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2005年4月

2005/04/30

■時計をはずす生活  

先日、福島でタクシーに乗ったときの話です。
新幹線に乗るために急いでいたのですが、62歳の運転手がとても話し好きで、運転よりも話に夢中で、時速40キロくらいの走行なのです。話は福知山線の事故の話で、1分30秒の遅れなどは、遅れのうちに入らないと言うのです。
まあ、そんな話なので、急いでくれとも言いだしにくかったのですが、さすがに遅すぎるので、新幹線の時間を話し、間に合わせてほしいと言いました。
そうしたら、その運転手は、鉄道は待ってくれないからね、と速度を速めてくれました。普通は20分弱でつくのですが、30分近くかかりましたが、新幹線には間に合いました。
定時運転より安全を、などと書いたくせに、自分が当事者になると意識は変わってしまうのです。とろとろ運転(つまりは安全運転)の運転手にイライラした自分が恥ずかしいです。福知山線の運転手へのプレッシャーに、私も加担しているわけです。

タクシーの運転手が、このあたりは今でも鉄道以外は田舎時間だから急がないでいいのだといいました。つまり制度で決められた時間に人間が合わせられるのではなく、人間の暮らしが基準になっているわけです。しかし、最近は鉄道を利用する人や会社に勤める人が増えたために、都会時間に合わせなければいけなくなってきたというのです。

田舎時間。人間に合わせた時間といっていいでしょうか。
地方の集まりに行くと、なかなか定刻に人が集まらないことがあります。しかし、だれも急ぐこともなく、まあこのあたりはこんなものだと悪びれもせずに話してくれます。
住民に呼びかける役場の会議も、始まる時間は書いてあるのに、終わりの時間が書いていないことが多いです。終わりの時間を書いておくのが常識でしょう、などとついつい都会時間人間の私は偉そうなアドバイスをしてしまうのですが、直りません。

しかし、今回の田舎時間の話を聞いて、考えを変えることにしました。
時間は、いろいろあるのです。時計の時間は、そのひとつでしかありません。

私は23歳の時から腕時計を使っていません。講演などではカード時計を持参しますが、普通の暮らしには時計は極力見ないようにしています。ですから時々、約束の時間に遅れてしまいます。飛行機にも2回乗り遅れました。それで迷惑をかけたことはありますが、まあ何とかやっていけます。勝手な話ですが。

時間は生活しやすくなるための手段の一つであるはずなのに、私たちの生活は時間に支配されがちです。時計によって刻み込まれた時間から、少し解放されるのもいいかもしれません。
この連休、時計をはずしてみませんか。

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2005/04/29

■地域社会は見えてきたのか見えなくなってきたのか

私は「住民参加」という言葉に不信感を持っています。
どうも実体が感じられないからです。
「住民」という言葉は、もちろん理解できるのですが、「住民」は集合概念でもありますから、具体的な行動主体としてはあまりに多義的で、実体を特定できないように思うのです。住民参加を誰でも参加できる仕組みという意味で捉えれば何とかイメージはできるのですが、たとえば地域福祉計画を住民参加で作成するという場合の「住民」とは誰のことなのかがわからないのです。誰を「住民」に選ぶかで、全く意味が違ってきますから、その意味は定まりません。意味が定まらない言葉には実体はありません。むしろコミュニケーションを阻害する危険な言葉です。こういう「意味のない危険な言葉」が広がっているように思います。

しかし、住民たちに関しては、いま変わりそう気配があります。
NPOの登場です。多様な住民たちの思いや行動がつながりだして、顕在化し始めたのです。住民がばらばらになってしまった状況では実体化できなかった集合名詞としての住民が実体化されだしたのです。NPOを通して、地域社会が少しずつ見え出してきたのです。
住民と行政との関係も変わりだすかもしれません。

とまあ、私は思っているのですが、一方で反対のベクトルの動きも進んでいることを忘れていました。

昨日、ある自治体の消防署の方から、地域社会が見えなくなってきたというお話をお聞きしました。
地域防災や災害時に対応するためには、地域社会の各戸の過程状況がわかっていないといけません。聴覚障害の方には音声の告知や誘導は効果がありません。昔はそうした状況が見えていたのに、いまは個人情報は同じ行政の立場でも入手が難しいのだそうです。
その人がある町内会の総会に来賓として呼ばれた時に、そこで町内会の住民名簿についての議論があったそうです。ある人が、名簿に住所や電話は載せるのは止めようと言い出したためです。各種名簿が流出し、電話詐欺などに悪用されることを危惧しての発言だったようです。しかし、名前だけの名簿というのは、いったいどういう意味があるのでしょうか。少なくとも地域社会の安全安心を育てるためには役にはたちません。
不信感も、ここまで広がってくると、逆にますます電話詐欺をしようとする人には有利な状況が生まれていくでしょう。

以前も書きましたが、生活の守り方が間違っているような気がします。
この話から、そこにいた自治体の職員のみなさんからいろいろな事例が出てきました。
地域社会が見えなくなってきたというのが、みなさんの共通の実感でした。

