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2005年12月

2005/12/31

■ローマ人の物語14巻「キリストの勝利」

今年は元気の出ない年でした。
あまりにも納得できないことが頻発し、時代に違和感を強めていました。
なぜみんな、自らを不幸にするような選択をし、住みにくい社会づくりに向かっているのかが私には理解できませんでした。歴史の繰り返しなのですが。
昨日、ローマ人の物語14巻「キリストの勝利」を読みました。そこでも民衆が同じ行動をしています。

「ローマ人の物語」14巻は、キリスト教カソリックが異教と異端を抑えて、権力化、つまり唯一の権威になっていく過程が描かれています。そしてその流れに抗した2人の人物が登場します。
一人はユリアヌス、「寛容の時代」への回帰を目指した「背教者」の肯定と、皇帝をも神の羊飼いにしてしまったアンブロシウスに異議申し立てしたシンマクスです。前者は有名ですが、後者は本書で初めて知りました。いずれも時代の流れに抗したアナクロニズムと受け取ることもできますが、時間軸を変えれば評価は全く変わります。それは今の日本の状況にも見事に当てはまります。悲しいことですが。

話はとびますが、なぜ元気がでなくなったのか、それは私の主体性の問題です。
時代に期待しすぎてしまったからです。流れには勝てません。勝とうと思うからこそ、愚痴が出ます。主体的なようで、主体的でないのかもしれません。
流れを基準にするのではなく、自らを基準にすれば、抗う必要はなくなります。

今年は愚痴が多かったと思いますが、来年は主体的に言動しようと思います。
そして、主体的に考え行動するとはどういうことかを考えたいと思います。

今年も読んでくださった方々に感謝します。
できれば読者の方と会いたいとついつい思ってしまうのが、私のアナクロニズムですが、このブログはCWSコモンズともつながっています。気が向いたらオープンサロンなどにも来て下さい。お会いできればうれしいです。

来年は元気溢れる年にするつもりです。
ありがとうございました

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2005/12/27

■悪徳リフォームビジネスと健全なビジネスの違い

昨日、テレビで悪徳リフォーム業者の特集番組をやっていました。
独居老人住宅を市場にして不要なリフォームをさせてしまうビジネスです。テレビでは悪徳リフォーム業界と呼んでいました。1000人を越える被害者の被害総額は100億円以上だそうです。弁護士たちがチームを組んで、払い込んだ金額を回収する裁判を起こそうと呼びかけても、ほとんどの被害者は参加しないといいます。被害者はむしろ自らを責めるだけで、加害者を攻める方向に言動が向かないのです。不思議な話ですが、人を信頼して裏切られた人にとっては、裁判もまた信頼できないのでしょうか。わかるような気がします。
こうしたビジネスは、日本でもなぜかかなり放置されています。社会の基準が私の感覚とは大きく違います。もっと厳しく取り締まるべきだと思いますが、警察も行政もかなり野放しです。
ここにも考えるべき問題がたくさんありますが、今回考えたのは別の話です。
悪徳業者と健全な業者との違いは何でしょうか。頭で考えればすぐわかります。嘘をつくかどうかです。
しかし、たとえば薬効が確実でないサプリメントや薬の製造販売する企業はどうでしょうか。無害無益な小麦粉も効用があると聞かされて飲めば病気を治すこともあるといいます。
高価なブランド品の効用とは何でしょうか。偽物ブランドでも気づかずに満足している場合はどうなるのでしょうか。
ピカソの絵だと信じて毎日その前で感激していた人は、その絵が贋作だとわかったらもう感激しなくなるでしょうか。たぶんなるのでしょうね。私はならないと思いますが、自信はありません。
今回の耐震偽装は、程度があまりにもひどいですが、そこまでひどくない場合はどうなるでしょうか。すべて悪徳商法というべきでしょうか。ほとんどすべての建築物がどこかに嘘を含んでいると思うのは私の誤解でしょうか。いや、家だけではありません。工業時代の商品とはそういうものだと私は思っています。
それに、嘘をつくのが悪徳商法であるとしたら、テレビなどは悪徳商法の常連かもしれません。
さて、悪徳商法とは何かを考えていくと、なにやら今の産業そのものに、その遠因が埋め込まれているような気がしてきました。そうだとしたら、社会の基準に合わない私の感覚に問題があるのでしょうね。住みにくい時代です。

嘘を平気でつく首相を選んでいる国ですから、まあ日本は悪徳社会がはびこっているのでしょうが、それをもっと自覚しなければいけませんね。
人を信ずるということがリアリズムだった時代は終わったのでしょうか。
いやそんなはずはないですよね。

支離滅裂な文章で、すみません。

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2005/12/26

■人口減少の最大の問題は労働力不足ですか

人口減少が始まりました。その最大の問題は「労働力不足になること」とNHKのニュースで報じられていました。耳を疑いました。まだ産業界の発想で考えられているのか、と思いました。産業界にとって人口減少はいうまでもなく、規模の縮小につながります。市場も労働力も減少するのです。
しかし、同時に思ったのは労働力不足がなぜ問題なのかです。そして、今まだ失業者や納得できる仕事に出会えない人たちが多い仕事不足の状況の中で、労働力不足を話題にするとは何事かと思いました。視点を変えれば物事の意味は反転します。それに気づかない人が多すぎます。
労働力不足も仕事不足も、産業システム、経済システムによって発生します。仕事や経済は人間が創出するものですから、本来、過不足はないはずです。たぶん論理的に論証できるはずです。私には難しいですが。
もし過不足が発生するとしたら、それは自然です。過剰に人口が増えたが故に自然が不足することは考えられます。しかし人口が減少したが故に自然が過剰になっても、それは問題にはならないはずです。おそらく自然の循環系の中で問題は解消されるでしょう。今問題なのは人口増加の中での自然不足で、人間にとっての環境の悪化が進んでいるということです。人口減少はむしろ歓迎すべきことです。
人口減少によって、労働力不足になることを危惧する前に、現在の仕事不足状況を真剣に考えることが大切です。
さらにいえば、仕事不足の一方で、企業が史上最高といわれる利益をあげ、ミニバブルといわれるくらいに高価な商品が売れているというおかしな状況をどう考えるかです。っしかも、そうした状況の中で、メンタルヘルスが問題になり、年間3万人を超す自殺者が続いているのです。このことを問題にするべきでしょう。
将来の労働力不足が問題なのではありません。現在の仕事の配置や構造がおかしいのです。まずはみんなが安心して気持ちよく働ける仕事環境をつくることです。
人口減少は決して暗い話ではないのです。暗いのは、現在の仕事の配分がもたらしている産業社会なのです。
人口減少によって、労働力(市場)が確保できなくなると考えるような人には社会は任せられません。しかし、いまの国民はみんな、なぜかこういう政府や財界の発言に納得してしまうのです。少し考えれば、そのおかしさに気づくはずなのですが。

