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2005/04/20

■中国の反日デモ騒動

連日の中国の反日デモのニュースを見ていると改めて国家の不条理に怒りを感じます。それとこうした映像を繰り返し流すマスコミにもいささかの疑問を感じます。これはまさに「反中国教育」です。マスコミの教育効果はきわめて大きいです。
対立軸は「日本」対「中国・韓国」ではなく、「制度」対「生活」だと、私は思っているのですが、その(私にとっての)基本軸が、最近は見事にはずされているような気がして残念です。
この問題へのコメントは難しいですが、中国側が公式の場ではまったく謝罪の意を表しないこと、日本もまたそれに異議申し立てしないことに、改めて対立の基本軸の所在を感じます。国家は、結局は同じ存在なのかもしれません。

これが、昨日までの私の考えでした。

竹島問題にしても、靖国参拝にしても、その本当の意味は私も含めてあまりわからないままに問題がどんどん広がっています。私自身の不勉強さを恥じなければいけません。
最近、私自身もどんどん時代に流されて、あいまいな言葉だけで考えているような気がしだしてきました。いろいろな人のコメントは、それに少し気づかせてくれました。

首相が靖国参拝をすることがなぜ問題なのか、私は子どもたちに説明できる自信がありません。ただ言えることは、それが東アジアの人たちには不愉快に感じる材料になりうるということです。

人の言動に関する、当人の「思い」や「意図」と、その言動に触れた人にとっての「意味」や「評価」とは同じではありません。時に正反対になります。この2年、私も実際にそれを体験しました。

私は、日本の国家も国旗も好きですので、なぜあれほどまでに学校の先生たちがこばむのかが身体的に理解できませんでした。もちろん国家や国旗にこめられた「忌まわしい記憶」や「その意味」は理解していましたが。
しかし、1年前にある雑誌で、渡辺さんという方の書いた文章を読んでようやく理解できました。できれば皆さんももう一度読んでください。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katsudoukiroku3.htm#3132

日本の人でさえ、靖国への複雑な思いを持っている人もいます。そうであれば、東アジアの人たちには、首相という国家を代表する人が靖国参拝を行うことに対しては複雑な思いがあるはずです。
そうした人たちの思いへの想像力や感受性が、さまざまな価値観の人たちが共生していくこと、つまり本来的な意味でのグローバライゼーションの出発点だろうと思います。
そうした想像力や感受性のない、一人の人間の独善的な言動が、もし東アジアの平安を壊す材料をつくりだしているとしたら、そういう人を代表に選んでいる私たちの責任は大きいです。

彼らの投石は、甘んじて受けなくてはならないのかもしれません。
繰り返し映し出される破壊の現場映像を見ながら、ようやくそのことに気づきだしました。

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