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2005年7月

2005/07/31

■いじめの手段としてのテレビタレント族 

不思議な光景でした。自分の価値観が間違いではないかという気になりそうでした。
テレビの生番組で、今話題の次世紀ファームの堀代表がテレビタレントの人たち10人くらいを相手に質問に答えるという番組がありました。タレントの中には元裁判官だとか現医師だとかいう肩書き依存のタレントもいました(娘の話ではテレビにも良く出る有名な人だそうです)。1時間くらいの番組だったのですが、なぜか観てしまいました。
テリー何とかという極めて見識のなさを感じさせる人を初め(この人は言葉遣いを知りませんね)、大勢の人たちが堀さんに質問し、怒りをぶちまけていましたが、とても不思議だったのは、なぜか堀さんが正しいような気がしてしまったことです。恐ろしい話です。一応、私も堀さんが起こした事件の概要はテレビで知っているのですが。
タレント側で唯一論理的だったのは梨本勝さんだったように私には感じられましたが、他のタレントたちの発言にはいささかの共感も持てませんでした。現医師の女性は最初から人を馬鹿にしたような表情で不愉快でしたし、元弁護士の人もコミュニケーションしようという姿勢が皆無でした。これでは魔女狩りでしかありません。同じ穴の狢のだましあい、ののしりあいでしかありません。大勢で弱いものをいじめている構図でしかないわけですが、私が最後まで見てしまった理由は、堀さんが(論理はかなりめちゃくちゃではあっても)最後まで謙虚な姿勢と丁寧な言葉遣い(表情も含めて)を貫き通したことです。子どもの頃からきっと厳しい「いじめ」に耐えて鍛えられてきたのでしょう。そんな気さえしました。
それにくらべて、他の人たちの言動はひどいものでした。テレビは人間性を破壊するのかもしれません。彼らもきっと、それほどの性悪ではないのかもしれません。しかし、彼らの品格と優しさのない対応が、堀さんを善人に感じさせてしまうとしたら、怖い話です。同じ穴の狢としか言いようがないわけです。
これが現代の「知性」の正体なのかもしれません。

堀代表が売っている商品のうさんくささや経歴などの不正確な表現は、おそらくこの番組に登場したタレントたちの売っているものや自己表現とたいして変わらないだろうと思います。だからこそ、彼らは寄ってたかって同類をいじめているのだと思いますが、こんな番組を創っているマスコミにはやはり失望しますね。
もっとも、それを1時間も見ていた私は、それにわをかけた俗悪な存在なわけですが。いやはや。

とても気になるのは、こうしたタレントや番組が、おそらく本人の本意とは別の効果を生んでいると言うことです。テレビは、まさに両刃の剣です。もう少し真剣に番組作りに取り組んでほしいと思います。

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2005/07/30

■アスベスト労災認定事業所の発表姿勢 

厚生労働省がアスベスト労災認定事業所234箇所を発表しました。
但し、具体的な所在地は発表されませんでした。厚生労働省の犯罪体質は変わっていません。
組織の場合、犯罪は事実を隠すことから始まります。
これまでも何回も繰り返してきたことです。そして何と多くの死者を出してきたことでしょう。しかも、誰もほとんど責任を取らないままできています。
所在地を伏せたのは「風評被害」などを懸念したためと朝日新聞には書かれています。
風評被害とは事実を中途半端に隠すことから始まります。少しは現実に目を向けてほしいです。
アメリカの危機管理やコミュニケーションの出発点は常にフランクネスであり、事実を積極的に発信することです。
日本のリスクマネジメントコンサルタントは、それとは逆の指導をしているような気がしてなりません。
悪質なコンサルタントに、日本の組織は食い荒らされているのかもしれません。
同じ職種の者として反省しなければいけませんが、寂しいことです。

今回の事件は、フィブリノゲン納入先公表の時を思い出させます

厚生労働省には情報参謀はいないのでしょうか。
まあ癒着している情報コンサルタントにだまされているのかもしれませんが、
風評被害のことくらいは自分でも少しは勉強してほしいものです。
すぐにでも詳細の所在地を発表し、対策や事実収集に取り組むべきだと思います。

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■エスカレーターで歩かないことの難しさ

エスカレーターでは歩かないことにしたのですが、これがまたなかなか難しいのです。
ついつい歩いてしまうのです。それに二列に並んでいる時に必ずしも右側に乗れるとは限りません、不幸にして右に乗った場合、歩かざるを得ないのです。
そのため、できるだけエスカレーターを使わずに、階段を歩くようにしているのですが、エスカレーターしかないところが意外と多いのです。
選択肢が増えているわけではないのです。

エスカレーターでは歩かない、こんなことだけでも実行してみるといろいろなことに気づきます。
人生を変えるのはそう難しいことではないのかもしれません。

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2005/07/28

■司法の死 

あるMLで、こういう題名のメールが回ってきました。つい最近(7月23日)、このブログで中途半端に書き込んだことの実証報告ですので、少し書いておきたいと思います。
舞台は、山梨県の甲府地裁、日時は一昨日(2005年7月26日)です。
山梨日日新聞では次のように報道しています。

