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2005年5月

2005/05/31

■戦うことへの本能 

あるメーリングリストで、こんなメールが流れてきました。

>斉藤さんの生き方について、テレビのインタビューなどでは「自分の生き方を見つけ>た方」「あのような生き方はすばらしい」と言うような反応があるようです。
>このような反応をされた方はNGOの高遠さんについての反応とは全然違うなあと>思いました。
>NGOの方が「苦しみを共有しあう」のに対し傭兵を賛美する方は「相手を攻撃」し>たり「激動を体験」することにあこがれているように思えました。

恥ずかしい話ですが、私の中にも斉藤さんの生き方に憧れる気持ちがあるのです。
もっとも私の場合は、イラク側での参戦ですが、まあ、どちらであろうと「相手を攻撃すること」に関しては同じことです。
みなさんはどうですか。

最近、フセインに直接会った弁護士が、フセインが語った逮捕の様子をテレビで紹介していました。アメリカの発表とは全く違う話です。
独房でのフセインの話も出てきましたし、最近の写真も映し出されました。
その話を聞いていて、フセインを応援したいと思っている自分に改めて出会いました。
ビン・ラディンに関しても、そういう感情が否定できません。
彼らのやったことには憤りを感じていますが、その一方で共感をしている自分がいます。
みなさんはどうですか。

映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親がいいます。
男たちは壊すことしかできない、
創るのは女性たちだけだ。

その言葉が衝撃でした。
以来、男性である私には平和活動などできないのではないかという思いが芽生えてしまいました。自らのなかにある、残酷さや好戦気分が否定できないのです。

最近、平和に関するメーリングリストが実に活発です。
にもかかわらず、どうも発言できなくなってきてしまいました。
平和に向けての自信を喪失しつつあるのです。
困ったものです。

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2005/05/30

■経営の本質 

横河ブリッジの談合隠しは組織ぐるみだったと新聞が報じています。そんなことは当然のことで、最初からわかっていることですが、いつもこの種の事件で、組織ぐるみかどうかが話題になります。もちろんほぼ例外なく組織ぐるみのはずです。いや、正確には組織犯罪というべきでしょう。そして、そうしたことが起こるのは、おそらく今の組織経営のあり方のためではないかと思います。
これに関しては、企業不祥事などの論考で、これまでも何回か書いてきました。たとえば、「雪印事件から見えてくる組織変革の方向性」をお読みください。

私は経営とは変化を創出することだと思っています。
ある本で書いた文章を転載します。

 経営の目的のひとつは組織を生き生きと存続させることです。生きている社会の中で組織が生き続けていくためには、常に自らを変化させていくことが必要ですから、経営とは「自らの変化を創出すること」といえます。不断の自己変革こそが組織を生き生きと存続させることになるわけです。  ところで組織のホロニックな性格から、組織の自己変化は結果として社会の変化を引き起こします。したがって、経営とは「社会の変化を創出すること」ともいえるわけです。その社会の変化は結局は自らにかかってきます。社会がおかしくなれば、そこに存立する組織もまたおかしくなることは言うまでもありません。 (「保育園の未来経営を考える」(筒井書房)から引用)

 ところが、組織には環境が変化する中で、自らのアイデンティティを変化させまいという性格があります。いわゆるホメオスタシス(恒常性維持機能)というものです。環境に振り回されていたら、組織は維持できないのです。
 ここに、企業経営の面白さがあります。

 多くの企業不祥事の悲劇は、組織防衛の方法を間違っていることです。組織の論理に振り回されているのです。つまりは経営不在です。組織の論理に抗して、生命の論理に立った経営をしなければいけません。コンプライアンスや社会責任の問題の前に、まずは組織に息吹を与えなければいけません。そこで求められるのは、ホメオスタシスに対して、むしろホメオカオスといわれるような変化創出です。難しい言葉を使えば、エントロピーの放出です。

 守るべきは組織ではなく、そこに関わっている人の暮らしです。そういう視点で見ていくと、加害者の暮らしもまた、壊されていたことに気づくはずです。
 最近の企業関係の事件を見ていると、まだまだ経営不在の企業が多いような気がします。CSR議論に、そうした視点が少ないのが気になります。

