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2005年10月

2005/10/31

■マイオピアからノー・ロングタームへ

ハーバード大学のマーケティングの権威、セオドア・レビットに「マーケティング・マイオピア(近視眼的マーケティング)」という名論文があります。私がマーケティングに関心を持った契機になった論文です。マーケティングの専門家だった重久篤さんに紹介してもらいました。惜しくも彼は10年ほど前に若くしてなくなりましたが、本当に残念なことでした、重久さんが生きていたら、私の人生は少し変わっていたかもしれません。得がたい友人の一人でした。
なぜか今日は、重久さんのことを思い出してしまいました。ある本を読んでいたらノー・ロングターム」という言葉が出てきたからです。

レビット教授のマーケティング・マイオピアは、いわば現在流行のCSの発端です。この論文派1960年代に発表されましたが、企業がその価値に気づいたのは1980年代です。ハーバード・ビジネス・レビューも1980年代にこの論文を採録しましたが、私はその少し前に重久さんからその存在を教えてもらいました。
1980年代は、まだ社会も経済も政治もビジョンを持って進んでいたように思います。マイオピア、つまり近視眼の危険性への認識が高まり、アメリカではビジョナリー・カンパニーが注目されるようになりました。もちろんこの動きは、日本でも表層的に真似されました。そしてビジョンを勘違いした財界リーダーによって、日本はバブル破綻の罠に陥っていったのですが。

昨今の企業はどうでしょうか。
マイオピアどころではなく、「ノー・ロングターム」が常識化しているようです。つまり「長期思考はだめ」というわけです。企業の管理者層の人と話しているとそれがよくわかります。経営者の文化が「ノー・ロングターム」なのです。
そのおぞましい文化が、産業界だけではなく、政治や行政、地域社会や私たちの生活にまでどんどん広がっているような気がします。
いうまでもありませんが、ノー・ロングターム発想は信頼関係を育てたり、安定を大事にする文化とはなじみません。むしろ信頼や安定を壊すのがノー・ロングタームなのです。時代の変わり目には、そうした生き方がそれこそ短期的には効果的であることもありますが、むしろロングタームの展望を踏まえておかないと明日はあってもその先はないかもしれません。そうした社会の中ではストレスが充満します。それはもう限界に近づいているような気がしてなりません。

ソーシャル・キャピタル論議も起こっていますが、このところその動きは封じられているようです。
「ノー・ロングターム」。この忌まわしい呪縛から自由になって、もっと安定と信頼を目指した生き方が広がるといいなと思います。
ノー・ロングタームの変革の先に何があるか、思うだけでも気が重くなります。

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2005/10/30

■小泉首相のこわした歴史の先

戦争ではなぜか人を殺しても罪になりません。それどころか、時には英雄になることすらあります。この論理が私は子どもの頃から全く理解できませんでした。
その1点から考えるだけでも、国家は過渡的な必要悪の存在だと学生の頃に考えるようになりました。そのためか、健全な大人にはなりそこなってしまいました。

ところが,国家は解体されるどころか、ますます強固なものになってきています。
この20年、どうも歴史のベクトルが反転したように思います。

小泉首相は、自民党を壊し、利権構造を壊し、古い政治体質を壊し、行政の旧弊を壊しているといわれます。私のまわりで、小泉自民党を支持した人たちの意見です。
そうでしょうか。
私には全く逆に感じられます。
利権はますます集中し、国民の手から離れ、少数支配の古い政治体質が復活し、行政は民営化の隠れ蓑のなかで産官癒着を強め、国家はいまや少数の人たちに私物化されているように思います。それを支えるのが一番の被害者ともいうべき主体性のない寄生種族であることも旧体質の社会構造を感じさせます。
これはあまり説得力のないイメージ議論なので、共感は得られないでしょうが、私の確信です。

おそらく大企業はまもなく解体に向かうでしょう。これも15年前からの確信です
最近、企業は業績を上げ、利益を上げていますが、それは霞ヶ関が財政危機の中で膨大な無駄使いをさらに加速しているのと同じように、構造転換に伴う無秩序の中でのあだ花です。

フレキシビリティや転換期というマジックワードの中で、ビジョンのないままに歴史が壊されてきているのです。悪者が得をする状況が広がっています。

小泉自民党が壊そうとしているものは何なのでしょうか。
憲法は「だれのため」のものなのでしょうか。
憲法改正案の向こうにあるビジョンを、もっと明確にする仕事を誰かしてくれないものでしょうか。
社民党あるいは田中康夫さんにお願いしたい課題です。

