■時計をはずす生活
先日、福島でタクシーに乗ったときの話です。
新幹線に乗るために急いでいたのですが、62歳の運転手がとても話し好きで、運転よりも話に夢中で、時速40キロくらいの走行なのです。話は福知山線の事故の話で、1分30秒の遅れなどは、遅れのうちに入らないと言うのです。
まあ、そんな話なので、急いでくれとも言いだしにくかったのですが、さすがに遅すぎるので、新幹線の時間を話し、間に合わせてほしいと言いました。
そうしたら、その運転手は、鉄道は待ってくれないからね、と速度を速めてくれました。普通は20分弱でつくのですが、30分近くかかりましたが、新幹線には間に合いました。
定時運転より安全を、などと書いたくせに、自分が当事者になると意識は変わってしまうのです。とろとろ運転(つまりは安全運転)の運転手にイライラした自分が恥ずかしいです。福知山線の運転手へのプレッシャーに、私も加担しているわけです。
タクシーの運転手が、このあたりは今でも鉄道以外は田舎時間だから急がないでいいのだといいました。つまり制度で決められた時間に人間が合わせられるのではなく、人間の暮らしが基準になっているわけです。しかし、最近は鉄道を利用する人や会社に勤める人が増えたために、都会時間に合わせなければいけなくなってきたというのです。
田舎時間。人間に合わせた時間といっていいでしょうか。
地方の集まりに行くと、なかなか定刻に人が集まらないことがあります。しかし、だれも急ぐこともなく、まあこのあたりはこんなものだと悪びれもせずに話してくれます。
住民に呼びかける役場の会議も、始まる時間は書いてあるのに、終わりの時間が書いていないことが多いです。終わりの時間を書いておくのが常識でしょう、などとついつい都会時間人間の私は偉そうなアドバイスをしてしまうのですが、直りません。
しかし、今回の田舎時間の話を聞いて、考えを変えることにしました。
時間は、いろいろあるのです。時計の時間は、そのひとつでしかありません。
私は23歳の時から腕時計を使っていません。講演などではカード時計を持参しますが、普通の暮らしには時計は極力見ないようにしています。ですから時々、約束の時間に遅れてしまいます。飛行機にも2回乗り遅れました。それで迷惑をかけたことはありますが、まあ何とかやっていけます。勝手な話ですが。
時間は生活しやすくなるための手段の一つであるはずなのに、私たちの生活は時間に支配されがちです。時計によって刻み込まれた時間から、少し解放されるのもいいかもしれません。
この連休、時計をはずしてみませんか。
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