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2005/05/28

■有識者の無知 

眉村卓の作品に「幻影の構成」というSFがあります。
私たちが見ている社会は、ある意図で操作されている幻影でしかないという話です。
ところがある人が、裸の王様の話に出てくる子どものように、幻想ではない事実を見てしまいます。そこから、その幻想の社会が壊れてしまうという話です。かなり雑駁な紹介の仕方ですが、この話を読んだのは、大学を卒業した2年後です。とても共感できました。「裸の王様」を取り巻く人たちの多さに辟易していたからです。

人は見たくないものは見えないものです。いや、見ないのではなく、見えなくなるのかもしれません。見たいものだけを見ていると言ってもいいでしょう。人ごみの中で、知り合いだけが見える経験はだれもがあるでしょう。
しかも、自分の目ではなく、大多数の人の目で見たくなるのです。これに関しては、たくさんの事例が報告されていますが、
有名なのが「アッシュの実験」です。紙に書かれた3本の異なる長さの線ともう一つの紙に書かれた1本の線の長さをくらべ、3本書かれた方の中から同じ長さの線を答える問題なのですが、被験者一人と7人のサクラがグループになり、一人ずつ順に回答してもらいます。サクラは意図的に間違った同じ答えをするのですが、それに引きずられて被験者も間違った答えをしてしまうことが多いそうです。いわゆる同調行為です。
つまり、私たちは「見たいものだけ」を「見たいように」見ているわけです。

橋梁談合事件が問題になっていますが、10年以上にわたり行われてきたという事実はどう考えるべきでしょうか。周辺の関係者はみんな知っていたはずです。こうした事件が報道されるたびに、何をいまさらと私には思えてなりません。
しかし、知っているがゆえに、見えていなかったのかもしれません。知識と見識が、事実を覆い隠すことはよくあることです。「有識者の無知」とでもいうべきでしょうか。有識者が権力者やマスコミに重宝されるのは、彼らの無知の故かもしれません。

橋梁談合事件は氷山の一角です。社会の仕組みを問い直すべきでしょう。小賢しい犯罪者たちは厳罰に処すべきですが、仕組みが根底にある以上、それもできないのではないかと思います。入札制度などというものがある以上、これからもきっと繰り返されるでしょう。私には、入札制度は小賢しい制度にしか思えません。断じて公平でも公正でもないように思います。談合や不正が寄生しやすい制度です。ですから導入されたのでしょうが。

「王様は裸だ」と気づいた子どもの「純粋な眼」を取り戻したいといつも思っています。
素直な眼を持った子どもたちが、素直に育っていける社会はできないものでしょうか。

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2005/05/26

■みなさんは何のために仕事をしていますか 

昨日、ある会で話をさせてもらいました。企業関係者も行政関係者もいる集まりでした。
最後に、「みなさんは何のために仕事をしていますか」と質問させてもらいました。
少し間があって、最初に返ってきたのが「楽しみ」のためでした。
その人は画廊を経営されています。
そこで「仕事のお休みはあるのですか」
と質問したら、あるというので、重ねて、
「仕事をしているときと休みのときではどちらが楽しいですか」
と質問しました。
休んでいる時だそうです。となると、先の答えはいささかあやふやになってきます。
他には発言はありませんでした。「パンのため」という意見もありませんでした。

「何のために仕事をするのか」などという馬鹿な疑問を持つ人はいないのかもしれません。しかし、これはきわめて重要な問題です。仕事をするには、それなりの理由があります。その理由から考え直すと「仕事」の意味が見えてきます。

世間の常識では、「お金を得ること」が「仕事」かもしれませんが、この定義が問題だと思います。いい仕事をするためには、お金を得るどころかお金がかかるものです。

雇われていることが仕事をしていることという「常識」もあります。しかし、そうした「雇用労働」に対して、いまは「協同労働」と言う言葉もあり、雇われることと仕事とは別物であることへの気づきは広がってきています。

予算を使うことが仕事だと思っている人もいます。
最近は予算がなくて仕事ができないと言う自治体職員がいますが、先週、予算がなかったので知恵を絞って住民たちと一緒に事業を起したという自治体職員に会いました。もしかしたら、彼は初めて仕事をしたのかもしれません。
仕事の捉え方をちょっと変えるだけで、世界は変わってくるはずです。