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2005/10/28

■住民たちが行政を使い込む時代が始まりそうです

滋賀県の琵琶湖の内湖に、西の湖というのがあります。そこで活動している丹波道明さんは私の東レ時代の最初の上司です。私より一回り上ですが、会社を辞めた後、地元に戻り、そこで実に楽しそうに地域活動をされています。あまりに楽しそうなので、昨年、寄せてもらいました。
その丹波さんから「西の湖美術館構想」なるものが送られてきました。
その内容はまたCWSコモンズのほうで紹介させてもらいますが、この構想は、丹波さんたちが呼びかけて設立した「西の湖保全自治連絡協議会」という住民グループで作り上げたものです。
丹波さんはその組織の事務局長ですが、自分たちのまとめた「西の湖美術館構想」を、西の湖のある近江八幡市と安土町の自治会長、首長や役場の関連部署、地域振興局などの行政に検討を依頼する書状を出したのです。
その構想(計画)案は、私も読ませてもらいましたが、A4版で16ページにもわたるもので、ビジョンも具体性もある実践的な計画です。しかも、そこに住民たちのざわめきが聴こえるような生き生きしたものです。丹波さんからはちょっと褒めすぎだぞ、と言われましたが、私にはそう感じました。

私が一番感激したのは、住民たちがまとめた計画を行政や自治会の責任者に送って、期限を明示して意見を求めたことです。
行政のパブリックコメントなどの形だけのものではありません。送り状には匿名の「役職名」ではなく個人名が明記されていますし、丹波さんのことですから、きっと意見の督促もすることでしょう。
ベクトルが逆転してきたのです。私が目指すスタイルです。当然ですが、ベクトルが逆転すると行政の縦割り組織や自治会の地域割り組織の限界が克服できます。
この手紙を見て、私が感激した理由がわかってもらえるでしょうか。

まあ、今日はこれだけの話です。
しかしそこに含意されるとても大きな予兆を感じてもらえればうれしいです。

ちなみに、私は地元で、ある問題に関連して求められた「意見書」を提出しました。1か月半経ちましたが、返事が来ません。来ないだけではなく、意見をだしたにも関わらず事態がそのまま進んでいます。まだですかと聞いたら、10月28日以降に返事をくれるそうです。
意見の提出先は、行政と住民と社会福祉協議会の三者で作っているある委員会です。市長もメンバーです。我孫子市は、市民参加では先進的だと言われたこともある自治体です。担当課長は、住民視点に立ってしっかりと考えてくれている人ですし、市長も市民派と言われています。これが行政、もしくは市民参加の委員会の実態です。
なぜそうなるのか。答えは比較的簡単です。仕組みが悪いのです。

住民が動かなければいけない時代が来たのです。市民ではなく、住民です。
「西の湖美術館構想」の動きは、そのモデルになるかもしれません。
これからの展開がとても気になります。

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2005/10/27

■若者の人間力を高めるための国民運動と高めない非国民運動

「若者の人間力を高める国民運動」というのをご存知でしょうか。
経済界と労働界が中心になって創られたもののようです。
議長は日経連名誉会長の奥田さんです。
委員には、あれ?という人も入っていますが、まあ、そういう世界の人たちが名を連ねています。
若者の人間力を高める国民宣言なるものもあります。
「国民宣言」。戦前を思い出す不遜な名称ですが、国民を謳っている割には知らない人が多いと思います。

昨日(10月26日)、その会議が国際フォーラムで「若者トークセッション2005」トークセッションを開催しました
呼びかけにはこう書かれています。

社会が大きく転換する今、若者を巡り様々な問題が生じています。若者自身も含めた経済界、労働界、マスメディア、地域社会、政府が一体となって「若者」について考え、応援し、支える。そして、その輪を広げていく。「若者の人間力を高めるための国民運動」をスタートしました。今回のイベントでは、専門的な知識を有する有識者と若者を支援する活動に従事している支援者、そして当事者である若者の代表がテーマに沿ってトークセッションを実施します。

出演者には知っている人も何人かいます。信頼できる人もいます。
しかし、どうも馴染めない取り組み方です。
新聞によれば約300人の若者が参加したそうです。どんな若者が集まったのでしょうか。

こうした動きに対して、
「若者の人間力を高めない非国民運動」を呼びかけているグループもあります。
PAFFなどの非正規労働者のネットワークです。PAFFは、フリーターに対しての各々の問題意識を切り口に展開されるイベントや読書会、NPOといった社会運動を繋げていくネットワークです。
どんな活動をしているかは、ぜひホームページをご覧ください

そこが、昨日の同じ時間に、有楽町マリオン前に集まって、この活動への異議申し立て活動をしようと呼びかけました。
その呼びかけ書を読ませてもらいましたが(呼びかけ書はまだサイトでは見つかりませんので、関心のある方はご連絡ください)、私にはそのほうがずっと納得できました。
ただ、方法論には違和感があります。
理念の転換は方法論の転換を伴わなければいけません。

そんなわけで、私はいずれにも参加しませんでしたが、とても気になる動きではあります。

ニートなどの問題に関する私の意見は何回か書いていますが
若者たちはどんどん包囲されているような気がします。
「日比谷焼き討ち事件」状況に向けての双方の条件は整ってきているのかもしれません。

