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2005年2月

2005/02/27

■3つの企業価値を可視化したライブドアの堀江さん 

ニッポン放送問題に関連して、気になる言葉がいろいろ出ています。
放送は公共財だとテレビ局の経営者が考えていることも知りました。
最近のテレビ番組は、公共性とは反対のところを目指しているように思っていたのですが、それが公共性だったのですね。
それで最近のNHKの不祥事が納得できました。公共性のモデルだったのですね。
おや、これはジョークです。誤解のありませんように。

しかし、企業価値も、彼らはその延長で発想していますね。
こうなるとジョークとも言っていられません。

企業価値にはキャッシュフローとしての企業価値とレゾンデートルとしての企業価値がありますが、ほとんどの人は前者、しかも株価程度の意味で使っているように思います。不勉強な御用経営学者の言葉をさらに不勉強にしか使っていないのが、日本の企業の経営者だと私は思っていますが(つまり彼らは自分の言葉を持っていないという意味で仲間です)、無理をせずに株価や経営者特権といえばいいように思います。

日枝会長が使う「ステークホルダー」という言葉もわかりにくいです。一方で公共性をいいながら、狭義のステークホルダー論を振り回す。なにかおかしいですね。
こういう言葉のごまかしが蔓延していますが、それをしっかりと追求するキャスターが少ないのも残念です。もう少しまともな質問をしてほしいと思うことが多すぎます。

ついでにいえば、記者会見のスタイルも対照的です。そこに実相が見えてきます。
多くの場合、堀江さんは一人ですが、フジテレビ側は大勢の役員が並びます。ここにいかに大企業は働かない寄生族が多いかが見えてきます。それらがすべてキャッシュフローとしての企業価値にかかわっているのです。彼らが会社を辞めれば企業価値は高まります。どうせ経営などはしていないのですから。
会社を辞めて、早起きして道路の掃除でもしましょう。そうしたら公共性とは何かがわかるでしょう。第一、社会が元気になりますよ。そろそろ後進に道を譲りましょう。今の財界は全くその逆を向いていますが、その意味を考えたことがありますか。

と書いてくるとおわかりだと思いますが、実は第3の企業価値があるのです。それは経営者にとっての価値です。ここで重要なのは、この第3の企業価値は、被用者にとっての働く場としての価値とは似て非なるものだということです。
そして、いま、日枝会長が守っているのは、この第3の企業価値のような気がします。
それが、第1、第2の企業価値のいずれとも対立するものであり、公共性とも対極にあることはいうまでもありません。

このからくりに、産業社会の問題が凝縮されています。
言い方を変えれば、新しい産業社会の可能性も象徴されているように思います。
ちょっと説明不足だったでしょうか。

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2005/02/26

■人にレッテルを貼る社会 

今日はNPOの集まりに参加していました。
いつもそこで気になる言葉があります。
「障害者」です。
15年ほど前に、ある会に参加していて、「障害者」という言葉を発したら、若い参加者の一人が、「佐藤さんから障害者という言葉を聞くのは残念です」と言われました。その言葉がずっと気になっています。
でも、ではなんといえば良いのでしょうか。
以来、私は障害を持つ人とか、障害の強い人、と言っていますが、まだすっきりしません。

山口で開かれたNPOの集まりで、発達障害に取り組む方から、中学まではちょっと変わった子どもくらいにしか思われていなかったのに、高校進学時に、突然、発達障害という烙印をおされて、子どもはパニックになるのです、という話を聞きました。

先日、NEET問題を考える委員会に参加しましたが、
そこでもずっと気になっているのが、「NEET」という言葉です。

イリイチは病院が病人をつくり、学校が劣等性をつくるというようなことを言っていますが(不正確な読み取りかもしれません)、人にレッテルを貼る社会の怖さを感じます。

NEETという言葉さえなければ、多くの若者の人生は変わったかもしれません。
言葉は人を暗示にかけます。
人にレッテルを貼る社会をそろそろ終わりにしたいです。
私が福祉の専門家や実践者が好きになれない理由の一つです。