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2005/12/25

■小泉内閣は何か問題を解決したことがあるでしょうか

北朝鮮による拉致被害者家族連絡会代表の横田滋さんが過労で入院されたそうです。
暇を弄んでいる小泉首相とは違って、問題を抱えている人たちはみんな大変です。
小泉首相がもう少し真面目に働いてくれれば、日本も変わるでしょうが、彼はきっと働く気などさらさらないのでしょう。
記者へのインタビューの回答で、それが伝わってきます。
誠意のある回答を、私は聞いたことがありません。

念のためにいえば、忙しくしていることと働くことは違います。
自治体の首長も同情したくなるくらいみんな忙しくしていますが、働いている人はそうはいません。
選挙対策も兼ねて、さまざまなイベントや行事に参加するのは、殿様や教祖の仕事ではあっても、自治体の責任者の使命ではありません。
イベントではお客様扱いされて、現実が見えなくなるのが関の山です。

北朝鮮の拉致事件に関しては、昨年の12月24日に政府は「迅速かつ誠意ある対応がなければ、厳しい対応をとらざるをえない」と制裁を予告しましたが、1年たった今もなお、制裁発動は出ていません。
つまり、北朝鮮の対応は、小泉内閣にとっては、「迅速かつ誠意ある対応」だということになるのでしょう。
そう考えれば私には納得できます。
両政府の行動は極めて類似しているからです。
小泉内閣の姿勢に関しては、CWSコモンズでも何回か書きましたが、最初からひどい言動を重ねています。
心ある人であれば、反旗を翻すと思いますが、心無き人が政界や財界、さらには言論界にこれほど多いとは思ってもいませんでした。

国民の安全を守る立場にある国家の意思と能力は、この事件に象徴されているといっていいでしょう。
国家は本当に国民の生活を守ってくれる存在なのでしょうか。

アスベスト問題や耐震偽装問題では国家はしっかりと対応しているではないかと思うかもしれませんが、そもそもこれらの事件には、おそらく政府や国会議員が少なからず加担しているのではないかと思います。
そのせいか、耐震偽装問題では、証人喚問さえも時間ばかりかかり、形式的ですし、強制捜査も相手が対策できるように十分な時間を与えています。おかしいと思いませんか。
さまざまな画策が行われたと思われても仕方がないと思います。
水俣事件の時の体質と何も変わっていないような気もします。

郵政民営化が実現したではないかとも言われそうですが、確かに権力者にとって都合のいい仕組みや時間軸の逆転はかなり実現したかもしれません。
制度をつくり、形を変えるのは簡単なことです。
しかし、生活者にとっては制度よりも現実です。

この1年、政府は拉致問題に関して国家としての役割を果たしたのでしょうか。
横田さんたちの無念さを思うと同時に、いつかは私自身も同じ経験をしかねないと不安になります。
「無知のベール」で考えると、拉致事件のような明快な問題に今の政府の不条理さが良く分かります。
「勝者」には決して理解できないことでしょうが。

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2005/12/24

■時流に乗っていては見えないものがあまりにも多い

昨日の書き込みに大村さんがコメントしてくれた中に、「車に乗っていては見えないものがあまりにも多い」と言う文章がありました。全くその通りですが、それを読んで、「時流に乗っていては見えないものがあまりにも多い」ということを書きたくなりました。

私は17年前に時流から降りることにし、会社を離脱しました。
世俗的な意味で失ったものは多いかもしれませんが、見えてきた世界は果てしなく大きいです。
時流を少し離れて、時代を見るとそのおかしさや行く末が見えてくるような気がします。
そのせいか、時流になっている動きのほとんどすべてに、私は否定的になっています。
郵政民営化もそうですし、NPOの動きも、自治体の市民参加志向も、コミュニティビジネスも企業変革も、二大政党化や小選挙区制も、医療制度や福祉制度の動きも、教育改革や市町村合併も、男女共同参画も自立支援も、能力主義やリサイクル重視も、ほとんどすべての動きに違和感を持っています。
「官から民へ」「市民主役」などのスローガンも、私には馬鹿げたものにしか思えません。

もちろん否定からは何も生まれませんから、そこに意味はありません。
しかし、私にはほとんどの解決策や時代の行く末が予感できる気がしています。
あくまでも「気がする」程度の話ですが、この20年を考えるとそう間違ったことはありません。
もっとも誰も自分の都合のいい事実しか見ないですし、また覚えていないものですから、私と同じように思っている人は少なくないでしょう。
しかし、たとえば時流を離れて、自分という「個人」を起点に考えると、ほとんどのことが解読できます。
それが正解であるとは限りませんが、時代の構造はかなり納得できるのです。
ですからとても「生きやすい」のです。
しかし、社会のためなどと考え出すと、途端に生きにくくなります。
私には自明のことを説明するは至難ですが、その努力をするか、意に反して時流に従うかしなければいけないからです。私は多くの場合、そのいずれもとりません。
時流に従う生き方に戻ることは自己否定になりますし、私には見えていることを論理的に説明することは不可能です。
そんな話をしても、誰も理解してくれないでしょう。見
た人しか理解できないことは少なくないのです。

時流を降りて、自分の素直な価値観で世界を見ると、いろいろな発見があります。
まもなくお正月です。幸いに多くの人は時間の余裕があるでしょう。
一度、時流から降りて、1日、何もせずに空でも見ているときっと世界の実相が垣間見えてきます。

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2005/12/23

■ウォーキングバスの発想

昨日、イギリスで行われている「ウォーキングバス」をテレビが紹介していました。
ご覧になった方もあると思いますが、イギリスでも子どもを狙った事件が発生しているため、親から子供の安全についての心配が学校に寄せられ、それが契機になって、すぐに親、学校、自治体の3者で会議が持たれ、「ウォーキングバス(歩くバス)」の導入が決まったのだそうです。そして全国に広がりだしているというのです。
「ウォーキングバス」はこんな形で「運行?」されています。
朝の8時半、小学生の登校時間。乗客の子供たちと運転手の親が始発の場所から出発します。つまり一緒に歩くのです。ルールは全員が周囲に目立つ明るい色のベストを着用すること。そして、バスの停留所のように、通学路の途中で次々と子供たちが「歩くバス」に乗り込んできます。こうして子供たちは、より安全に学校までたどり着くことができるというわけです。
ちなみに、ベストの費用などは地元のお店が負担したりしているようです。企業もまた協力しているのです。

日本での取り組みと大きく違うのは、楽しさの要素が見事に組み込まれていることです。子どもの目線にたった発想と言ってもいいかもしれません。日英の「教育観」や教育行政の姿勢の違いも明らかです。
日本では、企業も行政も学校も責任回避しあって、結局は子どもたちにしわ寄せし、「大人を信ずるな」と教え込んで、子どもの「自己責任」の問題にしているのです。そうした教育の中で「真面目に」育った結果の一つが「姉葉さん」なのかもしれません。

「ウォーキングバス」の発想は介護や福祉にも大切なことです。
介護や福祉は楽しく解決しなければいけません。その方策を考えることこそが、私たちの知恵です。ケアする人をケアする前に、ケアをケアすることが必要なのかもしれません。