さて、地域社会は見えてくるのでしょうか、
見えるか見えないかは、実は実体があるかないかということなのですが。

みなさんは近隣の人たちのことをどの程度ご存知でしょうか。

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2005/04/28

■安全よりも定時運転 

今回の福知山線の脱線事故は、企業というものの持つ特徴をいろいろと顕在化してくれています。怒られそうですが、事件を起こした運転手もまた、被害者であるように思えてなりません。現代の企業が陥っている組織病理を経営者たちはしっかりと実感してほしいものです。

たとえば、JR西日本では「鉄道の最大の使命は定時運転の確保」とされているようですが(読売新聞)、もしそうであれば、手段と目的の倒錯どころか、発想そのものが機械の歯車の視座になっているとしか思えません。そこには人間としての主体性はありません。「機械発想」の企業文化という前提でみると、今回の事件で問題になっている同社の対応がつながってきます。

いうまでもありませんが、鉄道の使命は「安全な移動手段の提供」です。
先日も書きましたが、JRの安全対策は私のような素人から見ても不十分です。
やれることはまだたくさんあります。
もし本気で安全を考えるのであれば、利用者が多いのですから、アイデアはいくらでも集まるでしょう。それをやらないのは、自動車会社と同じで、本気でないからです。「安全」や「環境」を口にする企業は信頼できません。口に出す前にやらなければいけません。

たとえば、定時運転できなかった運転手に対する罰則としての「日勤」の話がありますが、これは学校での「いじめ」の原型です。こうした事例は、なにもJR西日本に限った話ではないでしょう。しかし不思議なことに、内部にいる人は、だれもそれに抗えないのです。抗うことは「辞める」ことです。それが理由で自殺した運転手の父親が訴訟を起こしましたが、裁判所は棄却したようです。その事件がもし、いじめを顕在化していたら、今回の事件は起きなかったかもしれません。日本の裁判官に対する私の不信感は、彼らが組織人に成り下がっていることです。しかも、パーキンソンの法則にしたがって、裁判員制度を作って、自分たちの縄張りと上位構造を広げ高めようとしていることに憤りを感じます。
すみません、また横道にそれました。

ところで、この二つは、間違いなくつながっています。
「日勤」制度が安全性を壊しているのはいうまでもありません。安全よりも定時運転という組織体質が明確に見えてきます。同社の社長は、それに気づいていませんが。

ところで、こうした病理現象は企業だけでしょうか。あるいは経営者だけでしょうか。
どうもそうではないように思います。
私自身もまた、そうした「機械発想」や「いじめ姿勢」を自らの中にかなり強く持っているような気がします。時に自己嫌悪に陥ります。
そして、「安全よりも定時運転」に類した価値の倒錯に陥ることが少なくありません。
そうした人間に内在する弱みや間違いが昇華されるための組織が、最近では逆に弱みを追い詰め、間違いを増幅する組織へと変質しているような気がしてなりません。

どこかで「組織原理」を変えなければいけません。
それはそう難しい話ではないと、私は思っているのですが。

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2005/04/27

■言葉の価値 

最近、言葉について、何回か書いてきましたが、豊かな価値を持った言葉もあります。

私の住んでいる我孫子市に、デイヘルプというNPOがあります。
http://members.jcom.home.ne.jp/2125030801/

理事長の森谷良三さんはとても器用な方ですが、それを活かして、高齢者住宅での家庭内事故防止やバリヤフリー化、障害を持った人たちの自立促進を目指して、日曜大工の住宅改善ボランティア集団を1994年に立ち上げました。その頃、我が家も森谷さんたちにお世話になったことがあります。
ずっと地道な活動に取り組まれ、今ではメンバーも20人を超えています。すばらしいのは、人のつながりを大事にされていることです。
活動は、高齢者向けマンツーマン方式のパソコン教室など、広がってきていますが、原点にあるのは「自分たちの町は、自分たちの力で興そう」という姿勢と「人間共生」の理念です。
こう書いてしまうと理屈っぽくなりますが、要は、次の森谷さんの言葉のほうが正確でしょう。

「江戸っ子ってやつは、おせっかいなんだよ。困ってる人を見ると頼まれもしないのに手を貸してあげちゃう」

ちなみに森谷さんは、東京・八丁堀生まれで、もう80歳を超えているのです。

その森谷さんからメールが来ました。
ある要介護シニアの方が、玄関から道路に出る階段に手すりを付けたいと市役所に依頼したのですが、制度の中では対応してもらえませんでした。工務店に依頼すれば10万円はかかるのでデイヘルプに相談がありました。森谷さんたちは、7000円の材料費だけで手すりを付けてきたそうです。
そしてこうメールしてきました。

私は、こんな法律の隙間で泣く人を沢山見てきましたが、こんな人たちに手を貸すのが市民活動なのだろうか、と最近は疑問を感ずるようになりました。 それ以前に、こんな隙間を行政に直言し、改正させるのが市民活動としてやるべきだと思いますし、その上で、解決には官民協力して行く姿勢が必要なのかと思います。

10年以上も地道な活動をしてきた森谷さんの疑問と問題提起の言葉には、とても深いものがあります。そして、たくさんのヒントがあります。
「住民参加」や「住民と行政の協働」という流行語よりも、森谷さんのこの一言のほうが、よほど重いと思いますが、みなさんはどう思われるでしょうか。行政は、もっと現場の発言に対する感度を高めなければいけません。この言葉から、住民との関係の新しい地平が開けていくはずです。

