事態はますます悪化することになりかねません。
今の産業再生や銀行の合併、市町村合併、など、ほとんどがそうした取り組みになっています。

人を裁くためには、二つのことが不可欠です。
当事者の思いを理解し、話し合いによって、世界を共有すること。
そして、事件に関わる現場の事実に立脚することです。

中村さんは事件に関わる資料を裁判官は読んでいないと怒っていました。それが事実かどうかは知りませんが、おそらくほとんどの裁判がそうではないかと言う人もいます。私もそう思います。それに、資料を読んだからといって現場の事実に立脚できるわけではありません。
その現場との生きた交流がなければ、それは不可能です。
当事者の思いを理解するためには、さまざまな人との対話や会話能力がなければ、これもまた不可能です。
つまり裁判官にとって大切なのは、法律知識ではなく、社会のおける生活をベースにした人間同士のコミュニケーション能力です。それがなくて、人が裁けるはずはありません。

しかし、残念ながら、そうした社会や生活者と距離を置いているのが裁判官です。
いや法曹界の人といっていいでしょう。
かつての裁判は、神(王)による裁きでしたが、今は違います。主権在民の理念の中での裁きは決して上の目線からの裁きではないのです。
裁きのパラダイムが変わったのです。

そこに気づかないで、裁判の変革はありえないと、私は思いますが、どうでしょうか。

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2005/01/12

■見たくないものを見ない生き方

昨日、新幹線で山形に行ったのですが、同じ車両に10人くらいの人たちが乗りました。
その人たちの半分は、太い紐でつながれていました。
犯罪者でしょうか。見てはいけないもの、見たくないものを見てしまった感じです。
そして、なにか気分が沈んでしまいました。
人が「つながれている」ということは、やはりショッキングな光景です。
事情をわからずにいうのは不謹慎ですが、大勢の人前で、人をつないで連行するようなことは、まさに人権侵害ではないかと思います。

しかし、今日になって、それとはまったく別のふたつの疑問がでてきました。

まず、こうした風景を見たくないと思う、私に対する疑問です。
私は、見て見ぬ振りをしました。おそらくみんなそうでしょう。
見ない振りをしているわけですから、当然、何も行動しません。
「どうしたのですか」などという質問はできません。
子どもであれば、どうでしょう。
きっと質問するでしょうね。
目撃者が多い状況の中でこそ、犯罪や事故は見過ごされるという調査結果がありますが、とても納得できます。
見たくないものは見ないという、こういう態度は、果たしていいのか、という疑問です。

もう一つは、これが犯罪事件そのものである可能性はなかったのかという疑問です。
紐でつながれていたのは被害者で、暴力団に連れて行かれるところだったかもしれません。途中で声を出したら、殺すと脅かされていたのかもしれません。その可能性はゼロではないはずです。
堂々と行動すれば、犯罪も見逃されるという話です。

しかし、目撃したすべての人は、確認もしないまま、紐でつなげて連行するという人権侵害を起こしているほうが正義で、連行されているの人たちは犯罪者と、勝手に解釈しているわけです。何かおかしいですね。
こうして、私たちは大きな犯罪を見逃してきているのかもしれません。

私もまた、裸の王様になりたがっておることに気づいて、愕然としました。
昔はこうではなかったのです。
まあ、それが人生を踏み外させたのかもしれませんが。

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2005/01/09

■インド洋大津波とソラリス 

インド洋大津波の被害者がまだまだ増えています。
インドネシアにいる友人からのメールでは、インドネシアだけで15万人の死者だといいます。毎日のようにテレビで放映される津波の映像を見ていると、何かを書きたいのですが、書くことに躊躇を感じざるをえません。
何を書いても不謹慎になりそうだからです。

昨日、テレビで「ソラリス」を観ました。最近の映画です。
この原作「ソラリスの陽のもとに」には昔、魅了されました。最近、新訳も出ていますが、読んでいません。この種の本を読む気力が最近はなくなっているのです。想像力を働かせなければいけないからです。

最初の映画化作品は私には期待はずれでしたが、今回は、かなり満足できました。しかし、原作と切り離して、ですが。

ソラリスは惑星の名前です。その惑星の海は知能を持ち、そこに調査にいった科学者の意識にコミュニケーションしてきます。その仕方は現在の物理学のパラダイムを超えているのですが、そこがとても面白いのです。論理を超えているからです。
論理を超えると必ず出てくるのが「愛」です。この映画も愛の映画です。それだけなら私は退屈です。最近の映画が、安直に「愛」を語りすぎることに辟易しています。しかし、この映画は、そこに「恐怖」が埋め込まれているので、私は好きになりました。そのメッセージはスタニスワム・レムの時代よりも現実味を飛躍的に増しています。

