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2005年6月

2005/06/30

■自然の生命力

自宅の近くの宅地を借りて、野菜作りを始めました。
といっても主役は女房です。私は時々の手伝いです。
昨日はたまたま地元の人との話し合いなどが重なったので、自宅にいたのですが、用事の合間に、その畑の雑草取りを命じられました。
雑草の成長の早さは驚異的です。
そこには昨日とは違う今日があるのです。
自然の生命力には驚かされます。

それほどの生命力をもつ自然を壊してしまう、私たちの文明とは何なのでしょうか。
私たちが壊しているのは本当に自然環境なのでしょうか。
もしかしたら私たち自身の生命を壊しているのかもしれません。

最近の気象はとても不気味です。
梅雨なのに初夏だったり、水不足と豪雨が並行して進んだり、自然が私たちに警告している感じがします。
生き方を悔い改めよ、という天の声が聞こえます。

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2005/06/29

■真面目さの功罪 

先日のブログの次の記事に質問がありました。
真面目に仕事に取り組むことがなぜ罪深いのだという指摘です。

テレビ報道を見ているとすべての公務員や社会保険庁の職員が私腹肥やしと無駄遣いをしているようにさえ思われますが、ほとんどの人はまじめに仕事に取り組んでいるはずです(私はそれこそが実は一番罪深いことだと思っていますが、それを言い出すとややこしいので今回は止めます)。

真面目さの功罪を考えてみたいと思います。
組織の中で与えられた仕事を真面目にこなすことはいいことなのか、です。
そう簡単な問題ではありません。

まず、組織人は与えられた仕事の価値を主体的に評価し、問題があれば異議申し立てできるかどうかという問題があります。組織が複雑になると個々の作業単位で仕事の価値を評価するのは難しくなってきます。仕事を「無意味化」し、単純な作業に分割することで作業効率を上げてきたのが工業化社会の発想ですが、そこに大きな問題があります。
次に、与えられた仕事はともかく、同じ組織の中で行われている活動に関する価値評価と問題があれば、それを社会に情報発信していくという問題です。自分の仕事だけに目を向け、他人の仕事には口を出さない組織人が多いように思いますが、それでは組織は育ちません。

組織の中で与えられた仕事を真面目にこなす、という場合の「真面目」の意味もポイントのひとつです。
主体的に考えることなく、ただ作業をこなすことは必ずしも「真面目」とは言えなくなってきているように思います。自分の行動には自分で責任を取る覚悟が「真面目」の言葉には含意されています。
組織の中にいることで見えてくることがありますが、もしそこに問題があれば、それを組織の外部に伝えていくことも「真面目」に入ると思います。

いま大切なのは、与えられた作業に忠実な真面目さではなく作業の目指すミッションやアウトカムの視点からの真面目さです。
これを「大きな真面目さ」と呼びたいと思いますが、とりあえずの小さな真面目さに埋没していては、いつかニーメラーと同じ後悔をすることになるかもしれません

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2005/06/26

■全体像の喪失と距離感の増大 

今日もまたテレビで、税金の無駄遣いが報じられていました。最近は毎日のように税金や社会保険料の無駄遣いが報じられています。これを見ていると、税金や保険料は払いたくなくなります。現代社会の社会制度はすべて「信頼」に基づいて構築されていますから、信頼を壊すことは非常に大きな問題です。しかし、なぜかそうした報道に対して政府も当該機関も何の対策も講じていません。もしかしたら「当事者」がいなくなってしまったのが、現代社会かもしれないと思うほどです。コメンテーター社会です

マスコミの報道を見ていると、行政は無駄遣いと私腹肥やしに全力を挙げているようですが、ではその無駄が全体のなかで一体どのくらいの比重を占めているのかはよくわかりません。テレビ報道を見ているとすべての公務員や社会保険庁の職員が私腹肥やしと無駄遣いをしているようにさえ思われますが、ほとんどの人はまじめに仕事に取り組んでいるはずです(私はそれこそが実は一番罪深いことだと思っていますが、それを言い出すとややこしいので今回は止めます)。果たして全体の中で、そうした無駄遣いや不正支出はどのくらいなのでしょうか。そうした全体像を見せずに、ある部分だけに焦点を当てて、騒ぎ立てるのは詐欺行為に近いと思いますが、それが昨今の権力者とマスコミの常套手段です。しかし、それでは大きな運動にはつながりません。

もう一つの問題は、問題の現場と自分の生活の距離感が物理的にも意味的にも離れすぎてしまったことです。ですから、みんな「ひどい話だ」だと腹を立てても、結局は自分の問題だとは思わずに行動を起こすには至りません。こう書いている私もほとんど事例でそうなっています。せいぜいが署名への協力と寄付くらいです。後は忘れてしまいます。ですから諫早湾は世論が盛り上がっても何の変化も起こりませんし、年金保険料の無駄遣いはさらに加速されているようにすら思える結果になっています。

この二つの要素は、いずれも「つながりこわし」の結果かもしれません。つながりを無視する風潮の中で全体像が見えなくなり、現場の距離が離れだしたのです。

無駄遣いに加担した公務員や職員、それに便乗した企業は、株主訴訟ではないですが、法律で過去にさかのぼって責任をとらせるようにすればいいと思います。もちろん利息もつけてです。子孫から詐欺まがいに奪取した財政赤字のかなりの部分はこれまでの官僚に返済してもらうべきです。それくらいのケジメをつけなければ、社会の基礎となるべき「信頼」は回復されません。無駄に造った施設は超安値で売るのではなく、当時のコストを回収する値段で関係者に引き取らせるべきでしょう。それが「社会の常識」ではないでしょうか。
いや、これは私だけの「偏見」かもしれませんね。負け犬の遠吠えでしょうか。

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2005/06/25

■誰が2人の子どもを殺人に追いやったのか 

また家族間の殺人事件が起きました。しかも立て続けに2件。
それぞれの被害者と加害者は誰でしょうか。
両親を殺害した事件の被害者は両親と考えて良いでしょう。では加害者は子供かといえば、そうとも言い切れません。
兄を刺殺した事件の被害者はだれでしょうか。私は弟だと思います、では加害者は兄かといえば、これも不安があります。この場合は両親がどう対応していたかも問題です。

