■表現に気をつけなくてはいけない社会
このブログを読んで下さっている方はおそらく感づかれていると思いますが、
私は言わなくてもいいことを、それもやや過剰な表現で話したり書いたりしてしまうタイプの人間です。しかも感情がすぐ表情に出てしまいます。
大人としての常識がかなり欠落し、自己抑制力が弱く、そのくせ思い込みの強さから判断を間違うことも多く、その弱みを家族には見透かされているのです。
このブログや私のもう一つのホームページ(CWSコモンズ)は、最近、家族のチェックが入るようになりました。最初は反発していましたが、最近は彼らのいう事が正しいような気がしてきました。昨日のブログも2回もリライトしました。
私は自らの価値観をとても大事にしてきました。そして自分の意見を表明することは、大切なことだと考えてきましたから、それを大体においてストレートに出してきました。女房に言わせると、私の言葉は暴力的だそうです。子どもの言葉は、いつも暴力的ですが、その段階からまだ抜け出ていないのです。ですからきっと多くの人を傷つけていると女房はいうのです。
おそらくそうなのでしょう。最近つくづくそう思います。
しかしなかなか直りません。
いろいろな集まりに行くと、そこを支配している常識と私自身の常識とがあまりにも違うために、いらいらすることが少なくありません。参加した以上、おとなしく、そうした意見を拝聴しなければいけませんが、それがとても苦痛です。限度を超すと、ついつい跳ねてしまって、余計な一言を発信してしまうこともあります。途中で気づいて信頼回復につとめるのですが、一度跳ねてしまうと、もうだめで、はじかれものになってしまいます。そういう時は多くの場合、訳の分からない発言になってしまい、真意は伝わりません。そして自己嫌悪に陥ります。
私の個人的なホームページも表現に気をつけなければならないと昨日、家族からたしなめられました。ITの発達により、個人の発言も瞬時に世界に伝わる時代です。だからこそ気をつけろというのです。それに私を知らない人は「言葉」だけで考えるから、冗談が冗談にならないし、反意語もそのまま受け取られてしまうというのです。悔しいですが、納得しました。老いては子に教えられ、です。
私のホームページですらそうですから、マスコミでの表現はもっと大変なチェックが入るのでしょうね。そういえば、署名入り記事まで編集者によってリライトされることがあるようですし。
ITによって多様な価値観がどんどん露出し、そのつながりから新しい価値が創発される、まさに多様性社会が実現する、と私は考えていました。
しかし、これは間違いかもしれません。
むしろITにより発信範囲が広がると、各人の価値観は自己規制によって丸くなり、創発ではなく収斂し、単一価値観の社会へと向かっていくのかもしれません。
多様な意見が増加しているようで、実は意見が没個性化している。
昔書いた非情報化社会論を思い出しました。
因果の法則は時にねじれた結果を現出させるものです。
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コメント
さとうさん、久しぶりに覗いてみました!
一点だけコメントしまーす!
>ITによって多様な価値観がどんどん露出し、そのつながりから新しい価値が創発される、まさに多様性社会が実現する、と私は考えていました。
しかし、これは間違いかもしれません。むしろITにより発信範囲が広がると、各人の価値観は自己規制によって丸くなり、創発ではなく収斂し、単一価値観の社会へと向かっていくのかもしれません。多様な意見が増加しているようで、実は意見が没個性化している。
こめんなさい、これぜんぜん違うとおもいます!そんなにかってに悲観しないでください~~!(笑)
多様性を許すとか許さないとかの話と、せっかくご家族が指摘してくれたこと、一緒にしないほうがいいとおもいます!きっとわかってらっしゃるんだとはおもいますが、、ITによって個人の発信のインパクトが大きくなったのはその通りですが、それはポジティブなものも、ネガティブなものも一緒です。たしかに公共の電波ではないので、ブログはとくに読みたくなければ読まないだけです。
ぼくもよく注意されますが、書くというのは残ることでもあるので、表現にかんして、読み手がいることをケアするのは、実は多様性を確保するうえでも重要なのではないかとおもいます。ご家族の心配もそこにあるような気がします。ハラハラしちゃってるのかな??よく欧州の友人と話していると、多様性との付き合い方が上手ですね。異文化の話をうまく楽しみながら、敬意払いながら、時に遊びをいれながきいている。アメリカ人や日本人はもっと無邪気に、失礼なこと言っていますが・・・
つまり、佐藤さんが書かれていた、どこかの場にいって違和感があるときに、イライラしてしまって発言してしまうのって、やっぱり多様性と逆なんだと思うんです。同時に、黙っているのも多様性と逆なんだと思うんです。多様性とは、とても忍耐もいるし、ときどき逃げたくもなりますが、やっぱりきちんと聞くことだし、認めることだし、ふつうに面白がりながら、余白をのこしながら、自分のおもうこともふつうのトーンで伝えていくことだと思っています。
ソーシャルキャピタル論のあぶないところはそこですね。解釈をまちがうと、話の通じるひと同志の「つながり」ばかりを大事にしてしまう。SCの話を分かっている人同志の、肯定的な会話に漬かってしまう。確かにコミュニティとは限定性があるからコミュニティなのですが、そこのあたり、とてもむつかしいな、っていつも思います。シアトルは、確かに、違うエスニシティのグループのつながりが結構強い印象ですが、ワシントンDCは完全にほぼ棲み分けでした。でもワシントンDCも、民族グループごとのつながりは強いんです。
ぼくも似た傾向があるので、、つい書いてしまいました。
かってにえらそうなコメント書いてしまって、すみません・・・!! 勘違いで書いている部分もあるかと思います。でも黙っているのは、やっぱり多様性に対しての不寛容だとおもうので、、、 書いちゃいました!
