« ■自然とつながっている人体 | トップページ | ■自動車に関する安全対策 »

2005/11/05

■死をコントロールできるか

昔、本で読んだのですが、人は死のうと思うと風邪でも死ぬことができるそうです。たしかイヌイットの話でしたが、純粋に生きている人たちに限っての話でしょうが。私たちのように小賢しい医学知識を持った人間には無理かもしれません。
しかし、その小賢しさが逆に働くこともあります。
たとえば「がん」ということに関する知識です。
がんという言葉が当事者に与える影響力はすさまじいものです。症状に名前を与えるとその名前が力を持ち始め、症状ではなく生命に大きな影響を与えていくというのはいかにも皮肉な話です。

昨日、天候に生死は影響されるようなことを書きましたが、同時に体内にある自然もまた生死につながっているように思います。体内にある自然は意識に象徴されていると私は思っています。
とすれば、さらに反転させれば、死はコントロールできます。
がん宣告を受けた人の生き方を見ていると、まさに意識の問題だなと思うことがあります。しかし、その意識は自分ではどうも自由にはならないのですが。

葬儀や見舞いなど、最近は死につながる場に行く機会が増えていますが、そこでいつも自分の葬儀をイメージします。
できれば私は、そこに参加したいわけですが、もし死を予感した場合、死の前日に告別式ができれば理想的です。そして、いつもと同じように眠りにつき、そのまま眠り続けることができればと思います。しかし、実際にそういうことが自らの意思でできるかどうかにはかなりの不安があります。

私の母は病院で亡くなりました。家族全員に見守られながらです。私の娘のひとりが病院に駆けつけるのが遅れたのですが、意識不明の危篤状況だった母は、娘が病室にかけつけるまで心臓を動かし、娘が到着してから自ら心臓を止めました。その時に、私は死はコントロールできることを知りました。コントロールする主体は何なのかはわかりませんが、自らの意識がその一端を担っていることは間違いありません。

かつては自らの死だけではなく、他人の死もコントロールできたのかもしれません。いわゆる「祟り」です。
残念ながら「祟り方」の文化は継承されなくなっていますが、「祟り」が忘れられたのは「怒り」が忘れられてきたからかもしれません。

最近、自らの中に「生きる」貪欲さが希薄になってきているのを感じます。
もしかした、それは私に限らない、時代の特徴なのでしょうか。

|

« ■自然とつながっている人体 | トップページ | ■自動車に関する安全対策 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ■自然とつながっている人体 | トップページ | ■自動車に関する安全対策 »