それぞれの子どもたちにとって、家族はどういういう意味があったのでしょうか。

家族を取り巻く親戚社会と近隣社会。それらが壊れてきてしまっています。
家族は孤立した閉鎖空間になってきています。
家族の内部においても関係性が壊れてきていますが、経済的に自立しにくい子どもにとっては、関係性を失いながらも、同居せざるを得ないが故に、その家族に縛り付けられています。さらに「血のつながり」という生命的関係性も大きくのしかかっています。
閉じられた家族は良い時はいいでしょうが、悪い時は極めて危険な装置になりかねません。
外部とのつながりが失われれば失われるほど、最後の拠りどころとしての血のつながりや同居関係にひずみが集中し、矛盾が蓄積されていきます。2つの事件は、そのひずみの暴発と言えるでしょう。

家族のあり方が問われているのではなく、社会のあり方が問われているのです。
少子化問題も年金問題も、介護問題もDV問題も、取り組む視座をかえなければ解決しないように思います。
家族だけを見ていては、おそらく問題は見えてこないでしょう。
誰が核家族モデルを扇動したのでしょうか。
核家族モデルは砂上の楼閣でしかありません。
産業のために家族があるのではなく、家族のために産業があるはずなのですが。

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2005/06/24

■知性は質問の仕方に現れる  

卓球の福原愛選手が中国のテレビの取材を受けたものが、日本のテレビで紹介されました。質問者も回答者もなかなかの、面白いインタビュー番組でした。
内容はかなり辛らつなものもありましたし、インタビュアーの主観的コメントもありました。
ところがそれを紹介していた、日本のテレビのキャスターや同席したタレント?などは、辛らつすぎると批判的でした。中には、私がこんな質問を受けたらすぐに立ち上がって席をはずという若者もいました。日本のいまを象徴しています。
今朝、またテレビで報道されていました。「いい歳」のキャスターが、同じようなコメントをしそうだったのですが、同席したコメンテーターの3人がみんな中国のインタビュアーに肯定的なコメントをしました。ホッとしました。

インタビュー中、愛選手が「日本での質問と違いますね」と切り替えしました。すると相手は「日本ではどんな質問をするのですか」と再質問し、愛選手は「たとえば好きな食べ物は何ですか」と応えました。相手は「では好きな食べ物は何ですか」と質問しました。
実に含意に富むやり取りです。

その人の知性は「質問の仕方」で見えてくると若いときに本で読んだことがあります。とても共感できます。私の質問は、いつも知性を感じさせないものが多いと思いますが、質問の仕方はずっと意識してきたことです。
私の場合、直接話法が多いのです。たとえば相手の発したよく使われる言葉を捉えて「○○って何ですか」と質問します。とても性格が悪いのですが、その反応で、相手がどこまでしっかりと考えて言葉を発しているかがすぐわかります。そして、話すレベルを設定できるのです。もう少し知的に質問すればいいのですが、残念ながら、それが私の知性レベルなのです。性格の悪さは知性を妨げるものなのです。いやはや。

以前も書きましたが、日本のテレビのキャスターはどうしてこうも内容のない質問しかできないのだろうかと思います。それはたぶん日本のテレビ文化の影響なのでしょう。日本のテレビは迎合と持ち上げの文化です。ろくろく声も出ない人を歌手にしたり、ただ食べるだけのことをタレントと位置づけたり、そうしたお互いに持ち上げあう文化をつくってしまったのです。そして強いものに味方する文化が広がっています。かつての判官びいきの文化はどこに行ったのでしょうか。
それがキャスターにまで広がっているように思います。
そのことの影響はとても大きいです。
やや強引ですが、この数日の若者の悲惨な事件も無縁ではないでしょう。

キャスターの人たちは、もうすこしまともな質問をするように世界を広げ深めてほしいものです。片手間にやって、ことの本質を覆い隠すことに加担してほしくはありません。それこそジャーナリズムの死につながることなのです。

私ももう少し知的な質問ができるように心がけたいと思います。

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2005/06/23

■サラリーマン増税 

日本の税制の問題点は納税先が国家であることではないかと思います。
まず国家に税金を集め、国家統治上の視点からその税金を配布していくと言うやり方は、統治者には効率的でしょうが、納税者には使途が見えにくくなり、結果として「税金がとられる」という感覚を高めているように思います。
まあ、それはともかくとして。

21日、政府税制調査会がサラリーマン増税につながる可能性を強く示唆する報告書を発表しました。記者会見で、石弘光政府税調会長は「就業者の8割を占めるサラリーマンにがんばってもらうしかない」と述べそうです。
最近の私の年収はかなり低いので、ほとんど影響はないと思いますが、しかしいささかの不満はあります。それは「足りなければ民から増税」という思想が感じられるからです。しかも、サラリーマンにがんばってもらうしかないというのは、いかがなものでしょうか。完全にお上の御用学者の姿勢です。これではそれこそサルでも勤まるでしょう。
いやまた失言ですね。はい、反省。反省もまたサルでもできることですが。

税制には政治の思想や社会の文化が象徴されていると同時に、為政者の国民に対するメッセージが示されています。あるいは国のビジョンに向けての政策的意図が込められているといってもいいでしょう。
たとえば、配偶者扶養の廃止は家族のあり方を変えようとするものですし(つまり少子化促進策です)、源泉徴収できる就業者に期待するのは税金とは徴収するものという位置づけを示しています。
今、問題にすべきは、税の使途であり、その透明性です。それに手をつけずに、何が税制改革だ、です。
リサイクル法も、企業の声を受けて、回収時に消費者に負担させるというスタイルになりましたが、これは消費を促進させ、かつ廃棄処理業者に利得を与える以外の何ものでもありません。つまり環境負荷を増大させることを誘導しています。静脈産業を育てることは環境負荷を高めることにほかなりません
またそうした複雑な制度にすることで、管理者、つまり公務員の仕事づくりも意図されているようにも思います。
そうした本質的なところに目を向けない有識者は信頼できません。
しかし、よくも「就業者の8割を占めるサラリーマンにがんばってもらうしかない」などと平気でいえたものです。彼の書いた著作を少しは読んでいるひとりとして、がっかりしました。

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2005/06/21

■コミュニケーション拒否症候群

日韓首脳会談はすれ違いに終わったようです。
会談でもそうだったようですが、小泉首相はよく「人に言われて考えるものではない」というような発言をされます。靖国問題に関して言えば、多くの日本人もそういう意識を持っているようです。