話が飛躍しますが、ソラリスとインド洋大津波が私の頭のなかで奇妙に重なったのです。
今回の事件は海からの、つまり地球からのメッセージかもしれません。

映像を見ていると、海がどんどん引いていく場面でも、大きな波の壁が遠くに見える場面でも、それが自らの足元に近づくまでは、みんなその異常を「観察」しているのです。もし現場にいたら、私もきっとそうだったでしょう。想像を超える事件には、誰も危険を感じないのです。
現代は、こうした状況がさまざまなところにフラクタルに起こっている時代です。っしかし、誰も気づかない。これは不幸でしょうか幸せでしょうか。迷います。

津波にえぐり取られた岸壁を見て、歴史は決して連続的なものではないことも知りました。私たちが論理で構築した歴史などは、弱々しい仮説でしかないことを改めて確信しました。終わりは突然に来るのです。

何が始まっているのかわからないままに、私たちはいま、大きな危険にさらされているのかもしれません。しかし、危険は認知しなければ、危険ではありません。

なにやら小難しいことを書いてしまいましたが、
私の価値観をえぐりとられるような事件でした。
最近、友人知人の訃報が続いているのは偶然ではないのかもしれません。

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2005/01/08

■日本のために働くということ 

福岡にあるグループホーム縁側の梅川さんは、私が信頼する若者の一人です。
1度しかあったことはありません。しかも、福岡空港であわただしく、です。
なぜ信頼するかといえば、現場につながりながら、自分の視点と信念で行動しているからです。実体のある言葉で語る人は、私は無条件で信頼します。
彼が年賀状に、「日本のために働きます」と書いてきたので、

「日本のために働く」のではなく、みんなのために働く」のがいいです。 この違いはとても大きいです。 私が日本の福祉政策に批判的なのは、日本(国家)のためであって、みんな(そこに住む人/日本国民に限りません)のためではないからです。
とメールしました。

その返事に、とても共感しました。
梅川さんの許可を得て、転載します。
長いですが、ぜひ読んでください。
現場の真っ只中で汗している人の真摯な発言です。

本当にそうですね。日本の福祉にしろ、イラクの復興にしろ、そこに住む人のことを考えない政策ですし、そこに基準を置かない政策や権力は近いうちに崩壊する(お客様のことを考えない会社が潰れるように)のが世の定石ではないかと最近僕は勝手にそう考えています。それに「国家とかいう小さい枠組みで考える時代じゃない」という方が最近、増えていらっしゃるようにも思います。

でも、僕はあえて「日本」にはこだわってみようと思います。

徳川家康にしろ幕末の名を残す志士達にしろ、何も戦いに明け暮れて、ライバルを潰していった結果、そうなったのではなく、「そこに住む民衆を慈しむ心に裏打ちされた国家観」というものがあり、そのことに対して自ら「矜持」を持っていたからこそ民衆が悲しまないようにするための大事業をなしえたのだと考えております。

またそれと同じ比重で、その時代、そこに住む民衆が、その政策(現在批判される士農工商にしろ)を了解し、支持したからこそ、事業の成功がありえたのだと思います。
いくら家康や大久保利通が信念をもっていて、事業をおこしても、民衆の要望(または潜在的要望)に応えていなければ、どんな小さな政策でも実現しなかったのではないかとも思います。

だからやっぱり「渡る『世間』は怖い!」
世の中には「世間知」(各民衆の良心とでもいいましょうか)というものがあって、それに適わない事業は、おそかれはやかれ潰れてしまう。

日清戦争の時の話です。

日本艦隊の発砲した弾が、清の有名な武功を持つ艦長にあたり即死したのを、日本側が知り、日本側も(国や人種を越え)一目おく人物だったので、相手の死を悼み、全軍に発砲を止めさせて、その艦長のために黙とうを捧げたとの話を知ったとき(それまで日本の戦争といえば昭和陸軍の南京大虐殺のイメージしかなったのですが)「自分が矜持をもつからこそ、相手の矜持も尊重できる」(またそうできることが本当の矜持・プライドなのかな)と考えるようになりました。まだこの「矜持」を自分なりにもつことは出来ていませんが。

僕の父は昭和の戦争を経験していますが、よく私は「何で本当のに国(国民・家族)のことを思って戦うのなら銃口を大本営に向けなかったのか」と父にいいます。父の返答は「憲兵がこわか(怖い)ろーもん」ですが。
これが幕末の坂本竜馬たちなら「この国(国民・民衆・そこに住む異国人)が危ない」と思えば、自分の命を賭してでも、たとえ「非国民」になろうが、なんだろうが道を誤らせる者と戦うでしょうし、その相手方もまた「これが正しい道なんだ」と思えば、これも命を賭けて応戦することになるでしょう。本当に自分が正しいと思うことのためになら血みどろになったっていいのではないでしょうか?