それにしても「ウォーキングバス」は素晴らしい方法だと思いますが、日本でもどこかでやっているところはあるのでしょうか。
ご存知の方がいたら、教えてくれませんか。

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2005/12/22

■「市民から住民へ」

最近ボランティア活動に取り組んでいるご年配の女性の方がよく相談にきます。その人たちにとって、NPOとはなかなか理解しがたい存在のようです。
一方、今週、2人のNPOに関わっている人と話していて、異口同音にNPOの目線と敷居の高さが話題になりました。2人ともNPO活動にかなりしっかりと関わっている人たちです。
NPOって一体何なのか、最近私はますますわからなくなってきています。
NPOと言う言葉がやはり良くないですね。これは金銭市場主義の世界の言葉のような気がします。利益を分類基準にする段階でまず間違っています。
そういえば、日本ではボランティアが無償行為と認識されていました。今もなお、そういう意識は払拭されていません。ボランティアなどと言う言葉は行為者が軽々に使う言葉ではないと思いますが、私にはとても嫌な言葉です。他の活動はボランティアではなく、強制されてか、あるいは金のためにやっているという意思表示なのですから。

NPOの目線の高さは「市民」発想だからかもしれません。
私が昔感激した言葉に「住民から市民へ」と言うのがありました。武蔵野市などで始まったまちづくりの基本姿勢です。
しかし、その後、社会の実相や現場に少し関わりながら、私はこの言葉に違和感を持ち出しました。市民発想の根底にある目線の高さに違和感を持ったのです。
今では「市民から住民へ」を私は標榜しています。
ですから、住民の意識を高めるとか市民意識を育てるなどと行政の人やまちづくりに関わる人が発現するとそれだけでその人を信頼できなくなるほどです。これに関しては、CWSコモンズでもこのブログでも何回も書いていますが。
制度としてのNPOが発展するのはいいことかもしれませんが、それで失われるものがあるようでとても気になります。どこかで私たちは間違っているのではないかという不安が拭えません。

その一方で、安直にNPOだとかコミュニティビジネスだとかいう風潮にも疑問があります。そう思う理由の一つは、NPOの中間組織や行政の市民活動支援関係の窓口の人とつきあっていて感ずるアマチュアリズムです。コミュニティビジネス支援を標榜しながら、コミュニティビジネスの何たるかはもちろん経営に関してもアマチュアの人が多すぎます。企業ですら通用しないメソッドを持ち込んで、NPO経営を研修で語っていることも少なくありません。相手は何も知らないことが多いですから、大学で何も知らない学生に教えている経営学者と同じくらいアマチュアでも通用してしまうのです。しかも、行政は評価能力がないので、丸投げです。その結果、次第に受講生が集まらなくなり、電話で集めることも良くあります。税金の無駄使いはともかく、その欺瞞性に腹が立ちます。

腹立ちついでにNPOに対する「もう一つの失望」を書きます。
私がとても高く評価している、そして社会に大きな風を起しているNPOのいくつかに関することです。
NPOの中心人物は活動が忙しくて、なかなか他の活動には関わる余裕がありません。そればかりか本当に忙しくて、過労死しかねない企業人と同じくらい睡眠時間や「生活」時間を減らしてがんばっています。ある時期はそれでも仕方がありませんが、そういう姿を見ていると、結局、いまの企業社会での生き方と同じではないかと思えてしまいます。いまの社会のあり方を変えていこうというビジョンで始めた活動であるはずが、いつの間にかその社会のあり方に馴染んでしまっているのです。残念でなりません。それはきっと彼らが当事者ではないからかもしれません。それでは話題は作れても、イノベーションは起こせません。
その人たちは忙しくてこのブログは見ていないでしょうから、いつか直接言わなければいけません。言っても伝わらないかもしれませんが。

社会を変えるのであれば、まず自らの生き方を変えなければいけません。
ちなみに私は忙しそうですが、実は忙しくありません。それにいたって自分の気分を大切にしています。今日もある委員会がありましたが、急に疲れを感じたので、欠席の連絡をして帰宅してしまいました。そして前から観たいと思っていた「夜盗風の中を走る」の映画をテレビで見てしまいました。40年ぶりです。実は今週中にやらなければいけない宿題がたくさんあるのですが、それよりも気分を大切にするのが私の生き方です。そういう意味では、私はいわゆるシニアニートかもしれません。実は今日の委員会はニートの委員会でした。はい。
関係者の方には読まれたくない書き込みですが、彼らもまたこうした無意味なブログは読まないので大丈夫でしょう。はい。

忙しくないため、また冗長な書き込みになりました。
すみません。

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2005/12/21

■診療報酬改定も財政問題発想でいいのでしょうか

来年度の診療報酬改定は中央社会保険医療協議会の不祥事事件の影響もあって、内閣主導で行われたようです。そして小泉首相のイニシアティブで過去最大のマイナス3.16%で決着したそうです。これをどう評価すべきか、私にはあまり確信はもてませんが、いくつかの点でとても大きな違和感を持ってしまいます。
中医協がしっかりと機能していないことに先ず危機感を感じます。不祥事を契機に仕組みの見直しを行うのが本筋でしょうが、どうもそうはならなかったようです。
それともつながるのですが、改定の発想が財政問題に立脚しているところに危惧を感じます。私たちの生命を預ける医療制度もまた、お金の問題が優先されるのが今の日本の社会です。これが最近の日本の政治のようです。一時期少しいい方向に進んでいたように思いますが、小泉首相が時計の針を大きく戻し、また金権政治・権力政治の旧体質に自民党を戻したように思います。一般の評価とは反対かもしれませんが、権力の集中は必ず金権政治を伴います。

私の友人の病院理事長が、日本では真面目に病院経営をしようと思うと赤字になる仕組みになっていると嘆いていたことがあります。事実、病院経営の大変さは家族が入院したりすると実感できます。医師や看護士に余裕がないのです。治る病気も治らないのではないかと思うほどです。そんな中でがんばっている医師や看護を見ているととても頭が下がります。
女房の関係でいつも感じることがあります。医療機器を使った診察は高価で、時に10万円を超えるのですが、医師に話をきちんと聴くときは、30分も丁寧に相談に乗ってもらっても数百円なのです。ここにも診療報酬体系のおかしさを感じます。これをこそ変えるべきでしょう。
民間の病院などでは、そのため不要な検査も増えているのではないかと思うこともあります。病院にかかっている私の友人の話を聞いていてそう思うことも少なくありません。
薬価もかなり不信感があります。20年前に少し医薬業界を調べたことがありますが、かなり危うい世界のように思いました。今もジェネリック薬品がよく話題になりますが、これも危ない世界だろうと思います。仕組みが悪いとしかいえません。
財政問題を解決するためにも、医療制度の内容をきちんと見直す必要があります。医療費削減が目的ではないのです。それに今回の改定による医療費国庫負担の削減は約2400億円だそうです。たった2400億円です。あえて「たった」と書きましたが、先のジェイコム事件では一瞬にして400億円の利益が出たことを考えれば、「たった」ともいいたくなります。