「過疎地には仕事がない」などとよくいわれますが、ここでも仕事の意味が真剣に考えられていません。仕事の捉え方をちょっと変えれば、過疎地には仕事が山積みのはずです。「失業者が多いのは仕事がないから」と言う発想も無意味な話だと思います。
「仕事」という言葉ひとつからでも、今の社会の構造的な問題点が見えてくるように思います。

社会はさまざまな仕事で成り立っています。そして、そうした仕事は、決してお金で成り立っているのではありません。そこに気づけば、仕事はもっと楽しくて、充実したものになるでしょう。しかも、生まれてから死ぬまで、すべての人が仕事を楽しめる社会が実現するでしょう。

「仕事」って何なのか、たまにはそんなことも考えてもいいような気がします。
この数日、そんなことを考えたくなるような、いろいろな事件のメールが届いています。
仕事から解放されたい人、仕事が見つからずに苦境に陥っている人、仕事に違和感があって悩んでいる人、みんな仕事に対する固定観念から自由になれていないような気がします。

さて、みなさんにとっては、仕事って何でしょうか。
既成概念の仕事の呪縛に囚われていませんか。

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2005/05/23

■自動車事故が起きるたびに考えること 

自動車事故が多いです。
また、飲酒運転で高校生の列に突っ込み、3人の死者が出た事件がありました。
毎週のように起こっています。いや、毎日でしょうか。
この種の事件が起きるたびに、2つのことをいつも思います。
まずは刑の軽さです。それも最大刑が決められていることに違和感を持ちます。
もうひとつは、自動車メーカーの業績の高さです。

まずは刑の問題です。
国家権力に対して、理不尽な刑罰を受けないがために、刑は最大が決められているわけですが、そろそろこの発想や枠組みは見直されるべきでしょう。
国王の国家の時代の法意識だと思います。
その法体系の中で裁判に取り組んでいるうちに、裁判官たちもまた特権階級だと自らを誤解しているのが、今の日本の裁判官のような気がします。
もし視点が個人にあるのであれば、むしろ刑は最小刑方式にすべきだと思います。そうすれば、裁判官の意識も変わるでしょう。
司法改革とは、そういうことを見直すことだと私は思います。
それにしても、今の法律は罪の重さと刑の重さのバランスをかいているように思います。

次に自動車メーカーの業績ですが、これは必然的なつながりはないと言われそうですが、私は自動車メーカーの利益は、こうした事故とつながっていると思っています。
自動車メーカーは、さまざまな社会貢献活動をしていますが、そんなものはすべて止めて、自動車事故を最小化する活動にもっと真剣に取り組むべきでしょう。
自動車事故の責任を、自らの問題として考えている自動車メーカーの経営者はいるでしょうか。

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2005/05/21

■2つの豊かさモデル 

10年前にフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールが日本に来て、こう言ったそうです。
「日本が豊かなのは、日本人が貧しいからかもしれない」

豊かさの追求には、「全体が豊かになれば個人が豊かになる」というアプローチと「個人が豊かになれば全体が豊かになる」というアプローチがあります。日本は前者のモデルを選んで成功しました。しかし、そのモデルは15年前に破綻しました。組織から発想する時代は終わり、個人を起点にする時代が始まったのです。しかし、まだ社会は惰性で動いています。

東証1部の企業の昨年度の業績は3社に1社が過去最高の経常利益を上げたと今朝の新聞で報道されています。全体で見ても、3期連続の増収増益です。
景気が回復しない、失業者が増えている、働き口が見つからない、などという社会状況から見るとどうもピントこない話ですが、組織起点の発想では、会社の業績と社員の所得がトレードオフになっていますから、当然の帰結なのです。
このモデルでの発想を捨てなければいけません。両者をトレードオフにしてはいけないのです。
なぜいけないかというと、組織の利益とは、実は組織に寄生する一部の人の利益だからです。つまり、組織発想とは、利益配分の実態を見えなくしてしまう仕組みにつながっていくのです。社会保険庁の実態を考えれば少し理解してもらえるかもしれません。その気になれば、すぐにでも変えられるはずなのに、政治家はいっこうに変える気がありません。彼らもまた寄生側にいるからです。
組織とは、小さな差異を増幅する仕組みの要素をもっています。リーダーによって組織は全く逆な働きをします。個人の視点がないリーダーが引率する組織は、個人を犠牲にして組織利益を優先させ、残った寄生族を懐柔し、仲間にしていきます。そうした企業の発想が、結局は自らを貧しくしていくように思います。

