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2005年11月

2005/11/30

■チームで相談できる試験制度

韓国で、大学受験に携帯電話を活用した不正行為が問題になっています。
不正行為は悪いでしょうが、そんなにしてまでして、合格しなければいけない状況はどこかに間違いがあると私は思います。教育と言う視点で考えると、根本的なところに問題がありそうです。
先日書いた川崎教授の話に出てきた印象的なことをまた書きます。

フィンランドの学校の紹介の中に、試験の解答をチームで議論しながら答える写真がありました。目からうろこがおちました。試験の目的は何でしょうか。

「評価」は、その視座と目的によって全く変わったものになります。
管理型評価と支援型評価です。
最近流行の行政評価や福祉施設評価は前者です。管理者にとってはともかく、受益者や当事者にとってはほとんど価値のないものだと思っていますが、場合によってはむしろ害をもたらすでしょう。ですから私は反対です。ある自治体から相談を受けた時も大学教授たちの提案する管理型を批判してしまい、仕事はさせてもらえませんでした。無駄使いが上乗せされたと思っています。
行政評価では当初から私は共創型評価を提案しています。これは管理者にとっても意味があると思いますが、何よりも現場支援型であり、実践的です。
共創型評価は、当事者が中心になって現在の状況を改善しようと話しあうことです。評価を通して、効果を挙げ、働きやすくなる仕組みです。

試験の目的は何でしょうか。選別でしょうか、格付けでしょうか、支援でしょうか。
入試はともかく、それ以外の試験の局面では、むしろ試験を通してみんなの学力が高まることが大切です。だとしたら、みんなで話し合って正解を見つけていくスタイルの試験のほうが効果的です。
チームが受験単位になる試験はいろいろとあると思いますが、学校の試験はグループ単位にするときっと楽しくなりますね、そして学びあえると思います。

管理の時代は終わりました。
21世紀は現場の人たちが主役になる、真心の時代になってほしいです。

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2005/11/25

■本能寺を焼いたのは誰か?

昨日、次世代人材育成研究会で、北海道東海大学の川崎一彦教授から聞いた話です。
川崎さんは今の教育は押付け型で子どもたちの創造性を育てるどころか、奪っているという思いで、いまフィンランドの教育モデルを参考にしながら実践的な教育モデルの開発に取り組んでいます。
そうした活動のお話をしてくださったのですが、そこにこんな話がありました。
「本能寺を焼いたのは誰か?」という質問にどう答えるか、という話です。
皆さんはどう応えるでしょうか。
私はいろいろ考えたのですが、答がわかりませんでした。
川崎さんはある子どもの答を紹介してくれました。
「私ではありません」。

見事な答です。
否定できない事実ですね。
明智光秀ではないか、いや一兵卒だろう、森蘭丸かもしれないなどと考えていたのですが、この答は見事です。しかも、自分の問題として考えています。
子どもたちの発想はすばらしいです。
なぜこうした素直な答ができなくなったのでしょうか。教育のせいでしょうか。

教育水準が上がると環境消費量が増大し、収入は増加するという関係があるそうです。
教育水準があがると「生きる力」は強まるのでしょうか。
昔、educated incapability という言葉を聞いたことがあります。教育を受けて、知識を身につけることと反比例して生活力が低下するという話です。平たく言えば、知識だけあって口は達者だが実際には何もできない人、ということでしょうか。こういう人は決して少なくありません。

教育とはなんでしょうか。
氷が解けると〔   〕になる、の括弧の中に何を入れるか。
学校教育では、「水」が正解です。
しかし、北海道の子どもたちは「春」というそうです。これは有名な話ですが、こうした表情のある答を奨励する学校であれば、きっと子どもたちには楽しいでしょうね。

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2005/11/24

■子どもたちの事件と大きな福祉

子どもが被害にあう事件が相変わらず多いです。
子どもが起こす事件もまた、子どもが被害者であるといえるでしょう。
社会のひずみが様々な形で、無防備な存在に向けられているのは社会が病んでいる証拠です。

私はいま、「大きな福祉」を理念に掲げたコムケア活動と言うのに取り組んでいます。
コムケアはコミュニティケアの略ですが、一般に使われている意味とは違った意味を与えています。重荷を分かち合う関係づくり、という意味です。そして、だれもが気持ちよく暮らせる社会の実現を「大きな福祉」と呼んでいます。
コムケアの考え方は一部、CWSコモンズのサイトに抜粋しています。
詳しくはコムケアセンターのホームページをご覧ください。
もし共感していただけたら、コムケアフェローになってください。

社会は3つのセクターで構成されていると思います。
公(パブリック)と私(プライベート)と共(コモンズ)です。
「共」は聞きなれない言葉かもしれませんが、「みんなのもの」と言うような意味です。
パブリックも「みんなのもの」ではないかと思われるかもしれませんが、
今のパブリック、つまり「公」は「お上」(官)です。
さらに、その「公」に対応する「私」は、日本の場合、「民」と捉えてもいいでしょう。
そしてこれまでは、社会の主軸が、この「公」と「私」だったのです。
これは垂直構造です。
その二元論の中で、「官から民へ」へという発想が出てきます。
そこに大きな落とし穴があります。
これに関しては以前も一度少し書きました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/08/post_290f.html

公と共は、似て非なるものです。
私たちの生活に立脚し、「個人から発想」していくと、その主な舞台は「共」、コモンズになると私は考えています。
元気な社会には、しっかりしたコモンズがあります。
そして、その根底には大きなコモンズとしての大地や自然があります。
ところがこの数十年、私たちは「公」と「私」の世界を拡大し続けてきました。
大きな政府と企業社会の時代にしてしまったのです。
それがすべて悪かったわけではなく、それによって私たちが得たものはたくさんあります。
しかし失ったものも少なくありません。
そしておそらく今や、得失が逆転したのです。
コモンズは、根底にある自然も含めて痩せ衰えました。
つまり社会は極めて不安定な構造になったのです。様々な活動を支え、つないでいく土台が壊れだしたのです。

