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2005/11/23

■ピーナツの殻むきをしながら思ったこと

午前中、1時間かけて、先月末に収穫したピーナツの殻むきをしました。
しっかりと成長したものはすでにお裾分けとして出払っていますので、残っていたのは小さなものが半分以上です。おそらく専業農家であれば、廃棄処分にあうようなものです。しかし、自分でつくったとなると簡単には捨てられません。今日は私しか手があいていなかったため、一人で殻むきをしてきました。1時間近くかけたのに、殻からはずされた収穫はほんのわずかです。これくらいなら煎ったものをお店で買っても100円くらいでしょう。時給にしたら数十円のはずです。
その上、硬い殻を指で割るので手が痛くなりました。今も手の先がごわごわしています。
さらにです。小さな実ばかりですので、煎ったら焦げて食べられなくなるようなものも少なくありません。最初はそうしたものは捨てていたのですが、やっているうちに「もったいない」という気持ちが高まり、捨てるのをやめました。煎っても食べられない可能性が強いので、捨てたほうが「経済的」なはずなのですが。
出来上がった僅かばかりのピーナツを見ているとなにやら虚しい気もします。

しかし、この1時間は私にとっては様々なことを考えさせられる時間でした。
作業仲間と一緒に話しながらやったら楽しい仕事だなと思いました。作業自体は単調ですから話し合いやすい状況をつくってくれるはずです。もしかしたら、この作業は労働ではなく、憩いと癒しのためのものかもしれないと思いました。
共同体的労働が、ばたばらに切り離されて、私的労働に変ったときに、仕事の意味もまた変わってしまったのです。そしてさらに金銭のための労働になった時に、労働は生活から切り離されてしまったのでしょう。
労働はわくわくするほど楽しいものだったはずです。
もっとも労働論に必ず出てくるヘシオドスの時代もまた労働は決して楽しいばかりではなかったようですが、意味合いが変ったことは間違いありません。
改めて労働とは何かを考えさせられたのです。労働価値とは何か、です。

次に思ったのは、人と商品の関係です。
購入したものであれば捨てたであろう小粒でちょっと皺のある実までも残してしまったわけですが、その過程の中でいかにこれまで無駄な食べ方をしてきたかを考えてしまいました。自分で苦労すれば、決して物を粗末には扱えなくなると改めて思いました。
しかし、その一方で、専業農家の畑に行くと、まだ食べられそうな大根や野菜が無残に放置されている光景を時に目にします。これはどう考えればいいのでしょうか。
これも考えさせられるテーマです。

そして最後に販売されているピーナツの安さです。
手で殻むきなどしていたらとても商品にはならないと思っていたら、女房が中国産のピーナツには手でむいたと書いてあるというのです。これにも考えさせられました。
まず、手作業では商品にならないとすぐに考えてしまう自分への反省です。結局は私もまた工業生産社会の枠内から発想を変えられていないということに気づかされることはよくあることですが。
そして次に、中国産の食材に不信感を持っている自分への反省です。これだけの手間をかけてがんばっている作り手には敬意を払わなければいけません。

私はピーナツが好きではありませんので、これまでは惰性で食べていました。いわば手持ちぶたさ対策です。
しかしこれらは大事に食べようと思います。
一粒ひとつぶに、きっとたくさんの思いが入っているのです。
とてもいい1時間でした。

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