企業変革、経営改革などが話題になりますが、こうした本質的な問題はいつも議論にはあがりません。それはほとんどの場合、企業という組織に寄生している人たちが考えているからです。企業という組織の実体を支えている現場の人たちは、全体が見えないために変革の主役にはなりにくいのです。

その状況が次第に変わりつつあることも感じていますが、
もうしばらくは組織優位の状況は続きそうです。

ジャン・ボードリヤールの言葉を改めて噛みしめてみたいです。

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2005/05/18

■支援と弁護  

また「言葉」の問題です。
どうも世の中の言葉の使い方が気になって仕方がないのです。

先日、自立支援の活動をしている障害をお持ちの方から、こんな言葉をもらいました。
「家族や施設が障害者本人の意思とは関係なく与えてくれる生活支援も考え直していく必要がある。幼いころより大人にいたるまでの育つ環境が、障害者自身の自己決定能力を育ててこなかったのではないか」。自分自身、障害を持つ人だからこそ言える話かもしれません。しかし、「支援」とは何かはもっと深く考えるべきです。

先日、息子を交通事故で亡くされたご両親のお話を聞く機会がありました。オートバイで走行している時に自動車にぶつけられたのです。目撃者のタクシーが別の車に轢かれないようにカバーしてくれたのですが、亡くなられてしまいました。
裁判で、事故を起こした人の弁護士が「暴走族の一団だった」と裁判で主張したのですが、そのタクシーの運転手に傍聴してもらっていたため、彼が「暴走族などいなかった」と叫んでくれたそうです。しかし、そうした明らかな嘘をついてまで、加害者の刑を軽くしようとする行為は「弁護」と言えるでしょうか。弁護士のみなさんの立脚点は「弁護」ですが、その意味も理解していない弁護士があまりにも多いような気がします。つまり職責を果たしていない弁護士が多すぎます。

こういう視点で考えていくと、いまは職責を果たしている人がどのくらいいるのかいささか不安になります。
皆さんは職責を果たしていますか。
いや、自らの職責を考えたことがありますか。
私は時々、惰性で仕事している自分に気づいてゾッとすることがあります。
困ったものです。

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2005/05/17

■経済としての戦争と当事者としての戦争

斉藤昭彦さんの事件によって、この戦争が外部のものにとっては、「ビジネス」、つまり「経済」であることがよく見えてきました。

国王のための戦争が終わり、戦争の主役が市民になった契機はフランス革命戦争だといわれます。もちろんそれ以前にも、たとえばスパルタカスの乱など、当事者が主役になっての戦いはありますが、それらはいずれもサブシステムとして圧殺されたエピソードで終わりました。しかし、フランス革命は違っていました。そして、そこから戦争は変質し始めたといわれます。

フランス革命に立ち上がった市民たちは、まさに自らのために戦ったのです。革命の理念、あるいは共和国の理念に立ち上がったといってもいいですが、その理念はまさに自らの生活につながっていました。
映画「アラモ」の中で、ジョン・ウェインが演じたデビー・クロケットが、「共和国と聞いただけで心が躍る」というセリフをいう場面が、私はとても好きだったので、今でもその時の彼の顔が鮮明に思い出せるのですが、私もまた学生時代、そうしたセリフにあこがれていました。まあ、いまもそうなのですが。

もちろん、すべての参戦者がそうではないことはいうまでもありません。市民兵にしろ、義勇軍にしろ、その多くは「経済目的」だったかもしれません。そのために、フランス革命もまた、俗化し、破綻していくわけですが、当事者としてやむを得ずに戦いの中心になっていた人がいたことは否定できません。アフガニスタンも、イラクも、そうだと思います。