自衛隊のイラク派遣は憲法違反として、山梨県内の住民ら284人が国に派遣差し止めなどを求めている訴訟の第4回口頭弁論が26日、甲府地裁であり、新堀亮一裁判長は原告側の証人尋問申請を却下し、同日結審、10月25日に判決言い渡しを伝えた。原告側は「審理は尽くされていない」などと猛反発、地裁内は一時騒然となった。原告団は同日、同裁判長を含む裁判官3人の交代を求める忌避を同地裁に申し立てた。 この日の口頭弁論では原告側が本人陳述を行い、イラク派遣の違法性を訴え、被告の国側に具体的な反論を要求。次回以降の弁論で7人の証人尋問を申請した。国側の代理人は意見陳述で「主張、立証は尽きている。弁論の終結をお願いしたい」と述べた。 新堀裁判長ら3裁判官は合議を行った上で申請の却下と同日の結審、判決日を伝えて退廷。申請却下などの理由説明がなかったことから、原告や原告側の傍聴人が裁判官の後を追おうとして同地裁事務官らに詰め寄り、もみ合いになる場面もあった。 その後、原告側の要求に裁判官が応じ、原告代理人と原告一人、裁判官が面談。裁判官は「合議の秘密」として、結審などの理由は明らかにしなかったという。 原告団は県弁護士会館で会見し、裁判官の対応を批判。原告男性の一人は「裁判の審理は互いの言い分を聞いた上で進められるもの。強引に弁論を打ち切り、審理を終結するやり方が許されるわけはない」と強調した。 取材に対し、同地裁総務課は「個々の裁判官が下した判断の理由を説明することは困難」としている。
これだけだと、司法の死とは大げさではないかと思われるかもしれませんが、現場にいた人からの生々しい報告を読むと怒りが湧き上がります。 実は、こうした事態は予想されており、そのために原告の一人から、きちんとした議論をするように裁判所に要望書を送ってほしいという呼び掛けが事前にありました。 私も東京での同種の裁判を傍聴したこともありますので、状況が少しは想像できたので、早速、ファックスを送りました。ファックスはかなり集まったようで、それが一部の裁判官の心を動かしたような報告も前日にありました。 しかし、結局は被告である国の代理人の主張がとおり、議論無用の突然の結審になったのです。そのやり取りがここに掲載できないのが残念ですが、関心にある人はご連絡を頂けたら、メールを下さった方の了解を得て、メールを送るようにします。

なお、司法の死をもう少し長い目で知るためには、最近出版された「憲法9条の戦後史」(岩波新書)をお薦めします。
司法も国会も、すでに議論の場ではなくなってしまいました。
議論の無いところに民主主義や平和はありません。
司法の死、立法の死は、未来の死でもあります。
どうしたら蘇生できるでしょうか。

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2005/07/26

■組織犯罪と組織を使った個人の犯罪 

一昨日、アスベストに関して組織犯罪という言葉を出してしまいました。
「組織犯罪」とは何かとある人から言われました。「組織犯罪」という言葉はいかにもあいまいな表現でした。「組織」は単なる「仕組み」であって、行為の主体にはなれません。にもかかわらず、組織を主語にした議論が行われるところに問題があるのかもしれません。私もその間違いに陥っていました。

組織の行動を決めるのは意思決定者としての経営幹部です。したがって犯罪や事故の責任を問われるべきは法人格ではなく、経営者個人です。そこをあいまいにすることから、さまざまな問題が発生します。
株式会社は「有限責任」の考えを導入することで、大きなパワーを持ちました。しかし、その半面で個人の責任をあいまいにしてしまったように思います。そして、行政組織はさらにそれを増幅させ、「匿名の職員」が仕事をするスタイルを長らく続けてきました。匿名であることは犯罪の温床になりやすいです。

組織とは設計次第で責任の所在を明確にもあいまいにもできる仕組みです。そして今の日本の多くの組織は「責任を回避するための仕組み」になっています。行政組織もそうです。そこに、大きな問題があります。

日本における組織の意思決定は責任があいまいにできるのでだれも犯罪意識がなくても「犯罪」が可能になります。いいかえれば。「気がついたら犯罪者」というわけです。組織の設計原理が間違っているのです。しかも、そうした犯罪は法律上裁きにくいので、特定の個人は有罪にはなかなかなりにくく、なったとしてもダメッジは少ないのが普通です。
昨日も日本道路公団の内田副総裁が逮捕されましたが、あれだけ卑劣な行動を続けながら(彼の行動によって死んだ人がいるかもしれません)、ほとんどの人は殺人犯罪者と同列に見ることはないでしょう。ノンバンクの経営者も同じことです。三菱自動車やミドリ十字の関係者も同じです。組織は、個人の「犯罪」をあいまいにする装置なのです。
しかし実際には彼らはほとんど罰せられることはありません。時に社会的に名誉を失いますが、それは彼らにとっては何の痛痒も感じないでしょう。そもそも名誉や良心や信頼とは全く無縁の存在なのですから。そうでなければ、こんな犯罪は起こしません。