言葉の価値は、発言者の人生に支えられているように思います。
そうした言葉が、少なくなってきています。

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2005/04/26

■責任回避のために不信感をあおる社会 

最近、電車や新幹線の中で、こんな放送を聞くことが多いです。

JR東日本では警察のご指導ご協力をいただき、車内犯罪防止につとめています。

この放送を聞くたびに、いつも気になっています。
このアナウンスでは、自分たちでは車内安全は実現できないことを表明しているわけですが、これでは利用者はJRを信頼できません。
JRという企業の基本体質が見えてきます。
昨日、福知山線で大きな事故が起こりましたが、これにも通ずるような気がします。

それはともかく、こうした放送はJRに限りません。
人が集まる場所などでもよく流されるものです。
さすがに警察のご指導ご協力という言い方をするような、無責任なところは少ないですが、似たような放送はかなり行われています。ポスターで表示されているところもあります。
そうしたところは、自らの無能力さ宣言と責任回避を行っているわけですが、

自分の空間を自分で責任を持って管理できない会社は信頼しなければいいだけですが、もうひとつ気になることがあります。
根底にある権力依存発想です。管理発想と言ってもいいでしょう。
そして、その放送やポスターが、人間不信を知らず知らずのうちに広げていることが気になるのです。

JRには、ぜひこの放送をやめてもらい、もっと真剣に車内安全、車内安心の実現を考えてほしいと思います。
そこからきっと本当の事故対策が開けていくように思います。

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2005/04/25

■総論の空しさと当事者としての言動 

23日にジャカルタで開催された日中首脳会談は何をもたらしたのかがよくわからないのですが、最近はこうしたことが多いです。私の理解力が弱まっているばかりではなさそうです。

いろいろと動きがあっても、実態は何も変わらない。何も変わらなくても、多くの人はあまり不都合を感じない。多くの人が「おかしいな」と思いながらも実際の行動は起こさない。問題の当事者だけが問題を背負いながら、失望感を強めていく、そんな状況が広がっているように思います。
社会はどんどん不可視化が進んでいます。だからこそ個人情報が市場価値を高め、どんどんと商品化され出回りだしているのです。個人情報保護が法制化されるということは、個人情報がますます裏社会に出回るということです。ここでも「近代パラダイムのジレンマ」が見られます。

必要な情報がきちんと見えなくなってきた一因は、マスコミにあると思います。新聞やテレビで流される情報と現場情報との格差は、きっと当事者の方にはよくわかるでしょう。マスコミは公共性を失ってきています。しかし、そのマスコミに依存せざるを得ないのも否定できません。

ブログによる多様な情報発信は確かに広がっています。
たとえば、日中首脳会談に関しては、イラク問題に反対して外務省を辞めさせられた天木さんのホームページの記事が示唆に富んでいます。
http://amaki.cc/bn/Fx.exe?Parm=ns0040!NSWhats&Init=CALL&SYSKEY=0010
しかし、ブログはボンディング効果はありますが、多様な意見によって構成する公共性という視点でいえば、まだまだシステムになっていないようにも思います。

北朝鮮拉致問題も、動きがとまったようです。小泉首相にとって、拉致問題がなんであったかを勘ぐりたくなるほどに動きません。
イラクもそうですが、すべてが「総論」と「言葉」で議論され、決せられているような気がします。そこには「現場」や「当事者」がいつも不在です。

当事者の立場になって考え、行動することは難しいです。
しかし、私たちは何らかの問題で、必ず「当事者」であるはずです。
その自らが当事者である問題に関して、言葉を発し、行動を起こすことが、今のような動きが出てこない「総論の時代」を変えていくことになるはずです。

反日デモが問題なのではなくて、「靖国問題」や憲法問題に象徴される日本国家のあり方が問題なのではないか。
当事者になる問題に立脚して言動する前に、まずその問題を自覚する姿勢が、私たちに求められているような気がします。

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2005/04/24

■「言葉」が死に出したような気がします

全国の小学5年~中学3年の約45万1000人を対象に実施した学力調査結果が発表されました。3年前から実施された「ゆとり教育」を柱とする新学習指導要領で学ぶ子どもを対象にした初の学力調査だといいます。
最近のゆとり教育批判が、そうした実態把握を踏まえずに議論されていたのかと改めて驚きますが、今回、学力が少し向上したという結果になったのはきわめて皮肉な話です。

以前も書きましたが、そもそも「学力」か「ゆとり」か、などという発想自体に問題があると思いますが、今回の報道を見ていても、そもそも「学力とは何か」「ゆとりとは何か」が見えてこないのが残念です。

その同じ新聞に、

「起業」をキーワードに、小・中学生に英語やマルチメディアなどを総合的に教える講座が人気だ。
という記事が出ています(朝日新聞)。
これもいささか気になります。

そういえば、学校に限りませんが、いたるところで「起業」がキーワードになっています。
ここでも気になるのが、起業とは何かです。
朝日新聞によれば、小中学生を対象とした起業ブームに共通しているのは、「ホリエモンのような起業家の育成ではなく、「将来、社会で夢の実現が出来るよう」実践的なスキルを身につけることだといいます。
まあうたい文句はいか様にも書けますが、多くの人は実際の内容ではなく、こうした「内容を総括した言葉」で判断し、考えるようになっています。
フラーが指摘しているように、テレビと新聞が「言葉」を広げたからです。
そしてそれをたくみに、最近の「アントレプレナー支援者」は利用しています。