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2005/02/25

■ルールを変える競争社会 

ライブドアの堀江さんが厳しい状況になってきています。
テレビなどでの報道姿勢もどうも堀江さんに冷たいような気もします。
キャスターのみなさんは別ですが。

今日のテレビでもどなたか言っていましたが、
競争していたらルールが変えられてしまうのはフェアではありません。
戦いなのだから、そんな奇麗事は言っていられないといわれそうですが、戦い事だからこそルールは大切なのです。
今回の動きのなかに、強者が勝手にルールを変える競争社会の実態を垣間見る感じです。誰かの都合で、巧みにルールが変えられているのが、これまでの日本だったかもしれません。その実行者は政治家と財界と大学教授の産官財の「三位一体」チームです。

また、会社が自己防衛するのは当然だといわれますが、その会社とは何かが問題です。
ニッポン放送の社員はみんなライブドアの経営権獲得に反対です、という経営者の発言には不快になります。この一言で、経営者が守ろうとしている対象が見えてきます。よくこんな傲慢な発言ができるものです。社員の主体性や人格を認めていない経営者の実像が見えてきます。社員は本当にどう思っているのでしょうか。

2つの問題を感じます。
ルールをおろそかにすることは挑戦者の意欲を損ないます(挑戦者をつぶすのが管理者の特徴ですが)。子どもたちへの影響を危惧します。子どもたちは本質を見抜く素直さを持っています。これは「いじめ」以外の何ものでもありません。
また、社会の視点でなく仲間の視点で組織を守ることは、組織の社会性を損ないます。企業はいうまでもなく社会の子です。守るべき価値を間違っては、制度の基盤が崩れます。

ところで、私自身はライブドアでもなんでもいいのですが、今の放送のひどさに不満がありますから、経営権の移行を歓迎します。今よりはよくなるでしょうから。
まあ、これは余計な話ですが。

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2005/02/24

■次世代育成行動計画が策定されていることをご存知ですか 

日曜日に、今、自治体で取り組まれている「子ども・子育て応援プラン、次世代育成行動計画」をテーマにした、子育ち学フォーラムに参加しました。

子育て分野で活動をしている人以外は、あまり知らないかもしれませんが、今年度中に自治体はこの計画を策定しなければいけないのです。
策定に当たっては、住民の意見を反映させることがうたわれています。

ところが、その策定の実態を知ると「またか」と思うほど、形だけのものになっています。
貴重な税金が、外部の安直なコンサルタント会社に流れているケースも少なくありません。
こういう状況はまだほとんど直っていません。
詳しくはCWSコモンズのホームページなどで紹介しますが、そこで感じたことをここでも書いておきたいと思います。
どうもコモンズよりもこのブログのほうが読者が多いようですので。

各地でこの計画に関わっている4人の方から、生々しい報告がありましたが、その基調にあるのは、形だけの計画づくりへの疑問です。
次世代の子どもたちの行動計画を実際には4~5か月で策定しなければいけないなどというのは、霞ヶ関の机上論者の発想です。それにみんな振り回されているわけです。
住民意見の聴取は、アリバイ工作的に行われていることも少なくありませんし、計画の前提になる意見調査もコンサルタント会社の通り一遍のものも少なくないようです。

また計画の内容も、「・・・を検討する」「・・・につとめる」「・・・の整備を進める」という文言が多く、これが計画といえるのかという疑問も出されました。
計画をつくっても市町村合併でどうなるのか不安だという意見も多かったです。

最後に私も少し話させてもらいましたが、そこで、計画は住民にとってのツールになること、行政の合併などは気にせずに、住民生活の視点から行政計画とは別の自分たちの計画と活動を広げていくことを提案しました。

たしかに行政の計画は抽象的ですが、もし「検討する」「つとめる」と明記されていれば、それを材料に行政に実際の検討を働きかけ、具体的な行動を引き出せばいいのです。
行政計画は行政の拠り所と位置づけられがちですが、住民と行政とのコミュニケーションメディアなのです。つまり、住民が行政に働きかけていく材料なのです。その発想の転換を行えば、どんな計画も活かせるはずです。

市町村合併は気にすることはありません。
市町村合併とは全く別の次元で私たちの生活圏は形成されています。
もしそうであれば、合併論議などは気にしないでいいのです。
それとは別に住民主役の計画や実践を進めればいいのです。

