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2006年1月

2006/01/31

■年齢って何で必要なのでしょうか

昨日からの続きです。
ボビーの年齢詐称の話から、何で「年齢」などというものが必要なのだろうかということに気づきました。
私は人の年齢をほとんど見分けられない人間です。
みんなほぼ同じように見えてしまうのです。
それに最近は自らの年齢にもあまり意識がなく、時に忘れがちです。
年齢を自覚する必要がないからかもしれません。
年齢は誰のために必要なのでしょうか。
社会秩序維持のためでしょうか。
何歳になったら学校に入学とか、成人式だとか、選挙権がもらえるとか、飲酒が許されるとか、まあいろいろありますが、これってどこかおかしいような気がします。
人の育ちはさまざまですから、物理的な時間によって人の生活を規定していくのはどこかに無理があるのではないでしょうか。
60歳になったから定年で会社を辞めるという仕組みもどう考えてもおかしいように思います。
年齢がなくなれば、結婚適齢期もなくなりますし、就職における差別もなくなります。年齢を口実にした解雇もなくなるでしょうし、多世代交流もやりやすくなるでしょう。
逆に年齢制度がなくなって、本人にとって困ることはあるでしょうか。
私にはあまり思いつきません。
人間が素直に生きられなくなったのは、年齢制度を導入したからではないか、などと思うのは荒唐無稽でしょうか。
ますます年齢から解放された生き方をしようと思います。

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2006/01/30

■アフリカではよくあること

ボビー事件に関して、ムルアカさんとボビーさんの記者会見をテレビで見ました。
ボビーの年齢がこれまで公表されていた32歳ではなく39歳だということについて質問され、
ムルアカさんが「アフリカではよくあることです」と答えていました。
その前に、暴力を振るったことに関しても「アフリカではよくあること」という答えがあったような気がしますが、
この発言が気に入りました。

私は生活面において、家族から注意されることが多いのですが、
これからはこれで行こうかと思い、今日もすでに1回使いました。
残念ながら効果はありませんでしたが。はい。

しかし、みんながこういう言葉で、それぞれの文化を認め合ったら平和な社会になるでしょうね。
いや、これは9割冗談です。でも1割くらいの真実がありそうな気がします。
昨日、平和に関して書きましたが
気持ちよく暮らせる社会がもし平和の社会だといっていいのであれば、
それはきっとそれぞれの違いを認め合うことから始まるでしょう。
昨日の平和の集会でも、私は「寛容さ」を大切さにしてほしいと発言させてもらいました。
平和主義者の非寛容さをいつも感じているからです。

話が飛躍しますが、
「アフリカではよくあること」を未開発状況と称して、
「アメリカではよくあること」を押し付けようとしているのが、
最近のグローバリゼーションかもしれません。
そのおかげで、「日本ではよくあること」もどんどんなくなっていますが、
そこに最近私は住みにくさを感じているのかもしれません。

先週のオープンサロンでも、「中国ではよくあること」の話がいくつか出ましたが、
私たちはそういうことを「遅れた事象」として否定するのではなく、
そこに込められた価値や知恵をもっと大事にしなければいけないような気がします。

「よくあること」は現実を生きる人たちの知恵の結晶かもしれません。
そう考えると、耐震偽装も粉飾決算も、もしかしたら現場の知恵だったのかもしれません。
もちろん「間違った現場の知恵」だったわけですが、
なぜ一番真剣に生きている現場の人たちが間違ったことをしてしまったのか、
そしてそれが加速されたのか、
そこに目を向けなくてはいけません。

私はいずれの事件も、政界と財界のリーダーが誘導して引き起こした、
まさに「未必の故意」のある事件だと考えていますが、
最近の「よくあること」の仕掛け人は、もしかしたら現場の人ではないのかもしれません。

開発とはそういうことなのかとボビーさんとムルアカさんの話を聞いていて、気づきました。

かなり飛躍がある話ですみません。はい。

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2006/01/29

■平和へのさまざまな思い

今日、「平和への結集」を実現する会の準備会が開催されました。
なし崩し的に壊されてきた日本の平和憲法が、小泉首相による「無血クーデター」以後、ますます無視されだして、ついに「改憲」までが現実の話になりだしていますが、この状況を変えたいと思う人たちが集まったのです。
昨年12月に7人の人たちが呼びかけを開始しました。
そして現在、260人を超す人たちが呼びかけ人や賛同者として登録しています。
私は最初の呼びかけ人の一人である、小林正弥さんからのお誘いで呼びかけ人にさせてもらいました。
私が小林さんたちの活動に始めて参加させてもらったのは、2003年の12月です。