話が大きくなりましたが、
私はそれがいまの社会の最大の問題だと思っています。
それが、独居老人を不幸にし、働き盛りの人の精神の病を起こし、子どもたちを被害者にしている。つまり社会の荒廃を引き起こしているのです。すべての問題はつながっています。
福祉や安全に関わるさまざまな個別問題を、個別問題として解決していくことだけでは限界があるのではないか。それが「大きな福祉」に取り組んでいる動機です。

子どもたちの痛ましい事件の原因は、私たちの生き方にあるように思います。
社会のあり方、つまり人と人の付き合い方が問題なのであろうと思います。
その出発点は、きっと家族です。そして隣人であり、同僚です。
やれることはたくさんあるように思います。

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2005/11/23

■ピーナツの殻むきをしながら思ったこと

午前中、1時間かけて、先月末に収穫したピーナツの殻むきをしました。
しっかりと成長したものはすでにお裾分けとして出払っていますので、残っていたのは小さなものが半分以上です。おそらく専業農家であれば、廃棄処分にあうようなものです。しかし、自分でつくったとなると簡単には捨てられません。今日は私しか手があいていなかったため、一人で殻むきをしてきました。1時間近くかけたのに、殻からはずされた収穫はほんのわずかです。これくらいなら煎ったものをお店で買っても100円くらいでしょう。時給にしたら数十円のはずです。
その上、硬い殻を指で割るので手が痛くなりました。今も手の先がごわごわしています。
さらにです。小さな実ばかりですので、煎ったら焦げて食べられなくなるようなものも少なくありません。最初はそうしたものは捨てていたのですが、やっているうちに「もったいない」という気持ちが高まり、捨てるのをやめました。煎っても食べられない可能性が強いので、捨てたほうが「経済的」なはずなのですが。
出来上がった僅かばかりのピーナツを見ているとなにやら虚しい気もします。

しかし、この1時間は私にとっては様々なことを考えさせられる時間でした。
作業仲間と一緒に話しながらやったら楽しい仕事だなと思いました。作業自体は単調ですから話し合いやすい状況をつくってくれるはずです。もしかしたら、この作業は労働ではなく、憩いと癒しのためのものかもしれないと思いました。
共同体的労働が、ばたばらに切り離されて、私的労働に変ったときに、仕事の意味もまた変わってしまったのです。そしてさらに金銭のための労働になった時に、労働は生活から切り離されてしまったのでしょう。
労働はわくわくするほど楽しいものだったはずです。
もっとも労働論に必ず出てくるヘシオドスの時代もまた労働は決して楽しいばかりではなかったようですが、意味合いが変ったことは間違いありません。
改めて労働とは何かを考えさせられたのです。労働価値とは何か、です。

次に思ったのは、人と商品の関係です。
購入したものであれば捨てたであろう小粒でちょっと皺のある実までも残してしまったわけですが、その過程の中でいかにこれまで無駄な食べ方をしてきたかを考えてしまいました。自分で苦労すれば、決して物を粗末には扱えなくなると改めて思いました。
しかし、その一方で、専業農家の畑に行くと、まだ食べられそうな大根や野菜が無残に放置されている光景を時に目にします。これはどう考えればいいのでしょうか。
これも考えさせられるテーマです。

そして最後に販売されているピーナツの安さです。
手で殻むきなどしていたらとても商品にはならないと思っていたら、女房が中国産のピーナツには手でむいたと書いてあるというのです。これにも考えさせられました。
まず、手作業では商品にならないとすぐに考えてしまう自分への反省です。結局は私もまた工業生産社会の枠内から発想を変えられていないということに気づかされることはよくあることですが。
そして次に、中国産の食材に不信感を持っている自分への反省です。これだけの手間をかけてがんばっている作り手には敬意を払わなければいけません。

私はピーナツが好きではありませんので、これまでは惰性で食べていました。いわば手持ちぶたさ対策です。
しかしこれらは大事に食べようと思います。
一粒ひとつぶに、きっとたくさんの思いが入っているのです。
とてもいい1時間でした。

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2005/11/22

■姉歯設計事務所が起こした事件

姉歯建築設計事務所による耐震データ偽造の対象物件はまだ広がっています。
この影響は、経済的にも膨大なものになるでしょうが、専門家や検査機関への信頼を失わせたという点での影響もまたはかり知りません。深刻なのは、単なる個人の問題ではなく、システムの問題でもあることです。
もちろん構造設計の責任者である姉歯建築士の責任は甚大ですが、元請けの建築会社や確認申請を審査する検査機関も問題です。そしてそれら全体の、社会的な仕組みそのものが問われています。

最初からとても印象的だったのは、テレビに出てくる姉歯建築士の無表情さです。淡々と事実を語る姿を見ていると制度の一部になった脱価値的な部品ではないかとさえ思えるほどです。人間性を感じさせない不気味さがあります。
データ改ざんという事実には、人間的な価値論があるようにも思いますが、それもコストダウンという、非人間的な目標の前には無力だったということです。これはJR西日本の事故にもつながっています。
問題の本質を見失わないようにしないと、さらに繰り返される事件でしょうし、まだ発覚しないものは山ほどあるでしょう。建築以外でもたくさんあるはずです。

誰にとっても他人事ではない事件であるとともに、社会を持続させていくために最も重要なソーシャル・キャピタルである、信頼関係を損なってしまった事件ですが、逆にこれを契機に、いまの産業の仕組みを根本から見直すことが望まれます。

嫌な言い方ですが、この事件は産業界にとっては事業拡大に通じていくわけですが、そうした産業のジレンマもまた真剣に考えられればと思います。ことの本質は、そこにあるように思います。
システムの設計がたぶん基本的に間違っているのです。
これは郵政民営化にもつながることだと思います。

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2005/11/21

■ちょっと独白:ペルソナとシャドー

数日前のこのブログに、
「常に悪者を探さずにはいられない」のですね、というコメントをもらいました。
これは反省させられるコメントでした。

このブログや私のホームページ(CWSコモンズ)でのメッセージはある意味では一貫していると思っているのですが、その一貫性を維持するために、それに反する私の意識の部分を無意識に抑圧しているはずです。それがよく言われる「シャドー」というわけですが、精神的バランスをとるために、その部分を第三者に投影して、「常に悪者」を探しているのかもしれません。
そう考えると、私が忌み嫌っている小泉自民党は私の分身かもしれないことになります。
最近はテレビで小泉首相の顔が出てくるだけでも、目を背けたくなるのですが、これはかなり重症なのかもしれません。