それに次世代育成までを行政に依存していたら、また戦争に借り出される子どもたちを育てることにもなりかねません。
せめて次世代はお上の助けを借りずに、自分たちが中心になって育てなければいけません。

子どもの問題は、実は大人の生き方の問題でもあります。
次世代育成などという言葉には違和感を持ちますが、もっとみんなが関心を持つべきテーマです。
ぜひとも自分の自治体ではどんな取り組みがなされているかを気にしてもらえればうれしいです。

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2005/02/23

■私は民間人なのです 

川崎市の宮前区に、初の民間人区長が就任したと読売新聞に大きく取り上げられていました。
「民間人」。何とも馴染めない言葉です。

大辞林によれば、民間人とは公的機関に属さない人のことだそうです。
ここでは、公と民とが対峙されています。つまり、日本の公とは官なのです。パブリックではありません。

官は「統べる側」、民は「統べられる側」です。
そこには垂直的な上下関係があります。
民間企業、民間外交、・・・民は官よりも一段下に見られている構造がそこにあります。

議員は民を代表して官とつながる存在です。
まあ、現実はアリバイ工作であり、飼いならされた官でしかないことが多いですが。

言葉の問題ではありますが、士農工商社会の延長の構造を感じます。
この構造を変えなければ、社会は変わりません。
残念ながら、現実はその枠の中で動機付けられた「民間人」たちが上昇志向の競争に追い立てられている状況です。
そこから抜け出なければいけません。

市役所の職員は「民間人」ではないのですが、
「民間人」から区長になった人は、これからは「民間人」ではなくなるのでしょうか。
それが「出世」だと、この記事を書いた記者は思っているのでしょうか。

たかが「言葉」ですが、言葉は大きなサブリミナリー効果を持っています。
差別用語狩りには、私は違和感がありますが、むしろこうした私たちの意識を規定している言葉をこそ吟味していかなければいけないと思います。

これは統治されている民間人のひがみでしょうか。

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2005/02/21

■ライブドアの堀江さんを支持し感謝します 

今日は勝手な支持表明です。

ライブドアの堀江さんを支持します。
私が支持したところで何の意味もないかもしれませんが、意思表明をしておきたいと思います。
もちろんこの支持は楽天やフジテレビの行動への異議申し立てを含んでいます。
そして、同時にマスコミの報道姿勢への異議申し立ても、です。

硬直し、制度疲労を起こしている現状に、堀江さんは新しい風を吹き込みました。
その新しい風を利用して、リスクをとらずに漁夫の利を得た楽天のやり方には怒りを感じます。こうして新しい風を押さえ込み、悪用してきた大人たちが子どもたちの不信感を強めているのだろうと思います。短絡的ですが、楽天の三木谷社長のような大人が社会をダメにしているのだろうと思います。彼を利用している財界にも失望しますが、彼らは論外で哀れむ対象ですので、むしろ三木谷社長が私には不快です。
フジテレビ事件はどうでしょうか。フジテレビにはもっと大人としての対応もあったと思います。敵対意識はむしろフジテレビの会長発言に感じます。弱く自信がないからでしょうか。それとも「大人」だからでしょうか。
ビジネスゲームとして考えたら、堀江さんの言動は稚拙だったかもしれません。あんなに発言してはダメだと有識者は言いますが、そこに価値観や世界観の違いを感じます。そういう論理の支配していた経済社会を壊そうとしているのが堀江さんです。彼の素直な言動を私は強く支持したいです。しかしマスコミや有識者は、よってたかって彼をつぶそうとしているように思います。それはまさに、今の体制に寄生している彼らの立場と私欲を露呈しています。私は彼らのような大人にはなりたくありません。

堀江さんを支持します。
「命に次に大切なお金」という発言にはいささかの違和感はありますが、
おそらく彼の真意はそこにはないでしょう。大人たちに向けられたブラックジョークだと思います。

堀江さんの志と夢に共感します。
何か役に立てればと思うのですが、定期預金残高ゼロの私には資金的な応援ができないので、せめて支持表明だけをさせてもらいました。

堀江さん
あなたの起こしている新しい風はかならず実っていくはずです。
いや、すでに大きな成果をあげていると思います。
少なくとも私は感謝しています。こういう人がいると知っただけで、元気が出てきます。
ありがとうございました。