「患者さんと医療関係者には深い川があるが、相互理解が必要だ。医療の改善には国家財政の構造改革が不可欠。真実は現場にある」。これは栗橋病院の本田宏副院長が最近の講演で話された言葉です。ここで本田さんがお話されている構造改革と今回の診療報酬改定とはあまりに発想の視点が違うのです。
本田さんは私が敬服する医師ですが、本田さんが関わっている「医療制度研究会」のサイトをぜひご覧ください。

そこに本田さんの講演記録があります。スライドショーまで添付されています。ぜひご覧ください。考えさせられます。
私も医療制度や病院の問題をみんなで話し合うフォーラムを開催したいと思っています。その準備会の開催を予定しています。関心のある人がいたらぜひご連絡いただけませんか。一緒にやりませんか。

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2005/12/19

■農業は殺生行

日本古来の農業には害虫はいなかったという話を昨日書きましたが、今日はその農業の話です。
我が家もささやかな家庭農園をやっています。農薬などは使わずに、まさに虫に食べられた穴だらけの野菜を収穫しています。
自宅のすぐ近くの空き地が我が家の農場です。女房が中心で、私はその手伝い人です。
キャベツや白菜もつくっていますが、ともかく虫に良く食べられます。
そのため行くたびに葉っぱについている虫を見つけて殺さなければいけません。最初は抵抗があり、虫を見つけて袋に入れて、ごみと一緒に出していましたが、結局、彼らは殺されるわけですから、今はその場で殺して土に埋めるのです。かなり残酷な作業です。いつも、農業は殺生行だと思いながら、虫に詫びながらつぶしています。

エジプトに行った時に、鳩料理が出されました。私は食べることができずにパスしました。今でも魚の活き造りが不得手ですが、そんなこともあって私は野菜が一番好きです。肉はどうも抵抗があり、魚は顔があると食べにくいです。
しかし、野菜もまた多くの殺生の上にあるのです。野菜作りをしていて、それを実感します。自分自身の身勝手さと表層的な自己満足に少し嫌悪感を持ちます。
できれば虫を直接殺さないですむように、殺虫剤や除虫剤を使いたいと思うほどです。それらは自然を壊し、もっと多くの生命を抹殺してしまうわけですが、直接手で殺すのではないので、精神的には苦痛を感じないですみます。これが「曲者」なのですが。
こういう形で、私たちは殺生を見えないところに追いやってしまっているのでしょうね。
こうしたひ弱な生き方が問題を発生させているのかもしれません。

「賢治の学校」を始めた鳥山敏子さんは、小学校でニワトリを飼い、それを子どもたちと一緒に料理して食べるという過激な教育をされた方ですが、そうしたことでこそ、生命の大切さや意味が伝わるのかもしれません。鳥山さんをパネリストにしたパネルディスカッションをやったことがありますが、実に刺激的でした。頭では理解できるのですが、私にはできないでしょう。
今日、子育ち関係のフォーラムがあったのですが、パネリストが最近の子どもたちはケンタッキーフライドチキンは樹になっているものだと思っているのではなかろうかと冗談で話していましたが、まんざら冗談ともいえないかもしれません。私も、できればそう思いたいです。

私たちの生活は数々の生命の犠牲の上に成り立っています。
この頃、改めてそう思います。

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2005/12/18

■「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が多くなる

「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が多くなる」。
1949年エッソが出した雑誌広告のコピーです。
科学技術をベースとした工業化の進展は、まさにエッソの指摘通り石油消費量を激増させました。
工業化の度合いが文化の「発展度」を測る指標にさえ使われ、地球あげての工業化競争が繰り広げられたのはそう遠い昔の話ではありません。
いや、今なおその延長にあるといってもいいでしょう。

このエッソのメッセージの逆、「石油の消費量が多くなれば、それだけあなたの暮らしはよくなる」は成り立つでしょうか。
微妙です。
しかし、現実は、「石油消費量の増加によって成り立っている豊かさ」の上に私たちは生活しています。
さらにいえば、石油消費量の増加はごみの増大とつながってもいます。
一昨日からの議論の延長を今日も続けます。

工業化は石油消費量を増やしただけではありません。
もしかしたら「ごみ」という概念、とりわけ産業廃棄物という概念は工業化によって生まれた概念かもしれません。

日本の古来の農業にはたぶん「ごみ」概念はなかったと思います。
そういえば、こんな話も最近何かで見聞しました。
日本の農業では野菜を食べる虫たちもまた食材だった、野菜と一緒に食べれば貴重な栄養源になった、というのです。
私の読み違い、聞き違いかもしれませんが、納得できる話です。
つまり昔の農業においては、害虫という概念がなかったというのです。
害虫もまた工業化が生み出した概念かもしれません。

工業化は多様化の発想を嫌います。
多様な存在を前提にしては効率化や管理化が進みにくいからです。
しかし、まさにそこから問題は発生します。
ドイツでは基本法を見直すことから、廃棄物(ごみ)の概念をなくそうという発想が生まれてきているようです。
そろそろ私たちは工業化発想の呪縛から抜けださないといけないようです。

さて、今の日本のコピーライターなら、次のように言うかもしれません。
「あなたの暮らしがよくなれば、それだけ石油の消費量が少なくなる」。
スローライフ、エコライフが目指している生活は資源節約型といっていいでしょう。
あなたの生活にはどのくらいのごみが随伴しているでしょうか。
私の場合、ものすごく多いです。少しずつ減らす努力はしているのですが。

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2005/12/17

■日本の建築の考え方

昨日、「ごみの増加は豊かさの高まりではなく、不幸の増加なのです」と書きました。
「ごみ」には、その社会の本質が象徴されます。ごみのあり方やごみの処理の仕方を見れば、その社会が見えてくるでしょう。私の友人の環境クラブの増山さんが、生活者による「ごみ白書」づくり活動を提唱していますが、それが実現すれば、社会は一変するでしょう。そうした本質的な取り組みには行政は関心を示さないのが残念です。

日本の産業廃棄物で圧倒的に多いのが建設関係の廃棄物です。そして住宅の立替年数が30年未満なのも日本の特徴です。建築業界が一時期、100年住宅を話題にしていましたが、あれはその後どうなったのでしょうか。
商業施設は多くの場合、短期決戦で、5年以内に設備費も含めて回収する発想が多いと思います。なかには2年で回収などと言うのもあるでしょうが、建物はすぐ取り壊しできるように安価であることが求められます。
住宅も施工期間が短いほどコストダウンになると言われますが、それはすべてのコスト計算のベースが工期に依存するような仕組みになっているからでしょう。短すぎるためにシックハウスのような問題も起きていますが、引渡し後に発生するコストはどんなに高価であろうとメーカーには関係ないのが今の仕組みです。買い手もそれもまた購入価格につながっていることをあまり意識しないことが多いのです。

昨日の書き込みの補足なのですが、こうした日本の建築観がいま話題の耐震偽装事件の根底にあるように思います。問題は決して姉歯さんだけにあるのではありません。私たち生活者も含めて、社会の文化にあるように思います。
もちろん、だからと言って、この事件を正当化したり、責任を曖昧にしようなどというのではありません。その責任はしっかりと明らかにされるべきです。
しかし、それと同時に、これを機会に私たちの購買姿勢や消費姿勢を見直すことも大切なのではないかということです。
耐震偽装事件は、決して私たちの生き方と無縁ではないのです。

