■戦うことへの本能
あるメーリングリストで、こんなメールが流れてきました。
>斉藤さんの生き方について、テレビのインタビューなどでは「自分の生き方を見つけ>た方」「あのような生き方はすばらしい」と言うような反応があるようです。
>このような反応をされた方はNGOの高遠さんについての反応とは全然違うなあと>思いました。
>NGOの方が「苦しみを共有しあう」のに対し傭兵を賛美する方は「相手を攻撃」し>たり「激動を体験」することにあこがれているように思えました。
恥ずかしい話ですが、私の中にも斉藤さんの生き方に憧れる気持ちがあるのです。
もっとも私の場合は、イラク側での参戦ですが、まあ、どちらであろうと「相手を攻撃すること」に関しては同じことです。
みなさんはどうですか。
最近、フセインに直接会った弁護士が、フセインが語った逮捕の様子をテレビで紹介していました。アメリカの発表とは全く違う話です。
独房でのフセインの話も出てきましたし、最近の写真も映し出されました。
その話を聞いていて、フセインを応援したいと思っている自分に改めて出会いました。
ビン・ラディンに関しても、そういう感情が否定できません。
彼らのやったことには憤りを感じていますが、その一方で共感をしている自分がいます。
みなさんはどうですか。
映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親がいいます。
男たちは壊すことしかできない、
創るのは女性たちだけだ。
その言葉が衝撃でした。
以来、男性である私には平和活動などできないのではないかという思いが芽生えてしまいました。自らのなかにある、残酷さや好戦気分が否定できないのです。
最近、平和に関するメーリングリストが実に活発です。
にもかかわらず、どうも発言できなくなってきてしまいました。
平和に向けての自信を喪失しつつあるのです。
困ったものです。
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コメント
>映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親がいいます。
男たちは壊すことしかできない、
創るのは女性たちだけだ。
というのは、おおかた正解だと思いますが。
創ることなく壊す女性と、創る事の出来る男性も存在しますよね。
平和活動をされている方の一部も、「苦しみを共有しあう」ことから、いわゆる兵器を使ってはいないけど、メディアというある種の暴力(武力)などを使って、相手を撃滅しようとする、破壊的活動とも言える、戦う事に活動を転化している方もいらっしゃる。
このあたりは、けっこうボーターレスな部分があって、どこからが、破壊活動で、どこから、創造的活動かという事の境目というものが無いような気もしますし。
創造的な、破壊活動という、創造性と破壊は相対するものではないという捉え方もできると思います。
また、子供を見ていると、けっこう、いろいろやりますよね。それを見ていると、残酷さや好戦気分って、人間がもともと、持っているものなんじゃないかなと気がつくと思います。
自らのなかにある、残酷さや好戦気分は、人間の本能の一部と認め、その力があるからこそ、平和活動が出来面もあると思います。
それを、具体的に、破壊活動に繋げないためには、どう、その感情と折り合いを付けるかという所が重要だと思います。
ターミネーター2って、映画は、強烈に破壊活動を行う娯楽作品です。
メディア規制で、こういう暴力の表現に規制を掛ける活動がありますが。破壊という感情と折り合いをつける方法の一つではないかと思います。
その中で、きっちりと、自らの破壊願望であり、好戦という感情への気づきを与える仕掛けを作ることが、重要なのではないかと思います。
映画で、ドンパチを見て、そこで、折り合いをつけ、自分の感情に気づきながら、活動をするでいいんじゃないでしょうか。
投稿: まいける | 2005/06/01 12:36