組織犯罪などという言葉は使うべきではありませんでした。
正しくは「組織を使った個人犯罪」です。
厳罰に処するべきでしょう。しかしおそらく処罰もあいまいに終わるでしょう。日本の司法の世界の視座は、生活者の側ではないからです。いいかえれば、司法組織にもまた、同じような組織原理が働いているように思います。
犯罪の温床になる組織の設計原理をそろそろ根本から変えなければいけません。それこそが、最近話題のCSRの本質だと考えています。

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2005/07/25

■不信感の増幅という「冷たいテロ」の予感

ブラジル人誤射事件は不幸でした。
それぞれにたぶんかなり納得できる理由があると思います。
その基本にあるのは「不信感」です。
一度生まれてしまった不信感はなかなか消えません。そして、どんどん増幅されていきます。安全安心のコストは乗数的に増大し、過剰防衛が過剰攻撃を生み出します。その行き着く先は破綻しかありません。

問題は、今回の無縁の若者の不幸は、実はすべての人に無縁ではないということです。いつ私に起こってもおかしくないということです。問題は不気味なほどに身近なのですが、おそらくほとんどの人はまだ遠くにしか感じていないかもしれません。

9.11事件、そしてロンドン地下鉄爆破事件。そこで死傷された人たちの数も決して少なくありませんが、もっと大きな被害はその事件が創出した「不信感」ではないかと思います。それは「冷たいテロ」といっていいかもしれません。まだあまり実感はできないかもしれませんが、「熱いテロ」よりも恐ろしい気がします。
世界が静かに壊れだしている、そんな不安がぬぐえません。
自爆テロとは、実は社会そのものを支えている信頼感を壊してしまうことなのかもしれません。
「21世紀は真心の時代」と考えていた私の思いは、完全に逆方向へと動き出しています。「冷たいテロ」はすでに日本社会に静かに広がりだしているのかもしれません。
それに抗して生きていかなければいけません。
大切なのは、隣人を信ずることです。たとえだまされたとしても。

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2005/07/24

■なぜ今頃アスベストなんでしょうか 

アスベストが話題になっています。それで初めて知ったのですが、アスベストはまだ使用禁止にはなっていなかったのですね。
アスベストが問題になったのはもうずっと昔ことです。その当時、禁止され、もう施設からの除去も行われたものとばかり思っていました。
そういえば、フロンガスはどうなのでしょうか。あれも禁止されたと思っていますが、もしかしたらまだ使われているのでしょうか。

とまあ、こういうことが決して少なくありません。
アスベストの禁止には石綿協会の強い反対があって、禁止法ができなかったと言うようなニュースもありました。それに関して協会の幹部の方が言い訳していましたが、これも呆れた話です。常識的に考えれば未必の故意があるに決まっています。組織犯罪ではないかと思えてなりません。
それはそれとして、一番問題なのは、問題が指摘されても、その解決が先延ばしになり、その間にさらに被害が広がっていくということの多さです。そして関係者は目先の利益のために、大きな問題を発生させ、ツケを次世代に残していくわけです。
今もさまざまな問題が次々と顕在化していますが、それらの解決は進んでいるのでしょうか。マスコミは事件や問題を消費する体質を変えて、その解決までをきちんと報道してほしいです。
またこうした「組織犯罪」にもっと警察や検察は目を光らせてほしいです。現在の体制はいかにも甘すぎるように思います。

問題指摘で満足してしまう社会から抜け出ることが必要だと思います。
まずは自らの周りで実践したいと思います。

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2005/07/23

■ステルス作戦は三権分立の崩壊を示唆しています

 郵政民営化法案に関連して、ステルス作戦なる言葉が広がっています。
何と無神経な言葉を使うものかと、私は強い憤りを感じます。この言葉を得意気に使う、郵政民営化反対の政治家たちは、私が犯罪者だと考えている小泉首相と同じ穴の狢だという気がします。

なぜそれほどに怒りを感ずるかは3つの理由がありますが、ひとつだけ書いておきます。
後の二つはやや個人的な理由からですので。

ステルス作戦は、国会を議論の場ではなくだましあいの場にするということです。賛否を鮮明にせずに議論できるとは思えません。国会はそれぞれの意見をぶつけ合って、それぞれに考え直し、より多くの人が合意できる結論を探していく場なのだと思いますが、これではだましあいの場でしかありません。だまし合いのために巨額な国税を使う必要はありません。
つまり、今、国会は機能していないと言うことを自己表明しているわけです。
日本では司法の世界に続いて国会もまた機能を放棄したように思います。
日本ではいまや、三権分立は絵空事になったのでしょうか。