しかし、この「血みどろ」がこの戦後、「自分の命を一番大事にしなさい」といって育てられてきた僕には、なかなか出来そうありません。今のところは(情けないですが)せめて雰囲気というか、そんな風な気概だけでも持ちたいと願っております。

「国・国家」といえば昭和の戦争のなごりがあるので、「国民・そこに生きる者」を何か抑圧するもののようなイメージがありますが、僕の「日本(国家)のために」は「地域社会(人さま)のために」と同義です。(国家=日本=地域社会)

この「国家」は今、官僚のものか、マスコミのものか、アメリカのものか、分かりませんが、僕は「国家」は本当はいつの時代もそこに住み、そこにささやか幸せを求めて暮す、愛すべきひとたちのものだと思っています。

ほんと、自分なりにこの地域に役立てるように働きます!
命をどーんと賭けることはできませんが、人生の一部分はかけてみようと決意しております。(そして出来るならあとからたくさんお金がついてくればいいなと思うのですが。)


感動しました。歳をとるとすぐ涙が出るのです。
こういう若者に、私の未来は預けてもよさそうです。

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2005/01/07

■年賀メールの効用  

今年から女房が年賀状を手書きから写真に切り替えました。
昨年までは1枚ずつの手作りで大変でした。
私は早くから印刷方式にしていましたが、女房は手書き派で、印刷は手紙じゃないと言うタイプでした。
もちろん、今年も、宛名は手書き、文面もそれぞれに文章をつけています。
写真は恥ずかしながら、夫婦の近況写真です。
女房の友人に対しては、私の初デビューです。
それもまあ、いろいろと面白い反響があったのですが、
今回は私のほうの年賀メールの効用の話です。

年賀メールには女房は反対です。
味気ないというのです。
私も昔はそう思っていましたが、昨年から年賀メールに切り替えてみたら、
実に面白いのです。
返事があり、またそれに返信して、というように、極めてライブなやりとりができるのです。
切りがないので、途中で止まるわけですが、一方的な手紙とは違った面白さがあります。
もちろんすべてがそうではありません。
失礼ですが、どこかのカードサービスを利用した年賀メールも届きます。
これは退屈です。

もっとも、私もそれに似たようなことをしています。
つまり最初のメールは同じ文面で同時に発信するのですから。
しかも、本文は私のホームページをみてほしいというわけです。
まあ、人間は勝手なものです。

受け手の立場でも、年賀状よりも年賀メールが楽しくなってきました。
今年はいろいろと失敗がありましたが、来年はもっと効果的に活かせると思います。

ところで、女房ですが、最近、パソコンにはまっています。
機械音痴ですから時間はかかりますが、メールを楽しんでいます。
おそらく来年は年賀メールの楽しさにはまるのではないかと期待しています。
今年はまだ全く否定的ですが、まあ時間の問題でしょう。
人間は機械によって変化させられるものです。ちょっと不本意ではありますが。


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2005/01/06

■軍隊という名称 

スマトラ沖の地震が引き起こした津波の被害はすごいものです。
自然の力を改めて思い知らされました。
日本の自衛隊が救援活動に動き出しました。
こういうことに向けて税金が使われるのであれば、増税も気になりません。

とても気になっている事があります。
また言葉の問題です。
イバン・イリイチは、25年前のアジア平和学会の講演で、
「英語のキーワードの多くに、今や暴力が潜んでいる」と話しました。
たとえば、「平和のための戦略を計画する」「貧困を撲滅する」などです。
企業経営の世界に戦争用語がたくさん使われていることは言うまでもないでしょう。
言葉が意識を規定していくとしたら、気をつけなければいけないことです。

しかし、そろそろもっとその根源にある考えを問い直さなければいけないような気がしています。言葉の見直しです。

まずは「自衛隊」です。
そもそも今の軍隊は少なくとも建前としては、すべて「自衛隊」でしょう。他国を侵略するための軍隊は存在しないでしょう。北朝鮮にしても、そうでしょう。アメリカもおそらくそうでしょう。イスラムの軍隊もそのはずです。
従って、自衛隊と軍隊は実際には同義語です。
だれもそうは思っていないかもしれませんが、現代の社会では論理的な帰結だと思います。

では、次に、自衛は戦力でできるのかです。
できないと思います。
争いや憎しみは限りなく強まるだけですから。
つまり「自衛隊」という言葉には、そもそも「滅び」が内蔵されているのです。