ペルソナとシャドーの理論で考えると実に様々なことが納得できます。
外部に「悪者」を生み出して、安心してしまっている自分も見えてきます。
しかし、同時に、その「悪者」とつながっている自分にも気づかされます。
もう64歳なのだから、ペルソナとシャドーを統合した生き方を目指そうかという気もしないわけではありません。
さてどうするか・
いろいろ考えた挙句、これからも「悪者」批判をしていくことにしました。

たしかに、誰かを批判すると必ずその矛先は自らに戻ってきます。
批判の対象には間違いなく自らも含まれているわけですから。
ですから人を批判するのは、心穏やかな行為ではありません。

でも、シャドーとはやはり決別しなければいけません。
ユングにだまされないように、これからも嫌いなものは嫌いといい続けることにしました。
つまらない結論ですが、この2日間、ちょっと悩んだ問題でした。

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2005/11/20

■まちづくりは住民が楽しむことから始まります

茨城県の谷和原村に行ってきました。
里山づくりに取り組んでいる住民たちが、収穫祭をするというので誘われたのです
昨年、少しだけ関わったのですが、その関わりの中から生まれた住民グループ「城山を考える会」の主催です。行政もかなり応援したようですが、中心になったのは数名の住民です。
会の代表の横田さんは、最初はこじんまりとやる予定だったそうですが、女性たちがもっと大きくやろうとがんばりだしたのだそうです。女性たちがつながってしまうと強いです。
住民主役の集まりは、谷和原村にとっては珍しい集まりだそうですが、見事に大盛会でした。とん汁が振舞われ、みんなで掘ったさつま芋をヤキイモにし、蕎麦打ちを楽しみ、実に和やかな、元気が出る会でした。
とても感心したのは、さまざまな世代の人が集まったことです。

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会場にはカラフルなインディアンテントが作られており、華やかさを演出していました。
役場の職員も応援で活躍していましたが、まさに住民主役・行政支援のスタイルで、とても好感が持てました。
村長とも久しぶりにお会いしました。

久しぶりにお会いした人や初めての人とも、こうした和やかな場だと話が弾みます。
農家の人たちとも楽しい会話ができました。
農家の人たちは後継者不足を嘆いていましたが、私は逆に農業の可能性を改めて実感しました。

子どもたちも参加していました。
ここまで持ってくるのは大変だったことでしょう。
しかし、ここまでくれば、もう大丈夫です。
まちづくりの基本ができた、と私は思いました。
行政と住民の協働とか住民参加とか、NPOとか、そんな難しいことはどうでもいいのです。
住民が楽しみながら集まる場ができ、さまざまな立場の人が同じ仲間として話がはずめば、まちは自然と育っていくのです。
行政も住民と一緒になって楽しめばいいのです。
予算など瑣末な話です。
谷和原村は町村合併で来年はなくなりますが、この活動はなくならないでしょう。
これからが楽しみです。

一緒に行った女房はたくさんの野菜をお土産にもらって大喜びです。
それにご馳走になった蕎麦が実に美味しかったのです。
横田さんからたくさんのそば粉をもらったので、近日中に我が家でも蕎麦打ちです。

新しいまちづくりが広がっています。

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2005/11/19

■若者への不信感の払拭

とてもうれしい文章に出会えました。
今度こそ、元気が回復できそうな気がしてきました。
出会った文章は「この国にゆくえ」(GRAPHICATION 141)です。
書き手は作家の井出孫六さんです。

井出さんは、若者たちと最近、日本の近現代史の学習を始めたそうですが、
先の選挙が終わった直後に、その若者たちに総選挙についての無記名アンケートを書いてもらった感想を紹介しています。
少し長いですが、引用させてもらいます。
 

無党派の若ものがなだれをうって小泉自民に投票したと、マスコミが伝えているときだったが、アンケートの結果がメディアの推測とかなり隔たっていたのが、わたしにも意外だった。
彼らのおよそ7割が小泉自民の圧勝に不安と憂慮と恐れを示しているが、この7割という数字に彼らの投票行動が示されている。自民支持は2割強といったところだった。
初めて選挙権を行使した彼らにとって、郵政民営化一本にしぼっていった小泉戦略、そこから生じた刺客という名の異形、それを追いかけて飽きることのなかつたメディア、とりわけテレビのあり方は、最初から最後まで異様なものと映っている。

私のまわりにも若者は少なくありません。彼らのほとんどは、小泉自民党には投票していないように私には感じていました。批判的な若者も少なくありませんでした。
しかし、結果は小泉圧勝で、それも若者たちが牽引したとマスコミは書いています。私の周りの人もそういいますし、まわりの学生たちを見てそう断言する若者もいます。
それで私は元気を喪失していたわけですが、井出さんのこの文章に出会えて、マスコミと小賢しい大人たちの無責任な風説の罠に陥っていたことに気づきました。
愚かしいことです。

小泉圧勝は大人たちが主導したのです。マスコミ作戦もそうですが、「見識」ある学者やオピニオンリーダーたちが、無垢な若者を乗せたのでしょう。ヒトラーユーゲントの悪夢を思い出します。安部官房長官の顔がなぜか浮かんできますが。
私のまわりでも、これまで信頼してきた立派な大人たちが小泉自民党に投票しています。それを知った時は愕然としましたが、きっと私たち世代こそが小泉圧勝の原動力だったのでしょう。若者たちを隠れ蓑にしているのです。テレビのキャスターたちは、ほぼ例外なく、小泉圧勝に加担しました。彼らの無意識の中にある好戦的なシャドーが番組に投影されていたのです。一見、小泉批判的な言説を述べている有名キャスターも結局は若者を隠れ蓑にしたとしか思えません。彼らができたことはたくさんあるのですから。

若者は信頼できる存在です。いや若者を信頼せずに、未来が開けるはずはありません。
信頼できないのは、有識者とテレビ政治タレントです。

井出さんは、その学習会を始めた時に、ドイツの元大統領ヴァイツゼッカーの文章をみんなに紹介したそうです。「荒れ野の40年」からの一文です。孫引きさせてもらいます。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