主体性を持った行動は大切なことです。
しかし、また、主体性とは他の人たちとの関係において成り立つものであることを忘れてはいけません。

言動は、行為者の主観的意識によって意味合いが決まるわけではありません。受け止めた人がどう思うかで意味が決まってきます。「どういうつもりで発言し行動したか」ではなく「その発言や行動が相手がどう受け止めたか」によって、言動の意味は決まります。どんな善意も時に悪意になり、どんな親切も時に迷惑になります。

組織起点の発想から個人起点の発想へ、というのが、私の基本的な時代認識ですが、その場合の「個人」とはばらばらの個人ではなく、人とのつながりの中での人間としての個人の意味です。ですから「個人起点の社会」は気遣いあう社会とほぼ同義語です。人は個人では生きていけないですから、関係性の視点から自らを律し、価値観を相対化していくことが大切だと思っています。
「人に言われて考えるものではない」とはコミュニケーションを拒否した姿勢です。一般の市井の人であればともかく、複数の人を代表する立場の人としては、問題でしょう。その姿勢にその人の基本姿勢が象徴されています。

もっとも、コミュニケーションを拒否する人は決して少なくありません。
そして、コミュニケーション拒否から始まる紛争や悲劇は多いです。

知人の浅野良雄さんが「対話法」に取り組んでいます。
対話法はとても効果的なコミュニケーション回復策です。
一度、ホームページをご覧ください。

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2005/06/20

■過労死が起こる社会システム 

最近、自殺の問題がよく取り上げられるようになりました。
これは元NHKディレクターだった清水康之さんたちが始めた活動の成果だと思います。清水さんたちは自殺対策支援センターライフリンクというNPOを設立し、自死家族たちが声をあげていく場をつくったのです。そして、その声を活かす活動に取り組んでいます。政府も動き出しました。ささやかに応援している一人としてはとてもうれしいです。

過労自殺の問題も話題になってきています。過労死と過労自殺はほぼ同義のものだと思いますが、遺族の方の話を聞くとやはりいまのワークスタイルや働きの場の仕組みに大きな問題を感じます。そして過労死や過労自殺を起こす要にいるのが、また過労死や過労自殺の候補者であるような気がして、やりきれなさを感じます。

最近、企業の人が忙しすぎるのが気になっています。忙しすぎて仕事をする暇がないのではないかと思うほどです。なぜそんなにしてまで働くのか、仕事が面白いからでしょうか。そういう人もいますが、そうでない人が多くなってきています。そして、それに疑問を感じなくなっている人に出会うこともあります。
仕事に埋没しては仕事はできないと、私は思っています。私たちは仕事のために存在するのではなく、私たちのために仕事が存在するのです。
会社にとって、従業員は「人材」ではなく「人財」だという人がいます。会社は人によって実体がつくられますから、大切な財産だと言うわけです。しかし、人材も人財もたいした違いはありません。むしろそうした発想から抜け出ないといけないでしょう。従業員は一人の主体性を持った人間なのです。財ではなく「間」に大きな意味があるのです。しかし、そうした人の間をしっかりと育てていく余裕がなく、みんな孤立しています。そうした社会の状況を、自殺者の増加は示唆しています。

以前、日本ヒーブ協議会の年次大会で話をさせてもらったところ、資生堂の役員の女性が、過労死できるほど仕事に夢中になれる人がうらやましいという趣旨の発言をされました。あきれてしまいましたが、そうした人が役員になるような会社はどんな奇麗事を並べても信頼できません。

過労死やメンタルヘルスを解決するのは、やはりワークスタイルの文化を変えることです。ワークシェアリングを導入するだけで事態は変わるでしょうし、会社の従業員が会社以外の活動拠点をもう一つ持てば状況は変わります。

私たち一人ひとりが自分のワークスタイルを真剣に考えることはもちろん大切ですが、しかし実際には仕事のない人もたくさんいます。そうしたことも踏まえて、仕事のシェアの仕方や仕組みを考えた政策や企業の人事システムを考えることが必要でしょう。とても面白いテーマです。その基本は、人のつながり(関係性)です。
しかし、いまはまだ、人事活性化と称して、組織視点での人事制度の検討が行われています。個人起点での発想転換をしなければ、結局は企業をだめにしていくように思うのですが。

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2005/06/19

■地球温暖化促進策としてのクールビズ 

クールビズというような動きには言及したくなかったのですが、やはり少しだけ書こうと思います。
昨日、カジュアルパンツを購入しに行ったのですが、目に付くのがクールビズキャンペーンです。ネクタイ業界には不評ですが、衣料業界や小売店はここぞとばかり頑張っているようです。ある調査機関によれば、その経済効果はかなり大きいそうです。つまり環境負荷を高め、温暖化推進にかなり役立つと言うことのようです。
環境大臣が率先して地球温暖化に貢献しているのはおかしな話です。

いや、クールビズは地球温暖化促進策ではなく省エネルギーを目指す地球温暖化予防策でしたっけ。まあ、誰もそんなことは真剣に考えていないでしょう。もし真剣に考えているのであれば、方法は違うように思います。もっとやることがあるでしょうに。
短視眼的なこうした思いつき政策が問題なのです。
第一、こんな商業主義的なキャンペーンを展開せずとも、みんなそれぞれの自衛策を実行しているはずです。クールビズなどを言い出す人は、実はエネルギーを浪費している人たちであることを忘れてはいけません。
私は16年前まで会社勤めでしたが、暑い夏にはもちろん背広もネクタイも着用しませんでした。TPOによって、ネクタイと背広を着用することはありましたが、それ以外は不着用でした。不都合のこともありませんでした。それに私一人ではなかったです。状況に合わせて自己判断で対応すればいい話です。
それに、そんなことよりも省エネ効果を発揮できることはいくらでもあります。クールビズでごまかしてはいけません。

2000円札を創った首相がいました。私は受け取り拒否活動をしていました。首相の思いつきの人気取り政策でどれだけの無駄があったことでしょう。しかし、彼はなんら咎められませんでした。2000円札はどうなったのでしょうか。損害賠償を請求したいほどですが、当事者はわかりません。首相に知恵をつけたという人は知っていますが。
クールビズもまあそれと似たり寄ったりだと思っていますが、2000円札よりも弊害が大きいのは、問題の本質から目をそらさせることです。
クールビズのおかげで環境意識が高まったという意見があるかもしれませんが、もしそうならその証拠を見せてほしいです。みなさんの環境問題に対する行動は変わりましたか。意識は行動につながって意味を持ちます。