それにしても、産業界や労働界、あるいは大学は、なぜ自分たちのほうに問題があると考えないのでしょうか。
不思議でなりません。
こうして、歴史はカタストロフィーを向かえ、前進していくのでしょうか。
その曲がり角は生き難い時代なのかもしれません。

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2005/10/26

■日本にあったホスピタリティ文化はいつ変わったのか

黒岩比佐子さんがまたとても興味深い新書を出版しました。
「日露戦争 勝利のあとの誤算」(文春新書)です。
日露戦争のポーツマス講和に反対した国民が起こした2日間の「日比谷焼打ち事件」がテーマです。初の戒厳令まで出された帝都騒擾事件で、それを契機に、言論統制が強化され、日本は戦争の時代へと進んでいった、歴史的な事件だったようです。司馬遼太郎は、この暴動が、それからの40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えていたようです。黒岩さんも、この事件が近代日本の一大転換期だったといっています。恥ずかしながら私はその事件の存在さえも知りませんでした。

黒岩さんが着目してくれたおかげで、私もこの事件と、そこから始まった日本社会の変質を知ることができました。そこには今現在の状況を理解し、これからを見通す大きなヒントが含意されているように思います。
黒岩さんは、あとがきで、「本書は、日露戦争直後の激動の日本を、百年の視座で描こうとした試みである」と書いています。著者としての思いが伝わってきます。

大きな流れに重なるように、いくつかのサブテーマが絡み合っています。たとえば政府と新聞の関係、新聞の大衆操作、新聞人たちの生き様など、そのいくつかはそれだけでも一冊の新書になるでしょう。昨今の政治状況や社会状況と重ね合わせて読んでもとても面白いですが、黒岩さんらしい、丹念な文献調査を踏まえていますので、大きな流れの中に出てくる小さな挿話や現代の有名人とのつながりなども、実に生き生きとしていて興味深いです。

私がとても印象深かったところをひとつだけ紹介します。
ロシア人捕虜に対して日本人は極めて寛容で親切な対応をしていたようです。その文化はその後、変質し、次第に捕虜虐待へと変わっていくわけですが、日本にそうした「ホスピタリティ文化」が明治前半まであったことを知って、とてもうれしい気分になれました。
しかし一方で、捕虜になって帰還した同胞には日本社会は極めて厳しかったようです。黒岩さんは「生きて虜囚の辱めを受けず」という、1941年に全陸軍に下されたあの戦陣訓が招くことになる悲劇のプロローグは、「この時点」から始まっていたと書いています。外国人捕虜には優しく、捕虜になった同胞には厳しい文化は、別個のものでなくセットのものでしょうか。私にはとても気になる問題です。

ちょっと読み応えのある新書ですが、皆さん読んでみませんか。これからを考える示唆もありますし、なによりも面白いエピソードや雑学の宝庫でもあります。加山雄三や小泉純一郎の名前まで出てきます。もちろん村井弦斎も出てきます。
お時間の許す方はじっくりとお読みください。

なお、黒岩さんのブログに執筆動機などが詳しく書かれています。この文章だけでもぜひお読みください。
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/50146881.html

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2005/10/25

■人生を分ける生き方の意味が少し分かってきました

昨日、若い友人の父のお通夜に参列しました。
最近、訃報が多いのですが、葬儀に参列すると自らの生を振り返るいい時間になります。
人生はよくしたものです。きちんとそうした設計がなされているのです。
そのおかげで、最近、人生のリズムを実感できるようになりました。
そのリズムに合わせることは大切なことかもしれないと思い出しています。

17年前に会社を辞めた時には、これで「定年」もなくなり、自らの意思で人生をすべて決められると思いました。
そして、「遊ぶでもなく働くでもなく学ぶでもなく」、自らを生きることを基本にすると友人知人に手紙を書きました
数年は意図的にそうしていました。
そのスタイルが定着したかどうかは、極めて疑わしいですが、意識的にはその思いを実現したのが、いまの私の生活です。
少なくとも今の私にとって、働くこと、遊ぶこと、学ぶことは、ほとんど完全に重なっているのです。

インドには人生を4つの期間に分けて考える文化があります。
4つとは、学ぶ期間(学生期)、働く期間(家住期)、振り返りの期間(林住期)、そして後輩に教え説く期間(遊行期)です。
私は当時、この4つを分けるところに問題があると考えたのですが、今から思うとどうもそれは「論理演算」でしかなかったようです。
歴史の中で培われた文化は、やはり含蓄に富んでいます。
私の同世代の友人は、定年で組織を離れ、悠々自適の生活を送り出しています。
そして少しずつ遊行期に入りだしている人が少なくありません。
コムケア活動を通しても、そうした人たちに出会う機会が増えています。
そうした人は私と違って、もっと思い切り一点に集中できます。
私のように中途半端ではないのです。成果もしっかりとあげています。
人生を4つに分けて生きることに異を唱えた小賢しさを、少し反省したくなります。