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2005/02/15

■学校がなぜ悲劇の舞台になるのか 

また学校が舞台の事件が起きました。
事件の背景はわかりませんので、この事件へのコメントは避けますが、
学校という空間もまた、信頼を失った殺伐とした空間になっていることを思わせます。
なぜ学校が殺伐とした空間になったかは、社会のあり方と深くつながっています。社会の歪みが学校を通して子どもたちに襲いかかる仕組みになっているのかもしれません。
問題は社会の形に合わせて設計された学校に、子どもたちが無理やり合わせられていることです。そこに大きな問題を感じます。

学校の主役はだれでしょうか。
私は子どもたちだと思いますが、一部の例外を除き、そうはなっていないと思います。

その歪みは、いろいろな形で現れています。
例えば、最近、発達障害が話題になっていますが、昨日、日本教育会館で行なわれた公開研究会に参加した人がホームページにこんなことを書いています。

メディアは全般に、「今まで隠れていた障害が明らかになり、細かい支援が行なわれるようになった」という論調ですが、実際には入学前に細かい選別が行なわれているのです。要するに、障害児の多様化・重層化なんですね。 (中略) それを支えているのは、学級崩壊を防ぎたい教師と子育て不安から診断を望む親。 そして、出来る子にエネルギーとお金を注ぎたい文部科学省です。 教室に入れてもらえなかったり、教室から追い出されたり、様々な問題が起きているのです。

詳しくはこのホームページをご覧下さい。
http://bbs3.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=mypeace&mode=view&no=21
これに関するコメント記事もいくつかあります。

こうして創られた学校空間が、いかに子どもたちの心を歪めるかは想像に難くないです。

学校を開くとか閉じるとかの問題は、学校の透明性を高めるということでなければいけません。
子どもたちの集まる場をマネジメントしている人たちは、実態をもっと社会に情報発信してほしいです。
この事件は、そうしたことが急務であることを示唆しているように思います。

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2005/02/13

■信頼を失いつつある金融システムの意味 

通貨偽造がなぜ悪いのか記事は不評でした。
偽造は悪いに決まっているといわれれば、反論も出来ません。
少し違った視点から書きます。

日本の金融システムは信頼を失いつつあると、私は思います。
信頼を失ってしまえば、金融システムは成り立ちません。
そこに大きな問題があります。

最近の金融に関わる犯罪の多さに、銀行に預金することへの躊躇を感じている人は少なくないでしょう。
カード詐欺にあっても保証もしてくれない銀行を信頼できるわけがありません。
今はまだかつての信頼幻想の中で預金者は不安を抱きながらも他に術がないために、銀行を利用せざるをえないのですが、いつまで続くでしょうか。

銀行の社会的存在価値は大きく変わってきているはずですが、銀行は新しいミッションを創りそこないました。いや、その気はなかったとしか思えません。そして、むしろ金融不安や金融事故に依存して、自らの私益を維持することにのみ関心を向けているように思います。銀行統廃合の動きがそれを象徴しています。

カード詐欺にしても、対応策はいくらでもあったはずですが、自らの責任は取らずにきました。銀行を信頼して預けた預金者の保護は彼らの関心事ではありません。もちろん政治家も本気で考えようとはしていません。むしろヤミ金融の世界を利用しながら、問題の本質を摩り替えているような気がしてなりません。
つまり銀行をはじめとした金融関係者は、信頼性を保証するためのビジネスチャンスには関心を持っていますが、金融システムの信頼性にあまり関心はないのです。
まさに「産業のジレンマ」の典型的な事例です。

金融システムがこわれたら、大混乱が起こるでしょう。
金融システムの信頼性の回復は緊切な課題です。
それは、企業や産業の視点で構想するのではなく、個々人の生活の視点で構想されなければいけません。
せめてカード詐欺や振込詐欺の被害者を救済する仕組みはすぐにでもつくるべきです。
システムを管理する側として、それは当然のことです。
その常識を回復するところから、まずは始めるべきでしょう。

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2005/02/12

■表現に気をつけなくてはいけない社会  

このブログを読んで下さっている方はおそらく感づかれていると思いますが、
私は言わなくてもいいことを、それもやや過剰な表現で話したり書いたりしてしまうタイプの人間です。しかも感情がすぐ表情に出てしまいます。
大人としての常識がかなり欠落し、自己抑制力が弱く、そのくせ思い込みの強さから判断を間違うことも多く、その弱みを家族には見透かされているのです。