無責任な政治家たちが日本の文化やマナーをどんどん壊しているような気がしてなりません。しかし、文化は自然と同じく、壊すと元には戻らないのです。
諫早湾を壊すだけでは満足できないのでしょうか。

政治家は責任を取らないでいいですから気楽なものです。
それに彼らにはクールビズなど不要なはずなのです。

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2005/06/18

■政治が守る「体制」 

金正日総書記は、17日、韓国の鄭東泳統一相との会談で、「体制の安全の保証が貫徹されれば、核兵器を持つ理由がない」と述べた、と今朝の朝日新聞は報じています。

北朝鮮が核開発に取り組んでいるのは、現在の体制を守るためということです。そんなことは当然だと言われそうですが、問題はこの「体制」の意味です。その体制が国民の暮らしにいい意味でつながっている場合もありますが、そうでない場合もあります。
一番広義では「国民の主体的な生活の体制」、一番狭義には「国家権力者個人の地位と利権」と考えていいでしょう。その中間に「国家の管理体制」や「エスタブリッシュメントの生活」、さらには「富の分配体制」など、さまざまな捉え方があります。
イラク復興という場合も、その復興の対象が問題になりますが、これも一言で言えば、体制づくりということであり、その体制にはいろいろあるわけです。ですから私は、イラク復興などという言葉は理解できないのです。ODAでよく議論になるように、他者に関わるときには、対象を明確にして働きかけなければならないと思います。

北朝鮮の場合の「体制」とは何でしょうか。金正日の生命の保証という説もありますが、そこまでは行かないでしょう。しかし、大切なことは「体制」の意味を明確にして考えていくことだと思います。ある「体制」は別の「体制」を壊すことで成り立つことが多いですから、捉え方によっては、その意味は全く逆転してしまうのです。「守る」ことと「壊す」ことはコインの表裏です。

政治が守るべき「体制」は何でしょうか。
一般論ではなく、今の日本の政治の場合は何でしょうか。もし日本が経済協力するにしても、あるいは拉致事件の解決を交渉するにしても、いずれも自らの「体制」を守るためです。それは、北朝鮮の、どの意味での「体制」を守るかという問題に深くつながっています。そういうところで、政治の本質が見えてくると思います。

横田さんが、政府は対話も制裁も、何もしていないと発言されていることは当事者の言葉としてとても大きな意味を持っています。
小泉内閣が拉致問題解決に消極的なところに、今の政府が守ろうとしている「体制」が何なのかが見えてきます。そこにこそ大きな問題があると思います。

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2005/06/17

■NPO法人やまびこ会の事件 

NPO法人がまた事件を起こしました。今回は詐欺事件です。

NPO法人はいまや2万を超えています。しかし、実際に活動しているのはそのうちのどのくらいでしょうか。そして、自立しているのはどのくらいでしょうか。
私はNPOをささやかに応援するコムケア活動に関わっていますので、いろいろとNPOとの接点もあります。さまざまな体験もしています。不愉快なことも少なくありません。もちろんうれしいことが圧倒的に多いですが。
またNPOに対して、行政も企業もかなりの不信感を持っていることも体験しています。

私はNPO法ができるときに、どちらかと言えば、否定的でした。NPOが既存の枠組みに絡めとられてしまう危惧を感じていましたし、なによりも上からのNPOづくりが進むのではないかと思ったからです。違った育ち方があったような気がしますが、代替案もだせずに、ただ批判しているだけでは意味がありません。反省しなければならないのですが、どうも感覚的に今のNPOのあり方には共感できません。そのためもうひとつ、自分が取り組んでいる込むケア活動も完全にははまれないのです。

今のNPOのなかには、行政の下請けであったり、企業の逃げ場だったりするものも少なくありません。また今回のように、犯罪の舞台に使われることも当然あります。登録で社会的保証を与えると言う発想に、私は権力者の傲慢さと市場主義者の社会観を感じてしまうのですが、多くのNPOは経済市場主義社会のサブシステムになっているように思えてなりません。
これに関しては以前小論を書きました。

いうまでもなくNPOは企業と同じく「仕組み」です。犯罪者も営利企業も使い込める仕組みです。一方では社会起業家や生活者も使い込めます。誰が使い込むかで組織は価値が決まってきます。組織に価値観はありません。しかし、なぜか企業というと利益追求の権化とみなされ、NPOというと社会正義の集まりと看做されます。いずれも危険な「常識」ですが、組織で発想する時代にはそうした常識が横行します。

私は今の経済システムはパラダイムシフトすべきであると思っていますので、NPOのみならず企業もパラダイム転換すべきだと思っていますが、とりわけNPOに関して、お上が信頼性のお墨付きや公益性の判断をすることに、論理矛盾を感じています。せっかくの新しい芽をつぶしかねないからです。

法人格やNPOというタイトルに信頼性を与える時代は終わりました。信頼性は実践の中から当事者が積み上げていくべきものです。安直に権力によって与えられた信頼性は実体がないが故にもろいものであり、悪用されやすいでしょう。
ついでにいえば、ISO14000が流行したことがありますし、いままたISO絡みでCSRが流行になっていますが、これらも同じ間違いを犯しているように思います。

やまびこ会の活動は許されないものですが、もしかしたら同じようなことをさまざまな法人格組織はやっているのかもしれません。社会保険庁や雇用促進協会の実態とどこが違うのか、説明できますか。
どこかで組織の作り方や信頼システムの作り方が間違っているように思います。
もちろん国の作り方も、です。

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2005/06/16

■沢蟹の話2 

以前、このブログでも沢蟹の話を書きました。私はなぜか沢蟹が大好きなのです。
あのときの沢蟹は結局、戻ってきませんでした。逃亡したか、蛙に食べられたか、今でもどこかでひっそり暮らしているかはわかりませんが、以来、見かけません。
その後、自然の蟹を庭で飼うのは良くないと思って、諦めていましたが、また飼う事にしました。何しろ沢蟹が大好きなのです。
今回は購入ではなく、自然からの招待です。
3か月ほど前に滋賀の石道寺に行ったとき、道のそばを散歩している蟹に出会いました。その蟹を連れてきました。その話を知って、福井の義兄が野菜を送ってくれるついでに、近くの山の蟹を送ってくれました。私には最高の贈り物です。わが家族は毛蟹のほうが好きなのですが。