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2005/12/16

■人口が減少するということ

16日の閣議で了承された「少子化社会白書」によると、日本の人口は予想よりも1年早く、来年からいよいよ減少傾向に入るそうです。
いよいよ右肩下がりの時代の始まりです。
戦争もなく、疫病の大流行もなく、平和のなかで構造的に人口が減っていくということはこれまで経験したことのない事態だろうと思います。右肩上がりを前提にしてきた、経済の論理も社会の仕組みも、根底からひっくり返されるような気がします。どうなっていくか、誰も予想がつかないでしょう。
経験したことがないといいましたが、国家単位でなければ、私たちは人口減少モデルをたくさん経験しています。過疎の村もそうですし、家族の減少もそうです。学校も生徒数はどんどん減っています。空き家や空き教室や、空き部屋が増えています。
そうした構造的な人口減少傾向は、それぞれのユニットにどのような問題を起こしたでしょうか。すべてに共通しているのは「崩壊」です。人口減少社会の行く末が見えてきます。
なぜ崩壊に向かうのか。「競い合い」をベースにした統治や管理は簡単です。
人口や成員が減少傾向にあると、競い合いはさせにくくなります。
しかし、競いあいを起点にしなければ、実は住みやすい条件にもなりえます。
崩壊に向かった理由は、その発想のパラダイムにあるのです。
個人の立場から考えれば、人口や成員が少なくなることはマイナスでしょうか。過疎化とは一人ひとりが享受すべき自然が増加するということです。そして仕事が増えるということです。しかし不思議なことに、自然の増加は誰も評価しませんし、なぜか過疎化地域では「仕事がない」などという人が多いのです。どう考えてもおかしな話です。
少子化対策がいろいろと考えられていますが、すべて成功しないでしょう。発想が間違っているとしか思えません。児童手当を増額するとか言う話ではないのです。
発想の枠組みを変えなければいけません。これまでの経済システムや政治システム、さらには社会システムの設計思想を変えることが求められているのです。
これは高齢社会に対してもいえるのですが、少しだけ発想を柔軟にするだけで、現実の見え方は変ってきます。高齢社会も人口減少社会も、それを「問題」と捉えるのではなく、「好機」と考えて見れば、社会の設計思想は一変します。

なにやら今日は理屈っぽい話しですが、少子化を止めようなどとせずに、少子高齢社会の豊かなビジョンを描く時代ではないかと思います。
もしそういう視点に立てば、昨今のような無駄なマンションブームなどは起こりようがありません。姉葉さんも不幸にならなかったはずです。
これ以上、ごみを増やすべきではありません。ごみの増加は豊かさの高まりではなく、不幸の増加なのです。

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2005/12/15

■理念と現実が違ったらどうするか

みのもんたのクイズ番組に数名の国会議員が出ていて、みのもんたの問いかけで、憲法改定についての議論を始めました。
その発言の無責任さに驚きましたが、ひどい議論です。
こういう議論が政治の大衆化の中で安直に語られているのでしょうか。
こういうタレント志向の強い国会議員にはぜひ早く退場してほしいと思います。
彼らと今回の耐震偽装に関わっている国会議員とは同類のように思います。
少しは真面目に仕事をしてほしいものです。
テレビに出るのであれば、もう少し真面目に対応してほしいです。
無責任なタレントに迎合するために公費が払われているわけではないのですから。

ところで私が常々思っていることですが、
憲法と現実が食い違うことについての考え方はもう少し論理的に考えるべきです。
たとえば、自衛隊に関する対応ですが、
憲法と現実が食い違っているから現実に合わせて憲法を改正するべきだという議論があります。
これはしかし成立しない論理です。
憲法は理念であり、基準です。
現実が違っていたら正すのは現実です。
憲法と違う現実を創りだしたのは統治者の違憲行為の結果ですから、内閣は罰せられるべきです。
軽い法律でも違反すれば罰せられますが、
憲法に違反しても罰せられないのであれば、法治国家とは言えず、
憲法の下にある法律に違反した人を罰する根拠を失うはずです。
根本の法律に違反している権力体制が、その下にある法律違反者を罰する正当性は持ち得ないはずです。
論理的に考えれば、犯罪者が裁くのは正しい行為ということになります。
事実そういう話はいくらでもあります。
今の日本に、です。刑事事件の冤罪だけが問題なのではありません。
私が、日本の司法が腐っていると思う理由がそこにあります。

憲法の話に戻れば、
憲法に合わない現実に憲法を合わせる行為は「改正」ではなく「改悪」と言うべきでしょう。
もし改正するのであれば、ビジョンと価値論から議論するべきです。

現実から発想するのが今の憲法改定論者の姿勢です。
つまりノーロングタームの発想です。
あるいは脱価値論の手続き発想です。

こうした近視眼的で脱価値論的な発想はいたるところに感じられます。
例えば、男女共同参画ですが、なぜか女性も深夜労働ができるようになったようです。
もし条件の違いがあれば、望ましいほうに揃えるべきだと思いますが、
なぜか望ましくないほうに揃えるのが日本の社会です。
過労死は増えるのは当然かもしれません。

いやこの言い方は不正確です。
実際にはすべて望ましいほうに揃えられているのです。
ただ、誰にとって望ましいと判断するかが重要なのです。
その視座は、日本の場合、生活者や当事者にあることは少ないように思います。
働かせるものにとって望ましい方向、戦わせるものにとって望ましい方向、資産家にとって望ましい方向、であることが多いように思います。
悪貨は良貨を駆逐するのです。

変革とか改正とかいう言葉を使う人には注意したほうが良いようです。

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2005/12/14

■責任回避装置としての「システム」(組織)と弱い個人

姉歯元設計士の国会証人喚問の中継を見ました。
彼の答弁は身勝手な言い訳であり、自分を棚にあげての責任転嫁を感じさせますが、
なぜか私は姉歯さんに被害者のイメージを持ってしまいます。
個人で働くことと組織で働くことの違いを実感しているからです。

違法行為をしてまでも要求に対応しないと仕事がなくなってしまう、
それでは自らの家族が路頭に迷うことになるので、弱い自分は従うしかなかった、
その行為が検査機関によってストップをかけられれば、
仕事は続けられ、違法行為も防げたはずなのに、そうならなかった、
というのが、私に伝わってきた姉歯さんのメッセージです。

私も17年間、一人で仕事をやってきています。
経済的にはとても不安定ですし、収入は全く誰も保証してくれません。
仕事がなくなってしばらく収入がない時などは、
妥協してでも仕事をするかと思ったりすることも皆無ではありません。
「痛みを分かち合う」などと軽々にはいえないことを実感しています。
小泉首相のように、そんな気がない人(無縁の世界にいる人)は、簡単にそういいいますが。
娘から借金してまで活動を持続しなければならない時期もありました。
組織にいたら、そんな体験はできなかったでしょう。
その不安定さを考えると、もし私が姉歯さんだったら断れただろうかと考えてしまいます。
家族の状況や経済の状況の中では迷ったはずです。
断ったと断言できるほど私も強くはありません。
ほとんどの個人はとても弱い存在です。
一人で働いていればこそ、わかることもあります。
体験してみなければわからないことはたくさんあります。
私も組織人時代、かなり失礼な対応を個人で働いていた人たちにしていたことを思い知らされたことはたくさんあります。
今でも身勝手な組織人(会社人だけではありません)には腹が立つことも少なくありません。
しかし本人はもちろんそんなことには気づかないでしょう。悪意は全くないのです。