司法の世界は、かなり前から行政の走狗に成り下がっていると思えてなりません。行政による明確な司法介入があるかどうかは確認できませんが、どう考えても日本の司法には行政府の影を感じます。とりわけ憲法や企業(公害や買収疑惑など)に関する裁判はそう感じますが、もしそうならば他の問題も同じことでしょう。同じ文化が支配しているはずですから。
また司法への八つ当たりをしてしまいました。
今回の問題は国会です。

見識をもって判断することを拠り所にしているのが参議院議員です。自己の意見をはっきりと表明し、それに正直にしたがえないのであれば、参議院の存在意義はありません。権力と私欲の亡者は衆議院議員だけで十分です。
ステルス作戦などと馬鹿なことを言っていないで、堂々と信念に従って議論してほしいものです。圧力や買収の動きがあれば、それを公開すれば良いだけの話です。それが開かれた議論、つまり国会に期待されていることなのです。茶番劇のために国会はあるのではありません。

政治家の皆さんの耳には届かないでしょうが、子どもたちに顔向けできないような生き方をしていていいのでしょうか、と問いかけたいものです。

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2005/07/22

■朝青龍の負けを期待している自分への嫌悪感  

朝青龍が2回負けました。それも微妙な負け方です。物言いが入り、検討の結果が発表されるとみんな拍手喝さいです。
そして負けた途端に座布団が異常に飛びました。私も拍手しました。

おそらく多くの観衆は朝青龍が負けることを期待しています。勝って当然なのですから、みんなもしかしたら負けるかも知れないと、それが楽しみで見ているわけです。少なくとも私はそうです。

しかし考えてみると、これはいかにも性格が悪い話ですね。人が負けるのを期待するとは何とも情けない発想です。今日、朝青龍の相撲を見ていて、それに気づきました。
生き方を反省しなければいけません。
社会が劣化していく契機はこんなところに潜んでいるのかもしれません。
パンとサーカスの戦略が少し理解できました。
危ないところでした。

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2005/07/20

■拉致問題は二国間問題でしょうか

テレビを見ていたら、山崎拓さんが核問題は6か国問題、拉致問題は2か国問題と話していました。この発想をえなければおそらく未来は開けないでしょう。いささか大仰な物言いですが。
これは「想像力」の問題なのです。

拉致問題は国家のあり方を象徴しています。つまり国家という組織維持のために個人の生活を壊すことはコラテラルダメッジなのであって、許容されるという枠組みを象徴しているのです。
国家の平和のためには個人を死にやることすらも是認されます。イラクがそうです。
そうした場合、行為そのものはすべて浄化されてしまいます。よく言われるように、個人が人を殺せば犯罪ですが、国家の平和のために人を殺せば英雄になる仕組みが作られているわけです。担い手は民間企業や傭兵でも公務員でも同じですから、当然、暴力団体や犯罪者集団と国家はつながってきます。ここに国家の闇の部分が秘められています。
談合などは当然過ぎるほど当然の結果なのかもしれません。関わった人たちの意識は暴力団や犯罪者と同じでしょう。だからこそ彼らを罰することはできないのです。みんな同じ仲間ですから。私たちもそうした暴力機制に依存している面がありますから、実は同罪なのです。しかし、それでは未来は開けません。
政治システムは、「暴力という強制力を独占し、支配関係を形成して社会統合するシステム」(神野直彦)ですが、その具体的な形態が現代の国家です。残念なことですが、そこでは国民は量的存在として扱われます。
そうした枠組みの中で考えている以上、拉致問題は二国間問題になってしまいますが、その枠組みの中では本当の信頼関係は生まれませんから、実は核問題もなんら解決しません。まだハーマン・カーン流のエスカレーション理論が根底にあるのです。これはまた近代産業の論理でもあります。
そうした発想に基づく枠組みの問題を指摘したのはオルテガです。
オルテガは、2つの信念の体系のはざまにあって、いずれにも落ち着かない過度的状況を危機とよびました。その危機的状況がかなり明確にあり、在来の信念体系の破綻がかなり明らかになってから、すでに半世紀近くが経過します。にもかかわらず相変わらず政治の世界は旧来信念の中で暴力を独占し続けています。イラクなどでは健気に国家組織ではない集団が自爆までを取り込みながら異議申し立てをしていますが、彼らもまた国家を倣っていますので、そこでも個人の視点は軽視されています。自爆がそれを象徴しています。産業が引き起こすジレンマと同じような政治のジレンマが発生しています。
半世紀前にアメリカで始まったカウンターカルチャー運動はなぜ失敗したのでしょうか。あれがもしもう少し広がれば歴史は大きく変わったと思いますが、まだ当時は国家が情報独占をしていましたから、サブシステムにしかならなかったのでしょう。