つまり、戦争の主役は2種類なのです。
経済のために戦っている兵士と当事者としての信念のために戦っている兵士です。

日本の自衛隊も含めて、ブッシュの軍隊に参加している兵士は、経済のためです。戦わなくても生きていけます。個人的事情としてそれ以外の要素があることは否定しませんが、基本的には、イラク復興は大きなビジネスマーケットでしかありません。
イラクで自爆を重ねている人たちはどうでしょうか。たしかに経済のために戦っている人もいるでしょう。しかし、その中心は当事者として戦いしか選択肢のない人たちかもしれません。戦わなくては生きていけない人です。
両者にとって、同じ戦争も全く意味合いが違います。私たちはこちら側、彼らはあちら側。しかし、戦争は、その全く次元が違うものたちがぶつかって、現実に殺しあっているのです。よく話せば、殺し合いは不要なはずなのですが。

ベトナム戦争もそうですが、そうした戦いの勝敗は、最初から決まっています。しかし、経済で戦う人にとっては、勝敗は関係ありません。何しろ戦争は市場でしかないのですから。
殺し合いをさせている人と殺しあっている人は別の人ですが、そこが見えなくなったのが、現代の戦争です。
そうした視点で靖国問題も考えてみたいと思います。
靖国問題の定義もあいまいなままの国会論議は混乱を広げるだけだと思います。

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2005/05/16

■「疑わしきは壊さず」 

諫早湾干拓裁判で、福岡高裁は佐賀地裁の工事差し止めを取り消し、国の抗告を認める決定を出し、これにより農水省は近く工事を再開し、来年度末の完成を目指す、と朝日新聞の夕刊は報じています。
前回の「沈黙の春」を読む会で、諫早干拓緊急救済東京事務所の青木智弘さんからお話をお聞きしていましたので、意外ではありませんでしたが、やはり非常にがっかりしました。
これもまた、大切なことが何か別の要素や視点で決められてしまい、いつか後戻りできなくなってしまう一例でしょうか。
自然を大きく変えることになる決断をした裁判官の決断が、いったいどれだけの認識と悩みの上にもたらされたものであるかわかりませんが、私にはとてもできない決断です。

刑法には「疑わしきは罰せず」という論理があります。
それ以上に、自然とのかかわりの中では「疑わしきは壊さず」という論理を大切にすべきだと、私は思っています。

この訴訟は、経済のレベルでの訴訟のようで、問題の本質から離れたところでの議論のような気がします。しかし、それで工事再開や人為的な自然の改造が行われてしまうわけですから、どう考えても納得できません。
要は「お金持ち」が勝っただけの話です。
私たちの生活の論理はどこにも出てきません。

自然は産業の原料市場ではなく、私たちの生活基盤なのです。
その視点が、たぶん、裁判に関わっている法曹界の人たちには欠落しているのでしょう。

「市民による諫早干拓 時のアクセス」という報告書がPDFで提供されています。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%7Eisahaya/isa/libr/ass/ass-rp.html
ぜひ読んでみてください。

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2005/05/13

■アウトプットとアウトカム

行政評価の動きの中で、「アウトプット」と「アウトカム」という言葉が広がっています。たとえば、文化ホールの建設はアウトプットです。文化ホールを建設することで、豊かな文化を楽しみ育む暮らしが地域の人たちに広がっていくことがアウトカムです。アウトプットよりも。アウトカムが大切だというのが、行政評価や福祉評価の基本姿勢ですが、現実には私が知る限り、ほとんどそれは言葉遊びに終わっています。アウトカムは評価が難しいばかりでなく、価値観が絡んでいるからです。日本の行政は、ほとんどが没価値的です。いや、企業もそうかもしれません。

アウトプットとアウトカムは、価値観によって対立することがあります。高齢社会に向けて、寝たきり老人の収容施設を増やすというアウトプットは、寝たきり老人をつくらないというアウトカムを阻害することもあります。障害を持つ人にみんなが手を貸しすぎる仕組みをアウトプットすると、逆に自立というアウトカムは難しくなります。
アウトプットとアウトカムをつなげていくためには、現場からの発想、個人からの発想を起点にしなければいけません。

アウトプットとアウトカムの視点で考えると、世界の実相はかなり見えてきます。
郵政民営化、イラク復興、リサイクル法、障害者自立支援法、北朝鮮への経済制裁、産業再生機構、司法改革、いずれもマスコミで語られていることの多くは、アウトプット志向のような気がします。アウトカムから考えると風景は変わってくるでしょう。そして、「民営化」「復興」「自立支援」「制裁」「再生」「改革」などの言葉の多義性が見えてくるような気がします。大切なのは、その中身であり、目指すアウトカムです。