日本の政治家やその取り巻きの学者たちに、これほどの知性があるでしょうか。彼らの私欲のほんの一部を、知性の世界に置き換えてもらえれば日本は変るでしょう。しかし、彼らは前の戦争の時もそうだったように、相変わらずに現場(戦場)の彼岸にいます。現場の実感を持たなくともやっていける安全地帯にいるのです。

井出さんはこう書いています。

日本の若ものの大多数が中学・高校時代に日本史を暗記課目として押しつけられ、近現代史にいたっては全く触れる機会もないままに社会に押しだされてきてしまうところに、今日の歴史意識の稀薄な荒野の広がりが生まれてしまったのではないだろうか。

町田外相がもらした本音を思い出しました。

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2005/11/18

■憲法は9条だけでいいという永六輔さんに共感します

私が最も愛読している雑誌は、前にも書いたように「軍縮問題資料」と言う月刊誌です。隅から隅まで読む唯一の雑誌です。年間1万円で、軍縮市民の会に入会すると毎月送られてきます。書名が難しそうな印象を与えますが、内容はとても読みやすく、刺激的です。

この雑誌は一度廃刊されそうになったのですが、読者の応援ですぐに再刊されました。まだ経済的には安定していないようです。
年間1万円で、世界の平和に寄与できますから、皆さんもぜひ購読してください。価値観の違う人もいるでしょうが、マスコミ情報では見えてこない側面が見えてくることも少なくありません。ぜひ購読していただけるとうれしいです。
申し込みは次のサイトからできます。
http://www.heiwa.net/
上記のサイトに目次が出ていますので、この雑誌の雰囲気が分かってもらえるかもしれません。

今月号では、憲法を愛する女性ネット代表の久保田眞苗さんの「われら世代から一言、戦前と戦後は別の世界か」から教えられることが多かったです。
映画監督の篠田正浩さんの「大義、イデオロギーくそ食らえ 気持ちよく暮らそう」には半分違和感をもちながらも半分は共感できました。

一番の気づきは、永六輔さんの「憲法は第9条だけでいい 私の改憲論」です。
永さんは、憲法は第9条だけでいい。それも、もっと簡単に「戦争はしない」というだけでいいと言っています。なるほど、そういう憲法であれば、みんなの拠り所になりますね。難しい議論もいらなくなります。
永さんは。30年も前に、ラジオで憲法を全文朗読したことがあるそうです。生放送で2時間半かかったそうですが、「いかに読みにくいか」がわかったと言います。あれは文章としてはめちゃくちゃだと言います。
これに関しては、武田文彦さんの「赤ペンを持って憲法を読もう」を読むと、いかにめちゃくちゃかがわかってもらえるはずです。

しかし文章としてめちゃくちゃなのは憲法に限らず、ほとんどすべての法律も同様かもしれません。それは「法解釈」の余地をできるだけ多くしておきたいという、統治側の意図が根底にあるからです。
「戦争はしない」というのは、文章としては明確ですし、素直に生きているほとんどの生活者には納得できる文章です。
もちろん、「戦争」とは何か、が問題になるでしょうが、これは誰でも議論できるテーマですし、その議論はとても大切な意味を持っていますから、むしろいいことだと思います。
永さんの意見に共感しました。

それでどうするの、と言われると応えられないのが残念ですが。

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2005/11/17

■アーレフ施設が近くにあったらどうしますか

あるメーリングリストに、こんな投稿がありました。
新築マンションの購入を決め、手付金を払った後で、その近くにアーレフ(旧オウム真理教)の関係施設が2か所あることが判明、迷った末、解約を申し出たが、200万円を超える手付金は返済してもらえなかったという内容です。
近隣にある「迷惑施設」の存在は事前説明が必要だとされていますが、その中にはアーレフ施設は入らないと言うのが、売り手側の言い分です。
ちなみに、養護学校、障害者施設、老人福祉施設なども迷惑施設とされているそうですが、アーレフ施設は入っていないのだそうです。
投稿者は、「福祉施設類が迷惑施設・・なんて失礼な話なんだ!福祉施設のほうが、アーレフ施設より迷惑だと言うことですか?」と書いています。同感です。

みなさんはどうお考えでしょうか。
アーレフという団体が存続を認められていることに違和感を持っています。
こんなことを書くと、その非寛容さを非難されそうです。雑多な要素があればこそ、社会は生き生きしているという意見もあるでしょうし、異質なものを排除するのでは小泉自民党と同じではないかと糾弾されそうです。
代替案が見つからないこともわかっていますし、私の発想が危険な落とし穴の側面を持っていることも自覚していますが、どうも感覚的に納得できないのです。

もし私の家の近くにアーレフの集会所ができそうになったらどうするでしょうか。きっと反対するでしょう。非寛容といわれても自然とそうなると思います。投稿者が230万円のコストを負担してまで解約した事情は良くわかります。みなさんはどうでしょうか。

そうした生活感覚での価値基準がもっと大切にされるべきだと私は思っています。
「有識者」や「専門家」が、さまざまな基準を決定する時代は終わりつつあるように思います。

但し、郵政民営化などの「技術論」は、専門家(政治家や官僚ではありません)の議論で決めるべきです。もちろん「御用学者」ではない専門家たちの自由闊達な議論でなければ意味がありませんが。
いまの日本は、どうも反対になっているような気がして仕方がありません。

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2005/11/15

■山形で売っていた乾燥サクランボは中国産でした

先日、蔵王に行ったのですが、ホテルの売店で乾燥サクランボを女房が見つけました。ケーキ作りの材料に購入しようと思って売店の人に聴いたら、やはり中国産だったそうです。
以前も山梨のブルベリーの産地に行った時にドライブルベリーを買いたいと思って探したのに現地産はなかったそうです。
最近は、よほど注意しないと現地のものは見つけられません。民芸品のお店に入っても、一体どこの民芸品なのだというような商品が多いのでがっかりします。