いの)
投稿: いの | 2005/02/20 09:48
PS)すみません、たくさん・・・
ただ、佐藤さんの指摘すごくわかるんです。
MLやふだんのメールでも、ものすごく無難なことしか書かなかったり、思っていることを表明しない(貢献しない)という空気はすごくありますよね。特にかための企業カルチャーで働いている方は、個人の顔の表明に慣れていないみたい。
なんのためのITなんだろう、とか思ってしまう(社内文書と一緒?)
そうすると、佐藤さんのように表明するひとの存在で、コミュニティが動いているのに、批判はするけど、貢献はしない、という結果になりますよね。佐藤さんは身を切って、弱い立場になるけれど表明しているのに、、といういらだちもでてしまうし。
表面的な肯定か、非難がましい否定かになってしまうのでなくて、ほんとうは主張じたいにいいもわるいもないはずなので、どちらもふつうに表明できるコミュニケーションや、そうできる場をつくっていきたいですね。 たくさん書きすぎました・・・!
投稿: いの | 2005/02/20 10:08
井上さん
コメントありがとうございました。
なかなかゆっくり話す機会がないですね。
会っているのに、ネットで意見交換する面白さもありますが。
2点だけ誤解のないように補足します。
>どこかの場にいって違和感があるときに、イライラしてしまって発言してしまうのっ>て、やっぱり多様性と逆なんだと思うんです。
なぜイライラするかといえば、多様性の不在に対する違和感なのです。
つまり社会の常識(主流の考え)にただ無批判に乗っているだけで、自らの意見や価値観がないために、おなじことをみんなで確認しあっていることに苛立ちを感ずるわけです。
まあそれでも不寛容のそしりは免れませんが、自分の考えと言葉で話してほしいと思うわけです。話をしないことの価値も含めてです。
多様性とは、それぞれの主体性がある時に意味を持ってくる言葉です。
さまざまな考えがただ存在するということではありません。
その考えがきちんと個人に所属していてはじめて意味を持ってくると私は思います。
みんななんで自分の言葉で発言しないのだろうとイライラしてしまうわけです。
そこで、ついつい、「・・・・ってどういう意味ですか。あなたはどういう意味でつかっていますか」と失礼な質問してしまうわけです。
>ソーシャルキャピタル論のあぶないところはそこですね。解釈をまちがうと、話の通>じるひと同志の「つながり」ばかりを大事にしてしまう。
ソーシャルキャピタルで大切なのは、開かれたつながりです。閉じられたつながり、つまりボンディングを克服した開かれたつながりが、ソーシャルキャピタル論の意味です。つまりブリッジングという概念をボンディングにつなげたところに意味があると私は思っています。
同じ仲間とつながっていることをむしろ批判しているように思います。
それは新しいコミュニティ論にもつながっていきます。
従って、実は経済システムや社会システムのパラダイム転換を意味しています。
私の不満はそうした発想と意識が霞ヶ関や学者にはあまりないということです。彼らは論理演算の世界に住み、今の経済社会の分析ツールに依存しているからです。
私のホームページにしつこく何回も書いていますが、私が昨今のソーシャルアントレプレナー論やコミュニティビジネスの広がりに、あるいはNPO法人に批判的なのは、そうした意味からです。
この点に関しては、どうも寛容にはなれないのです。近親憎悪かもしれませんね。
まあ、これも最近は少し意識を変えたほうが良いかなと思い出していますが。
投稿: 佐藤修 | 2005/02/21 12:08