■拉致問題は二国間問題でしょうか
テレビを見ていたら、山崎拓さんが核問題は6か国問題、拉致問題は2か国問題と話していました。この発想をえなければおそらく未来は開けないでしょう。いささか大仰な物言いですが。
これは「想像力」の問題なのです。
拉致問題は国家のあり方を象徴しています。つまり国家という組織維持のために個人の生活を壊すことはコラテラルダメッジなのであって、許容されるという枠組みを象徴しているのです。
国家の平和のためには個人を死にやることすらも是認されます。イラクがそうです。
そうした場合、行為そのものはすべて浄化されてしまいます。よく言われるように、個人が人を殺せば犯罪ですが、国家の平和のために人を殺せば英雄になる仕組みが作られているわけです。担い手は民間企業や傭兵でも公務員でも同じですから、当然、暴力団体や犯罪者集団と国家はつながってきます。ここに国家の闇の部分が秘められています。
談合などは当然過ぎるほど当然の結果なのかもしれません。関わった人たちの意識は暴力団や犯罪者と同じでしょう。だからこそ彼らを罰することはできないのです。みんな同じ仲間ですから。私たちもそうした暴力機制に依存している面がありますから、実は同罪なのです。しかし、それでは未来は開けません。
政治システムは、「暴力という強制力を独占し、支配関係を形成して社会統合するシステム」(神野直彦)ですが、その具体的な形態が現代の国家です。残念なことですが、そこでは国民は量的存在として扱われます。
そうした枠組みの中で考えている以上、拉致問題は二国間問題になってしまいますが、その枠組みの中では本当の信頼関係は生まれませんから、実は核問題もなんら解決しません。まだハーマン・カーン流のエスカレーション理論が根底にあるのです。これはまた近代産業の論理でもあります。
そうした発想に基づく枠組みの問題を指摘したのはオルテガです。
オルテガは、2つの信念の体系のはざまにあって、いずれにも落ち着かない過度的状況を危機とよびました。その危機的状況がかなり明確にあり、在来の信念体系の破綻がかなり明らかになってから、すでに半世紀近くが経過します。にもかかわらず相変わらず政治の世界は旧来信念の中で暴力を独占し続けています。イラクなどでは健気に国家組織ではない集団が自爆までを取り込みながら異議申し立てをしていますが、彼らもまた国家を倣っていますので、そこでも個人の視点は軽視されています。自爆がそれを象徴しています。産業が引き起こすジレンマと同じような政治のジレンマが発生しています。
半世紀前にアメリカで始まったカウンターカルチャー運動はなぜ失敗したのでしょうか。あれがもしもう少し広がれば歴史は大きく変わったと思いますが、まだ当時は国家が情報独占をしていましたから、サブシステムにしかならなかったのでしょう。
話が大きくなってしまいましたが、拉致問題こそ、人間に深くつながる根源的な問題であるという発想が必要です。それを理解するほどの想像力は政治家にはないでしょうが、真面目に汗しながら生きている私たちにはわかるはずです。そして、実はそれは国家関係の問題だけではなく、身近なところでも同じ発想が必要です。
個人的な問題こそが、実は社会の問題に一番深くつながっている。そうした発想が重要になってきています。まちづくりはまずは自分の庭づくり、生活づくりから始まるのです。しっかりしたNPOの根底には、そうした思想があるように思います。
また話がそれそうですね。
それにしても安直な問題に目を向けさせる政治家とマスコミには腹が立ちますが、対抗力がありません。イスラムの民が自爆しかないと思う状況に、もしかしたらつながっているのかもしれません。いささか怖い話です。自爆はしたくありません。
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