今回もさまざまな人に出会いました。
これに関しては、CWSコモンズのほうに書き込みますが、ここでは改めて感じたことを書いておきたいと思います。
こうした「平和」への動きは、今のマスコミはほとんど取り上げませんので、どうしても動きはなかなか見えません。
しかし、まさにリゾーミックに広がりだしていることを実感したのですが、参加者は圧倒的に中高年以上の男性が多かったのが気になりました。
本来的な意味での「平和」への関心は、きっと女性のほうが高いと思いますし、
時間軸で考えれば「平和」戦略の影響の受け方は若者のほうが高いはずです。
憲法が変えられて軍隊ができれば、戦場に狩り出されるのは若者たちです。
いまの男女共同参画の発想で言えば、女性も含まれるでしょう(そこに今の男女共同参画政策の間違いを感じます)。

なぜ女性や若者は来ないのか。
「ピース」という言葉は、若者や女性を引き付けるワクワクする明るさを感じさせるようですが、
「平和」はそんな言霊を持っていないのでしょうか。
たしかに「平和」という言葉には、皮肉なことに正反対の意味合いすらある両義性があります。
国家の平和が生活者の平穏な暮らしを破壊することによって成り立つことに関しては以前も何回か書きました。
その実例は今もイラクやアフガニスタンで展開されています。
日本国民も「イラクの平和」のために、自衛隊の派兵を認めてしまっています。
そのおかげでどれだけの人たちが殺されてしまっているのでしょうか。
しかし、「平和」という言葉によって、その事態は覆い隠されています。

平和を掲げて運動を展開してきた側はどうでしょうか。
昔は内ゲバ、最近の事例では、名護市市長選のように、平和を掲げながら争いを繰り返しています。
平和を掲げる政党もまた、平和に対する認識は人々の平穏な暮らしには少し遠いところにいるように思います。
その意味では、小泉自民党と同じ次元かもしれません。
平和の裏側にあるものをどうしても感じざるを得ません。

今回の集まりもまた、どうしてもこれまでの平和活動を背負った人たちが多いために、
いわゆる「平和活動」の呪縛からなかなか抜け出るのが難しいような気がしました。
しかし、集まった人たちは、まさにそうしたことへの反省から、今回は集まったのです。
みなさんの発言のなかに、優しさも感じましたが、
この動きを単なる政争の具にしないような工夫が必要だと思いました。
私の平和活動は、「大きな福祉」を理念とするコムケア活動です。
平和という言葉を使わずに、みんなが気持ちよく暮らせる社会を実現したいと思っていますが、
しかしそうした態度ではだめだとニーメラーは教えてくれています
読売新聞の渡邊恒雄さんのような間違いは犯したくないものです。

ともかく私に何ができるか考えたいと思います。
平和に向けてできることはたくさんあるのですから
またCWSコモンズのお知らせコーナーでお誘いをしますので、よろしくお願いいたします。

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2006/01/27

■他人事の自分

昨日の衆議院予算委員会での閣僚の答弁を聞いていて、気づいたのですが、
「・・・・と思います」という発言がとても多いのです。
たとえば「反省すべきは反省しないといけないと思います」
なにか他人事です。
これは理屈でしかありません。当事者の言葉とは思えません。
こんな答弁もあります。
「責任があるといわれれば甘んじて受けます」
自立した大人の発言とは思えません。
むしろきっぱりと「責任はありません」といえばいいのですが、
人の顔色を伺っての発言には卑しさを感じます。
彼らは自律ということを知らないのでしょうか。
しかも、責任を問われれば、その矛先をマスコミや米国に転嫁する発言が多いです。
彼らの発言を聞いていると「理屈と言い訳」しか出てきません。
こういう主体性も自律性もない人が行政府のトップにいるわけです。
社会がおかしくならないはずがありません。

こんな状況は、何も政界に限ったことではないというところが現代の日本の特徴かもしれません。
最近は自分の言葉と考えで行動する人が少なくなりました。

さて、先の答弁ですが、
ソクラテスならきっと、
「反省すべき点」ってなんですか。
「反省」って何ですか。
「責任がある」という時の「責任」ってなんですか。
などと問うでしょう。
言葉だけで話している人は、こうした質問には答えられないのです。
こうしたソクラテス的発問がとても重要な時代になっています。
それを問う人がとても少なくなってしまったことが残念でなりません。
私は頻発しすぎて、嫌われることも少なくないですが。

