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2005/06/13

■二大政党体制の弊害

二大政党制が国政のみならず地方政治にまで浸透しだしています。
しかし、そうした体制の中での国会審議は退屈です。瑣末な議論で終始しかねません。
日本で二大政党信仰が高まったのはいつからでしょうか。小選挙区制の広がりと同調しているようにも思いますが、いずれも「組織発想の時代」の遺物です。この二つが広がるのに加担したのはマスコミですが、偏差値の申し子たちの軽い発想にはなじみやすい枠組みだったのでしょう。
しかし、社会が成熟し、大量生産時代が終焉しつつあるいま、二大政党の枠組みは社会を硬直化させているように思います。

私の友人の武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)は、議会制は民主主義とはいえないと言っています。「代表の擬制」が重層的過ぎて、結局は「民主」という実態が保証されていないからです。
しかも、党議拘束などというおかしな仕組みで、代議士は組織の歯車にされてしまうわけですから、今の時代、国会議員はサルでもできる時代です。事実、まあそれに近い状況なのかもしれませんが、そこには個人としての主体性は存在しないのです。
二大政党になると、論理は二つしかなくなることになります。しかも二大政党ということですから、当然のことながら、いずれの主張も類似のものになりがちです。国論が二分されるテーマはもちろんありますが、それはあくまでも各論であって、情報さえ共有されれば、多くの場合、国論は類似のところに落ち着きます。
これは武田さんがよく言う話ですが、いずれも国民の半数近くが賛成する意見を代表するわけですから(そうでなければ二大政党にはなりません)、どちらに転んでも大した差はないのです。つまり二大政党とは一大政党と同じことなのです。どこが違うかと言えば、利権の配分構造派閥の違いだけでしょう。ですから、そこでは本来的な政策論議は起こらずに、目先の手段論争が盛んになります。つまり「民営化の是非」「構造改革の手法」などです。その奥にある実体議論は行われません。
「新しい歴史は辺境から起こる」というよく言われますが、そうした辺境にある先端的な議論は二大政党体制の下では土俵に上がらなくなるのです。

組織発想の時代が終わり、個人起点で考える時代になっている現在、二大政党政治は時代に逆行しています。小選挙区制もそうでしょう。党議拘束などはもってのほかです。そこには主体性をもった生き生きした息吹はありません。
そろそろ政治の枠組みを考え直す時期ではないかと思います。

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