もうひとつ最近感ずるのは、加齢とともに「誘われ方」が変わってくるということです。
自らは加齢を感じなくとも、外部からはしっかりと見えているわけですし、関係性は間違いなく変わっていきます。
自らの認識と外部の認識との格差に時々気づかされます。
「仕事」も次第に減ってきますし、原稿も頼まれなくなってきました。
これは寂しいことですが、自分を生きるうえではとても喜ばしいことでもあります。
自然の摂理というべきでしょうか。

私は、自然に従って生きることと自分の意思で生きることとは同じことだと以前は考えていました。
その傲慢さを最近は思い知らされています。

昨日は長いお通夜だったので、いろいろと考えさせられました。

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2005/10/22

■北海道の恵庭市の話なのですが

CWSコモンズには一度書き込みましたが、
北海道の恵庭市の市長選挙が11月13日に行われます。
そこにこれまで市会議員だった中島興世さんが立候補しました。
現在の市長のやり方に思いあまっての決断です。

中島さんとは10年ほど前に2~3回お会いしただけの仲です。しかし、人間は1度会えば、人柄は理解できます。そして付き合いが続く関係は続くものなのです。

中島さんの人柄を知っている者としては、中島さんを全面的に信頼し応援したいですが、なにしろ遠い恵庭市のこと、探しましたが友人知人が見つかりません。
応援のしようがないのがとても残念です。

中島さんはブログを立ち上げて、市長選挙に向けての動きをライブに報告してくれています。地方で何が起こっているかが良く分かりますので、ぜひお読みください。
http://nkousei.exblog.jp/

中島さんが18日にマニフェストを完成し発表しました。
なんと絵本仕立てです。
しかも、焦点を絞っていますので、中島さんの思いや姿勢がとても具体的に伝わってくるのです。
は昨今流行のマニフェストには否定的でしたが、初めて心に響き、しかも具体的な政策が伝わってくるマニフェストに出会いました。
みなさんもぜひホームページで見てください。ダウンロードできます。
http://n-kousei.cool.ne.jp/manifesto.pdf

私が感激したのは、網羅的でないことです。
マニフェストテーマは「子どもたちの問題こそ最重要の地域課題」となっています。
そして、その具体的な取り組みの考えが日常の言葉で生き生きと書かれているのです。
莫大な予算で広告代理店に頼んで作成したようなマニフェストとは全く違います。
ともかく「あったかい」のです。
ぜひ読んでください。
中島市長の恵庭市だったら転居してもいいかという気になりかねません。

私はこれまで関わってきたいくつかの自治体の首長に、最近、大きな失望を感じています。自治体に関わるのはもうやめようかと思い出しているほどですが、中島さんのマニフェストを見て、とてもうれしくなりました。
中島さんが市長になることを切望します。
皆さんの中に恵庭市の住民の知人友人がいたら、ぜひこのマニフェストを読んでもらってください。
お願いします。

国政には当分期待できませんが、その分、地方政治には期待できるかもしれません。
私が失望した首長も自己変革してほしいものです。
まだ遅くはないのですから。

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2005/10/21

■内政干渉って何でしょうか

小泉首相に続いて靖国参拝をした国会議員がテレビの取材で、
靖国参拝に対して海外から批判があるが、と聞かれて、
それは内政干渉です、と言う回答をしていました。
内政干渉って何でしょうか。

もし世界がつながっているとしたら、厳密な意味での内政は存在しません。
イラクに軍隊を派遣するのは内政干渉ではなく、自分たちへの侵攻戦争を仕掛けた人を讃えることを批判することは内政干渉だというのは、どう考えても理解できません。もっとも発言していた彼女も理解してはいないのでしょう。
少しでもまともな知性を持っている人であれば、受け答えは違ってくるはずです。知性とは相手を理解することですから。

町村外相は、やはりインタビューで、中国との話し合いの懸念が出ているがどう思うかという質問をさえぎって、誰がそんなことを言っているのか、と切り捨てました。その言い方が、いかにも余裕のない居直り態度でしたが、ここにも知性は微塵も感じられません。権力を持つと、人はこんなにも変わるものかと言うのが町村さんを見ているとよくわかります。

フセインの裁判が始まりました。
それが終わったら、今度はブッシュと小泉の裁判でしょうか。
そうならないのが私にはとても不思議です。

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2005/10/20

■30万円よりも一言の応援の言葉

先の日曜日の私が取り組んでいるNPOの関係の集まりを開きました。
コムケア資金助成プログラムの公開選考会です。
全国から公募された中から選ばれた20のプロジェクトが発表され、一般公募で集まった人が投票して、資金助成先を決める集まりです。今年で5回目です。とても元気が出る集まりです。
その様子は私のホームページ(CWSコモンズ)とコムケアセンターのホームページで報告しつつありますが、とてもうれしいことがありました。
見事に30万円を獲得したグループの人から次のメールをもらったのです。