今日は今年最初のオープンサロンです。
どんな話題が出るでしょうか。

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2006/01/26

■砂上の企業価値

堀江さんの逮捕で、ライブドアグループの株式時価総額は一挙に半減してしまいました。
株式時価総額が「企業価値」といわれますが、そういう意味での企業価値がいかに実体のないものであるかが、明確に示されました。
経営学者や経営者が、企業価値という言葉を見直す契機になればと思いますが、まあ無理でしょうね。
企業価値に関しては、たとえば、3つの企業価値の話を以前書きましたが、視点を変えればさまざまな定義ができるでしょう。

価値はどの立場で考えるかで全く違ったものになりますが、そうしたことをあいまいにしての議論が多すぎるのが日本の「経営学」の現状です。
これは経営の世界だけの話ではありません。
誰にとっての価値か。
誰の視点で評価するか。
誰に対する支援か。
誰にとっての参加制度か。
誰にとっての民営化か。
こうした「誰の」という「視座」が極めて曖昧な社会になっているように思います。
手段が目的化しているのです。

そうした状況を変えていくためにも、自分のしっかりした価値観を確認し、自分の言葉で語ることがとても大切な時代になってきました。

それにしても、砂上の企業価値に投資させる風潮を広げようとしているには誰なのでしょうか。

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2006/01/25

■「いただきます」と「ありがとう」

昨日と一昨日、全く違った会で、「いただきます」論争が話題になりました。
全く違った集まりでのことです。一昨日は子育ちをテーマにしたコムケアサロン、昨日は技術者倫理をテーマにした集まりです。
もちろん話題提供者は私ではなく、全く別の人です。

「いただきます」論争はご存知の方も少なくないと思いますが、毎日新聞に出た記事があります。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/news/20060121ddm013100126000c.html
発端はTBSラジオ「永六輔その新世界」に寄せられた手紙です。

「ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と」

みなさんはどうお考えでしょうか。
私はついつい笑ってしまいました。
詳しくは上記のサイトで毎日新聞の記事をお読みください。
そこにこんな事例の紹介もあります。
「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」。

ここまで来るとちょっと笑ってはいられませんね。

コムケアサロンではこんな話も出ました。
アメリカ映画などで親が子どもを散々説教した最後に「サンキュウ」ということが多いので、気になってアメリカ人の友人に訊いたら、「説教をきちんと聴いてくれたことへの感謝だ」といわれた。
ブッシュの世界と違うアメリカの文化が感じられます。
日本の政府もそのアメリカと付きあってほしいです。

明らかに社会(人のつながり)は悪化の循環に入っているようです。
しかし、一人ひとりの生きる姿勢をちょっと変えれば、状況は反転させられるでしょう。
まずはもっとたくさんの「いただきます」と「ありがとう」を発声することにしようと思います。

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2006/01/24

■親を支援することは子どもを支援することにつながるか

今日はややこしい話ですので、よほど暇な人だけ読んでください。
重要なテーマなのですが、ブログにはあまり適切ではありませんので。

「親を支援することは子どもを支援することにつながるか」
昨日、「子育ち」をテーマにしたコムケアサロンで、星野一人さん(子育ち学ネットワーク事務局長)が投げかけた問題です。刺激的で本質的な問題です。
先日、「つながりの想像力」のことを書きましたが、それを考える時に「つながりの単位」と「つながりの方向性」が重要です。
まず星野さんの設問ですが、たまたまつながることはありますが、子どもの問題と親の問題は違います。
ですから親を支援することは必ずしも子どもを支援することにはなりません。むしろ親への支援が子どもに被害を与えることも少なくありません。星野さんは保育園などでの延長保育の問題を例示されましたが、延長保育サービスは子どもの支援にも見えますが、根本的には被害を与えかねません。そしてそれがまた親にも跳ね返ってきます。結果はいずれをも不幸にする結果になることもあります。利益を上げるのは産業社会です。
わかりにくいでしょうか。
たとえばゼロ歳児保育の延長保育の制度で親は働きやすくなるとします。これは親支援です。その結果、子どもも放置されずにしっかりした子育て環境が得られますから、最悪の事態は避けられますので、子どももまた支援されたともいえます。
しかし、ゼロ歳時から、親から長時間離されて育つことの影響はないでしょうか。
これは両論あります。3歳児までは母親が育てなければいけないという社会常識(神話などとも言われます)は今では否定されがちですが、影響がないとはいえないと私は思います。子どもが延長保育制度のせいで親との接触時間が少なくなることをマイナスと考えれば子どもが受けるのは被害です。
子どもだけではありません。子どもを育てることで親が獲得する喜びや学びの機会を失うことで、もしかしたら親もまた被害を受けているかもしれません。
そして、そうした影響は人生に大きな影響を与えかねません。最近頻発する子どもの事件にもつながっていると思いますし、なによりも家族のあり方に大きな影響を与えます。