日本の観光産業はどこかで方向を切り替えないとだめでしょう。
観光は地域と密着してこそ、意味があります。
ちなみにこのホテルでは、蟹の食べ放題と言う夕食コースがありました。
蟹は大好物ですが、蔵王のホテルで蟹は食べたくはありません。
そろそろ工業化の発想から解放される時代です。
工業は、「土地」や「自然」に拘束されませんから、その分、表情をなくしてしまいます。産業や観光や生活が切り離されてしまうのです。しかし、それらがつながってこそ、地域の表情や地域での生活が豊かになっていくのです。
工業発想の呪縛から自由になると産業政策や観光政策は全く違ったものになってくるでしょう。時間はかかりますが、表情のある物語を回復させていくことが望まれます。それを壊してきたのが、この数十年の工業発想の観光政策だったのかもしれません。

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2005/11/14

■中島こうせいさんが恵庭市の市長になりました

このブログでも紹介したことのある恵庭市の市長選挙が昨日行われました。
新人の中島さんが現職を破り、当選しました。
接戦でした。

私にとっては、全く縁も無い自治体の市長選挙ですが、現職の姿勢に対して異論をもって突然立候補した中島さんは私の知り合いでした。
中島さんの人柄と考えを少しだけ知っている者としては、その決断に敬意を持ちました。批判する側から当事者になることは、とても大きな決断を必要とします。
未来へのしっかりしたビジョンと自らの生活をかなり犠牲にしなければできない決断です。
もっとも最近の首長は、そうしたビジョンも志も無い人が圧倒的に多いように思います。国政への失望に加えて、最近は自治体の首長にも裏切られることが多く、かなり滅入っていましたが、中島さんの当選にはとても元気付けられました。
中島さんのことですから、きっと不器用な選挙を展開したはずです。
にもかかわらず、恵庭市のような、おそらくさまざまな「しがらみ」のある地域で、現職(中島さんと同年です)を破ったことの意味は大きいです。

新しい物語の始まりが楽しみです。
もしお時間があれば、中島さんのマニフェストブログをご覧ください。

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2005/11/13

■企業の社会性は企業規模と反比例しています

昨日、若手の企業経営者たちの研究発表会に参加しました。
老舗企業の後継者たちや自らが起業した企業の経営者たちが、これからの企業や経営のあり方をテーマに1年間勉強してきたことを発表したのです。
経営学の本を切り貼りした言葉だけのものではないかと期待せずに参加したのですが、とても真面目な取り組みで、頭だけではなく身体的に学んできたことを感じさせる、とてもいい発表でした。
その後の懇親会で何人かの人たちと話したのですが、その純粋さと真摯な姿勢に心が洗われる気がしました。彼らの企業は信頼できそうです。

私は最近の企業経営者にはかなりの不信感をもっています。眼が社会や人間を見ていないと思うことが多いからです。それに前にも書きましたが、ノー・ロングタームと脱価値志向が強いことも気になります。会社のためが社会のためではなく、自分のためになっていることが多すぎます。
しかし、昨日懇親会で会った中堅企業・中小企業の若き経営者たち(若くない経営者もいましたが)と話していると、きらきらするような志を感ずるのです。近江商人の「三方良し」の精神が彼らには脈々と流れているような気がして少し感動しました。大企業の人たちとは全くと言っていいほど違います。

企業の社会性は企業規模と反比例している。これが私の20年前からの仮説ですが、一般的な常識では逆のようです。
しかし、常識的に考えればこれは自明の理だと思います。
大企業は反社会的なことを少しくらいしても倒産はしません。地域社会で問題を起こしたら移転すればいいのです。しかし、地域社会と運命を共にしている中小企業や地場企業は地域社会の支援を失ったら倒産してしまうのです。つまり中小企業は「生活」につながっているのです。
社会貢献活動をしているのは余裕のある大企業で、中小企業はそんな余裕もないし、存続だけで精一杯だという人もいます。
社会貢献活動がもし余裕で行うものであればそうかもしれませんが、本業で社会に役立つことこそが企業の社会貢献の本筋であって、利益還元的な社会活動は宣伝活動でしかありません。そもそも「社会貢献」などと自らがいうことの傲慢さを見直すべきです。そこには「生活」とは別の次元で発想している目線の高さを感じます。
ちなみに、個人で行う場合は全く意味合いが変ります。個人活動と組織活動が混同されて議論されることが少なくありませんが、組織活動としての社会貢献活動の意味はもっとしっかりと整理すべきだと思います。

これからの経済の主役になる企業は、決して大企業でないように思います。ここでもベクトルの逆転が予想されます。昨日、中堅・中小企業の経営者たちと話していて、改めてそう思いました。
中小企業が大企業を使い込む時代が来るのではないか。そう考えると、企業買収に取り組んでいる楽天やライブドアなどの戦略の本質が見えてくるように思います。

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2005/11/12

■現行犯なのになぜ「容疑者」なのか

気になる表現が多いことはこれまでも何回か書いてきました。
繰り返しになりそうですが、やはり気になるので書きます。
8日に千葉県佐倉市で警察官2人が殺傷された事件ですが、現行逮捕にもかかわらず、新聞では「容疑者」と書かれています。いつもこうした表現が使われますが、現行犯であれば、容疑者ではなく犯人ではないかと思います。裁判で刑が決まるまでは容疑者なのでしょうが、一般的な常識にはどうもなじめません。
人権擁護の問題があるのでしょうか。冤罪の可能性が皆無ではないのでしょうか。

今の社会は犯罪が激増し、容疑者の拘留所も捜査も裁判も現体制ではとても対応できないほどだという話をよく聴きます。ですから予防措置で警察に保護や捜査を依頼しても相手にしてもらえずに、結果的に悲劇につながるケースが起こるわけです。
今回の殺傷事件も新聞によれば、事前対応が可能だったようです。

なぜそうなるのか。
形式的な人権保護と画一処理の結果ではないかと思います。
すべては手続きの公正性と客観性と効率志向が、実は結果として、実態としての不公正と恣意性と無駄の発生を引き起こしているのだろうと思います。今のままでは警察官は浮かばれないような気がしてなりません。