ところで、執行猶予中だった人物が起こした少女連続監禁事件が話題になっていますが、裁判のアウトカムとアウトプットは何でしょうか。


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2005/05/08

■世界の平和を知るための雑誌「軍縮問題資料」が復刊されました

4月で休刊となった「軍縮問題資料」の復刊予告号が届きました。
休刊を惜しむ人たちの尽力で、月刊誌としての復刊が実現したのです。
7月号からまた書店にも並ぶそうです。
この雑誌については、CWSコモンズのホームページで何回か紹介しましたが、私がもっとも愛読していた雑誌です。
書名は硬いですが、中身は読みやすいです。
1年間の購読料は約1万円です。月額1000円弱です。コーヒー2杯の値段です。
ぜひともご購読をお勧めします。

世界のもうひとつの側面が伝わってきます。
それ以上に、こうした雑誌を講読することで、平和への活動を応援することにもなります。
次のホームページから申し込みができます。
http://www.heiwa.net/

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2005/05/07

■JR西日本の誠実な対応とマスコミの心無い態度  

福知山線事故に関しては、同じような報道ばかりで辟易なのですが、とても気になることがいくつかあるので、2点だけ書いておきたいと思います。

最近のJR西日本の対応はとても誠実さを感じます。
J&Jのタイレノール事件や米国の鉄道会社の事故対応の教訓をかなり忠実に学び、具現化しているように思います。当初の対応とまったく変わってきました。
事件や、その後の対応にはいろいろと問題はありますが、垣内社長をはじめとした最近の対応は、日本の企業には初めてといっていいくらい、誠実さを感じます。

それに比べて、記者会見でのマスコミの取材態度はひどいものです。ここぞとばかりに弱いものいじめです。第一、言葉や態度が許せないほど不愉快です。彼らには本当に事故にあった人たちへの追悼の気持ちはあるのでしょうか。それがあれば、あのような発言はできないでしょう。
昨今のマスコミの体質が伝わってきます。JR西日本の企業文化も問題ですが、マスコミ各社の企業文化はもっと問題です。そういう記者は即刻担当から外してほしいです。
自分たちに甘く、他社には厳しい日本の雇われジャーナリストは、そろそろ自己変革すべきでしょう。
見識と品格のないジャーナリストは、有害無益です。

もうひとつ気になることがあります。
過剰反応の文化の広がりを感じます。
問題指摘されそうなことはすべて止めてしまう。
そんな「リスク回避社会」に、ますます近づいているような気がしてなりません。

テレビは公共性をほとんど失っています。
それはテレビ番組を作っている人たちに社会性や公共意識がないからです。
恥ずかしくないのでしょうか。
誰か声を上げませんか。

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2005/05/04

■福知山線事故の問題の構図 

福知山線事故のニュースが連日流されています。
遺族から垣内社長に怒りがぶつけられるシーンも少なくありません。
遺族の怒りには共感する一方で、何か問題が違っているような気もします。
問題の構図は、「制度vs人間」なのであって、人と人の対立ではないはずです。
この事故は、もちろん人災ですが、その背景にある制度や仕組みに大きな問題があることが見えてきたということだと思います。そこに焦点を当てて、考えることが大切です。
特定の個人の問題にしてしまっては、問題は解決しません。
問題の構図を、「制度vs人間」と捉えれば、垣内社長と遺族とは、実は同じ被害者になります。その視点に立って、どうしたら「発生した問題」に対処したらいいか、どうしたら「問題の再発」を防ぐか、を考えていくことが大切なように思います。

危機管理は「事故を活かすこと」、つまり「危」(ダメージ)を「機」(チャンス)に変えていくことだと私は考えていますが、垣内社長ができることはたくさんあります。
JR西日本の経営幹部のだれかが、気づいてくれるといいのですが。
20世紀はじめの米国の鉄道会社の教訓から、まずは学ぶことが必要かもしれません。