人間は弱いものです。
とくに今のように「つながり」が壊れてしまい、「自己責任論」が横行する状況の中では、
法律や制度も「弱い個人」を守ってはくれません。
ゼネコンのような大手企業や「強い個人」は国家が守ってくれますが、
零細な設計事務所は誰も守ってはくれません。

だからと言って、法律違反はよくありませんが、
しかし、もっと大きなところでは法律が曲解され、談合や手抜きや無駄金遣いが行われていることも事実でしょう。
建設業界にいたら、そんな話はいくらでも見聞できたかもしれません。
しかも、そうした大きな違法行為は黙認されがちです。
姉歯さんの感覚がおかしくなっても仕方がないような状況もあったかもしれません。

もちろん今回の事件は、あまりにもたくさんの善意の人の生活を巻き込んだところが姉歯さんの間違いでした。
この点は言い訳が全くできないところです。
社会保険庁の贅沢組織を対象にしていれば、褒められたかもしれませんが。

この事件は、私には「組織 vs 個人」の問題に思えてなりません。
ここで組織というのは、会社という意味ではありません。
産業の仕組み、社会の仕組みというような「システム」の意味です。
業界の文化も含めてもいいかもしれません。
そう考えると、ヒューザーの社長も総研の社長も、みんな被害者なのかもしれません。

いつか書いたように、システムは責任回避の仕組みです。
そして責任拠点は個人であり、その一番弱いところにいる誠実な人が責任を取ることになりやすいのがシステムの怖さです。
「システムという名の支配者」(チャールズ・ライク)にこんな文章があります。

人間が機械の部品としてのみ価値を測られ、その目的のためだけに訓練され、
マシーンにとって不要となったら捨てられる社会と、
人間こそが究極の成果であり、人間が洗練されるほど豊かになっていく社会との間には、
天と地程の違いがある。
システムの支配下にあるわれわれは、危険なまでにシステムを信用し、
人間の可能性をすっかり忘れてしまっている。

これに退治するには、ロールズの「無知のベール」論に立脚した、個人の連帯(ちながろ)が大切なような気がします。

同じ新聞にこんな記事も出ていました。
大企業・冬のボーナス、夏冬を通じて過去最高。
この2つの事象は、深くつながっているように思えてなりません。

ところで、私は17年前からボーナスをもらったことはありません。
誰かくれませんかね。はい。

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2005/12/13

■悪循環を育てる近視眼的対策

朝日新聞の夕刊の記事です。
見出しは「小学生殺害事件続き「防犯講話」様変わり」です。
栃木県県警は県内の全小学校で防犯講話を開いているそうですが、その内容の一つに、「人を信じては身を守れない」と言うのがあるようです。「知らない人に道を聞かれたら、すぐに逃げなさい」と言う呼びかけもされているとのことです。

どこかおかしいように思います。
自らの責任を放棄し、仕組み自体を放置し、問題の発生を回避しようとしている姿勢です。人の信頼関係を壊すように仕向けていくことは、まさにソーシャル・キャピタルを壊すことでもあります。第一、こんな呼びかけで問題は回避されるでしょうか。ばかげた話だと私は思います。
むしろ人を信じて、問題が起こりそうな気配があれば、近くの人に声を掛けていくことが大事ですし、逃げるような状況に子どもたちを置かないように考えるのが警察の、そして大人の仕事ではないでしょうか。
栃木ではますます事件が増えるのではないかと危惧します。
少しは自らの責任を果たしてほしいです。
大切なのは、警察に対する信頼感であり、子どもたちにしっかりと目が行く社会の仕組みづくりです。

こうした近視眼的対応がいたるところで増えています
それがますますソーシャル・キャピタルを壊し、社会を不安定にしています。
そうした悪循環を断ち切ることが必要です。
その出発点は、人を信ずることです。
信ずることができる仕組みを作ることです。
たとえば、プライバシー保護の名目で、責任をとるべき人がみんな責任を取らなくなってきています。そのために、ソーシャル・キャピタルが地域社会からどんどん失われているように思います。

まあそういう流れをいくら嘆いても仕方がありません。国民のほとんどが、どうもそれを望んでいるようですから。
しかし、私はこれからも必要があれば、子どもにも道を尋ね、知らない子どもにも目配りし、人を信ずることの大切さをできるだけ多くの人に伝えていきたいと思います。

人を信じない人が増えて誰が喜ぶか、その答えをぜひ考えてみてほしいです。

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2005/12/10

■裁かれる当事者と権力との距離で判断は決まるのでしょうか

昨日の新聞に2つの事件報道が出ていました。
東京地検特捜部が再捜査していた橋本元首相や山崎拓前副総裁らの献金隠し事件はまた不起訴処分になりました。司法の動きに若干の期待をしていましたが、やはりうやむやになりそうです。中小企業の経営者には厳しく立ち向かえても権力者には立ち向かえないのでしょうか。
それに比べて、立川ビラまき事件の控訴審はあまりの厳しさに驚きました。以前にも問題提起しましたが、東京都立川市の防衛庁宿舎で、自衛隊のイラク派遣に反対するビラをまいて住居侵入罪に問われた「ビラ配りで逮捕」事件です。控訴審は、無罪だった一審判決を破棄した逆転有罪判決でした。
驚いてしまいました。新聞記事をお読みください。
http://www.asahi.com/national/update/1209/TKY200512090171.html


検察と裁判官の話ですので、それぞれは別の動きと思いがちですが、「つながっている話」です。
裁かれる当事者と権力との距離によって、対応が違ってくる司法のシステムは、いまや見直される時期にきています。司法界の人たちは意識を変えてほしいです。

これはまた、耐震偽装事件と同じ話です。
社会の仕組みや経済の仕組みが問題となっているのです。
検査しない検査機関、判断しない裁判制度。
不正確な表現ですが、手続きが間違っていなかれば、それでいいわけで、当事者能力のない人が検査をし、裁判をしているとしか思えません。
そして、問題が起きたら、仕組みを考えます。公開度を高め、形式的には誰でもがチェックできるようにし、屋上屋を重ねる評価の仕組みを作ります。裁判員制度もその一つです。問題はそんなところにはありません。
みずほ証券の事件もこうしたことにつながっています。
問題の本質はどこにあるかを、そろそろ考えるべき時期にきています。