このブログや私のもう一つのホームページ(CWSコモンズ)は、最近、家族のチェックが入るようになりました。最初は反発していましたが、最近は彼らのいう事が正しいような気がしてきました。昨日のブログも2回もリライトしました。

私は自らの価値観をとても大事にしてきました。そして自分の意見を表明することは、大切なことだと考えてきましたから、それを大体においてストレートに出してきました。女房に言わせると、私の言葉は暴力的だそうです。子どもの言葉は、いつも暴力的ですが、その段階からまだ抜け出ていないのです。ですからきっと多くの人を傷つけていると女房はいうのです。

おそらくそうなのでしょう。最近つくづくそう思います。
しかしなかなか直りません。

いろいろな集まりに行くと、そこを支配している常識と私自身の常識とがあまりにも違うために、いらいらすることが少なくありません。参加した以上、おとなしく、そうした意見を拝聴しなければいけませんが、それがとても苦痛です。限度を超すと、ついつい跳ねてしまって、余計な一言を発信してしまうこともあります。途中で気づいて信頼回復につとめるのですが、一度跳ねてしまうと、もうだめで、はじかれものになってしまいます。そういう時は多くの場合、訳の分からない発言になってしまい、真意は伝わりません。そして自己嫌悪に陥ります。

私の個人的なホームページも表現に気をつけなければならないと昨日、家族からたしなめられました。ITの発達により、個人の発言も瞬時に世界に伝わる時代です。だからこそ気をつけろというのです。それに私を知らない人は「言葉」だけで考えるから、冗談が冗談にならないし、反意語もそのまま受け取られてしまうというのです。悔しいですが、納得しました。老いては子に教えられ、です。

私のホームページですらそうですから、マスコミでの表現はもっと大変なチェックが入るのでしょうね。そういえば、署名入り記事まで編集者によってリライトされることがあるようですし。

ITによって多様な価値観がどんどん露出し、そのつながりから新しい価値が創発される、まさに多様性社会が実現する、と私は考えていました。
しかし、これは間違いかもしれません。
むしろITにより発信範囲が広がると、各人の価値観は自己規制によって丸くなり、創発ではなく収斂し、単一価値観の社会へと向かっていくのかもしれません。
多様な意見が増加しているようで、実は意見が没個性化している。
昔書いた非情報化社会論を思い出しました。
因果の法則は時にねじれた結果を現出させるものです。

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2005/02/11

■お金を付けて家を売る時代 

今日、地元の不動産屋さんといろいろと四方山話をしていて、聞いた話です。
私の住んでいる我孫子市ではいま、駅前が大型マンションの建設ラッシュなのです。
シティアという大型開発には、私の知っているまちづくり活動に取り組んでいる長野県の人たちが見学にまで来ています。コミュニティを中心においたコンセプトがいいのだそうです。私にはとても違和感がありますが。

まあ、それはともかく、不動産屋さんの話はとても考えさせられました。
こういう話です。

ある人がマンション購入後、事情があって売ることになったそうです。
ところが価格が2年もたっていないのに、1000万円近くも下がってしまい、
残っているローンよりも400万円以上低かったのだそうです。
そのため、マンションを販売するために、その差額を支払わなければならなくなりました。
自分の家を売るのに400万円必要だったわけです。
売った人がお金を払う、おかしな時代が来たとその不動産屋さんは嘆いていました。
まあ、借金をして購入したわけですから、論理的に考えれば当然のことなのですが、なにか不思議な話です。
そういう悲劇が最近は増えているそうです。

誰が得をして、だれが損をしているのでしょうか。
何かが間違っています。
少ない頭金で変える仕組みも住宅価格の品質保証や価格評価の仕組みも、
さらにいえば、その根底にある金融政策や金融産業政策も、どこかに欠陥があります。
少し考えるだけで問題点などはわかりますが、だれも治そうとしません。