何よりうれしかったのは「ケアップカード」をいただいたことです。
心のこもったメッセージは大変励みになります。

ケアップカードとは、応援のエールを書いて、1000円を寄付するカードです。
参加者が自分の応援したいところに自由に寄付するのです。
そのエールが、30万円よりもうれしかったというのです。
私にとってこんなにうれしいことはありません。
私は、NPOを育てていくためには、お金ではなくみんなの理解と参加が必要だと思っています。ですからこういうメールをもらうと苦労が報われる気がします。

選考会に参加した人たちからいろいろなメッセージが届いています。
元気が出ます。
企業関係者の参加が今年は少なかったのがとても残念ですが。

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2005/10/17

■被害者が加害者を支援する構造

犯罪被害者が犯人に、必要以上の同情や連帯感、好意などをもってしまうことが時に報告されています。これをストックホルム症候群といいます。
これは個人だけではなく、集団の関係においても報告されています。
もしかすると、今の日本社会は、それを上回る状況が広がっているように思います。
つまり自虐的な加害者応援行動です。

小泉首相が靖国神社を参拝しました。
高裁で違憲判決が出たにもかかわらずです。犯罪者が重ねて犯罪をしているわけです。彼にとっては「自分が法律だ」ということなのでしょう。極悪人には法律は無用なのです。
国民の多くはそれを支援していますが、私には小泉支持者はみんな犯罪幇助人にみえます。私はこのところ急速に犯罪者の友人を増やしています。
そういう無知な国民が戦争を起こしたのです。アウシュビッツの再来がなければいいのですが。

驚くべきことに、遺族会の代表が歓迎の意を表しています。実際には遺族会の代表は遺族を代表していないでしょうが、それにしてもおかしな話です。
戦死者はなぜ戦争で死んでしまったのか、それは戦争を起こしたからです。誰が戦争を起こしたのか、それはいわゆるA級戦犯たちです。
靖国神社には、A級戦犯たちと彼らが虚構した英霊たちが眠っています。英霊に関する意味は以前書きましたが、英霊とA級戦犯とはセットのもの、一体のものです。
遺族の会は実は被害者であるはずなのですが、加害者を祀ることによって、無念さの縮減を図っています。これはまさにストックホルム症候群といっていいでしょう。

さて、それと同じ構造がどんどん広がっています。
イラク特措法や郵政民営化法の被害者たちが、それを推し進めている権力欲望者たちを支援して、自分たちの生活をもっと惨めにしてほしいと頼んでいるのが現在の日本社会です。私は無知な若者たちが、「詐欺」にあって小泉自民党に投票したと思いたいのですが、どうもそうではないようです。私の信頼する友人知人が、けっこう、小泉自民党に投票したことがわかって、本当に滅入っています。
もっともそうした人の多くは、結構金持ちで有名人ですから、仕方ないのかもしれません。

いずれにしろ、ストックホルム症候群はいまも着実に広がっており、それがいまや社会現象になっているようにも思います。

そして、いま、「共謀罪」が特別国会に再提出され、まもなく成立しようとしています。
共謀罪についても以前、書いたことがありますが、動きはことのほか、早いです。
私もまもなく、こうしたブログは書けなくなるでしょう。

法案に反対する署名運動が始まっています。
http://kyobozai.hpcity.jp/index.html
よかったらぜひ読んでみてください。

こんなことを書いて、また友人を失いそうです。

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■焚き火ができないのはなぜでしょうか

空いている近くの宅地を使ってさつま芋を育てました。
女房がそこで、先日、近くの子どもたちと一緒に芋ほりをしたそうです。
私は残念ながら不在でしたので参加できませんでした。
昔であれば、そこで焚き火をし、焼き芋をみんなで食べたでしょうが、今は焚き火ができません。不思議な時代です。
収穫したさつま芋はそのまま各自のお土産になってしまいました。
これでは楽しさ半減です。

なぜ焚き火ができないのか。
においでしょうか。ダイオキシンでしょうか。それとも防火対策でしょうか。
いずれにしろ、私たちの生活は豊かさを失ってきています。

それを「豊かさ」というだろうか、と思われるかもしれません。
しかし、それを豊かさと言わずして、何を豊かさというのかと私は思います。

よく言われるように、私たちの労働時間はどんどん長時間化しています。
経済的収入は、それによって増えている人も少なくないでしょう。
もっとも労働時間と経済的収入は必ずしも比例はしません。
経済的収入が低下するから労働時間が長くなると言う構図もあるのです。