自衛隊の今回の活動は、自衛の要素はあるでしょう。
しかし、隣に困っている人がいれば手を貸したくなるという、自然の感情の延長での支援活動でもあります。
であれば、支援隊に名称を変えたらどうでしょうか。
「隊」がよくなければ、「支援会」でもいいでしょう。
これからは世界中の軍隊を「支援会」と改称したらどうでしょうか。

しまりのない名称ですね。
戦争になったらすぐ負けそうです。
もしそうであれば、戦争を始めることもないでしょう。

「軍隊」という言葉を過去のものにすることが大切ではないか、とつくづく思います。
私たちの意識の中に、軍隊や戦争への憧れがある以上、それは難しいことですが。

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2005/01/05

■装丁を変えて売り出す講談社のビジネス倫理  

ちょっと恥さらしの話です。もちろん私の恥です。

昨日、書店に立ち寄って、数冊の本を買い込んできました。軽い新書です。新書は書店に頼むこともないので、月に1回出かけて行って、数冊まとめて買ってくるのが私のスタイルです。

購入した1冊に講談社現代新書の「出雲神話」がありました。書店に平積みになっていた何冊かの新書のなかの1冊です。講談社新書は昨年に装丁を変えました。
帰宅後、購入してきた本を見直していて、この本が30年近く前に読んだ本の新装版であることに気づきました。本棚にある当時の本を調べたら、変わっているのは装丁だけでした。古い現代新書だったわけです。

内容を確認もせずに購入した私が悪いのですが、なにか詐欺にあった感じです。
装丁だけを変えて、新刊と並べて販売することは別にルール違反ではないでしょうが、なにか割り切れないものを感じます。
しかし、対象が本でよかったです。
同じようなことがいろいろなところで行われているのかもしれません。
衣装にだまされてはいけませんね。

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2005/01/04

■言葉の世界からの脱却 

昨年末に書いた「経済制裁の当否」について、まだ署名にはいたっていませんが
少し考えが進みました。結局、私の価値基準である「個人起点」「真心原理」で考えればいいのだと気がつきました。

「経済制裁」ではなく「経済支援中断」と言うべきだとの意見があります。
それを聞いた時に、なるほどと思いました。
たしかに言葉は世界を構築していきます。
「言葉が世界を構成している」という社会構築主義には私も大きな示唆を受けていますが、だからこそ言葉を大切にしたいと思います。言葉の言い直しで、安心する気にはなりません。言葉の内容の吟味がとても重要です。

こうした議論で必ず出てくるのが、「人道上の理由」です。
人道の対象は個人と考えていいでしょう。
では、制裁や支援(あるいは復興)の対象も個人でしょうか。
北朝鮮で苦しい生活を余儀なくされている多くの人たちに、もし政権経由でなく経済援助がなされるのであれば、おそらくそれは政権を揺るがすことになるでしょう。しかし、政権への援助であれば、苦しい人たちの救いになるでしょうか。逆に現政権を補強することになれば、人道に反することになりかねません。
脱北者を北朝鮮に返還するのは人道に合うのでしょうか。秩序回復のために、子どもたちにまで発砲することは人道に合うのでしょうか。

制裁や支援の対象が、個人なのか秩序(組織や体制)なのか。
それこそが意味の分かれ目なのです。
制裁や支援は、対象によって意味を全く変えるのです。
ですからこれは「手段的な言葉」と言っていいでしょう。
ついでに言えば、構造改革や企業変革も同じです。いや、民営化も同じだと言っていいでしょう。
にもかかわらず、その手段的言葉に振り回されているのが現在の日本です。
今年は、目的的な言葉で物事を見ていきたいと思います。

署名はきっとしないと思います。

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2005/01/02

■象徴的な年の変わり目  

象徴的な年の変わり目でした。
ものすごく寒い大晦日が一変して、温かな元日でした。
しかも、厚い雲に遮られて、初日の出は見えなかったのですが、
未練がましく空を見ていたら、40分後に晴れてきて、雲の合間から太陽が見えたのです。そして、一挙に雰囲気が変わったのです。
実に象徴的な年明けでした。
もっとも、これは私の住んでいる千葉県我孫子市の話ですが。

今年はあたたかな年になりそうです。
いや、そうしなければいけません。
昨年のこのブログは、いささか口汚く、品位に欠けていました。
イワン老人の教えに反しました。
今年は少しポジティブに書いていくつもりです。
そして当事者的な視点を少し強める予定です。
CWSコモンズでの呼びかけとも連動させます。

みなさんもぜひ気楽にコメントしてください。
またCWSコモンズの案内にもぜひご参加ください。

4日から書きだす予定です。
明日はいただいた年賀状と年賀メールに返事を書かなくてはいけませんので。
今年もよろしくお願いいたします。

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