話が大きくなってしまいましたが、拉致問題こそ、人間に深くつながる根源的な問題であるという発想が必要です。それを理解するほどの想像力は政治家にはないでしょうが、真面目に汗しながら生きている私たちにはわかるはずです。そして、実はそれは国家関係の問題だけではなく、身近なところでも同じ発想が必要です。
個人的な問題こそが、実は社会の問題に一番深くつながっている。そうした発想が重要になってきています。まちづくりはまずは自分の庭づくり、生活づくりから始まるのです。しっかりしたNPOの根底には、そうした思想があるように思います。

また話がそれそうですね。
それにしても安直な問題に目を向けさせる政治家とマスコミには腹が立ちますが、対抗力がありません。イスラムの民が自爆しかないと思う状況に、もしかしたらつながっているのかもしれません。いささか怖い話です。自爆はしたくありません。

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2005/07/13

■古館さんが好きになりました 

昨日の報道ステーションに日本道路公団の近藤総裁が出演しましたが、近藤さんへの古館さんの質問は迫力がありました。聞いていてすっきりしました。近藤さんの回答は全くすっきりしないものでしたが。
その後、ニュース23で同じように筑紫さんが近藤さんに質問しましたが、気のせいか古館ライクなスタイルも感じられましたが、内容は相変わらずのコメンテータースタイルでした。終わりもしまりませんでした。

古館さんの良さは主体的に対応することです。時に考えが違うことがありますが、視聴者と同じ立場を感じさせます。久米さんの目線と質問は観察者的でしたが、古館さんは当事者的です。まあかなり贔屓目かもしれません。
しかし、昨日の質問のリズムの取り方はとてもよかったです。苛立ちを表現したのが好印象です。古館さんの質問はことごとく無意味な回答でごまかされましたが、状況はかなり視聴者には伝わったと思います。
質問は「内容」だけではなく「仕方」も重要なことを改めて実感しました。

談合が発覚したにも関わらず、おそらく事態は何も変わっていないのでしょう。
報道ステーションにはぜひ継続してこの問題をしっかりとフォローしてほしいと思います。
常識的に考えて、道路公団の現職が無縁であるはずがありません。近藤さんもいまや無縁ではないでしょう。
勝負は1年目で決まります。延ばしてはいけません。

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2005/07/12

■寒い日の電車冷房 

今日はちょっと寒かったです。
上着を着ようかとも思いましたが、上着なしで出かけました。
9時半頃、我孫子駅で千代田線に乗りました。おそらくJR管轄ですが。
我孫子発なのですが、出発直前になってなんと冷房が入ったのです。
この寒い日になんで冷房なのか、しかも車内はすいています。
車掌に苦情を言いたかったのですが、離れているので伝えようがありません。
実は千代田線では時々こういうことがあります。

省エネが叫ばれていますが、みんな真剣に考えてはいないようです。
我が家の前の街灯が日中でもついています。いつも無駄だなと思っていたのですが、そのまま見過ごしていました。
今日の電車体験のときになぜかそれを思い出しました。
私もまた省エネを真剣に考えていなかったようです。
明日、市役所に電話しようと思います。

私にもできる省エネ行動はいろいろありますね。
ちなみに最近はエスカレーターにも極力乗らないようにしています

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2005/07/11

■拉致問題と核開発問題の重みをどう考えるか 

6か国協議が再開されそうですが、北朝鮮は日本が拉致問題に言及しないことを求めているようです。
「拉致問題」と「核問題」とを比べたときに、どちらがより優先されるべきでしょうか。
私の周りの人にさりげなく質問すると例外なく核問題のほうが重要だといいます。
みなさんはどうでしょうか。
私は躊躇なく、「拉致問題」の解決が優先されるべきだと思っています。

核開発が行われたら日本はもちろん世界が危機に陥るというイメージがありますが、ではアメリカやロシアが核を大量に持っているのはどう考えるべきでしょうか。北朝鮮が核を持つこととどこが違うのでしょうか。
問題は「所有」ではなく、それを所有する人(体制)ではないかと思います。だからといってアメリカなどの核保有を肯定するわけではありませんが、北朝鮮やイラクが核を持つことを問題視するのは国家(ガバナンス)としての信頼性の問題だろうと思います。まあ身勝手な論理ではありますが。
もしそうであれば、その国家のあり方(ガバナンス)を正すことが重要です。つまり拉致問題の決着なしに、核問題を議論することは無意味だろうと私は思います。
それに核問題は「未来の蓋然性の世界の話」ですが、拉致問題は「過去と現在の確実性の世界」の話です。実際に被害者もたくさんいるわけです。その問題を解決せずに、どうして核開発問題を議論できるでしょうか。
核問題と拉致問題。前者は人類の問題あり、後者は個人の問題であるというような、ステレオタイプな発想をしていないでしょうか。
これほど明確な犯罪を解決できずに、核問題を解決できるはずがありません。現実問題の解決を先延ばしするために、次元の異なる問題を出してくる。これは誠意のない権力者がよく使う手なのです。