表現を変えると時間軸をどうとるかで、支援か被害かが入れ替わるおそれがあるということです。
これは「つながりの単位」をどう考えるかで、評価は反転しかねないということです。
当面の生活支援と長期的に捉えた人生支援との違いです。これが「単位」の問題です。
こう考えるとこの設問は、多義的過ぎて成り立たないということになります。
実はこうした多義的な命題が、巧みに使われているのが権力や詐欺師の常套手段です。最近の日本の国政や財界活動やマスコミがよく使っている手法でもあります。
たとえば、ODA(国際協力)や市町村合併の促進などで、こうした多義性がたくみに利用されて、行動が正当化されることはとても多いような気がします。
郵政民営化もその際たる事例のひとつです。問題の解決策を摩り替えているわけです。

もう一つの問題は「方向性」です。
先の設問の因果を逆転してみましょう。
「子どもを支援することは親を支援することにつながるか」
どの年齢を子どもと考えるかで評価は変わるでしょうが、私はこの命題は成り立つように思います。
延長保育の議論での説明と同じではないかと思われるかも知れませんが、私は全く違う話になると思います。
これは問題の構造をどう考え、発想の起点をどこに置くかという問題でもあります。
長くなったので、このあたりでやめましょう。書き疲れました。

こうした整理をするのが、「コンセプトデザイナー」としての私の仕事です。もっとも対価をもらえる仕事になったことは一度もありませんが。

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2006/01/23

■雪がくれたコミュニティ

私が住んでいる千葉県の我孫子市も雪が15センチほど積もりました。
一面の銀世界で、いつもとは全く違った風景でした。
それに加えて、もう一つの風景も出現しました。
近隣の人たちが道の雪かきで一緒に汗を流す風景です。
私の住んでいるところでは、2歳の子どもから60代まで、みんなで雪かきに汗をかき、午前中で道から雪が消えました。子どもたちは結構楽しそうでしたし、私も久しぶりに近隣の人たちと話ができました。
こうした「にわかコミュニティ」がきっと各地で生まれたのだろうと思います、
雪の恵みです。自然の摂理はすごいです。

日本でのコミュニティ意識の変化の契機は、阪神淡路の大震災だとよく言われます。
何か困ったことがあると、人のつながりが生まれ、その大切さがわかります。雪が積もって、道が通れなくなるという、みんなにとっての共通の課題が、みんなをつなげてくれたのです。
しかも、雪かきなどの仕事では、参加者はそれぞれの役割を見つけやすいです。たとえ2歳の子どもでも、場の和やかさを生み出すなどの役割がきっちりとあります。誰もが主役のコミュニティが実現できます。
昔はこうした課題がたくさんありました。
ですから、近隣社会はひとつのコミュニティ、つまり人のつながりになっていたのです。
しかし、最近は近隣と問題を共有化する機会は多くはありません。
もちろん実際にはいろいろとあるのですが、それを無視しても暮らしは困らないような仕組みが出来上がってしまったのです。困ったことがあれば、行政に苦情を言えばいいのです。会社に頼めばいいのです。住民同志の横のつながりは、なくてもやっていけるような気になっていました。そうして地域の付き合いは少なくなり、人のつながりに支えられた地域コミュニティは大きく変質しだしたのです。
その結果、何が変わったのか。

最近、マスコミを賑わせているさまざまな事件の根因が、ここにあるように思います。
雪のおかげで突然出現したコミュニティ。
雪が融けても持続できると社会は大きく変わるでしょうね。
いや、変えていかねばいけません。

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2006/01/21

■NPOと企業のコミュニケーション

この5年、NPOと企業の世界に並行的に関わりながら、そこを win-win でつないでいくメディエーター役が果たせないかと考えています。
視点はもちろんコモンズ(社会)です。
現在の企業にもNPOにも大きな違和感を持ちながらの活動なので、それぞれを革新するような契機を意識しています。ただつなげれば良いわけではありません。そういう活動はたくさんのNPO中間組織やコンサルタント会社がやっていますので、私には全く興味がありません。
社会のリフレーミングにつながらなければ、
あるいは昨今のような金銭経済至上主義からの離脱につながらない限り、
NPOががんばってもほとんど意味がないというのが私の意見です。
しかし、残念ながら時代の方向は必ずしもそうはなっていません。
ところで、時々、NPOから企業の支援要請があります。新しい物語が生まれそうなものは企業にも働きかけることがあります。
今回もあるテーマで企業に支援を頼んだところ、次のようなメールが来ました。

