■有識者の無知
眉村卓の作品に「幻影の構成」というSFがあります。
私たちが見ている社会は、ある意図で操作されている幻影でしかないという話です。
ところがある人が、裸の王様の話に出てくる子どものように、幻想ではない事実を見てしまいます。そこから、その幻想の社会が壊れてしまうという話です。かなり雑駁な紹介の仕方ですが、この話を読んだのは、大学を卒業した2年後です。とても共感できました。「裸の王様」を取り巻く人たちの多さに辟易していたからです。
人は見たくないものは見えないものです。いや、見ないのではなく、見えなくなるのかもしれません。見たいものだけを見ていると言ってもいいでしょう。人ごみの中で、知り合いだけが見える経験はだれもがあるでしょう。
しかも、自分の目ではなく、大多数の人の目で見たくなるのです。これに関しては、たくさんの事例が報告されていますが、
有名なのが「アッシュの実験」です。紙に書かれた3本の異なる長さの線ともう一つの紙に書かれた1本の線の長さをくらべ、3本書かれた方の中から同じ長さの線を答える問題なのですが、被験者一人と7人のサクラがグループになり、一人ずつ順に回答してもらいます。サクラは意図的に間違った同じ答えをするのですが、それに引きずられて被験者も間違った答えをしてしまうことが多いそうです。いわゆる同調行為です。
つまり、私たちは「見たいものだけ」を「見たいように」見ているわけです。
橋梁談合事件が問題になっていますが、10年以上にわたり行われてきたという事実はどう考えるべきでしょうか。周辺の関係者はみんな知っていたはずです。こうした事件が報道されるたびに、何をいまさらと私には思えてなりません。
しかし、知っているがゆえに、見えていなかったのかもしれません。知識と見識が、事実を覆い隠すことはよくあることです。「有識者の無知」とでもいうべきでしょうか。有識者が権力者やマスコミに重宝されるのは、彼らの無知の故かもしれません。
橋梁談合事件は氷山の一角です。社会の仕組みを問い直すべきでしょう。小賢しい犯罪者たちは厳罰に処すべきですが、仕組みが根底にある以上、それもできないのではないかと思います。入札制度などというものがある以上、これからもきっと繰り返されるでしょう。私には、入札制度は小賢しい制度にしか思えません。断じて公平でも公正でもないように思います。談合や不正が寄生しやすい制度です。ですから導入されたのでしょうが。
「王様は裸だ」と気づいた子どもの「純粋な眼」を取り戻したいといつも思っています。
素直な眼を持った子どもたちが、素直に育っていける社会はできないものでしょうか。
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