核問題よりも、拉致問題の解決のほうが優先されるべきであり、重要性も比較にならないほど高いと私は確信しています。
だからどうするのだといわれそうですが、どうしたらいいでしょうか。
真剣に考えなければいけません。

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2005/07/10

■解散はなぜ脅迫材料になるのか

衆議院で郵政民営化法が辛くも成立したのは、首相が廃案になったら衆議院を解散すると脅したからだといわれます。真偽のほどはわかりませんが、状況証拠はかなりあるように思います。リーダーシップの不足は、いつも権力行使で補われるのです。

しかし、なぜ「解散」が脅しの手段になるのでしょうか。自らの信念を国民に問う絶好の機会であり、国民と国政との距離を縮める効果的な手段でもあるはずなのですが。
脅迫効果のひとつは「公認」せずに「対立候補」を立てるといわれたからとも言われますが、もしそうであれば、政治家は信念を持つ主体的存在者ではなく、政党の雇われ人でしかないことを認めていることにもなりかねません。あるいはお金の問題かもしれません。選挙のあり方が問題でしょう。

もし自分の判断に自信があるのであれば、選挙は、広く国民の信を問うことのできる、また自らの考えを広げていくことのできる主舞台です。国会での不謹慎な議論をしているよりも、ずっと大きな意味があります。政治家は「まちに出よ」です。語りかける相手を間違っているのです。

解散をちらつかせて翻意をそそのかす卑劣さは論外ですが、私には「解散」というものの積極的な効果や意味への認識がないことのほうが納得できません。

ちなみにこの問題に関しては、公約論や党議拘束論がありますが、公約は「言葉」ではなく「内容」であり、党議拘束は本来的に見直すべきであり、しかも今回は手続き的にも問題があるように思います。蛇足ですが。

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2005/07/09

■民営化再論 

今日は解散の意義について書くつもりでしたが、今、テレビで猪瀬さんの話を聞いて、気になったことを書くことにしました。

猪瀬さんは郵政民営化が必要な理由として民営化すれば活性化するというのです。言葉としては成り立つでしょうが、内容はあまりに多義的で実体のない言葉です。こうした言葉の操作が、いわゆる「有識者」の常套手段です。
猪瀬さんはその事例として、クロネコヤマトの宅急便をあげました。たしかに宅急便は評価できますが、それは「民営化」の成果ではなく、クロネコヤマトの成果です。レトリックにだまされてはいけません。一般論にすりかえるのはまさに小泉手法ですが、大切なのは「民営化」の内容です。

民営化の「民」は、いうまでもありませんが、「統治されるもの」です。民営化とは「統治されるものに経営を任せる」ということです。その発想にすでに「お上発想」があるわけですが、問題はその「民」「統治されるもの」の捉え方です。集合名詞ですから、いかようにも内容をいじれるわけですが、今の現実を考えれば、NTTがそうであるように、この「民」は「公私」の「私」に近いのです。つまりは「プライベート・ガバナンス」に任せると言うことです。しかも「官」(統治するもの)の統治下に置きながらです。ちなみに「民営化」はおそらく“ privatization ”の翻訳ではないかと思います。
最近、「ソーシャル・ガバナンス」と言う言葉が使われだしていますが、もし「民営化」が「ソーシャル・ガバナンス」を意味するのであれば、私は大賛成です。しかし、その時には「ソーシャルな視点」が基本になければいけません。それは議論の過程においても必要です。
Privatizationの進行が、実際にどのような問題を起こしているかはもっとしっかりと考える必要があります。そうした体験の中から、改めてコモンズセクター、ボランティアセクターが再評価され、市民社会が注目されてきたのです。
もっとも、日本の場合、その市民社会までもが政府の管轄下に取り込まれそうなのですが。いまのNPOの分野にはビジョンを持ったリーダーが不在のように思います。

アメリカ発の市場信仰に基づく競争型の自由主義経済の幻想に惑わされてはいけません。政府に対置されるのは市場だけではありません。コモンズセクターがあることを忘れてはいけません。そして、それは決してサブシステムではなく、システムパラダイム転換の起点になりうると、私は考えています。

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2005/07/07

■お金がお金を生み出すことへの疑義 

投資サービス法がつくられ、預金を除く金融商品への消費者保護が来年の国会に提出されることになりました。政治家の都合による郵政民営化法に膨大な時間をかけるよりも、こうした私たちの生活につながり、しかも切実な問題の議論をしてほしいと思います。早くても施行は2007年夏だそうです。それまでの間にもいくらでも手は打てるでしょうに。
それに、この問題は単なる消費者保護だけの問題ではありません。新聞によれば、お年寄り保護が主眼のようですが、そうではなくもっと抜本的な検討がされるべきです。
私のところにも金融商品や商品投機の電話がかかってきます。明らかに演出している電話もありますが、そうした電話には、相手に「仕事を変えたほうがいいですよ」と余計なお世話をしていました。最近はもうやめましたが。
若いと思われる人からの電話が多かったのですが、この延長に、振込み詐欺があるように思います。つまりその仕事を通じて、若者の仕事観が毒されていないとはいえません。
商品投機が悪いとは言いませんが、それは業界内の仕事であって、一般に広げるビジネスではないように思います。ワンクッション置くべきです。