空疎な言葉で語る人たちが経済や政治の主流になっていることがとてもさびしいです。

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2005/04/22

■不明を恥じる 

今回は懺悔です。

ライブドアとフジテレビの問題はあっけなく決着しました。
この問題が起きた時に、私は堀江さんを支持するメッセージをここに書きました
私の判断ミスでした。

彼の言動が、状況を破り、見えなかったものを見えるようにしたことは、今でも評価していますが、彼のマネーゲーム的な感覚は、私が思っていたのとは違って、没価値的でした。それを理解できなかった自分を恥ずかしく、思います。
一度出したメッセージは消えることはありませんが、自らの不明を恥じるとともに、改めてブログへの姿勢を考え直したくなりました。

こうしたことがこれまでなかったわけではありませんが、表現の行き過ぎはともかく、価値観に関わるところで評価が変わることはありませんでした。
残念ですが、今回は評価を変えました。
私にとっては、結局は彼もまた、取り込まれた一人であり、イノベーターではなかったということです。
産業基盤が大きく変わってきているなかで、しっかりした信念や価値観がなくても、あるいはイノベーションがなくても、インスタントな起業家が生まれる時代になったということかもしれません。
マネーゲームの主役は、常にマネーですから、彼らを起業家というべきかどうかも迷いますが。

その時代を早く終わらせたいものです。
私の周りで苦戦している若いソーシャルアントレプレナーたちに大きな期待を持っています。

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2005/04/20

■中国の反日デモ騒動

連日の中国の反日デモのニュースを見ていると改めて国家の不条理に怒りを感じます。それとこうした映像を繰り返し流すマスコミにもいささかの疑問を感じます。これはまさに「反中国教育」です。マスコミの教育効果はきわめて大きいです。
対立軸は「日本」対「中国・韓国」ではなく、「制度」対「生活」だと、私は思っているのですが、その(私にとっての)基本軸が、最近は見事にはずされているような気がして残念です。
この問題へのコメントは難しいですが、中国側が公式の場ではまったく謝罪の意を表しないこと、日本もまたそれに異議申し立てしないことに、改めて対立の基本軸の所在を感じます。国家は、結局は同じ存在なのかもしれません。

これが、昨日までの私の考えでした。

竹島問題にしても、靖国参拝にしても、その本当の意味は私も含めてあまりわからないままに問題がどんどん広がっています。私自身の不勉強さを恥じなければいけません。
最近、私自身もどんどん時代に流されて、あいまいな言葉だけで考えているような気がしだしてきました。いろいろな人のコメントは、それに少し気づかせてくれました。

首相が靖国参拝をすることがなぜ問題なのか、私は子どもたちに説明できる自信がありません。ただ言えることは、それが東アジアの人たちには不愉快に感じる材料になりうるということです。

人の言動に関する、当人の「思い」や「意図」と、その言動に触れた人にとっての「意味」や「評価」とは同じではありません。時に正反対になります。この2年、私も実際にそれを体験しました。

私は、日本の国家も国旗も好きですので、なぜあれほどまでに学校の先生たちがこばむのかが身体的に理解できませんでした。もちろん国家や国旗にこめられた「忌まわしい記憶」や「その意味」は理解していましたが。
しかし、1年前にある雑誌で、渡辺さんという方の書いた文章を読んでようやく理解できました。できれば皆さんももう一度読んでください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132

日本の人でさえ、靖国への複雑な思いを持っている人もいます。そうであれば、東アジアの人たちには、首相という国家を代表する人が靖国参拝を行うことに対しては複雑な思いがあるはずです。
そうした人たちの思いへの想像力や感受性が、さまざまな価値観の人たちが共生していくこと、つまり本来的な意味でのグローバライゼーションの出発点だろうと思います。
そうした想像力や感受性のない、一人の人間の独善的な言動が、もし東アジアの平安を壊す材料をつくりだしているとしたら、そういう人を代表に選んでいる私たちの責任は大きいです。

彼らの投石は、甘んじて受けなくてはならないのかもしれません。
繰り返し映し出される破壊の現場映像を見ながら、ようやくそのことに気づきだしました。

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2005/04/19

■父親の権威がなくなったわけ

いろいろな事情で、この10日間、ブログにアクセスできていなかったのですが、いくつかのコメントをもらっていました。コメントはうれしいものです。ありがとうございます。

コメントのそれぞれには不十分ではありますが、それぞれにコメントを書きました。
ここでは「猫」さんが書かれた、フラーを思い出して、横道のコメントを今回は書きます。
長いです。引用があるからです。

「バックミンスター・フラーの宇宙学校」という本の最初に書かれているのが、フラーの発想の基本姿勢です。その一つは、「われわれが強烈に条件づけられた反射作用をもっていることを、ともかく無条件に認識すること」です。フラーはこんな風に書いています。

