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2005/05/18

■支援と弁護  

また「言葉」の問題です。
どうも世の中の言葉の使い方が気になって仕方がないのです。

先日、自立支援の活動をしている障害をお持ちの方から、こんな言葉をもらいました。
「家族や施設が障害者本人の意思とは関係なく与えてくれる生活支援も考え直していく必要がある。幼いころより大人にいたるまでの育つ環境が、障害者自身の自己決定能力を育ててこなかったのではないか」。自分自身、障害を持つ人だからこそ言える話かもしれません。しかし、「支援」とは何かはもっと深く考えるべきです。

先日、息子を交通事故で亡くされたご両親のお話を聞く機会がありました。オートバイで走行している時に自動車にぶつけられたのです。目撃者のタクシーが別の車に轢かれないようにカバーしてくれたのですが、亡くなられてしまいました。
裁判で、事故を起こした人の弁護士が「暴走族の一団だった」と裁判で主張したのですが、そのタクシーの運転手に傍聴してもらっていたため、彼が「暴走族などいなかった」と叫んでくれたそうです。しかし、そうした明らかな嘘をついてまで、加害者の刑を軽くしようとする行為は「弁護」と言えるでしょうか。弁護士のみなさんの立脚点は「弁護」ですが、その意味も理解していない弁護士があまりにも多いような気がします。つまり職責を果たしていない弁護士が多すぎます。

こういう視点で考えていくと、いまは職責を果たしている人がどのくらいいるのかいささか不安になります。
皆さんは職責を果たしていますか。
いや、自らの職責を考えたことがありますか。
私は時々、惰性で仕事している自分に気づいてゾッとすることがあります。
困ったものです。

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