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2005/05/02

■ホモエコノミクス教育 

最近のテレビニュースの終わりに必ずといっていいほど、出てくるのが天気予報とマーケット情報(為替と株の動き)です。
天気予報は役に立ちますが、マーケット情報は私にはまったく興味がありません。
株式投資もしていませんし、為替も毎日聞くほどの関心はありません。
関心がないのは我が家だけなのでしょうか。

いつからこうした経済指標が毎日のニュースで報告されるようになったのでしょうか。以前からとても気になっています。
もしかすると、毎日、私たちはホモエコノミクス教育を受けているのかもしれません。
すべての価値判断が貨幣価値で決まるような社会は、こうしてつくられたのかもしれません。

もし毎日のニュースの最後に、為替や株価ではない情報が流され続けていたら、きっと違った社会になっていたはずです。
たとえば、毎日の交通事故数はどうでしょうか。
たとえば、毎日の結婚組数と出産数。
いや、そうしたデータではなくても、一日一言的な前向きのメッセージでもいいでしょう。歴史を振り返る過去のその日の事件の一覧も面白いです。
そうした小さな積み上げが社会の文化を育てていくと思います。

もし放送が公共性を目指すのであれば、こうした問題を少しは考えてほしいものです。
テレビや新聞のパワーは、暴力的と言っていいほどに大きいです。

ちなみに、新聞の複数ページが株価だけで埋まっているのも、とても無駄な気分です。
ページ数を減らすべきでしょう。ネットで代替すべきです。
そうならないのは、きっと何かの理由があるのでしょうね。

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2005/05/01

■英霊信仰とジハード 

テレビで、イスラエルのプロダクションが制作した、イスラム過激派密着ルポとユダヤ過激派密着ルポの2本の番組を見ました。考えさせられました。
ユダヤ教とイスラム教を利用しながら、漁夫の利を得ているキリスト教という図式は、まだ全く変わっていませんが、その3つを並べて考えると宗教のエネルギーの違いが感じられます。

印象的だったのは、ユダヤ過激派が復讐を強調しているのに対して、イスラム過激派にはまだ希望が感じられたことです。
3つの宗教の争いは、間違いなくイスラムの勝利になるように思いますが(決着は数百年後でしょうが)、それはともかく、番組を見ていて、靖国問題と同じ構造があることを改めて感じました。死を肯定する英霊信仰です。聖の発展が俗化を促進するという、宗教のジレンマの典型的な現われのひとつです。
中国や韓国から見たら、日本政府の靖国信仰はアルカイダと同じに見えるのかもしれないと、ふと思いました。状況の渦中にいると、その意味はなかなか見えません。

パキスタンの女性たちが、自らの息子に、オサマと名づけ、聖戦への参加を歓迎するという発言を、微笑みながら話している画面と、首相の靖国参拝の画面は、もしかしたら同じメッセージを持っているのかもしれません。前者は被害者のメッセージ、後者は加害者のメッセージの違いはありますが。

敵味方の違いを超えて、人の死を悼む文化は、近代国家の登場とともに失われだしたといわれます。そして、それに代わるように、「国のために死ぬ」と「英霊」となり祭神となるという、英霊祭祀が広がってきます。人の死が、国家の戦争に利用されるようになっていくわけです。さらに言い方を変えれば、人の死が国家を支えていく材料になったといってもいいでしょう。私の価値軸で言えば、個人発想から組織発想への転換です。

戦没者を英霊にし、国を挙げて祀る「英霊祭祀」は、自国の戦争を正戦とし、死んだ兵士を英雄と褒め上げる仕組みをつくることで、他の国民が後に続く状況をつくっていくわけです。まさにジハードの思想です。ジハードはイスラムの独占物ではありません。
首相の靖国参拝は、まさにそうしたメッセージを持っています。そこに靖国問題のポイントのひとつがあります。そこにあるのは「人の死を悼む」のではなく、「人の死を勧める」メッセージなのです。それを健在化しないマスコミは、すでにその仕組みに取り込まれているわけです。

自衛とかジハードの虚しさを感じます。
しかし過激派の人たちの真剣なまなざしを見ていると、やりきれない気持ちになります。
その問題を克服する時代が、今開けようとしているにも関わらず、私たちはまだその呪縛から自由になれないのが残念でなりません。

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