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2005/04/25

■総論の空しさと当事者としての言動 

23日にジャカルタで開催された日中首脳会談は何をもたらしたのかがよくわからないのですが、最近はこうしたことが多いです。私の理解力が弱まっているばかりではなさそうです。

いろいろと動きがあっても、実態は何も変わらない。何も変わらなくても、多くの人はあまり不都合を感じない。多くの人が「おかしいな」と思いながらも実際の行動は起こさない。問題の当事者だけが問題を背負いながら、失望感を強めていく、そんな状況が広がっているように思います。
社会はどんどん不可視化が進んでいます。だからこそ個人情報が市場価値を高め、どんどんと商品化され出回りだしているのです。個人情報保護が法制化されるということは、個人情報がますます裏社会に出回るということです。ここでも「近代パラダイムのジレンマ」が見られます。

必要な情報がきちんと見えなくなってきた一因は、マスコミにあると思います。新聞やテレビで流される情報と現場情報との格差は、きっと当事者の方にはよくわかるでしょう。マスコミは公共性を失ってきています。しかし、そのマスコミに依存せざるを得ないのも否定できません。

ブログによる多様な情報発信は確かに広がっています。
たとえば、日中首脳会談に関しては、イラク問題に反対して外務省を辞めさせられた天木さんのホームページの記事が示唆に富んでいます。
http://amaki.cc/bn/Fx.exe?Parm=ns0040!NSWhats&Init=CALL&SYSKEY=0010
しかし、ブログはボンディング効果はありますが、多様な意見によって構成する公共性という視点でいえば、まだまだシステムになっていないようにも思います。

北朝鮮拉致問題も、動きがとまったようです。小泉首相にとって、拉致問題がなんであったかを勘ぐりたくなるほどに動きません。
イラクもそうですが、すべてが「総論」と「言葉」で議論され、決せられているような気がします。そこには「現場」や「当事者」がいつも不在です。

当事者の立場になって考え、行動することは難しいです。
しかし、私たちは何らかの問題で、必ず「当事者」であるはずです。
その自らが当事者である問題に関して、言葉を発し、行動を起こすことが、今のような動きが出てこない「総論の時代」を変えていくことになるはずです。

反日デモが問題なのではなくて、「靖国問題」や憲法問題に象徴される日本国家のあり方が問題なのではないか。
当事者になる問題に立脚して言動する前に、まずその問題を自覚する姿勢が、私たちに求められているような気がします。

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