ところで問題は経済的収入が増えている、いわゆる「勝ち組」の人たちは豊かになっているのでしょうか。
経営学の世界に、デシの法則と言うのがあります。
給料などの経済的報酬が高くなると、内発的な動機付け、つまり働くことの喜びは低下する、というのです。これはいくつかの実験で実証されています。
内発的動機付けは、豊かさや幸せにつながっています。
最近はそうした議論が主流になってきました。
この一点だけをとってみても、勝ち組は豊かにはなっていないのかもしれません。彼らの行動を見ているとそんな気がします。誤解かもしれませんが、はい。

豊かさとは一体何なのでしょうか。
どこかで何かが間違っているような気がしてなりません。

焚き火ができる社会はいつ戻ってくるでしょうか。

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2005/10/15

■合意形成を目指す社会の行く末

郵政民営化法が国会を通過しました。
信念を持っていたはずの国会議員も変節したようです。
異質性を認めない、今の社会の象徴的な姿です。

非常に象徴的なのですが、村上ファンドの動きが話題になっています。
企業価値を高めることがなぜ悪いと村上さんは言いますが、問題はだれにとっての「企業価値」か、です。いうまでもありませんが、村上さんが話しているのは、株主にとっての企業価値、キャッシュフローベースの企業価値です。あえて極言すれば、生活者にとっての企業価値と往々にして対立する価値であり、私のような生活者にとっての「企業価値」を下げることでしかありません。
郵政民営化の未来が、そこに象徴されています。
残念ながらもう生活者たちは元には戻れませんが。

企業価値論議は以前も一度書いたことがありますが、今日の話題は「合意形成」です。
「民主主義」と「多数決による合意形成」を混同している人が少なくありません。きっと正反対の考えなのではないかと思います。これがなかなか理解してもらえません。中途半端な学校教育の成果でしょう。
国会はさまざまな意見や価値観が議論を通して、お互いをケアしながら、ある仕組みをつくっていく場です。法律は決して単純な基準ではありません。状況に合わせて、判断できる余地を残しながら、判断の拠り所を出していきます。解釈の余地のない法律であれば、裁判は不要です。
つまり大切なのは、作られた法律ではなく、つくる過程での議論です。合意形成が大切なのではなく、多様な意見への配慮やその検討が大切なのです。

国会は見事に強制的な合意形成の場になってしまいました。合意しなければ活動もできないのでは国会の意味はありません。
納得できていないのに、合意してしまう、つまり嘘をつくわけですが、これでは、子どもたちに嘘をつくなとか、自分の意見をきちんと言えとか、信念を貫けとか、いえません。こうした問題も発生させています。

しかし、こうした「合意形成」への圧力や信仰は国会に限ったことではありません。企業でも地域でも、NPOですら、合意形成信仰が強いのです。
合意形成しなければ前に進まないだろう、と言われそうですが、進み方はあるでしょう。そろそろ「合意形成信仰」を見直すべき時期だと思います。
強制された合意形成ではなく、自然に生まれてくる合意にこそ、価値があります。
「合意形成」は、目的語ではなく、主語で考えるべきでしょう。
合意形成を図る、ではなく、合意形成が育つ、です。
これがスローライフの真髄かもしれません。

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2005/10/14

■箱根の観光客としての怒りと迷い

昨日、仕事の関係で箱根の強羅に行きました。
小田急の特急で新宿から箱根湯本まで1時間20分です。
会場のホテルは、そこから登山鉄道とケーブルカーに乗って行かなければいけません。
論理的には2時間もあればいけるはずです。ところがそうはなりません。
箱根湯本で小田急から箱根登山鉄道に乗り換えるのですが、同じ駅に発着するのに到着時間と発車時間が同じなのです。つまり乗り換えられないと言うことです。これは「いじわる」としかいえません。そこで20分の待ち時間が発生します。
次は強羅駅でケーブルに乗り換えですが、ここでもまた見事に20分近く待ち時間があります。それぞれが1時間に2~3本しか運行されていないのですから、接続をうまく考えればいいと思うのですが、ここでも「意地悪」が行われており、20分の待ち時間です。信じられない仕組みです。

これは一つの象徴的な事象です。
私は箱根が好きで、年に数回、行きます。しかし、自動車でいけばともかく、公共交通機関を使うとこうした「意地悪な仕組み」が箱根にはたくさんあるのです。箱根が廃れていくのは良く分かります。
ここでは2つの会社が交通機関を提供していますが、それぞれが勝手にやっていますから、観光客には不便で分かりにくいことが多いのです。両者の話し合いが進められているようですが、ほとんど改善されないままにあります。

ここに象徴されるように、関係者がみんなで箱根を気持ちの良い場所にしたいという思いがないのでしょうか。ショップや施設も、みんなばらばらで雰囲気がありません。一つひとつの施設はいいものがたくさんあるのですが、つながっていないのです。
こうした事例は日本各地にあります。