ちなみに私も恥ずかしながら、退職金の一部でマンションを購入して、退職金全額以上の損をしました。
金融政策にもその原因の一端があるような気がしますが、
その原因をつくった金融業界の損失は国家によって補填されているのに、
貧しい我が家の損失は残念ながら補填してもらえません。
まあ、自己責任ですから当然ですが。

「住宅喪失」(島本慈子著、ちくま新書)という本があります。
それを紹介しているreikoyamamotoさんのブログも読んでください。
彼女は、「これを読んだだけでは分からないが、日本という国で家を買うのが怖くなった」と書いています。

日本の経済政策や経済システムは、やはり病んでいるとしか思えません。

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2005/02/07

■刑の与え方がまちがっている社会  

再犯の増加が増えています。
そうした事件の報道に出会う度に、
「罪を憎んで人を憎まず」という命題に疑問を感じます。

裁判は「罪」を裁くのであって、「人」を裁くのではないのでしょうか。
罰する対象は人ではなくて、罪なのでしょうか。
どこかにおかしさを感じます。

もし仮に、人を憎まずであるとしても、
今の司法の枠組みには大きな疑問を感じます。
刑期を終えて出所した人がすぐにまた犯罪を行うのは、
その人を受け入れる社会の環境が整っていないからだという人もいます。
もしそうであれば、それは刑の与え方が間違っています。
受け入れ体制ができていない社会に出所させてはいけません。
つまりもっと刑期を長くし、それなりの生きる術を習得させるべきです。

飲酒運転で人を殺傷した人が再犯を繰り返すこともありますが、
それもそもそもは刑の与え方が間違っているのです。
問題は簡単です。
飲酒運転で事故を起こした人は、免許を剥奪し、一生、運転を認めなくすれば良いのです。そうしたところで何の不都合も起きません。もし起きるとしたら、自動車運転人口が減少し、自動車が売れなくなるかもしれないと言うだけです。つまり、こんな簡単なことも出来ないのは、自動車産業を初めとした産業界の意向だとしか思えません。それ以外の理由は私には考えられません。もしあれば、誰か教えてください。

さらに、不条理な高利貸しやドラッグの販売など、どこかで犯罪につながる原因を作っている人たちもまた、厳罰に処するべきです。どんどん摘発し、社会から隔離すべきです。
少なくとも、そんな活動が出来なくするべきでしょう。なぜそれができないか、これも問題は簡単なような気がします。

安直な人権主義があまりにも多いのは、なぜでしょうか。
安直な人権主義は、すべての関係者を不幸にしかねません。
司法界の人たちには、もう少し真剣になってほしいものです。
警察行政も司法界も、もっと産業から自立しなければいけません。

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2005/02/05

■通貨偽造の意味 

今回は暴論です。
最近、通貨偽造が広がっています。
非常識な話ですが、通貨偽造がなぜ悪いのかがよくわからなくなりました。
偽造によって、通貨の仕組みの信頼性を失わせるとか、インフレを引き起こすとか、偽造した人は得をするとか、いろいろと理屈では考えられますが、それがどうしたと考えていくとわからなくなるのです。

通貨って本当に分かりにくい存在です。
財政がこれほど赤字でも経済がまわっています。
その借金はどこからしているのでしょうか。それを裏付けるお金は誰が発行しているのでしょうか。
大銀行や大会社に絡んでの巨額な債権放棄や国税の投入とわずかばかりの紙幣偽造とどこがちがうのでしょうか。
ノンバンクの金融機関が高率な利子をとるのに比べたら、たかだか数億円の紙幣偽造などは瑣末な問題のような気もします。汗をかかずに、紙幣を創出する仕組みは蔓延するなかで、偽造通貨の意味は一体何なのか、偽造行為は悪いことは理解できますが、どうも腹におちません。

デリバティブとかなんとか、よくわからない仕組みで信用創造している社会のほうにこそ、問題があるような気がします。
なんでも証券化する時代ですし、よくわからない証券は偽札みたいなものにも思えますし。
思いつきで2000円札を創るのと、偽札とは全く違うことなのでしょうが、どこか類似性を感じます。

