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2005/10/25

■人生を分ける生き方の意味が少し分かってきました

昨日、若い友人の父のお通夜に参列しました。
最近、訃報が多いのですが、葬儀に参列すると自らの生を振り返るいい時間になります。
人生はよくしたものです。きちんとそうした設計がなされているのです。
そのおかげで、最近、人生のリズムを実感できるようになりました。
そのリズムに合わせることは大切なことかもしれないと思い出しています。

17年前に会社を辞めた時には、これで「定年」もなくなり、自らの意思で人生をすべて決められると思いました。
そして、「遊ぶでもなく働くでもなく学ぶでもなく」、自らを生きることを基本にすると友人知人に手紙を書きました
数年は意図的にそうしていました。
そのスタイルが定着したかどうかは、極めて疑わしいですが、意識的にはその思いを実現したのが、いまの私の生活です。
少なくとも今の私にとって、働くこと、遊ぶこと、学ぶことは、ほとんど完全に重なっているのです。

インドには人生を4つの期間に分けて考える文化があります。
4つとは、学ぶ期間(学生期)、働く期間(家住期)、振り返りの期間(林住期)、そして後輩に教え説く期間(遊行期)です。
私は当時、この4つを分けるところに問題があると考えたのですが、今から思うとどうもそれは「論理演算」でしかなかったようです。
歴史の中で培われた文化は、やはり含蓄に富んでいます。
私の同世代の友人は、定年で組織を離れ、悠々自適の生活を送り出しています。
そして少しずつ遊行期に入りだしている人が少なくありません。
コムケア活動を通しても、そうした人たちに出会う機会が増えています。
そうした人は私と違って、もっと思い切り一点に集中できます。
私のように中途半端ではないのです。成果もしっかりとあげています。
人生を4つに分けて生きることに異を唱えた小賢しさを、少し反省したくなります。

もうひとつ最近感ずるのは、加齢とともに「誘われ方」が変わってくるということです。
自らは加齢を感じなくとも、外部からはしっかりと見えているわけですし、関係性は間違いなく変わっていきます。
自らの認識と外部の認識との格差に時々気づかされます。
「仕事」も次第に減ってきますし、原稿も頼まれなくなってきました。
これは寂しいことですが、自分を生きるうえではとても喜ばしいことでもあります。
自然の摂理というべきでしょうか。

私は、自然に従って生きることと自分の意思で生きることとは同じことだと以前は考えていました。
その傲慢さを最近は思い知らされています。

昨日は長いお通夜だったので、いろいろと考えさせられました。

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