それにしても、日常感覚に合わない司法の実態を、法曹界の人たちは、少し謙虚に考えてほしいと思います。ここでも「無知のベール」論を前提にしてほしいものです。そうなれば、被害者よりも加害者の人権を重視するなどといった、馬鹿な発想は出てこないはずですし、裁判員制度が司法の権威を回復するなどという無責任な発想はなくなるでしょう。
彼らは決して特権階級ではないのです。裁くことの淵源は、権力ではなく社会から付託された役割なのです。勘違いしてほしくありません。

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2005/12/09

■稼ぐことと儲けることの分離

風邪でダウンしてしまいました。
まだ咳が抜けず、微熱が残っていますが、少し元気になったので再開します。

今日の新聞のトップは1円で61万株を売りに出してしまったみずほ証券の話です。
これだけ大きな事件はそうはないでしょうが、これに類する話はきっとたくさんあるのでしょうね。それにしてもたった3分の間に、これだけの動きが起こり、300億円もの現金が動くと言うことを知ると、なにやらまじめに働いてお金を稼ぐということがむなしくなります。一瞬にして500万円の利益を得た人は、それ以上儲けることを躊躇したと言うことですが、その気持ちもわかるような気がします。
まじめに働いて稼ぐ場合とはまったく別の論理が働いているわけですが、こうして得たお金と汗をかきながら稼いだお金が、同じものであるところに大きな問題がありそうです。

ところで、みずほ証券は300億円以上の損をしたわけですが、言い方を変えると300億円の利益を得た人がいたわけです。耐震偽装事件被害者の支援として議論されている金額が80億円ですが、その4倍の金額がわずか3分で発生するというわけです。
どう考えてみてもこれはおかしな話です。

汗をかいて稼いだお金と汗をかかずに儲けたお金は、たぶん単位が違うのですが、それらがどこかでつながっているところに問題があります。
耐震偽装事件でいえば、最終ユーザーのマンション購入者の財布は、汗をかきながら稼いだお金ですから、発想の単位はきっと数百円の積み重ねです。しかし、作り手側の建設業者やコンサルタント料をもらっていた総合経営研究所などの金銭感覚はきっと数千万円単位だったのでしょう。稼ぐという感覚ではなく、儲けるという感覚でしょう。ふたつの世界は同じ「日銀券」を使っていても、実は尺度も論理も違うというべきです。

その違う世界をつなぐのが、「大量消費型市場システム」です。それはかつてのように、商店を舞台にした顔の見える人間的な規模での市場とは似て非なるものです。そこでは全く別の論理が働き出します。つまり一瞬にして300億円が動く世界です。テレビを媒体にした市場もそうですが、この「大量消費型市場システム」のおかげで、スポーツ選手や芸能タレント族が巨額な利益を得ることが可能になりました。その仕組みに乗っていない、芸術家や学者は今もって生活者の経済システムの中にいますが、その格差は桁違いで、大量消費型市場システムの乗った「仲間」とは全く違った世界で暮らしているわけです。

問題は、本来であれば、別の論理で動いているはずの二つの経済スキームが安直につながってしまっていることです。そこのつながりのところで、暴利をむさぼっている人もいれば、しわ寄せを受けている人もいるわけです。
まさにカジノ資本主義や実体のない金融経済がはびこっています。真面目に汗して働く人たちの世界は、金額的には主流の座から引き下ろされつつあるのかもしれません。

経世済民という、経済の原点はもう遠い昔になりました。

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2005/12/04

■耐震構造偽装事件の負担は誰が追うべきか

耐震強度偽装問題はますます広がりを見せていますが、私にはまだ氷山の一角のような気がしてなりません。そして同じ構造が他の分野にも見られるはずです。
これが「民営化」の一側面であることを、私たちはもっと認識すべきだと思います。「民営化」の必然的な結果だと私は考えています。
ところで、被害者たちの経済的負担を国庫から支援すべきかどうかという議論が行われていますが、私はもちろん原則としてすべてを国庫負担にすべきだと思います。それが「民営化のコスト」ではないでしょうか。

「正義論」を書いたロールズの「無知のベール」論が、私は社会の判断基準を考える時の基本だと考えています。何かを判断する時に、人は自らの立脚点から判断することになりますが、一般的なルールを定める場合には、自らの立場がどこに位置するかを白紙にして考えなければいけません。つまり、自らがある事件の加害者にも被害者にもなりうると考えるわけです。そうすることによって、社会全体の利益に向けた正義の原則を見出せというのがロールズの議論です。つまり、「無知のベール」とは、自身の位置や立場について全く知らずにいる状態を意味します。
今回の事件を考えると、私が被害者になる可能性は十分ありましたし、これからもあるでしょう。大金持ちでマンションなどには無縁の人もいるかもしれませんが、自分のビルが同じ被害にあう可能性は否定できません。
先のJR西日本の事故もだれでもが被害者になりうる事件ですが、基本的に違うのは今回の事件は国が指定した検査機関がお墨付きを与えていた点です。建築確認業務が民営化されたとはいえ、その検査機関は国が指定していますから、国の責任は逃れられないはずです。
これは「中途半端な民営化」と言うべきでしょうが、そこにこそ「民営化」の本質があります。何回も書いているように、民は官あっての民だからです。
もし完全な私企業による審査体制であれば、状況は変ってきます。その審査ももっと透明性と信頼性を重視したものになるでしょうし、買い手ももっと慎重になるでしょう。しかし、国が認めた検査機関のお墨付きがあれば、大丈夫と思うのは当然です。中途半端な民営化には落とし穴があります。
したがって、今回の事件の被害者は国が救済すべきではないかと私は考えます。
もしあなたが被害者だったら、そう思うのではないでしょうか。
今回の事件は決して「対岸の火事」ではないのです。自分の問題として考えるべきです。
もちろん、問題を起こした関連企業には損害補償請求をすることは言うまでもありません。

しかし、もし国庫負担するとしたらどうなるでしょうか。おそらく今、判明しているのはほんの一部であって、調べていけば現在の数倍の物件が対象になる可能性はあります。国庫がパンクしてしまうと思うかもしれません。
しかし、国家が保証していた仕組みが起こした問題であれば、国家が補償するのは当然です。そのために私たちは税金を払っています。イラク派兵や自衛隊増強、使われない公共施設づくり、環境破壊しながらの環境修復などのために、税金を払っているのではありません。
そして、もしそれでも税金が不足するのであれば、増税してもいいでしょう。
社会の信頼の仕組みが壊れることの恐ろしさを、私たちはもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。

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2005/12/03

■死に向かう競争を離脱できるか

ある集まりでの話です。
会社を辞めて数年前から地元でNPO活動に取り組んでいる男性に、なぜ会社を辞めたのかという質問をさせてもらいました。
答えは、会社勤めを続けていると死んでしまうのではないかと思ったからだ、ということでした。
同席していた女性たちの多くがうなづきました。
そして、私の夫も死んでしまうのではないかと心配したことがあると、2人の女性が発言しました。
過労死と自殺の心配です。
最近また首都圏の電車での人身事故が増えていますが、意図的ではなく、ついふらっと飛び込んでしまうと言う話も出ました。
よくわかる話です。
課題を多く抱えて、そんな気分になってしまった経験のある人は少なくないでしょう。私もあります。

