■組織犯罪と組織を使った個人の犯罪
一昨日、アスベストに関して組織犯罪という言葉を出してしまいました。
「組織犯罪」とは何かとある人から言われました。「組織犯罪」という言葉はいかにもあいまいな表現でした。「組織」は単なる「仕組み」であって、行為の主体にはなれません。にもかかわらず、組織を主語にした議論が行われるところに問題があるのかもしれません。私もその間違いに陥っていました。
組織の行動を決めるのは意思決定者としての経営幹部です。したがって犯罪や事故の責任を問われるべきは法人格ではなく、経営者個人です。そこをあいまいにすることから、さまざまな問題が発生します。
株式会社は「有限責任」の考えを導入することで、大きなパワーを持ちました。しかし、その半面で個人の責任をあいまいにしてしまったように思います。そして、行政組織はさらにそれを増幅させ、「匿名の職員」が仕事をするスタイルを長らく続けてきました。匿名であることは犯罪の温床になりやすいです。
組織とは設計次第で責任の所在を明確にもあいまいにもできる仕組みです。そして今の日本の多くの組織は「責任を回避するための仕組み」になっています。行政組織もそうです。そこに、大きな問題があります。
日本における組織の意思決定は責任があいまいにできるのでだれも犯罪意識がなくても「犯罪」が可能になります。いいかえれば。「気がついたら犯罪者」というわけです。組織の設計原理が間違っているのです。しかも、そうした犯罪は法律上裁きにくいので、特定の個人は有罪にはなかなかなりにくく、なったとしてもダメッジは少ないのが普通です。
昨日も日本道路公団の内田副総裁が逮捕されましたが、あれだけ卑劣な行動を続けながら(彼の行動によって死んだ人がいるかもしれません)、ほとんどの人は殺人犯罪者と同列に見ることはないでしょう。ノンバンクの経営者も同じことです。三菱自動車やミドリ十字の関係者も同じです。組織は、個人の「犯罪」をあいまいにする装置なのです。
しかし実際には彼らはほとんど罰せられることはありません。時に社会的に名誉を失いますが、それは彼らにとっては何の痛痒も感じないでしょう。そもそも名誉や良心や信頼とは全く無縁の存在なのですから。そうでなければ、こんな犯罪は起こしません。
組織犯罪などという言葉は使うべきではありませんでした。
正しくは「組織を使った個人犯罪」です。
厳罰に処するべきでしょう。しかしおそらく処罰もあいまいに終わるでしょう。日本の司法の世界の視座は、生活者の側ではないからです。いいかえれば、司法組織にもまた、同じような組織原理が働いているように思います。
犯罪の温床になる組織の設計原理をそろそろ根本から変えなければいけません。それこそが、最近話題のCSRの本質だと考えています。
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