■司法制度改革が見落としていること
昨日の読売新聞の夕刊に「刑事裁判官 対話に不慣れ?」という大見出しで、裁判員制度に向けて、最高裁は今春以降、一般市民との対話に慣れた民事裁判官を、刑事担当へ「配転」させる方針を決めたことが報じられています。
また、今朝のテレビは青色LED訴訟和解に対する中村さんの「怒りの記者会見」を各局がとりあげています。和解しながら怒りを公開するのはフェアではありませんが、中村さんが日本の司法制度に対して発言していることには共感します。
私は裁判員制度の導入には批判的です。
今の司法制度改革は行政改革や郵政改革などと同じく、ピントはずれだと思っています。
制度の目的に照らして実状を確認し、問題の根幹を正す方策を真剣に考えるのではなく、表層的な問題を解決するために対症療法的な、しかも悪く言えば、問題の焦点をずらすような仮説のもとに、新しい制度を導入し、それをもって「改革」と称しているからです。第一、改革を議論する人たちの人選を間違えています。問題解決を先送りするために、事態はますます悪化することになりかねません。
今の産業再生や銀行の合併、市町村合併、など、ほとんどがそうした取り組みになっています。
人を裁くためには、二つのことが不可欠です。
当事者の思いを理解し、話し合いによって、世界を共有すること。
そして、事件に関わる現場の事実に立脚することです。
中村さんは事件に関わる資料を裁判官は読んでいないと怒っていました。それが事実かどうかは知りませんが、おそらくほとんどの裁判がそうではないかと言う人もいます。私もそう思います。それに、資料を読んだからといって現場の事実に立脚できるわけではありません。
その現場との生きた交流がなければ、それは不可能です。
当事者の思いを理解するためには、さまざまな人との対話や会話能力がなければ、これもまた不可能です。
つまり裁判官にとって大切なのは、法律知識ではなく、社会のおける生活をベースにした人間同士のコミュニケーション能力です。それがなくて、人が裁けるはずはありません。
しかし、残念ながら、そうした社会や生活者と距離を置いているのが裁判官です。
いや法曹界の人といっていいでしょう。
かつての裁判は、神(王)による裁きでしたが、今は違います。主権在民の理念の中での裁きは決して上の目線からの裁きではないのです。
裁きのパラダイムが変わったのです。
そこに気づかないで、裁判の変革はありえないと、私は思いますが、どうでしょうか。
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