たとえば「上」と「下」ということばがある。だれもがあらためて考えることなく使っているこれらのことばは、われわれは無限に横方向にひろがる平らな世界に住んでいるという、何百年もの歴史をもつ「誤った概念」に都合がいいようつくりだされたものである。

ちょっと違うかもしれませんが、私は先入観をできるだけ克服したいと考えています。
わかりきったような言葉の意味もきちんと考えていきたいと思っています。
民営化、領土、国家、平和、民主主義、性善説、友好、みんな私にはとても気になる言葉なのです。
いや、私には理解しにくい言葉というべきかもしれません。

また、私の問題の立て方がいつもちょっとピントはずれなのかもしれないと思うことも少なくありません。もちろん私の問題の立て方が、私にはわかりやすく納得できることはいうまでもありませんが。
たとえば、竹島問題にしても、そこから発した中国の反日デモにしても、対立軸は国家間ではなく、「制度」対「生活」だと思っています。
ですから、彼らが投げている石は、国家や制度に向けられているのであって、日本に住むわれわれに向けられているのではないと思っています。
しかしテレビで投石の様子を何回も見ていると、なぜか自分に投石されているような気分になって、腹が立ってきかねないのです。これがたぶん「偏向教育」というものなのでしょう。中国と同じく、日本のテレビもまた、反中国の映像を流し続けています。怖い話です。

バックミンスター・フラーの名前で思い出したことがあります。。
「バックミンスター・フラーの宇宙学校」に次のような文章があります。
読んだときには大笑いした記憶がありますが、20年近くたっても内容も覚えています。
書棚から探し出して、その文章を引用することにしました。
世の中の父親族のみなさん、自らのおかれている状況を認識しましょう。そしてテレビを恨みましょう。
なにが「公共性」なものか! テレビ不信の根源を思い出しました。

最近、激しい進化上の動きが自然界に起こった。哺乳類のオスは、メスよりも地理的に広い範囲を動く。なぜならメスは子供を連れているからだ。人間も昔からそうした動きをしてきた、とわたしは考えている。父親が狩人で、母親が家庭のまとめ役だった。父親は単に狩人だっただけでなく、家庭にニュースをもたらすものだった。いつの時代も子供たちは、父親と母親をひとつの権威としていた。父親と母親は子供たちに先行するすべての世代の代表者として、食べてもいいものかどうか、やっても安全かどうか、を子供に伝えてきた。父親はニュースをもって帰り、独特の秘密めいたことばで、子供たちにさまざまな話をしてやった。子供たちは父親のことばに耳を傾け、彼らの権威である父親の話のまねをした。それがだんだん地方のことばとなり、さらに国のことばとなっていった。  わたしが32歳だった1927年の5月のある午後、父親たちが家に帰ると、子供たちがこう言った。「お父さん、早くラジオを聞いてみて。飛行機で大西洋を横断してる人がいるんだよ」。父親はこう言った。「エッ、なんだって。すごいな」。それからというもの父親は2度と家にニュースをもって帰ることはなかった。  子供たちに父親が唯一の権威であると教えた人間がいたわけではない。しかし、たしかに父親は権威だった。ところが1927年に突然、そしてそれ以来、子供たちは父親と母親がラジオに耳を傾け、近所の人たちにラジオのアナウンサーのニュースを繰り返して話しているのを見るようになったのである。こうして口にするまでもなく、ラジオに登場する人間が父親をしのぐ権威となっていった。ラジオのアナウンサーは発音の一般性と語彙の豊かさから、その仕事に選ばれたのだった。子供たちは、新しい権威であるラジオのアナウンサーの発音と語彙をまねしはじめた。子供たちの語彙はアナウンサーからもたらされるようになった。今世紀のはじめ、わたしが最初の仕事についたとき一緒に働いていた労働者たちには、100語ほどの語彙しかなかった。そのうちの50%は卑語か猥語だった。ところがラジオとともに、突然語彙が増し、ずっと的確なものとなり、共通の豊かな語彙が世界中のいたるところに広がっていったのである。

納得できるでしょう。父性の復権などはもうありえないのです。はい。

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2005/04/08

■隠れて暮らす社会  

知人の思いに共感して、署名運動に協力することが時々あります。
今回は「末期がん患者の介護保険給付に関する署名」です。
女房と一緒にいろいろな方々に署名してもらいました。
ところがです。
女房が、プライバシー情報漏洩が問題になるなかで、こうやって氏名と住所を書いてもらっていいのだろうか、そう簡単には頼めない時代になった、というのです。
考えてみると確かにそうです。

しかし、よくよく考えてみると、何かおかしいような気がします。
名前と住所がわかって何が問題なのでしょうか。
女房は、悪質な業者の手に渡ると悪用されるといいます。
そうかもしれませんが、何か腑に落ちません。
もし住所録で悪事を行う人がいるのであれば、それを取り締まればいいのであって、住所や名前を隠すことはないでしょう。
私は電話もメールアドレスも、生活内容も、かなり公開していますが、不都合は起きていません。
確かに迷惑メールは毎日わんさと届きますが、それはまだ我慢の限度内です。
そのために自らの生活を隠そうなどとは思いません。