と、ここまで書いてきて、一つの悩みにぶつかります。
20分待たされることがなぜ悪いのか、です。
無駄な時間を切り捨てていったら、それこそ息が詰まる世界になってしまうのではないか。
あえて接続させていないのは、そうしたメッセージをこめた「親切な仕組み」なのではないか。
皆さんはどう思われますか。

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2005/10/11

■地方分権と地域主権

昨日のニュースですが、岡山市長選挙で小泉自民党の「刺客」が当選しました。
その経緯がテレビで報じられていましたが、久しぶりにテレビを観てしまいました。
嘔吐したくなりました。
あまりの腹立ちで、今朝、起きたら、めまいがして本当に嘔吐しそうでした。両者の因果関係は不明ですが、半日、安静にしていました。
それでやはり腹にあることを書くことにしました。
どうせわかってはもらえないでしょうが。

小泉自民党がやった3つの「改革」があります。もちろん「改悪」以外の何ものでもなく、貧しき庶民の生活を踏みにじることで経済的な勝者に媚を売る改革ですが。
一つは言うまでもなく、テロ対策特措法にはじまる、軍事国家化への推進です。
第2は郵政民営化に象徴されるような、国民資産の民間企業への贈与です。
そして第3は地方分権化による中央集権体制の推進です
傷害、詐欺、破壊。その3つが揃っています。

納得してはもらえないでしょうね。
こうしたことを、被害者になるだろう人たちが熱狂的に応援して実現したのです。
どこかであったような話です。
しかし、きっと30年後には答えは出ているでしょう。
私はたぶんその結果は見られないでしょうが、その被害もそれほど受けずにすむでしょう。

さて岡山市長選です。
そこにはっきりと片山自治相が目指していた「地方分権の本質」が見えています。
そこに気づいてもらえたでしょうか。
すべては同じなのです。
地方分権は中央集権体制の論理的帰着点です。「分権」は言うまでもなく、権力は中心にあるという思想なのです。少しまともな頭を持っていれば誰でもわかることですが、なぜか日本の「有識者」は、そうは思っていないようです。だからこそ、「有識者」なのですが。
一部の人は「地方分権」ではなく「地域主権」という言葉を使います。中央集権に対するのはいうまでもなく「地域主権」であり「中央分権」です。
もう20年、私はこういい続けていますが、誰も共感してくれません。
よほど説得力がないのでしょう。困ったものです。

地方分権とセットになっているのが市町村合併です。
それがどうやって行われたか、金と脅しといやがらせです。
それで日本の市町村は少なくなったのです。どれだけの無駄があったか、どれだけの企業が役に立たない仕事で儲けたか、新聞は何も伝えません。
ニュースを見ていたら、それと同じことが岡山市長選挙で再現されていたようです。

岡山市民を嘲笑うのは簡単ですが、我孫子市でもあの状況になったら同じ結果になったかもしれません。そもそもがそうした利権と恫喝と謀略で動いているのが政治かもしれませんが、市町村にまでその醜さを持ち込むことはありません。

日本の社会は壊れるばかりです。
もちろん「大人の社会」ですが。
「社会」という言葉は、もはや負の価値しかないのかもしれません。

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2005/10/10

■企業変革と国家変革

日本能率協会が企業の経営者を対象に「当面する企業経営課題に関する調査」の結果を発表しましたが、それによると中間管理者層に不満をもっている経営者が多いようです。第一の不満は、変革の推進です。管理者層が企業を変革してくれないと不満を持っている経営者はなんと7割もいます。第2は部下の指導ができていないということで、これも3分の2の経営者がそう答えています。答えているのは、経営者自身ではなく、経営参謀スタッフかもしれませんが、ここに日本の企業の病理を見ます。
先ず、変革は経営者の仕事であって、管理者の仕事ではありません。管理という言葉に象徴されるように、管理者は「管理」者なのです。「変革」者ではないのです。その基本原理を理解していない経営者は、自らの役割を認識していません。管理と経営は異質なものなのです。
次に、管理者を期待通りに動かせないという点で、部下の指導は実は自らの問題なのです。明らかに論理矛盾があります。
つまりこの調査結果は、経営者が自らのシャドー(影としての実体)を顕在化させたものなのです。そして、その役割や責任を放棄しているということの宣言でもあるわけです。

企業の変革は極めて簡単ですが、経営者にはやる気がないのです。
なぜやる気がないかといえば、変革には自己否定が伴いますから、意思決定者にはそれこそ苦渋の選択なのです。第一、メリットがありません。だから、自らは変革せずに、部下の変革を迫るという、論理矛盾が発生します。成功するはずがないのです。

