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2005/11/09

■組織を信頼することの危険性

全国小売酒販組合中央会がまた話題になっています。
今度は政治問題も絡んでいるようですが、先の酒販年金制度の破綻を引き起こしたことと合わせて考えると、意外なことではなくやはりそうかと奇妙に納得できる事件です。
同じことは多くの企業不祥事にも言えることです。
雪印食品やカネボウや三菱自動車などの話を聞くと、あの会社ならばやりかねないと思った人も少なくないと思います。
そうした兆候はかなりの人が察知していたはずです。しかし誰も本気で正しませんでした。
同じようなことを個人がしていたら、きっとみんなで姿勢を正させ、事件を未然に防いだかも知れません。
しかし、相手が組織だと奇妙に納得してしまったり、あるいは自らの世界と切り離して考えたりしてしまいがちです。
もっと恐ろしいのは、そうした「おかしなこと」に自らの利益をつなげてしまう誘惑が誰にでも働くことです。
いくら問題視しても変わらないのであれば、むしろそこから利益を得ようと思うのは人情として理解できます。
私もそうする可能性が高いです。
国民年金の世界ではこれが常態化し、今でもそこから抜け出られていないようです。
関係者(批判者も含めてですが)はみんなどこかで利益につながっているのかもしれません。

権力者が被害者を支援者にするのは、こうした構造があるからです。
しかし、酒販年金制度のように、破綻してしまうと掛け金すら戻ってこなくなります。
そこから慌てだすわけですが、すでに遅いわけで、犠牲を担うのは自らです。
これはいまの日本の大きな歴史の流れにもたぶんあてはまるでしょう。
破局を迎えるまではみんな少しでも利益に預かろうと配分競争に参加するだけです。

しかし、組織や制度が信頼できる時代は終わったのです。
組織や制度の信頼性を保証するこれまでの仕組みは、すべて人口が増加し、経済のパフォーマンスが拡大するという、いわゆる「右肩上がりのパラダイム」を前提にしていたはずです。
昨今の経済学はすべてがこのパラダイムの上に乗っかっているように思います。
そのパラダイムが変わろうとしていますから、これまでの経済学はもう終わったはずです。
そして、経済学に合わせて構築してきた経営学もまた役に立たなくなってきているはずです。
しかし、相変わらず経済学は右肩上がりを目指し、経営学者は同じ呪文を繰り返しています。
これまでの延長型のニューエコノミーではない、パラダイムシフトしたニューエコノミーが求められているのではないかと思います。

論点がぼけた文章になってしまいましたが、要するに信頼の対象はいまや「個人」になったということです。
組織や制度は責任の主体にはなりえません。
むしろ責任を曖昧にするのが組織の最大の機能だと思います。
それは決して悪いわけではありません。
責任のとり方を制度化し、リスクをシェアする仕組みを作ったからこそ、今のような新しい社会が実現できたのです。
しかし、その裏には危険な落とし穴もあるわけですが、最近の状況はむしろ制度や組織の功罪関係を逆転させつつあるのだと思います。
言い換えれば新しい組織や制度の原理が求められています。

21世紀は真心の時代という小論を書いたときからの、これが私の問題意識です。
まだ答えは見えてきませんが。

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