現行犯逮捕者は犯人でいいでしょうし、事実の究明と裁判の判決・執行とは切り離していいでしょうし、死傷に関する明白な犯罪に関しては簡単な手続きで対処すべきですし、受刑者は自らの裁判にかかった費用を個人で償うためにも働くべきですし、原則として裁判は1年で終了すべきですし、・・・・ きりが無いですが、検討すべきことはたくさんあります。

判決文を日常語にして分かりやすくするのもいいことでしょうが、そのまえにもっと見直すべきことがあるような気がしてなりません。
また暴論を書いたのでたたかれそうですが。

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2005/11/09

■組織を信頼することの危険性

全国小売酒販組合中央会がまた話題になっています。
今度は政治問題も絡んでいるようですが、先の酒販年金制度の破綻を引き起こしたことと合わせて考えると、意外なことではなくやはりそうかと奇妙に納得できる事件です。
同じことは多くの企業不祥事にも言えることです。
雪印食品やカネボウや三菱自動車などの話を聞くと、あの会社ならばやりかねないと思った人も少なくないと思います。
そうした兆候はかなりの人が察知していたはずです。しかし誰も本気で正しませんでした。
同じようなことを個人がしていたら、きっとみんなで姿勢を正させ、事件を未然に防いだかも知れません。
しかし、相手が組織だと奇妙に納得してしまったり、あるいは自らの世界と切り離して考えたりしてしまいがちです。
もっと恐ろしいのは、そうした「おかしなこと」に自らの利益をつなげてしまう誘惑が誰にでも働くことです。
いくら問題視しても変わらないのであれば、むしろそこから利益を得ようと思うのは人情として理解できます。
私もそうする可能性が高いです。
国民年金の世界ではこれが常態化し、今でもそこから抜け出られていないようです。
関係者(批判者も含めてですが)はみんなどこかで利益につながっているのかもしれません。

権力者が被害者を支援者にするのは、こうした構造があるからです。
しかし、酒販年金制度のように、破綻してしまうと掛け金すら戻ってこなくなります。
そこから慌てだすわけですが、すでに遅いわけで、犠牲を担うのは自らです。
これはいまの日本の大きな歴史の流れにもたぶんあてはまるでしょう。
破局を迎えるまではみんな少しでも利益に預かろうと配分競争に参加するだけです。

しかし、組織や制度が信頼できる時代は終わったのです。
組織や制度の信頼性を保証するこれまでの仕組みは、すべて人口が増加し、経済のパフォーマンスが拡大するという、いわゆる「右肩上がりのパラダイム」を前提にしていたはずです。
昨今の経済学はすべてがこのパラダイムの上に乗っかっているように思います。
そのパラダイムが変わろうとしていますから、これまでの経済学はもう終わったはずです。
そして、経済学に合わせて構築してきた経営学もまた役に立たなくなってきているはずです。
しかし、相変わらず経済学は右肩上がりを目指し、経営学者は同じ呪文を繰り返しています。
これまでの延長型のニューエコノミーではない、パラダイムシフトしたニューエコノミーが求められているのではないかと思います。

論点がぼけた文章になってしまいましたが、要するに信頼の対象はいまや「個人」になったということです。
組織や制度は責任の主体にはなりえません。
むしろ責任を曖昧にするのが組織の最大の機能だと思います。
それは決して悪いわけではありません。
責任のとり方を制度化し、リスクをシェアする仕組みを作ったからこそ、今のような新しい社会が実現できたのです。
しかし、その裏には危険な落とし穴もあるわけですが、最近の状況はむしろ制度や組織の功罪関係を逆転させつつあるのだと思います。
言い換えれば新しい組織や制度の原理が求められています。

21世紀は真心の時代という小論を書いたときからの、これが私の問題意識です。
まだ答えは見えてきませんが。

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2005/11/08

■ルーチンワークの大切さ

数年前に話題になった本ですが、「それでも新資本主義についていくか」という本があります。遅まきながら、その本を読みました。先日書いた「ノー・ロングターム」という言葉も、その本で知りました。
軽く読める本なのですが、時間がかかってしまいました。私自身の考えに混乱が生じたためです。混乱のきっかけは、ルーチンワークの意味に関する記述のところからです。
この本では、こう書かれています。

18世紀半ば、ルーチンワーク(反復労働)はかなり違う2つの方向に進むと見られていた。前向きで成果を生む方向と破壊的な方向である。1751年から1972年にかけて刊行されたデニス・ディドロの「百科全書」には前者が、1776年に出版されたアダム・スミスの「諸国民の富」には後者が最も劇的に描かれている。

ディドロは、ルーチンワークの反復性とリズムによって労働者は自分自身に対する安心を得るだけでなく、仲間との絆を深め、社会を安定させていくと考えていたようです。それに対して、モラリストのスミスは、反復作業は精神をだめにすると考えていました。結果はスミスの方向で動いています。
私はつい最近までスミスの見解でした。そして、これからはだれもがアントレプレナーシップを持つべきだと考えていました。また時代の変わり目の中で、生き方を変えていくことを目指していました。ルーチンワークを軽視していたわけではありませんし、ディーセントワークという場合でも当然ルーチンワークも含まれると考えていましたが、変革とか創造とかという言葉に価値を感じてきました。
その一方で、たとえば生まれた集落から一度も出たことのない生き方に奇妙に感動したりしていましたし、反復作業を進化させ昇華する働き方に憧れも感じていました。
どこかで矛盾しているなと、自分ながらも思っていたのですが、ディドロの考えを知って、いろいろと考えさせられたのです。

中学時代に国語の教師が文学史のテキストに書かれていた日本の有名な文学作品の書名と作者を丸暗記する宿題を出しました。不愉快ながらも覚えた記憶があります。そのおかげで、一応、文学史の主な作品が時代の流れの中で記憶でき、それが一つの柱になって歴史が理解しやすくなったように思います。
ただの受験勉強ではないか、と言われそうですが、その国語の教師も受験を意識していなかったように思います。彼は後で役に立つから、ともかく覚えろといいました。その言葉に奇妙なほど説得力があって、不満ながらも私はすべてを覚えたのです。
それがどうした、といわれそうですが、中学時代の他の授業は覚えていませんが、そのことは強く印象に残っています。
ルーチンワークの話とどうつながるのか、ですが、ディドロに納得させられたのはこのことを思い出したからです。