集まった人たちは、みんな市民活動的なことに熱心に取り組んでいる人たちです。
現在の企業社会の病理をみんなどこかに感じているのかもしれません。
それこそが市民活動や住民活動をつなげていくキーコンセプトなのではないかと、私は思っています。

最初の男性は、途中で引き返しました。
姉歯設計士たちは途中で引き返せませんでした。
そして今なお、死に向かって進んでいます。この違いは何でしょうか。

コムケアセンターのホームページに書いた、呼びかけ文を、紹介させてもらいます。

日本は本当に豊かになったのでしょうか。 私たちは経済的な豊かさを追求するあまり、何か大切なものをおろそかにしてきてしまったのではないでしょうか。 たとえば、お互いに気遣いあうこころ。 人と人との気持ちのつながり。 物や自然との心の通わせあい。 そして、だれでもが安心して気持ちよく生活できる社会。 コムケアセンターは、そうしたつながりや社会をみんなで回復していくことを目指しています。
エネルギーの、ほんの一部を生活基盤づくりに振り向ければ、個人の生活も、社会の状況も変ります。お金を得ることだけが生活基盤づくりではありません。 コムケアは、そんな思いで取り組んでいます。


皆さんもコムケアのメーリングリストに参加されませんか。
12月5日にはコムケアのサロンもあります。
内はコムケアのホームページにありますので、良かったら参加してください。


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2005/12/02

■信頼しないことから発生するコスト

昨日の記事につながる話です。
JT(日本たばこ産業)の第2次CIともいうべきプロジェクトに少し関わりましたが、そこで面白いことがありました。
JTではそれまで各職場で必要な事務用品があると、申請書に記入して担当部署にもらいに行く仕組みになっていました。それを誰でもが自由に入れる事務用品置き場をつくり、必要になったらそこから自由に持ち出せるようにしたのです。ノーチェックですから消費量は増えるとしても、それにより管理する人件費を削減できると考えたのです。
結果は人件費の削減だけでなく、消費量も減少したのです。理由はいろいろ考えられるでしょうが、たとえばこれまでは手続きが面倒なので、各部署が余分に自分のところで在庫する形になっていたのです。在庫があれば逆に無駄使いが起こります。必要になればいつでも入手できるとなると、わざわざ在庫する必要はなくなります。

この基本にあるのは、信頼の有無です。
信頼関係があれば、管理コストの削減と無駄の発声の抑制が可能になり、しかも関係者の気持ちを明るく、元気にするのです。それに多くの場合、人は信頼されると元気になると同時に、裏切れなくなるものです。
官民構造には基本的に信頼はありません。統治するものとしての官と統治されるものとしての民の間に発生する「信頼」の実体は管理の枠内での功利的な信頼です。もろい関係と言えるかもしれません。
管理の枠を超えた信頼はどうやって構築できるのか。
それは自らの最初の一歩です。
オスグッドのGRIT(Graduated Reciprocation in Tension-Reduction)がすぐ頭に浮かびます(チャールス・オズグッド『戦争と平和の心理学』岩波書店,1968年)。
GRITは、米ソ冷戦時代に国際政治の世界で主流を占めた核抑止理論によるエスカレーション理論(自らの核戦力を増強することにより相手の核兵器使用を封じ込めていく発想)に対して出された対案です。先ず自らが軍縮することにより相手からの信頼を高め、相手の軍縮を引き起こす発想で、「緊張緩和イニシアティブ」ともいわれます。
自らがビジョンに向けて一歩踏み出す。誰でもできる実践的な方法です。その出発点は、相手を信頼することです。

信頼関係を壊して経済を発展させている限り、サステイナビリティは実現できません。
人を信頼できない生活は決して豊かではないでしょう。
先ずは隣の人を信頼する、そこから暮らしやすさは始まります。

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2005/12/01

■ソーシャル・キャピタルと経済成長

社会にとって一番大切なもの、みんなが暮らしやすくなるために大切なもの、つまりソーシャル・キャピタルは、かつては道路やダムのような公共施設でした。そのためそうした分野に税金が投入されました。いわゆる公共投資です。
しかし、施設的な基盤が整備されると、重点はハードからソフトへと移ります。最近ではソーシャル・キャピタルと言えば、人間の絆や信頼関係を意味するようになってきました。公共投資の対象も、当然、絆や信頼関係を育てるために投入するべきでしょう。
しかし、現実にはなかなかそうはなりません。これまでの「ハード発想の経済システム」が影響しているのかもしれません。
ハードの経済学とソフトの経済学は基本的に違うはずです。

ニューエコノミーは、IT分野のようにソフトを重点にして動き出していますが、その根底にあるのはやはりハード発想です。ややこしい言い方ですが、ソフトのハード化が進められています。「管理化」といってもいいかもしれません。
情報は管理できますが、人の絆や信頼関係は管理できません。それを管理しようとすると莫大な費用がかかります。そのためにIT関連企業は巨額な利益を上げられるわけです。もともと管理できないにもかかわらず、です。管理できない分野ですから、費用は底なしにかかります。そして、ここがポイントですが、そこにもまた「産業のジレンマ」が発生します。
典型的なのは、パソコンウィルスです。ウィルスは、防止ソフト会社が自分たちで創っているのではないかという冗談がありますが、それはあながち否定できません。もちろん直接的にはそんなことはないでしょうが、大きな枠組みとしては、ウィルスを作る人がいなければ、防止ソフトは成り立ちません。
こうしたジレンマをうまく活用している産業が今では巨額な利益を上げています。金融業界もその一つです。そうした産業は、本質的な価値を持っていませんので、やりがいはないでしょうから、ますます金銭欲を高める構造にあります。

改めてこんなことを書いたのは、姉歯設計事務所事件の展開を見ていて、まさにソーシャル・キャピタルが産業のジレンマに悪用されていることを感じたからです。
数段階のチェック機関がありながら、検査には誰も責任を持たないままに動いている仕組みの典型です。ベースに「信頼」があったはずですが、それがジレンマを内蔵する産業システムの中で、利益の源泉にされてしまったのです。

信頼関係というソーシャル・キャピタルがしっかりと存在する社会では、検査の意味合いは全く違ったものになります。管理型の検査ではなく、支援型の検査になるからです。しかし、そうした社会では、経済成長率は高まらないかもしれません。警備保障ビジネスも、認定保証ビジネスなど、成り立たなくなる産業はたくさんあるでしょう。家事の産業化も進まずに、経済成長率や税金による財政拡大も押さえ込まれるでしょう。産業の視点からは好まれないかもしれません。しかし、暮らしの視点で考えれば、答えは明確です。
経済成長の発想を問い直さなければいけません。

昔、坂本慶一さん(京大教授)の本で、「死に至る」産業である工業化ではなく「生を目指す」産業である本来の農業に戻るべきだという主張を読んでから、私の産業に対する評価は一変しました。産業の目的は「私たちの暮らし」です。
ソーシャル・キャピタルは、管理のためか、生存のためかで、全く意味合いが変ってきます。同じように、経済成長の意味も目的によっては全く変ってきます。

ハードからソフトへの移行の道順がたぶん間違っているのです。

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