変革といえば、日本という国自体の変革が財界人と官僚と学者たち、つまり産官学によって進められています。小泉首相や前原代表のような歴史観のない政治家は、おそらくその走狗として使われているのでしょう。
彼らがいよいよ手を付け出したのが、憲法です。本物でない学者や有識者もその尻馬に乗り出しました。哀しいことです。
憲法を変えることで、国の本質は変わります。歯止めがなくなるのです。
国民主権のもとでは、変革の主役は国民なのですが、現実には「国民」は実体概念ではありませんから、国民を操作概念にして第三者が変革を進めます。首相は国民が選んだという大義が使われますが、それこそが権力支配の擬制です。
余計なことを付け加えれば、理念としての民主主義と制度としての民主主義は全く違います。勘違いしてはいけません。民主主義を多数決原理などと勘違いする馬鹿な間違いを犯してはいけません。多数決は原理としてはありますが、大状況においては情報基盤が違いますから正当性を持たない抽象概念です。

企業にたとえていえば、外部のコンサルタント(時にはタレント)が企業変革を進めて、結局は企業をだめにしているように、国もまた外部の「知恵者」にのっとられているだけの話かもしれません。国民は実体がないために、対抗できないのです。

ほとんどの支配者にとっては、戦争を引き起こすことほど魅力的なプログラムはないでしょう。そこでは連帯が起こり、感動が生まれ、日常が忘れられるからです。
生活の視点で考えれば、自民党、民主党などという分け方は無意味です。戦争との距離という点では、岡田さんや前原さんと小泉さんは大きな違いは感じられません。中途半端に若いだけに、最近の若者たちのような「優しさ」や「寛容さ」も感じられません。

企業の変革は進まず、国家の変革は進んでいく。
10年後が心配です。
そのころにはどんな生活を送っているでしょうか。
いい時代を懐かしめる私には大きな救いがありますが。

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2005/10/09

■大人の社会から生命の社会へ

昨日から「社会の喪失」(中公新書)を読んでいます。
実に刺激的な、考えさせられる本です。

社会の喪失とはなんでしょうか。
まだ読了していないので、その意味を理解していませんが、
社会には二つの側面があるといわれます。

私流に表現すると「大人の社会」、つまり合意形成を大事にする全体化志向の社会と、「生命の社会」、つまり異質性を楽しむ複数性志向の社会です。後者の社会で重要なのは合意ではなく、寛容さと認め合いです。
そのいずれかに「社会」の価値を見るかで、生き方も考えも変わります。
さらにいえば、たとえば、このそれぞれの社会に応じたノーマライゼーションの発想があるように(そしてその内容は全く正反対のものになります)、この違いは「異質」というよりも「異次元」なのです。
にもかかわらず、いずれも「社会」という言葉で一括されています。
ちょっと留意すれば、「社会性」という言葉すらも反対の意味を持っていることに気づきます。
全体に同調し自己を抑える社会性と自分をしっかりと主張する社会性とがあるのです。そこを巧みに操るのが権力の常套手段ですが、そこに愚かにも埋没するのが小市民の常なのです。私自身は、愚かさを反省しなければいけません。

どちらの「社会」を生きるか。
私自身は同調する生き方から自らを解放するために、17年前に「会社を離脱」しましたが、辞めたからといって同調社会の呪縛から抜けられたわけではありません。
意識的には「生命の社会」に生きようとしていますが、「大人の社会」の呪縛から生きていくほどの勇気を持ち合わせていません。
ですから私自身、社会性という言葉を曖昧に都合よく使っている気がします。

これからはもう少ししっかりと「生命の社会」を生きようと思います。

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2005/10/08

■雨が降ってきたら走りますか

ブログを再開します。
元気はまだ十分ではないですが、書くことで元気がでるかもしれません。

まずはウォーミングアップを兼ねて、含蓄のある話題?です。
昨日、道を歩いていたら、雨が降ってきました。傘を持っていませんでした。オフィスまで300メートルくらいのところです。
さてこういう場合、みなさんなら走りますか。そのまま同じ速度で歩きますか。

雨の中を歩く時に、いつも思い出すのが、傘を使わない場合の濡れ方の相違です。
降雨の中をあるくということは、空間に水滴があるなかを歩くことですから、歩く距離によって濡れる度合いは決まります。水平面だけは雨を直接受けますから、濡れる度合いは時間の関数になりますが、それを除けば距離の関数になるはずです。ですから頭に何かを置いて歩けば、走ろうと歩こうと濡れる度合いはほぼ一緒です。
いつもそう言い聞かせて、走らずに歩きたいのですが、やはり自然と急ぎ足になり、ついには走ってしまいます。昨日もそうでした。

しかし、どうも納得できません。
やはり走ったほうが濡れない気がします。
みなさんはどうしていますか。

この場合は、たかが洋服の濡れ方の度合いでしかありませんが、
そこにはさまざまな教訓やメッセージが含意されているような気がします。
どんなメッセージがあるのだと質問してはいけません。
そこまでしっかりと考えて書いているわけではないからです。

まあそんないい加減なブログの再開です。

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