それは外貨預金にも言えることです。儲け主義の銀行が市場を拡大したのです。

残念なことですが、私の住んでいる我孫子市で、水道局が2億円のお金を外貨預金し、1100万円の為替差損を出してしまいました。市長が、自らと水道事業管理者に賠償請求することになりましたが、これは非常に大きな問題です。経済的な問題ではなく、考え方の問題であり、モラルハザードにつながる問題です。
私は我孫子市の市長の言動にとても共感していますし、我孫子市は今の市長になって大きく変わりだしました。それだけにこの問題はとても残念です。ちょっとした常識があれば、食い止められたことなのです。おそらく市長もしくは水道事業管理者に適切な相談相手がいなかったのでしょう。

お金がお金を生み出すことに依存してはいけません。
銀行の利子がゼロなのは健全なことだと私は思います。日本の銀行が健全でないのは、預金利子はゼロで貸付利子は高く、しかも手数料による不労所得が高いことです。それにミッションを忘れていますから、いまや存在価値はありません。国営化すべきです

価値を生み出すのは、人間の知恵と汗です。
我孫子市では古利根の湖沼の環境保全を目指して、市民債を発行しました。2億円集めました。その2億円で、価値を生み出し、償還するものとばかり思っていましたが、そのシナリオが見えません。今回の事件を知って、いささかの不安を持ちました。単に問題を延ばしただけなのかもしれません。
2億円集めて、新しい事業を始めて、それで償還していくのが普通の発想です。行政はこれまで「コストセンター」でしたので、そうした発想が欠落しているのです。
無尽講の文化を思い出すべきでしょう。理念と循環思想のない市民債は、もしかしたらマイナスかもしれません。安直に市民債を引き受けたことを少し反省しています。

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2005/07/05

■反対と欠席 

郵政民営化法が衆議院を通過しました。5票の差でした。
昨日の亀井さんの自信に満ちた発言で否決を期待していたのですが、私には残念な結果でした。まあ亀井さんの自信に満ちた予想は当たったためしがありませんが。

これまでも書いてきましたが、私は郵政の民営化には反対なのです。というか、「民営化」の意味が極めてあいまいな日本の経済至上主義発想に異論があるのです。民営化の意味をみんな考えていないような気がしてなりません。言葉にごまかされてはいけません。日本の民営化は私営化にすぎないのです。ガバナンスの欠如です。まあ、そんなことはどうでも良い、まずは民営化だというのが小泉首相の論ですが、これは同時に多くの「有識者」の意見のようです。いやはや。

ところで、非常に面白かったのは、自民党の反対派の人たちが胸を張って反対票を入れていたことです。綿貫さんの顔は極めてさわやかでした。党議拘束という呪縛から解き放たれた快感でしょうか。今日だけは綿貫さんがとても輝いて見えました。
党議拘束は「組織起点の発想」です。代議制の矛盾をさらに増幅するものであり、少数者による支配システムを目指す非民主主義的なルールです。党議拘束がある以上、政治家は歯車でしかありません。
二大政党制、小選挙区制、党議拘束、すべてが機械主義的な近代の仕組みですが、そろそろ政治はそこから脱却すべきです、日本ではむしろベクトルはその深化に向いているようですが。

しかし今日、書いておきたいのはそういうことではなくて、欠席した自民党議員のことです。テレビではチラッとしか見えませんでしたが、たとえば古賀さんの退席の姿は誇りを感じさせなかったです。自分の意思表示もできずに、逃げていく哀れさを感じました。やや主観的過ぎる見方ですが。

欠席と反対。私は欠席者が一番許せません。責任逃れをするような政治家は理解できません。古賀さんに少しシンパシーを感じ始めていたのですが、残念です。
今回の国会は、とても面白かったです。次の総選挙での投票の方針が決まりました。内緒ですが。はい。

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2005/07/04

■住民と市民 

一昨日、地元の住民の集まりで、「市民」と「住民」という言葉が少し問題になりました。ある「市民活動」をしている人が「住民は何もわかっていない」と言うようなニュアンスの発言をしたのです。
私は「市民」ということばよりも「住民」という言葉にリアリティを感じます。自分の住んでいる場所をしっかりと持ち、しっかりした住民活動をしていてこその市民活動だと思っているからです。そういう意味では、まだ私自身の住民度は高くはありません。
しかし、美野里町や山形市で少しだけ「まちづくり」に関わった体験からいえば、一番しっかりした取り組みをしているのは「住民」です。