さまざまな仕事がなくなってきています。
ビジネスの世界でも、家事労働の世界でも、自らの生活の分野でも、それがどんどん広がっています。仕事の変化は生き方の変化であり、文化の変化です。
繰り返しの反復作業。その大切さと面白さをもう一度考え直してみる必要があります。
私は家族からも友人からも、飽きやすいといわれ、ルーチンワークが苦手なのですが、ディドロの「百科全書」のイラストを見ればその悪癖が直るかもしれません。

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2005/11/07

■地方分権で地域の主体性は高まってきているか

朝日新聞社が行った全国47人の知事へのアンケート調査によると、地方分権を進める三位一体改革の評価はあまり芳しくありません。改革を評価しているのは、滋賀、大分、兵庫の3知事だけです。地域の実情に合わせた施策が展開できるようになったかという質問に、自治体の裁量が広がったと答えた知事はゼロだったそうです。「義務的な経費の見直しがほとんど」「国の法令等による寄生が多すぎて裁量が発揮できない」というのが多かった理由のようです。
ある意味で、これは自らの力量の無さの表現でもあるわけですが、制度的にも問題があると思わざるをえません。
条件付きの権限委譲が、まだ発想の根底にあるのです。そこが「地方分権」の限界であり、地域主権とは似て非なる所以ですが、「責任を転嫁して問題から逃げる」のは管理者の常套手段です。いまの地方分権の本質を感じさせます。兵庫県の知事は「シャウプ勧告以来初の権限委譲」と評価していますが、大切なのは理念と実際です。

私は一時期、いくつかの自治体に関わらせてもらいましたが、新しい住民自治や地域主権の息吹を感じたことがありました。しかし、その動きはこの数年、急速に後退しているように思えてなりません。自治体にリーダーがいなくなったのです。管理者は相変わらず多いですが。

当事者から評価されない改革って、何でしょうか。
改革は誰のためのものか、改革を議論する時に常に念頭に置かねばならないテーマです。それはビジョンとミッションに関わってきます。
しかし、ビジョンとミッションのない、ノー・ロングタームの取り組みが多すぎるような気がしてなりません。私たちの生活に関わる問題ですから、もっと関心を持たなければいけないのですが、相手が大きすぎて1住民にはなかなか歯が立たない問題です。
地方分権や市町村合併に付けが回ってくるのが心配です。

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2005/11/06

■今年の山は豊作だそうですが

今年の山は豊作のようです。
滋賀の先輩からそういうメールが届きましたが、山形でネイチャーゲームに取り組んでいる学生からも「今年は山が豊作だからクマの姿を見かけないよ」と言われているとメールが来ました。今年はとてもいい年なのです。
しかし、里では相変わらず果樹や農作物の盗難があるようです。山は豊作でも、里は相変わらずの凶作なのでしょうか。

クマやサルはなぜ里に下りてくるかといえば、森が荒らされたからです。森が豊かであれば、畑を荒らすこともありません。山と里の生活のつながりをしっかりと意識して、お互いが気持ちよく住みあえる関係を大事にしていかねばいけません。
鳥たちや獣たちのために、農作物や自然の一部はしっかりと残していかねばいけません。

里はどうでしょうか。
パリでは暴動が広がっています。
日本はどうでしょうか。
暴動はおきないでしょうが、様々な荒廃が進んでいるような不安があります。
林檎泥棒と金融業の好業績はどこかでつながっているような気がします。
政治の貧困の前に経済の貧困を痛感します。

一昨日、あるライオンズクラブの例会に招かれました。
みんなホスピタリティマインドの篤い人たちでした。
にもかかわらず、どうして経済は冷酷なのでしょうか。
人間は自然を管理できませんが、市場もまた管理できないのかもしれません。

里が豊かになるのはいつのことでしょうか。
経済のパラダイムを変えなければいけないように思います。
ITや金融に依存しない、新しい経済システムは発想できないものでしょうか。

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2005/11/05

■自動車に関する安全対策

自動車事故の報道が最近また増えています。
交通安全白書によれば道路交通事故での死者数は減少傾向にあり、昨年は7,358人でした。これはピークだった昭和45年(15,765人)の半分以下です。しかし、安心してはいけません。死傷者数でみれば、増加傾向にあり、昨年は119万人でした。ちなみに、昭和45年は100万人弱でした。当然、事故数は増加傾向にあります。
なお、日本の場合、交通事故死として計上されるのは事故後24時間以内に死亡した場合です。海外は1か月以内というところも少なくありません。

自動車産業の業績が好調です。その利益の大半は海外市場での利益だそうですが、それはともかく、もっと交通事故対策に利益を投入すべきではないでしょうか。
宇沢弘文さんの「自動車の社会的費用」は有名ですが、交通事故に伴う社会的費用はもっと真剣に考えられるべきだと思います。
この問題に関しては、先月のサロンでも話題になりましたが、私はいまのアプローチに間違いを感じます。それはJRの安全対策に関しても感ずることです。いずれも対症療法的な処方でしかありません。
たしかに自動車に関しては、安全対策にかなりの努力がされています。しかし、自動車はつまるところ、マン・マシン・システムですから、製品としての自動車だけを考えていても問題は解決しません。
しかも自動車は、マン・ソシオ・システムの要素が強いですから、道路やまちの構造にもつながっています。
たとえば、我が家の近くに「ハケの道」といわれる細い道があります。散歩道としてはいい道なのですが、ここも4メートル道路にすることになっており、両側の地主はセットバックを要請されています。たしかにこの道沿いにも住宅がありますから、自動車交通不可にはできないかもしれません。しかし、すべての道を自動車が通れる道路にする必要はありません。まちの構造づくりに問題があるように思います。都市計画家の失敗だと思いますが、今もなお、行政はその路線を続けています。自治体の都市計画や都市建設の部署の発想は、多くの場合、生活視点が欠落した「専門家」的です。その背景に、自動車メーカーの存在を感じます。
道と道路は違うのです。昔は、道はもっと多機能な生活空間であり、生活をつなぐものでした。いまは往々にして、生活を分断しています。