しばらくは室内の容器で飼っていたのですが、彼らを見ていると、やはり庭に放したくなり、我が家の人工ビオトープに沢蟹たちの住処をつくり、転居させました。とても居心地がよさそうな場所です。彼らはどう思っているかわかりませんが。
しかし、その住処をあまりに奥深いものにしてしまったために、彼らの姿を見ることができなくなったのです。大きな庭石の下に空洞を掘ったのですが、そこがどうやらモグラの穴につながり、地底につながっていたのです。姿は見えなくなりました。
しかし、夜、餌を置いておくと朝なくなっています。きっと蟹は健在で、夜は出歩いているのでしょう。時々、夜、懐中電灯を持って、あるいは早朝に探しに行きますが、まだ出会えません。困ったものです。

実は沢蟹たちのうち、小さな子ども蟹は2匹、まだ室内の容器に住んでいます。元気です。この2匹を庭に放すべきか、迷っています。

この問題と郵政民営化や憲法問題とは比較すべきことではないのですが、私にとっては、沢蟹のほうが気になるのも事実です。
問題への関心は、自分の暮らしとの主観的距離と問題の客観的大きさの掛け算で決まるのでしょうが、最近はどうも前者のウェイトが大きくなってきています。大状況への諦めから、小状況への関心が強まりがちです。この傾向はどうも私だけではないようです。
こうして社会は荒廃していくのでしょうか。あるいは向上していくのでしょうか。
小状況を大状況につなげていく仕組みが求められているように思います。その反対は多くの人が考えていますが、大切なのは小から大へのベクトルのような気がします。

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2005/06/15

■高砂義勇軍と靖国合祀問題 

とても気になる事件です。
毎日新聞によると、

旧日本軍の軍人・軍属として戦死した台湾人の遺族らが14日、靖国神社で合祀(ごうし)された犠牲者の霊を持ち帰る伝統儀式を行おうとしたが、右翼団体とのトラブルを避けるため、中止した。  集まったのは、タイヤルとプヌン、ピュマの原住民3族や、小泉純一郎首相の靖国参拝を巡る訴訟の原告ら約60人。午前9時から、靖国神社で祖先の霊を返すよう求める「還我祖霊」の儀式を行おうとしたが、右翼団体の約60人が神社付近に集まった。約500メートル先で待機したが、神社側の許可も出ず、約1時間半後に断念を決めた。  参加者の原住民らは「霊を持って返ろうと思ったが、実現せずに残念」と涙ながらに訴えた。
日本は今もなお、北朝鮮の拉致事件と同じことをやっているのかもしれないという思いをぬぐえません。 合祀問題にはだれも口を出せないようですが、靖国神社とは一体何なのでしょうか。 日本にはまだたくさんの治外法権空間があるようです。

死者は故郷にかえしてやりたいです。追悼とはそういうことではないかと私は思います。

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2005/06/14

■エスカレーターで歩きますか? 

みなさんはエスカレーターで歩きますか?
私は歩くタイプです。ですからエスカレーターを利用するかどうか迷うこともありますが、最近はエスカレーターしかない場所もあります。たとえば上野駅では新幹線ホームに行くにはエスカレーターしかありません。上野の新幹線からのエスカレーターはとても長いです。しかし、私は、たいていは歩きます。エスカレーターで止まるのが嫌いなのです。

右側は急ぐ人のためという常識が広がってきました。かなり混雑している場合も、最近ではみんな一列になってエスカレーターに乗るようになっています。しかし、これはとても奇妙な風景です。二列で乗れば効率は倍増するでしょう。右側が空いていて、左側には行列。どうも納得できない風景ですが、私はおかしいと思いながらも、右側を歩きます。時々、その右側に立ち止まる人がいます。もちろんその時は立ち止まるわけですが、この人はマナーをしらないな、と腹が立つこともあります。

ところがです。
エスカレーターを歩くのは危険だと言われだしました。
今日の新聞では某大型店舗が「エスカレーターでの歩行は危険なのでおやめください」という店内放送をしだしたという報道がありました。納得します。確かに危険です。エスカレーターは止まって利用するのがマナーなのだそうです。
マナーを知らなかったのは、私だったのです。

こうしたことはたくさんあるのでしょうね。
まだまだ私の思考回路は独りよがりと管理された枠組みから自由になれていないようです。自分で考えたマナーでは生きてはいないようです。これでは、私の嫌いなサルの生き方とそう違わないですね。恥ずかしい限りです。

先週からエスカレーターを歩くのを止めました。まだ違和感があります。そして、時に無意識に歩いている自分に気づきます。困ったものです。

みなさんはエスカレーターで歩きますか。歩かないほうがいいようですよ。

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2005/06/13

■二大政党体制の弊害

二大政党制が国政のみならず地方政治にまで浸透しだしています。
しかし、そうした体制の中での国会審議は退屈です。瑣末な議論で終始しかねません。
日本で二大政党信仰が高まったのはいつからでしょうか。小選挙区制の広がりと同調しているようにも思いますが、いずれも「組織発想の時代」の遺物です。この二つが広がるのに加担したのはマスコミですが、偏差値の申し子たちの軽い発想にはなじみやすい枠組みだったのでしょう。
しかし、社会が成熟し、大量生産時代が終焉しつつあるいま、二大政党の枠組みは社会を硬直化させているように思います。

私の友人の武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)は、議会制は民主主義とはいえないと言っています。「代表の擬制」が重層的過ぎて、結局は「民主」という実態が保証されていないからです。
しかも、党議拘束などというおかしな仕組みで、代議士は組織の歯車にされてしまうわけですから、今の時代、国会議員はサルでもできる時代です。事実、まあそれに近い状況なのかもしれませんが、そこには個人としての主体性は存在しないのです。
二大政党になると、論理は二つしかなくなることになります。しかも二大政党ということですから、当然のことながら、いずれの主張も類似のものになりがちです。国論が二分されるテーマはもちろんありますが、それはあくまでも各論であって、情報さえ共有されれば、多くの場合、国論は類似のところに落ち着きます。
これは武田さんがよく言う話ですが、いずれも国民の半数近くが賛成する意見を代表するわけですから(そうでなければ二大政党にはなりません)、どちらに転んでも大した差はないのです。つまり二大政党とは一大政党と同じことなのです。どこが違うかと言えば、利権の配分構造派閥の違いだけでしょう。ですから、そこでは本来的な政策論議は起こらずに、目先の手段論争が盛んになります。つまり「民営化の是非」「構造改革の手法」などです。その奥にある実体議論は行われません。
「新しい歴史は辺境から起こる」というよく言われますが、そうした辺境にある先端的な議論は二大政党体制の下では土俵に上がらなくなるのです。