プライバシー保護って何なのでしょうか。
どこかに勘違いがあるような気がします。

ついでにえいば、
最近は就職面接などで出身地や年齢や家族のことなど、訊いてはいけないのだそうです。
ないも訊かずに採否を決めなければならないわけです。

テレビで一般風景の場面で、よく顔の部分がぼやかされます。
顔を見せない風景もよく出ます。
これも気になります。
福祉施設などでは特にそうです。
顔を見せて、何が悪いのかです。

自分の正体を隠して暮らすのが現代の常識なのでしょうか。
おかしいと思いませんか。
私がおかしいのでしょうか。

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2005/04/07

■もうひとつのシュペアーの責任感 

シュペアーの責任感その2です。
エルズバーグを動かしたシュペアーの責任感は、実はある側面でしかありません。
事実はいつも裏表を持っています。
エルズバーグは、その表から自らの行き方を学び決断しました。
日本の官僚や有識者にも、そうした決断をした人はいます。

しかし、シュペアーの責任感に関しては、もう一つの記録もあります。
たとえばグイド・クノップの書いた「ヒトラーの共犯者」(1996年、翻訳は原書房から出版)によれば、軍需相(シュペアーは後に軍需相として戦争貫徹に取り組んだのですが)シュペアーはヒトラーの後継者の有力な一人として、ナチス国家で行なわれていた事実にかなり深くコミットし、自らもその重要な一翼を担っていただけでなく、敗北が見てきた時期には戦後の「ドイツ復興」に参加するための狡猾な行動も行なっていると報告されています。
これもまた、ひとつの責任感です。

エルズバーグが感激したくだりも、こう書かれています(翻訳ですが)。

「恐るべきことにかんしてわたしが知らなければならなかったことを考えれば、わたしが知っていたのか、それとも知らなかったのか、あるいはどれほど知っていたか、または知らなかったかなどという問題は、まったくとるにたらないことだ」。この答えは誠実に聞こえるが、ただ狡猾なだけである。シュペアーの結論はこうだ。「わたしはもはや答えられない」。シユペアーがみずからにまったく問わなかったこと、それは、これらの犯罪のすべてに対する、彼自身の関与した割合はどの程度のものか? ということである。

エルズバーグは、こうはなりたくなかったのかもしれません。
私も同じ思いです。
しかし、知ろうとすることは大きなエネルギーが必要です。
だからこそ、知っている人の責任は大きいのです。
エルズバーグとシュペアーは、全く別の選択をしたわけですが、皆さんならどうするでしょうか。
シュペアーの過ちを繰り返している人が、最近多いのが気になります。

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2005/04/06

■竹島領有問題 

竹島問題が再燃しています。
今回の教科書検定でも、竹島は日本の領土と明記されたことが韓国の反発を受けているといいます。
そういえば、日本最南端の沖の鳥島もあります。
北方領土は、そこに住民がいますから、どの国家に帰属するかは住民にとっては大きな問題ですが、住民もいない島であれば、どこでもいいではないかと私は思ってしまいます。

沖の鳥島は水没させないために、50億円近いお金をかけて、コンクリート構造物をつくったりしていますが、たとえば、この問題を子どもたちに説明して、それだけのお金をかける必要があるかどうかと聞くと、全員が「必要」と答えたという報告もあります。
理由は、日本の領土が減るし、魚なども取れなくなるから、ということだそうです。

私はなんだかおかしいと思えてなりません。
日本の領土が減ることがなぜ悪いのか。いや、日本の領土ってなんだろうかと、子どもよりも素朴な疑問が出てきてしまうのです。
領海ということを大学の国際法で学んだときにも、どうも理解できませんでした。海を閉じたり大地を分割占有する発想が、理解できないのです。どこかで私の発想回路に欠陥があるのかもしれません。

ですから市町村合併も理解できません。行政で勝手にやっていいの?という気がします。もちろん建前は住民合意の下ですが、その建前は行政が作っただけの話です。勝手に行政区を変えてしまう政府と、領土にこだわる政府。どうも重なってしまいます。

海産物やエネルギーの権利につながるということも私にはよくわかりません。
日本の領海でとれる海産物は日本のものという概念が私にはうまく理解できないのです。それは漁師や汗して釣った人のものでしょうという気がします。イラクの石油はイラク国民のものでしょうか。掘削採取した企業のものになっているのではないでしょうか。つまり国家の所有権という概念に違和感があるのです。

日本も韓国も中国も、あるいはオーストラリアもロシアも、だれでも自由に魚場として、あるいは油田として使えばいいじゃないかと思うわけです。
めちゃくちゃな論理かもしれませんが、そうした素朴な疑問がどうしてもぬぐえません。
ですから、子どもたちまで「領土が減るのはよくない」という思いを持っていることが私には驚きなのです。いや不気味なのです。
昨日、北朝鮮の小学校教科書の内容がテレビで紹介されていました。日本やアメリカへの恐怖や憎しみを育てるような内容でした。
でもなにかそれを非難してばかりいられないような気がします。
現代の子どもたちの教科書ともいえる、テレビも問題ですし。

