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2005/01/04

■言葉の世界からの脱却 

昨年末に書いた「経済制裁の当否」について、まだ署名にはいたっていませんが
少し考えが進みました。結局、私の価値基準である「個人起点」「真心原理」で考えればいいのだと気がつきました。

「経済制裁」ではなく「経済支援中断」と言うべきだとの意見があります。
それを聞いた時に、なるほどと思いました。
たしかに言葉は世界を構築していきます。
「言葉が世界を構成している」という社会構築主義には私も大きな示唆を受けていますが、だからこそ言葉を大切にしたいと思います。言葉の言い直しで、安心する気にはなりません。言葉の内容の吟味がとても重要です。

こうした議論で必ず出てくるのが、「人道上の理由」です。
人道の対象は個人と考えていいでしょう。
では、制裁や支援(あるいは復興)の対象も個人でしょうか。
北朝鮮で苦しい生活を余儀なくされている多くの人たちに、もし政権経由でなく経済援助がなされるのであれば、おそらくそれは政権を揺るがすことになるでしょう。しかし、政権への援助であれば、苦しい人たちの救いになるでしょうか。逆に現政権を補強することになれば、人道に反することになりかねません。
脱北者を北朝鮮に返還するのは人道に合うのでしょうか。秩序回復のために、子どもたちにまで発砲することは人道に合うのでしょうか。

制裁や支援の対象が、個人なのか秩序(組織や体制)なのか。
それこそが意味の分かれ目なのです。
制裁や支援は、対象によって意味を全く変えるのです。
ですからこれは「手段的な言葉」と言っていいでしょう。
ついでに言えば、構造改革や企業変革も同じです。いや、民営化も同じだと言っていいでしょう。
にもかかわらず、その手段的言葉に振り回されているのが現在の日本です。
今年は、目的的な言葉で物事を見ていきたいと思います。

署名はきっとしないと思います。

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