組織発想の時代が終わり、個人起点で考える時代になっている現在、二大政党政治は時代に逆行しています。小選挙区制もそうでしょう。党議拘束などはもってのほかです。そこには主体性をもった生き生きした息吹はありません。
そろそろ政治の枠組みを考え直す時期ではないかと思います。

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2005/06/12

■拉致問題の構図 

テレビで見たのですが、最近、拉致被害者と認定された人の家族が次のような趣旨の話をしていました。

私たちは一生懸命働いて、国家に税金を納めてきました。でも国は動いてくれません。

国が「拉致被害者」と認定するだけでも事態は変わるのですが、多くの場合、国の認定は極めて恣意的であり、しかも意図的なのです。
水俣病もそうですし、薬害被害者もそうです。古くからある「分離による支配」の意図が感じられます。最近は裁判にもそんな風潮を感じます。

一生懸命に働いて税金を納めてきたのは何のためなのでしょうか。そういう税金でまかなわれている国は、どういう時に動いてくれるのでしょうか。いざという時に親身になって動いてくれない国に、どうして税金を払わなければいけないのか、そんなことさえ考えてしまうほど、怒りと哀しさを感ずる発言でした。

拉致事件は複雑な問題です。しかし複雑さに惑わされることなく、政治的に判断することなく、こうした家族の素朴な声にどう応えていくかが大切なように思います。

北朝鮮による日本人拉致事件は、犯罪者の不本意な事件ではありません。
北朝鮮という国による外交政策の一環です。日本のイラク派兵とどこが違うのかと考え出すと、私はわからなくなります。
もっとわかりやすくいえば、かつての日本国が朝鮮人や中国人を強制労働させるために日本に強制連行したのは、間違いなく拉致です。同じことが、国家によって行われていたのです。しかも、強制労働どころか、戦争にまで無理やり駆り出されて、戦死したら靖国に合祀されるようなことまで日本国は行っているのです。
そうしたことを考えるとどう対処していいかわからなくなってしまいそうですが、問題は簡単です。

組織発想ではなく個人発想で考え、対立軸を組織(制度)対人間(暮らし)に置いて整理すると問題の本質が見えてきます。
つまり、日本や北朝鮮が犯罪を起しているのではなく、国家や権力機構が犯罪を起しているのです。つまり国家は暴力機構なのです。その暴力機構にも、本来は仁義がありました。それがたぶん戦時や困窮の時代には失われるのでしょう。あるいは品格のない強欲者が権力の座についてしまうと暴力的な側面が暴走するのでしょう。今の北朝鮮と日本は、まさにそうした状況なのだろうと思います。

拉致家族を守る会のメッセージが、どこを向いているのかをしっかりと認識しておく必要があるでしょう。北朝鮮の人たちは、仲間なのです。在日朝鮮人へのいやがらせが起こっているようですが、そういう人は国家の走狗です。拉致の実行犯と同じことをしていることに気づいてほしいものです。

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2005/06/11

■リサイクル疑惑事件に対する朝霞市の反応 

今日の日テレの報道特捜プロジェクトで、朝霞市のプラスチックリサイクル業者の不正疑惑が取り上げられました。この問題が取り上げられるのは、4月23日、5月14日に続いて、3回目です。内容に関しては、次のブログが丁寧に紹介してくれています。
http://blog.goo.ne.jp/samidare2005/d/20050611

私は1回目も見たのですが、市役所はきちんと対応したのだろうと思っていました。それほど内容の問題点は明白でした。朝霞市役所にとっては、とてもありがたい問題指摘だったはずだからです。
しかし今日の報道を見て、唖然としました。市役所は事実を否定し、日テレに抗議文を送ったのです。抗議文は朝霞市のホームページに書かれています。

その内容は、常識では考えられないようなひどいものです。朝霞市民は完全に馬鹿にされていますね。私が市民ならすぐに市長に抗議に行きます。盗人猛々しいとはこのことです。こんな人が市長になれる社会は、やはりおかしいです。市長の背景を疑いたくなります。いや職員が黒幕かもしれませんが。
私はテレビの報道番組には不信感を持っていますし、この番組の指摘が絶対に正しいなどとも思っていません。大切なのは、そうした問題指摘に当事者がどう対応するかです。危機管理とは、そういうことです。
朝霞市長と朝霞市役所の対応は、見事に自らの「本性」を露呈しました。つまり共犯者と思われても仕方がないようなコメントを出しているのです。そして、それに気づかないほど無知になっているのです。いや、驕りでしょうか。

しかし、こんなことはそう驚くことでもないのかもしれません。
大阪市での事例は有名ですが、行政では日常茶飯事なのかもしれません。なにしろ小役人や小賢しい首長が真似をするモデルは限りなくたくさんあるからです。そして、問題指摘されても頬かむりしていれば、いつか忘れられることを彼らは知っているのです。
今回の番組では、朝霞市の話の前に、失業保険金の無駄遣いとして有名な雇用促進住宅の話が取り上げられましたが、問題は明確で早期廃止が閣議決定されたにもかかわらず、これから30年かけて廃止していくとの事です。誰にも迷惑を与えることなく、3年で廃止できると思いますが、その10年をかけることを彼らは決めたのです。閣議の権威もなくなりましたが、それを咎めないのは内閣もまた共犯者だからです。
国民を馬鹿にしている首相、小役人に馬鹿にされている首相、住民たちに馬鹿にされている小役人、不幸なトライアングルから抜け出さなければいけません。

みなさんは、自分の所属している組織のボスや住んでいるところの首長を尊敬していますか。
それとも馬鹿にしていますか。

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2005/06/10

■サッカーにあまり興味をもてないのです。 

サッカーで盛り上がっています。
そんな中で、非国民といわれそうですが、私はサッカーにほとんど関心がないのです。
ですからサッカーが話題になると、どうも肩身が狭いのです。
いや、サッカーだけではないのです。
野球にも興味がないのです。テニスもゴルフも、です。
わが家族には、夫も父親も体育系がいい、と私の評判は余り芳しくありません。
しかし、関心がもてないのだからどうしようもありません。