先月、山形市の商店会の若者たちとフォーラムをやりましたが、そこでゾーン30やトランジットモールが話題になりました。生活の視点から自動車との付き合い方を考えようというアプローチです。商店街の若者が、そんなことを考え出しています。自動車メーカーはもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。
それにしても昨今の自動車事故は許しがたいものがあります。飲酒運転で事故を起こした人は二度と運転免許を与えるべきではありませんし、そこで死傷事故を起こした場合は、殺人罪と同じ扱いをすべきです。飲酒運転で死者を出した場合、未必の殺意があると断定すべきです。日本の法律は飲酒運転者に甘すぎます。つまり自動車メーカーに甘いということです。
その点を正していく努力を、自動車メーカーはなぜしないのでしょうか。
トヨタのCSRや環境経営は、そこから始まると私は思っています。

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■死をコントロールできるか

昔、本で読んだのですが、人は死のうと思うと風邪でも死ぬことができるそうです。たしかイヌイットの話でしたが、純粋に生きている人たちに限っての話でしょうが。私たちのように小賢しい医学知識を持った人間には無理かもしれません。
しかし、その小賢しさが逆に働くこともあります。
たとえば「がん」ということに関する知識です。
がんという言葉が当事者に与える影響力はすさまじいものです。症状に名前を与えるとその名前が力を持ち始め、症状ではなく生命に大きな影響を与えていくというのはいかにも皮肉な話です。

昨日、天候に生死は影響されるようなことを書きましたが、同時に体内にある自然もまた生死につながっているように思います。体内にある自然は意識に象徴されていると私は思っています。
とすれば、さらに反転させれば、死はコントロールできます。
がん宣告を受けた人の生き方を見ていると、まさに意識の問題だなと思うことがあります。しかし、その意識は自分ではどうも自由にはならないのですが。

葬儀や見舞いなど、最近は死につながる場に行く機会が増えていますが、そこでいつも自分の葬儀をイメージします。
できれば私は、そこに参加したいわけですが、もし死を予感した場合、死の前日に告別式ができれば理想的です。そして、いつもと同じように眠りにつき、そのまま眠り続けることができればと思います。しかし、実際にそういうことが自らの意思でできるかどうかにはかなりの不安があります。

私の母は病院で亡くなりました。家族全員に見守られながらです。私の娘のひとりが病院に駆けつけるのが遅れたのですが、意識不明の危篤状況だった母は、娘が病室にかけつけるまで心臓を動かし、娘が到着してから自ら心臓を止めました。その時に、私は死はコントロールできることを知りました。コントロールする主体は何なのかはわかりませんが、自らの意識がその一端を担っていることは間違いありません。

かつては自らの死だけではなく、他人の死もコントロールできたのかもしれません。いわゆる「祟り」です。
残念ながら「祟り方」の文化は継承されなくなっていますが、「祟り」が忘れられたのは「怒り」が忘れられてきたからかもしれません。

最近、自らの中に「生きる」貪欲さが希薄になってきているのを感じます。
もしかした、それは私に限らない、時代の特徴なのでしょうか。

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2005/11/03

■自然とつながっている人体

生命が自然の一部であることは間違いありませんが、なぜか私たちは、人間だけは別のような錯覚に陥りがちです。
この2週間、天気がよくありません。そのせいか、私の周りでは体調を崩す人が増えています。私のようにただ風邪を引くだけではありません。もっと深刻な事例が多いのです。時には死につながっています。
先週、ある人のお見舞いに行く予定だったのですが、家族の方から気候のせいか急に体調が悪くなり面会が難しくなったという連絡がありました。まさに自然の動きは個々の人体にも影響を与えているようです。
もしそうであるならば、個々の人体の調子は自然にも影響を与えているはずです。
今日は文化の日ですが、この日は快晴になる確率が8割を超える特異日だといわれていました。しかし、この10年は快晴になる確率が50%になっているそうです。
これは単なる自然の偶然でしょうか。
私には文化への私たちの思いが引き起こしていることではないかと思えてなりません。

最近の自然災害もまた私たちの生き方や意識が引き起こしていることではないかと思っています。
悔い改めよ、という天の声が聞こえてくるようです。

今日は穏やかな日でした。
お見舞い日和でした。

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■国民保護法はごぞんじですか

先月28日の閣議に、各省庁の国民保護計画閣議が提出され、閣議決定されました。
すでに自治体レベルでの展開は始まっていますが、今年度内にすべての都道府県でも国民保護計画が策定されることになっています。

この計画は、昨年度制定された国民保護法(正式には「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に基づくものです。
この国民保護法は、「武力攻撃事態等において、武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、国民生活等に及ぼす影響を最小にするための、国・地方公共団体等の責務、避難・救援・武力攻撃災害への対処等の措置」が規定されているものです。
この限りでは何も不都合があるとは思えないかもしれません。
事実、この法律は、あまり審議もされず、話題にもならずに、2004年6月14日に成立してしまいました。議論するまでもなく、必要なこと、いいことだとみんな考えたのでしょう。

しかし、小泉自民党が足早に進めている「戦争のできる国家」路線の動きと重ねて考えると、とても不安なものに感じます。
個々の動きは常識的でも、それら全体が創りだす世界がとんでもない非常識になることはよくあることです。
80年前も同じような状況だったのかもしれません。

昨年の法案提出時から問題指摘している人はいます。
「国民を保護する法律」というより、「国民を統制する」性格を持った法律だと考えている人もいますし、戦時状況の日常化を加速させるものと指摘する人もいます。私たちの生活そのものを変えていくかもしれないと危惧する人もいます。
わが国ではこうした少数派の指摘はマスコミにはほとんど載りませんが、
しかし、ブログジャーナリズム葉広がりだしています。
これに関するサイトもたくさんありますので、ぜひお読みいただきたいと思います。
たとえば、こんなサイトがあります。
国民保護法ウォッチャーズ
「国民保護法」ってご存知ですか

「国民保護」。
国民主権国家において、それはどういう意味を持つのでしょうか。
「自立」とか「保護」とか「支援」とか、最近の法律の名称に時代の方向性を感じます。
私が憧れる「コモンズ」の世界はどんどん遠のいているような気がしてなりません。

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