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2005/04/04

■民営化と私有化 

郵政民営化の基本骨格が決まったようです。
なにやらごたごたと長くかかりましたが、利害調整が大変だったようですね。
それは当然です。
民営化とは私有化のことですから、関係者の私的利害がすごく絡んでいるわけです。
まさに利権がらみの政治家アイテムといえます。

ところで、日本ではどうしてこうも「民営化」ということがプラスのイメージを持っているのでしょうか。私は民営化礼賛の風潮には大きな違和感を持っています。結局は誰かの私利私欲の世界に投げ込むだけの話なのですから。
民営化とはプライバタイゼーションであり、要するに私化、私有化、私営化のことです。民営化などというと、なにやら私たちの生活の近づくように感じますが、そんなことはありません。「お上のもの」から「誰かのもの」になるだけの話です。正々堂々と私欲のための事業になるということです。
目指すべきは、「「みんなのもの」にしていくべきであり、その手段は経営の透明性を高めることです。あるいはガバナンスの主体を国民に移していくことです。
そういう視点から考えれば、今の民営化路線は時代に逆行しています。
ところがだれもかれもが「民営化」礼賛です。

国鉄を民営化したらサービスもよくなったし、経営業績も良くなったという人がいるかもしれません。
確かにそういう面もありますが、悪くなった面もあります。
よくなったことで言えば、それは決して「民営化」の問題ではないように思います。問題の混同が巧みに使われています。

規制緩和もそうです。これも危険な言葉です。

規制緩和にしろ、民営化にしろ、結局は誰かの利益につながる私的な世界を広げるということです。
私たちの世界はこうしてどんどん侵食されているのです。
福祉の世界も環境も世界も、生活基盤の世界も、すべては株式会社に席巻されて行きそうです。
民営化や規制緩和に対して、もっと違和感をもってほしいです。


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2005/04/03

■シュペアーの責任感 

昨日の続きです
エルズバーグの「ベトナム戦争報告」(原著1972年 翻訳:筑摩書房 1973年)の最後に、ナチスドイツの建築大臣だった建築家アルベルト・シュペアーの回顧録「第三帝国の内幕」に書かれている話がでてきます。
ランディ・キラーのスピーチとともに、エルズバーグの決断に大きな影響を与えた話です。

シュペアーは「ヒトラーの建築家」として有名ですが、同時に、ニュールンベルグ裁判で、自分の行為とナチ政権の行為の責任を全面的に認めた唯一の被告としても有名です。エルズバーグは彼の回顧録をアメリカを動かしているすべての官僚に読んでほしいと書いています。私も日本の閣僚と大企業の経営幹部に、ぜひ読んでほしいと思っています。

長いですが、シュペアーの話を同書から引用します(283~284頁、一部省略)。

あるとき旧友のハンケがやってきて、口ごもりながらいったことをシュペアーは書いている。 「上部シレジアの強制収容所視察の誘いには決してのらないように。どんなことがあってもそれだけはするな。彼はそこで絶対に人に話すなということ、また話すことのできない何かを見たにちがいない。私は彼に何も質問しなかった。ヒムラーにもヒトラーにも何も問いたださなかった。親友にもそのことを話さなかった。自分で調べることもしなかった。そこで何がおこっているかを知りたくなかったからだ。ハンケはアウシュビッツのことを話していたのだろう。 私がニュールンベルグ裁判の国際法廷で、第三帝国の指導部の重要メンバーのひとりとして、あらゆることに閑して全責任を分担しなければならないと語ったとき、私の心を占めていたのはその数秒間のことだった。その瞬間から私はのがれようもなく道徳的に汚染されていた。私の進路を変えるかもしれないようなことにぶつかるのを恐れて、私は目を閉じてしまったのだ。この意識的に目をつぶったこと自体が、戦争末期に私が行なった、あるいは行おうとした善行のすべてが、何の価値もなくなってしまった。あのとき行動することを怠ったために、私は今日でもアウシュビッツに対する全責任を個人的に感じている」

シュペアーは、これに続けて、「知ろうとしない」ことの道徳的重荷について語っている。
「私が事件に無関係だったとすれば、それは私が無関係な態度をとっていたからだ。私が無知だったとすれば、それは私が自分の無知をつづけようとしたからだ。私が見なかったとすれば、それは自分が見たくなかったからだ。
私の場合、ユダヤ人虐殺の責任を決して逃れることができない。私はヒムラーと同様にユダヤ人の死刑執行人だった。なぜならば私はユダヤ人たちが私の前を通って死所に連行されるのを見ようとしなかったからだ。良心の目を閉じてしまうことは驚くほどやさしいことである。私はまるで、だれかが殺害されたことに気づかないで雪の上の血に染まった足跡をたどっている人間だった」

無関係な事件などないのです。

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2005/04/02

■「どう思いますか 格差社会」の退屈さ 

NHKの「どう思いますか 格差社会」を、期待を持って、見はじめたのですが、あまりにばかばかしくなって、見るのをやめてしまいました。言葉の定義もなければ、ゲストの発言は金子さんを除いてはピンとはずれで議論にもならず、しかもアンケート調査の質問は意味のない項目です。ディレクターの不勉強さに腹立たしさを感じます。これが「公共放送」の実態です。3世紀のローマを感じさせます。

