■ガザに象徴されていること
ガザ地区からの入植者の撤退は強制排除という不幸な状況になっています。当然予想されたことですが、政治家にとって国民とは何かが象徴されています。
いまや近代国家のフレームは、その有効性をほとんど失ってきているように私は思いますが、企業経営者や政府指導層にとってはまだ大きな利益創出装置なのでしょう。
イスラエル建国の話を映画化した「エクソダス」という映画で、パレスチナの地で仲良く暮らしていたアラブ人とユダヤ人がイスラエル建国の家庭で殺し合い関係になって様子が描かれていましたが、もし国家という枠組みさえなかったら、ガザでも仲良く共存していくことができたはずです。「イラク復興」に見るように、国家という枠組みが持ち込まれた途端に、状況は変わっていくわけですが、不思議なのはその対立構図が、国家間の横関係で起こることです。その背景には、国家は個人を守ってくれるという、全く根拠のない信仰があるためです。本来の対立構図は、国家や企業と個々人の生活なのです。やや極端にいえば、人間と制度の対立なのです。映画「マトリックス」の世界です。
ガザの映像を見ていると、なぜか十字架のイエスを思いだします。
ユダはなぜイエスを裏切ったのか。
ユダの裏切りで、イエスは自らの所業を成し遂げられた、とヨハネ福音書には書かれているそうですが、ユダは善意の政治家だったのかもしれません。しかし、展望の不確かさ故に、政治面では失敗しました。
政治家たちの展望は、いつも発想の起点を間違えています。ですからほとんどが失敗します。
汗している住民たちの暮らしから発想しない政治は、住民たちには不要の産物です。
しかし不幸なことに、社会は汗しない人たちによって管理されがちです。彼らは暇だから、管理に時間を割けるのです。
入植した荒地で苦労してきたイスラエル人の悔しさが、パレスチナ人に伝わるといいのですが。そこから暮らしの連帯ができれば、平和はすぐそこにあります。平和は政治の交渉からはではなく、暮らしのつながりから生まれます。しかし、パレスチナにはハマスがあります。うまくいかないものです。
平和を目指す仕組みが、実は平和を壊す仕組みに転化しやすいことを、心しなければいけません。
ガザの光景はたくさんの事を気づかせてくれます。
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