スポーツだけでもありません。
マツケンサンバも全く興味がありません。
先日、ある結婚式でマツケンサンバが登場しましたが、どうもなじめないのです。

要するに、世間の関心と私の関心はどうもずれているのです。
子どもの頃からずっとそうでした。
まあ、「いじめられっ子」の素質があったわけです。
いや、いまでもそうかもしれません。
同調性がないのです。
あまり人には好かれないタイプですね。

それに、サッカーの盛り上がりの後ろで、
何が進んでいるのか、そんなことが気になってしまうのです。
性格がわるいのでしょうか。

ところが、その私ですら、北朝鮮との試合は最初から最後までみてしまったのです。
そして、日本が得点するととてもうれしくなったのです。
どうしてでしょうか。

サッカーの盛り上がりの後ろで、何が進んでいるのか、
やはりとても気になってしまいます。
困ったものです。

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2005/06/06

■民営化への不信感 

しつこいですが、民営化への私の不信感をまた書きます。

国鉄が民営化されて、サービスがよくなったといわれます。駅の空間も楽しいものになってきたといわれます。
しかし、本当でしょうか。私には疑問があります。
サービスがよくなったのはたしかですが、それは当然の状況になっただけの話で、民営化しなければ実現しなかったことではありませんし、駅が一見楽しくなったのは商業空間になっただけの話です。わが我孫子市の駅は商業的活用価値がないためか、国鉄時代とほとんど変わりません。
まあ、国鉄は民営化を契機にして、実態が改善されたことは間違いありませんが、民営化しなければそうならなかったというわけではないでしょう。それに、安全対策や福祉面ではマイナスもないわけではありません。

電電公社はどうでしょうか。最大の問題は料金体系がわかりにくくなったことです。それに仕組みがどんどん変わります。そのため、私の手続きミスで、無駄な負担をしていることがよくあります。私には民営化のメリットはありません。電話のような基本的な仕組みは、むしろ国営にして無料にするのが望ましいと思います。その基本を超えた付加サービスを民間に委譲し、応益負担で展開してもらえば納得できます。

民営化によって、NTT関係企業は大きな利益を上げています。だから民営化はいいことだとみんな思っているようですが、それも納得できません。私には利益はないからです。料金体系がわかりにくくなった上に、次から次と目まぐるしく仕組みが変わり、その都度、出費を要求され、挙句の果てはいまどういうお金がかかっているかが全くわからない私のような利用者は決して少なくないでしょう。
最近の有線電話料金体系は、固定費的なウェイトを高めています。電話などしなくても、毎月確実に料金が取られるようになってきていますが、これはいわゆる不当所得です。
不労所得のウェイトがどんどん高まっていることにも、私は大変危惧を感じていますが、これはまた別問題なので、改めます。ただ、そうした仕組みをJRもNTTも拡大しているのは事実です。

いずれにしろ、税金をつぎ込んで蓄積してきた鉄道や通信のハードを安直に民間資本に提供することにどうしても違和感を持ってしまいます。しっかりしたインフラがあれば、だれでも利益は上げられると私は思っています。民営化は、その利益を誰か個人に提供するということです。
明治時代の官営工場が民間に払い上げられたことによって、日本の近代産業が発展してきたわけですから、民営化とはそういうものでしょうが、時代の局面の違いを考えると、やはり私には納得できないのです。

年金の保険料を投入して造られた立派な保養施設が、利用者がいなくて赤字なので、ただ同然で民間に売却されたりすることもありましたが、みなさんはどう思いますか。素朴な生活者感覚からは理解できません。その大規模なものが、電電公社や国鉄の民営化ではないかと私は思っています。
民営化という言葉にだまされていないでしょうか。

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2005/06/05

■コミュニケーション不在の国会審議 

国会での委員会での質疑応答を最近はできるだけ見るようにしていますが、とても気になるのは「質疑」どころか、コミュニケーションをしようという意識が答えるほうにないのではないかということです。その背景には立場の上下関係を感じます。三権分立は形骸化しています。
いまの内閣はコミュニケーション志向が極めて乏しく、独裁志向であり、国会の場を私物化しているように思えてなりません。マイノリティや異論との公正な話しあいのなかから、価値を創造していくという、民主主義の本質は見事に否定されています。民主党の審議拒否は愚策だと思いますが、その愚策を選びたくなる気分も理解できるような気がします。もちろん、それは愚策でしかありませんが。

コミュニケーションとは、相手を説得することでも、諦めさせることでもありません。自らの思考を深めることです。私はコミュニケーションとは自らを進化させることだと考えています。
しかし、国会での議論を聞いていると、相手の質問を「かわすこと」と「拒むこと」しか考えていないように感じます。これを聞いている人はどう思うでしょうか。特に子どもたちや若者たちはどう思うでしょうか。子どもたちは、大人の行動から多くを学んでいきます。
国会審議は、子どもたちにとってもコミュニケーションの「範」でなければなりません。

昨年、ニートに関する委員会に参加しました。そこで話題になったのが、若者たちのコミュニケーション能力を高めるべきだということでした。ほとんどの委員は賛同しました。委員の多くは、企業の経営者OB、大学教授、そして研究者や官僚やジャーナリストでした。私にはとても違和感がありました。コミュニケーション力どころか、その姿勢がないのは、あなたたちでしょう、と発言したい気分でした、まあ、それに近い発言はしましたが、彼らにはそもそもコミュニケーション能力がありませんから、私の思いは伝わらなかったでしょう。

コミュニケーションとは何か、ぜひ国会議員には考えてもらいたいものです。
ネクタイを外した服装を何にするかなどという問題よりも、大事な問題です。
少なくとも、今のような茶番劇からは足を洗ってほしいです。
今のようなやりとりに恥ずかしさを感じる常識は、もう捨ててしまったのかもしれませんが。