NPOやいわゆる市民活動にも、ささやかに関わっていますが、私の体験では、活動の真ん中に問題の当事者もしくはそれに近い人がいるかどうかで活動のリアリティや発展性に違いがあるような気がします。今、全国の100近い広義のNPOと付き合いがありますが、元気な活動はほぼ例外なく当事者的な人がど真ん中にいます。つまり私の感覚では「住民主導」なのです。決して「市民主導」ではないのです。
私がまちづくりに関心を持ったのは30年以上前ですが、当時は「住民」ではなく「市民」にならなければいけないという言われ方がされていました。私もそう思ってきました。
しかし、17年前に会社を辞めて、少しずつまちづくりに関わりだすようになってから、大切なのは市民感覚ではなく、住民感覚だと思うようになったのです。

今日、郵政民営化特別委員会の議論をラジオで聴いたり、テレビで見たりしていました。
なぜか「住民」と「市民」のことを思い出しました。
日本の政治は市民がやっていることに問題があるのではないかと思ったのです。
住民の政治を根底において、そこから積み上げていくような政治の仕組みがあれば、今のような空疎な議論はなくなるでしょう。
政治だけではありません。経済も、です。

住民の知恵と汗の効用を見直すことが必要かもしれません。
今年は私も住民度を高めるつもりです。

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2005/07/03

■私のアドレスで発信している人がいるようです 

迷惑メールが飛び交っていますが、私のアドレスを発信者にしたメールが私のところに来ることがあります。
いわゆる迷惑メールが多いですが、中にはウィルスメールもあるかもしれません。
私はメールの「送信者名」を「佐藤修」または「おさむ」にしていますので、アドレスが発信者名になっていることはありません。したがって、そうしたメールは最初から無視して削除していますので、問題はないのですが、なかには私のアドレスを知っていて、私と勘違いして開く人がいるかもしれません。
そこで、まず発信者名が私のアドレスになっている人の発信メールアドレスを調べてみました。そうしたらそれもまた私のアドレスと同じなのです。
ということは、私のアドレスと同じアドレスが存在すると言うことです。
そこでプロバイダーに相談してみました。
だいぶ話し合ったのですが、問題は解決しませんでした。
まずアドレスをID形式から独自のものに変更したらどうかと言われました。模倣される確率が少なくなると言うのです。よく理解できませんが、これは解決にはなりません。
私のアドレスと同じアドレスを使っている人を拒否することはできないのかと質問しましたが、プライバシーの問題でそれはできないというのです。これまたわからない論理ですが、埒があかないので相談は打ち切りました。

みなさんはそういう経験はありませんか。
対抗策をご存知の方は教えてくれませんか。

それにしても、自社のドメインを詐称している人を拒否できない仕組みには納得できません。技術的に難しいのでしょうか。
これもどなたか教えてくれませんか。

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2005/07/01

■史上最高のボーナス 

今年の夏のボーナスはとてもいいそうです。
この時期になると新聞やテレビではボーナスの話題が持ちきりです。
そしてそれを目当てにした商戦も活発です。

私は会社を辞めて17年経過します。
以来、ボーナスをもらったことはありません。
個人企業ですから、毎月の給料すらもらえないことも少なくありません。
それが零細企業や個人事業主の実態かもしれません。
体調が悪くなっても誰も助けてくれません。

会社に勤めていた頃は、ボーナスは当然の話でしたし、新聞記事にも違和感はありませんでしたが、今ではボーナスの話は全く無縁の世界で、もちろんボーナスセールには残念ながら参加できません。
今果たしてどのくらいの人がボーナスの恩恵を受けているのでしょうか。
史上最高のボーナス実現のために、どのくらいの人が犠牲になったのでしょうか。

企業にいた当時は、ボーナスをもらえることは当然と思っていましたし、毎年給料が上昇することも当然だと思っていました。ボーナスの額が少ないなと不満だったことすらあります。しかし、今ではそのことを少し恥ずかしく思っています。

一方でたくさんのボーナスに浮かれている人たちがいる、一方で仕事もなく給料さえもらえない人たちがいる。自殺者や過労死がこんなに多く、しかしたいして働きもせずに多額の報酬を得ている人がいる。悪事を働いても罰せられずに、悪事だという自覚もなく生活を保証されている人がいる。真面目に働いても給料は安く、人をだまして詐欺的な仕事でも高給取り。議論も真面目にせずに高級をもらう議員もいれば、汗して働いても月1万円ももらえない障害のある人もいます。
やりきれない気がします。

せめてボーナスの報道はやめてもらいたいものです。
ボーナスと無縁の人たちの思いをシェアしてやってください。

蛇足ですが、
ボーナスを予想よりもたくさんもらった人は、ぜひCWS基金に寄付してください。
3億円たまったら効果的に使い出す予定です。
ちょっと詐欺っぽいのが問題ですが。

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