■経済としての戦争と当事者としての戦争
斉藤昭彦さんの事件によって、この戦争が外部のものにとっては、「ビジネス」、つまり「経済」であることがよく見えてきました。
国王のための戦争が終わり、戦争の主役が市民になった契機はフランス革命戦争だといわれます。もちろんそれ以前にも、たとえばスパルタカスの乱など、当事者が主役になっての戦いはありますが、それらはいずれもサブシステムとして圧殺されたエピソードで終わりました。しかし、フランス革命は違っていました。そして、そこから戦争は変質し始めたといわれます。
フランス革命に立ち上がった市民たちは、まさに自らのために戦ったのです。革命の理念、あるいは共和国の理念に立ち上がったといってもいいですが、その理念はまさに自らの生活につながっていました。
映画「アラモ」の中で、ジョン・ウェインが演じたデビー・クロケットが、「共和国と聞いただけで心が躍る」というセリフをいう場面が、私はとても好きだったので、今でもその時の彼の顔が鮮明に思い出せるのですが、私もまた学生時代、そうしたセリフにあこがれていました。まあ、いまもそうなのですが。
もちろん、すべての参戦者がそうではないことはいうまでもありません。市民兵にしろ、義勇軍にしろ、その多くは「経済目的」だったかもしれません。そのために、フランス革命もまた、俗化し、破綻していくわけですが、当事者としてやむを得ずに戦いの中心になっていた人がいたことは否定できません。アフガニスタンも、イラクも、そうだと思います。
つまり、戦争の主役は2種類なのです。
経済のために戦っている兵士と当事者としての信念のために戦っている兵士です。
日本の自衛隊も含めて、ブッシュの軍隊に参加している兵士は、経済のためです。戦わなくても生きていけます。個人的事情としてそれ以外の要素があることは否定しませんが、基本的には、イラク復興は大きなビジネスマーケットでしかありません。
イラクで自爆を重ねている人たちはどうでしょうか。たしかに経済のために戦っている人もいるでしょう。しかし、その中心は当事者として戦いしか選択肢のない人たちかもしれません。戦わなくては生きていけない人です。
両者にとって、同じ戦争も全く意味合いが違います。私たちはこちら側、彼らはあちら側。しかし、戦争は、その全く次元が違うものたちがぶつかって、現実に殺しあっているのです。よく話せば、殺し合いは不要なはずなのですが。
ベトナム戦争もそうですが、そうした戦いの勝敗は、最初から決まっています。しかし、経済で戦う人にとっては、勝敗は関係ありません。何しろ戦争は市場でしかないのですから。
殺し合いをさせている人と殺しあっている人は別の人ですが、そこが見えなくなったのが、現代の戦争です。
そうした視点で靖国問題も考えてみたいと思います。
靖国問題の定義もあいまいなままの国会論議は混乱を広げるだけだと思います。
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