■時流に乗っていては見えないものがあまりにも多い
昨日の書き込みに大村さんがコメントしてくれた中に、「車に乗っていては見えないものがあまりにも多い」と言う文章がありました。全くその通りですが、それを読んで、「時流に乗っていては見えないものがあまりにも多い」ということを書きたくなりました。
私は17年前に時流から降りることにし、会社を離脱しました。
世俗的な意味で失ったものは多いかもしれませんが、見えてきた世界は果てしなく大きいです。
時流を少し離れて、時代を見るとそのおかしさや行く末が見えてくるような気がします。
そのせいか、時流になっている動きのほとんどすべてに、私は否定的になっています。
郵政民営化もそうですし、NPOの動きも、自治体の市民参加志向も、コミュニティビジネスも企業変革も、二大政党化や小選挙区制も、医療制度や福祉制度の動きも、教育改革や市町村合併も、男女共同参画も自立支援も、能力主義やリサイクル重視も、ほとんどすべての動きに違和感を持っています。
「官から民へ」「市民主役」などのスローガンも、私には馬鹿げたものにしか思えません。
もちろん否定からは何も生まれませんから、そこに意味はありません。
しかし、私にはほとんどの解決策や時代の行く末が予感できる気がしています。
あくまでも「気がする」程度の話ですが、この20年を考えるとそう間違ったことはありません。
もっとも誰も自分の都合のいい事実しか見ないですし、また覚えていないものですから、私と同じように思っている人は少なくないでしょう。
しかし、たとえば時流を離れて、自分という「個人」を起点に考えると、ほとんどのことが解読できます。
それが正解であるとは限りませんが、時代の構造はかなり納得できるのです。
ですからとても「生きやすい」のです。
しかし、社会のためなどと考え出すと、途端に生きにくくなります。
私には自明のことを説明するは至難ですが、その努力をするか、意に反して時流に従うかしなければいけないからです。私は多くの場合、そのいずれもとりません。
時流に従う生き方に戻ることは自己否定になりますし、私には見えていることを論理的に説明することは不可能です。
そんな話をしても、誰も理解してくれないでしょう。見
た人しか理解できないことは少なくないのです。
時流を降りて、自分の素直な価値観で世界を見ると、いろいろな発見があります。
まもなくお正月です。幸いに多くの人は時間の余裕があるでしょう。
一度、時流から降りて、1日、何もせずに空でも見ているときっと世界の実相が垣間見えてきます。
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