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2005/05/01

■英霊信仰とジハード 

テレビで、イスラエルのプロダクションが制作した、イスラム過激派密着ルポとユダヤ過激派密着ルポの2本の番組を見ました。考えさせられました。
ユダヤ教とイスラム教を利用しながら、漁夫の利を得ているキリスト教という図式は、まだ全く変わっていませんが、その3つを並べて考えると宗教のエネルギーの違いが感じられます。

印象的だったのは、ユダヤ過激派が復讐を強調しているのに対して、イスラム過激派にはまだ希望が感じられたことです。
3つの宗教の争いは、間違いなくイスラムの勝利になるように思いますが(決着は数百年後でしょうが)、それはともかく、番組を見ていて、靖国問題と同じ構造があることを改めて感じました。死を肯定する英霊信仰です。聖の発展が俗化を促進するという、宗教のジレンマの典型的な現われのひとつです。
中国や韓国から見たら、日本政府の靖国信仰はアルカイダと同じに見えるのかもしれないと、ふと思いました。状況の渦中にいると、その意味はなかなか見えません。

パキスタンの女性たちが、自らの息子に、オサマと名づけ、聖戦への参加を歓迎するという発言を、微笑みながら話している画面と、首相の靖国参拝の画面は、もしかしたら同じメッセージを持っているのかもしれません。前者は被害者のメッセージ、後者は加害者のメッセージの違いはありますが。

敵味方の違いを超えて、人の死を悼む文化は、近代国家の登場とともに失われだしたといわれます。そして、それに代わるように、「国のために死ぬ」と「英霊」となり祭神となるという、英霊祭祀が広がってきます。人の死が、国家の戦争に利用されるようになっていくわけです。さらに言い方を変えれば、人の死が国家を支えていく材料になったといってもいいでしょう。私の価値軸で言えば、個人発想から組織発想への転換です。

戦没者を英霊にし、国を挙げて祀る「英霊祭祀」は、自国の戦争を正戦とし、死んだ兵士を英雄と褒め上げる仕組みをつくることで、他の国民が後に続く状況をつくっていくわけです。まさにジハードの思想です。ジハードはイスラムの独占物ではありません。
首相の靖国参拝は、まさにそうしたメッセージを持っています。そこに靖国問題のポイントのひとつがあります。そこにあるのは「人の死を悼む」のではなく、「人の死を勧める」メッセージなのです。それを健在化しないマスコミは、すでにその仕組みに取り込まれているわけです。

自衛とかジハードの虚しさを感じます。
しかし過激派の人たちの真剣なまなざしを見ていると、やりきれない気持ちになります。
その問題を克服する時代が、今開けようとしているにも関わらず、私たちはまだその呪縛から自由になれないのが残念でなりません。

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