お金を偽造することは、どこに問題があるのでしょうか。
どうもわからなくなってきました。
どなたか教えてくれませんか。

ちなみに私たちがやっているコモンズ通貨というのがありますが、この通貨は偽造歓迎です。カード式ですが、偽造してもらえれば、作る手間が省けますから。

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2005/02/04

■銀行の窓口の不思議さ  

久しぶりに銀行に行きました。
東京三菱銀行柏支店です。
私の住んでいる我孫子市には支店がないので、電車で行かないとダメなのです。
今回はATMで使うカードを発行してもらうためです。

ところがです。
窓口がごった返ししているのです。
係の人にきくと1時間くらいかかるそうです。確かに窓口の前のイスは満席です。
久しぶりの銀行ですが、信じられない風景です。
1時間ですよ。
平日のお昼過ぎです。係の人に午後になるとすきますか、と尋ねたら、ずっとこうです、ということでした。
どこかで聞いた言葉だなと思いました。そうです、羽田空港での事件です。

銀行がつぶれるのは当然ですね。
大銀行を利用するのをやめることにしました。まあ、ほとんど預金はありませんから、銀行には何の影響もないでしょうが。地場の千葉銀行か郵便局にします。まあ、郵便局も民営化されたらこうなるのでしょうか。いや、サービス向上のための民営化でしたっけ?どうも最近は混乱する事が多いです。
こんな銀行を支えるために私たちの税金が使われているかと思うと情けないですね。
頭取は一度でもいいから自分で銀行の窓口に言って、利用してみてほしいですね。

最近は朝日新聞をやめ、日航も利用をやめ、今度は都市銀行の利用をやめ、もう大変です。
不便な時代になってきました。まともな事業家はいないのでしょうか。

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2005/02/03

■ニーメラーの教訓  

岩波新書の「ルポ戦争協力拒否」を読みました。こういう本がなぜ読まれないのかが残念でなりません。書籍文化を壊し続ける出版社には、少し考えを変えてほしいものです。
それはともかく。

昔読んだ、ニーメラーのエピソードが紹介されていました。
丸山眞男「現代における人間と政治」に紹介されている話ですが、それをこの本に登場するある人が語ってくれています。引用させてもらいます。

「ナチスが共産主義者を襲ったとき、自分は少し不安であったが、自分は共産主義者ではなかったので、何も行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったから何も行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人などをどんどん攻撃し、そのたび自分の不安は増したが、なおも行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。そこで自分は行動に出たが、そのときはすでに手遅れだった」。(「ルポ戦争協力拒否」184頁)

まだ間に合うでしょうか。
2月20日に、「テロリストは誰?九条の会」というグループ立ち上げのための設立茶話会があります。私は同じ時間に子育ち学のフォーラムがありますので、参加できないのが心底残念ですが、みなさんいかがでしょうか。私の代わりにどなたか参加してくれませんか。ホームページをご覧下さい。

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2005/02/01

■イラクの国民投票の結果 

イラクでの国民投票が終わりました。
これが「どのような物語」のはじまりなのかは、人によってかなり違うものだろうと思います。

私は、この選挙に関しては投票権もありませんし、その影響をそれほど受けるわけではありませんので、イラクにとっての意味は語ることはできません。
イラクで生活する人たちにとって、どういう意味があり、どういうものであったかは、残念ながらテレビや新聞からでは見えてきません。ただ、その選挙のために大勢の人が死に、憎しみを残していったであろうことは推察できます。

選挙は役割を終えた、と私は思っています。イラクで、ではありません。至るところで、です。アメリカの大統領選挙も日本の国会議員選挙も、民意を代表しているわけではないことが明白になってきましたし、操作可能性が高まっているように思います。つまり、選挙の正当性を保証する情報基盤や公正な手続きの信頼性が損なわれてきてしまったように思います。一度、崩壊した幻想は効用を失います。
選挙も国民の合意も、政治家にとっては自己主張のための道具でしかありません。
権力者が考える「国民合意」とは何なのか、一度、安部さんや小泉首相にお聞きしたいものです。

イラクの選挙で、いったい、何が変わるのでしょうか。
国民の合意が得られたのでしょうか。
その合意は、イラクでの戦いを終わらせられるのでしょうか。

戦いを止めさせることは、第三者にはできません。
しかし、戦わせることは第三者にもできることです。
不本意ながら、戦いを増幅させている側にいる者の一人として、
選挙が戦いを増幅させないことを祈りたいです。

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