アンケート調査の質問は、私が見ていた間には2つありました。
ひとつは、今の格差社会を「悪い」「やむをえない」「良い」の三択。もうひとつは成果主義を「進めるべき」「見直すべき」の二択です。
この質問を皆さんはどう考えますか。格差社会や成果主義の定義の問題は大目に見ての話ですが。
前者の質問での「やむをえない」というのは不要な質問です。他の二つとレベルが違うからです。後者の質問もレベルが違いますから二択にはなりません。見直しながら進めるのは当然のことだからです。いずれも現場や実態を知らない人が考えた設問でしょう。

知性は質問によって見えてくる、と私は思っています。
いい質問が出来るかどうかは、とても大切なことです。
最近テレビを見ていて残念なのは、いい質問に出会えないことです。
知性はまた応答によっても見えてきます。
私が我慢して見ていた1時間近くの間では、予備校の先生がいい質問をし、金子勝さんがいいコメントをしただけでした。残念ながら、いずれも発展しませんでしたが。

いささか腹立たしかったので、ブログに書いてしまいました。
今回は番外編です。すみません。

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■ランディ・キラーの愛国心  

昨日、大阪に行く新幹線で、久しぶりにダニエル・エルズバーグに「ベトナム戦争報告」を読み直しました。エルズバーグの名前は、最近では忘れられているかもしれませんが、国家反逆罪で裁かれる危険を冒して、ベトナム戦争の真実を世界に知らせた「愛国者」です。
その正義感は健在で、今回のイラク戦争に関しても「愛国的」活動によって、逮捕されています。歴史から学ぶ事のないのは、米国政府も日本と同じようです。

エルズバーグによる国家機密文書暴露事件を映画にした「ペンタゴン白書」の中に、ある大学での反戦集会での若者のスピーチの場面があります。映画によれば、そこでのランディ・キラーのスピーチが迷っていたエルズバーグを決断させます。最初にこの映画を観た時、私は感激しました。涙が出ました。
愛国心はコスタリカにだけあるのではないことを思い出しました。

ランディ・キラーのスピーチを読んでもらいたいと思います。

僕の愛国心について話します。 僕はランディ・キラー。ハーバード大学卒業。 この学歴なら、国家に影響を与える職に就くことができます。 大企業の重役、あるいは政府の高官。 だが、僕は国家に影響を与える人間になることに決めました。 だから刑務所に行きます。 徴兵拒否により服役します。 意義のない戦争のためにはベトナムへは行きません。 だが、僕はアメリカ国民です。 外国に逃げたりはしない。 これが信条による「良心的兵役拒否だ」ともいうつもりはない。 僕はただ自分を犠牲にすることで国に奉仕する。 消せない記録が僕に残ります。企業の重役にも政府の高官にもなれません。 世間の目も冷たいでしょう。 だが、その汚名を甘んじて受けます。誇りを失わずに。

最近、イラクでは何が行なわれているのでしょうか。
イラクが全く見えなくなってきています。
私たちの税金がこれだけ大きなコミットをしているにもかかわらず。

サッカーだけがニュースではありません。
ましてやフジテレビ騒動などは瑣末な話です。

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2005/04/01

■校門は原則施錠 

学校の安全対策に関して文科省が指針を出しました。これまでの「危機管理マニュアル」で示してきた学校側の体制をより強化した内容になっている、と新聞は伝えています。
その一方で、「地域に開かれた学校づくり」も引き続き進める方向だといいます。
難しい問題だと思いますが、「施錠」に安全を求める発想に、違和感を持ってしまいます。

千葉県習志野市の秋津小学校の事例は有名な話ですが、これとはまったく逆の発想です。
もう10年以上前の話ですが、当時校長だった宮崎稔さんが、学校の鍵を住民団体に配ってしまったのです。つまり「施錠の発想」ではなく「開錠の発想」です。そこから、学校と地域の融合が始まり、住民たちの世代を超えたつながりが育っていったのです。

施錠の発想は、昨今の社会の姿勢を象徴しています。
問題の本質に取り組むのではなく、問題の発生を想定した発想です。
話は飛躍しますが、リサイクル産業育成と同じ発想です。
この発想こそを変えなければ状況は変わらないでしょう。

先日、浜松で活動しているNPOガラ紡愛好会を訪問しました。
湖沼の汚染防止のために洗剤ではなく石鹸を使おうと活動し始めたグループですが、活動の課程で、石鹸もまた使用量が増えることで汚染につながることに気づき、結局は消費型のライフスタイルが問題だということになり、そこから洗剤を使わない布巾や石鹸を使わないタオルを開発しました。その商品開発を支えたのが、和綿を使ったガラ紡績という伝統技術でした。
それを使い出すことで、肌が荒れなくなり、アトピーも治り、といった、さまざまな効用も出てきたといいます。

施錠とリサイクル産業の共通点は、問題の存在を無意識的にでも肯定することです。
「肯定」は消極的な「推奨」にもつながりかねません。
大切なのは、問題の存在の意味を考えることだろうと私は思います。
学校空間の施錠(そんなことは出来るはずがないのですが)が、原因の解決の扉にも施錠しなければいいのですが。

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