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2005/06/04

■郵政民営化よりも銀行国営化 

昨日の郵政民営化特別委員会の議論を聞いていて、やはり問題は「民営化」コンプレックスにあるという思いを強めました。
非効率さと硬直性、そして不透明性が、国営の欠陥で、だから民営化待望論が広がり、国鉄や電電公社の民営化の成果(落とし穴を感じますが)によって、民営化はいいものだということになったのでしょうが、この論理はいかにも安直です。
非効率や硬直性、不透明性は、民営であろうと国営であろうと起こりえますし、それはまったく別の問題です。議論のポイントはガバナンスの問題です。

郵政は国民の負担と考えるのは、国営事業がすべてコストセンターだと考えるからです。しかし、郵政システムを国民の利益と考えれば、プロフィットセンター的な発想が可能になります。
郵政でもし利益を上げられるとしたら、その利益は民営化の場合は、特定の資本家のものになります。国営のまま利益が上げられれば、それは国民みんなのものになります。言いかえれば、税金が削減できるのです。
その基本的な努力を放棄して、誰かに売ってしまおうと言う発想が現在の民営化論の根底にあります、閣僚や官僚は形だけを整えて、うまく責任を外してしまいたいと思っているようにしか見えません。事業価値論(ミッション論)ではなく、組織形態論(手段論)になっているわけです。昨日の委員会の議論では、閣僚側にはまじめさが皆無でした。報道ステーションの古館さんも言っていましたが、まじめさが欠けています。

私はむしろ、今の金融システムにこそ問題を感じていますので、金融はすべて国営化すべきだと思っています。高い金利での融資はなくすべきで、融資はすべて国が所管すべきだと思います。銀行は私営化すべきではありません。国が通貨を作っているわけですから、その運営も国がやるべきです。それを市場主義者にゆだねて、不労所得を発生させ、その利益の分与を一部の人たちが巧妙に受けている、今の構造には納得が行きません。

ところで、国営化、民営化という言葉の意味なのですが、現在の意味は逆転していると私は思っています。
国営化は、本来は国民に統治権があるはずです。もしそうであれば、統治対象である「民」が主役になるはずで、国営化とは実は民営化のことになるはずです。今の民営化は私営化でしかありません。つまり、言葉の魔術に私たちはだまされているのです。
金融と言う社会を支える基本的な信頼ステムは、当事者みんなのもの(コモンズ)にしなければいけないと、私は思っています。そのモデルは、地域通貨の中にあると思いますが、このガバナンスのあり方をビジョンにすべきです。
したがって、実は国営化ではなく、共営化というのが正確です。それに向けての第一歩として、まずは銀行を国営化し、次に金融システムそのものを共営化していくべきだと思います。以前も書きましたが、郵政民営化は、歴史の方向が逆なのです。

リアリティがないと言われそうですが、今の金融システムは砂上の楼閣ですし、さらに極端にいえば、犯罪の温床でしかないと、私は思っています。少なくとも高利融資を厳罰に処すことで、政治家や銀行経営者などは身の潔白を証明してほしいものです。

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2005/06/03

■ネクタイをしない国会議員 

温暖化対策で、ノーネクタイが話題になっています。
国会での議論は、きちんとした服装でしてほしいと思いますので、私はもちろん大反対です。しかし、思わぬ効用もありました。

今日の午後、テレビで国会の郵政民営化特別委員会の中継をずっと見ていたのですが、ネクタイと背広を着用していない閣僚たちを見ていると、その本質が見事に露出されて、だらしなさや不真面目さがしっかりと伝わってくるのです。
表現は悪いのですが、こんな人たちに国政を預けているのかと改めて情けなくなりました。どうみても、まともな人たちの話の雰囲気ではありません。質問者はまじめなのですが、閣僚たちがひどすぎます。

今の閣僚たちは、不真面目な内容のない人たちですから(質問に対する答えを聞いていたら、そうとしか思えません)、せめて背広とネクタイで緊張感を維持してほしいのです。自立していない人たちにはネクタイは必要だと痛感したわけです。

中川さんが、小泉さんがノーネクタイだったので慌ててネクタイをはずしてきたと、しゃあしゃあと語っているのにはあきれました、典型的な「ヒラメ族」です。少しは自分と言うものがある人かと思っていましたので。

ネクタイを外すと確かに人の本性が見えてきます。
彼らがいかにいい加減に国策をもてあそんでいるかが私にも見えてきます。
子どもたちにもきっと見えてきたはずです。

喜ぶべきかどうかは、とても悩みますが。
明日からネクタイをしてほしいです。
私はやはりネクタイをすることにしました。

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■働く場の魅力 

昨日は昼間も夜も、NPOを主催している大学生2人とかなり突っ込んだ話をする機会を得ました。
昼間会ったのは、大学院を卒業したら、自分のソーシャルベンチャーを起したいと準備活動をしているSさんです。寝る時間もないくらいのがんばりを続けています。その事業の進め方について、いろいろコメントさせてもらいました。
彼の研究テーマは交通工学ですが、せっかく学んだ、その専門知識とは別の分野で仕事をしていくことに少しもったいなさを感じますが、既存の企業に就職する意思は皆無のようです。自分のやりたいことができない予感を持っているからです。

夜は、茨城県の大学でNPOを主催しているIさんです。彼もまた企業に入らずに、自らの納得できる仕事に取り組みたいと考えていることを知りました。なぜ就職しないのかと質問したら、いまの企業には魅力を感じられないと言うのです。

もちろんこの2人は特別な存在かもしれません。
事実、Iさんは、大学時代みんなNPOや市民活動をしていても、結局は普通の企業に就職してしまう、自分はそうではない生き方をしてみたい、というのです。つまり多くの学生は企業への就職を目指しているわけです。
しかし、そうした若者にとっても、企業は余り魅力的な場ではないのかもしれません。入社後、会社を辞めてしまったという若者が時々やってきます。

私は25年間は企業での雇用労働、その後16年は自らが仕事を創りだす生き方をしてきました。大雑把に言えば、雇用労働はいやな事もありましたが楽でした。それに比べ、自分で仕事を創るのは辛いことが多いですが、楽しいです、「楽な労働」と「楽しい仕事」。この2つの違いは大きいです。
「楽さ」よりも「楽しさ」を選ぶ若者が増えてきたような気がします。そうした若者たちを引き付けるような魅力を、企業は回復しなければいけません。企業を元気にするのは人です。
短期的な業績回復も大事ですが、もっと大切なことは、働く場としての企業の魅力を回復することです。そのためにも、企業のあり方(経営のあり方ではありません)がもっと真剣に問われるべきではないかと思います。

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