正直、様々なNPOからの支援要請が毎日の様にあり、基本的には判断が難しく対応出来ていない現実がありますが、佐藤さんが関係しているということであれば是非一度関わりを持たせて戴きたいと存じます。

とてもうれしいメールです。
この会社は理念がしっかりしており、社会性の高い企業文化を持っているところです。だからこそNPOからの要請も多いのでしょうが、こういう会社にしても、なかなかNPOはつかみにくいのが現実です。
むしろNPOへのアレルギーを持っている企業のほうが圧倒的に多いでしょう。
企業の経営幹部の人とはかなり付き合いがありますが、なかなかNPOの実態は伝わっていないような気がします。その責任の過半はNPO側にあるように思いますが。

どちらに問題があるかはともかく、NPOと企業のコミュニケーションはまだあまり成り立っていないのが現実です。
上記のメールのように、間に誰かが入ることでやっとつながるのです。
会社の中にいる人にとっては、そもそも論理が違うこともあり、実態はつかみにくいでしょうから、基準を「紹介者」に置きたくなるのはよくわかります。
しかしこれがまた曲者です。
私だからといって信頼はできません。

私はかなりNPOと企業の双方の実態を身体的に知っていると自負しています。そして、今はあるビジョンにしたがって、社会も含めた「三方良し」の基準で動いていると自負しています。その評価眼にもそれなりの自負があります。今は少なくとも、利得を得ようなどとは全く思っていません。
しかし、それは私の独り善がりでしかありません。
いつ変節するかわかりませんし、評価眼が維持できるとも限りません。
個人を介することには怖さがあります。

もうひとつのよくある形は、トップとのつながりです。
これがとても多いですが、残念ながら日本の企業のトップが付き合う世界はそれほど広くはありません。
ある人が取り入って、利己的に動くこともないとはいえません。
その結果、かつての企業メセナ活動のようなひどい話になってしまうのです。

私自身は、企業とNPOとの付き合いから生まれる社会的価値はとても大きいと確信しています。
その前提には、社会のビジョンへの関心と共有できる価値がなければいけませんが、逆にNPOと企業が付き合うことの中から、そうしたビジョンや共有価値が育っていくように思います。
昨今のような経済状況の中ではこうしたことは難しいですが、CSR報告書の作成費用の一部をそうした活動に向けるだけで、小さな一歩は踏み出せるかもしれません。

今年から、私もこうした活動に少し踏み出そうかと思い出しています。
まだ少し早いかもしれませんが、考え出してからもう20年がたちました。
そろそろいい頃かもしれません。

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2006/01/20

■ライブドア事件から感ずる時代の危うさ

ライブドア事件は自殺者まで出してしまいました。
残念な話です。
問題解決を個人的にするのか、社会的にするのかで、スタイルは全く変わってきますが、最近の事件の当事者のほとんどは、個人的に解決してしまう傾向が強いのが気になります。
自殺は典型的な個人的解決策ですが、社会的に考えれば、それは問題の解決ではなく問題の深まりの始まりになります。
実に残念なことですが。

ところで、ホリエモンは時代の落とし子であり、時代の象徴です。
時代が彼のような人間とそのビジネスを生み出し、一時は称賛したのです。
私も彼の行動に拍手を送ったこともあります。
その不明さを恥じるまでには、そう時間はかかりませんでしたが、ある意味では時代に翻弄された若者だったのかもしれません。それは同時に私たちもまた翻弄されたということですが。
あえて過去形にしていますが、これから彼の主体性が芽生えるかもしれないと少し思っているからです。

子どもたちに株式投資の教室を開いたというニュースがテレビで好意的に取り上げられていたのはつい10日ほど前までの話です。

少し前にフレキシビリティに言及しましたが、今は社会にも個人にも、核となる価値観がないのかもしれません。
25年ほど前に「価値観の多様化」という言葉が流行ったことがあります。
当時、私は「多様化」ではなく「価値観の喪失」と言っていましたが、まさにその方向で時代は定着しつつあるような気がします。

今回のライブドアの事件はそうした中で複雑な構造を持っているように思います。
つまりホリエモンを否定することが多くの人にとって自らにつながるのではないかと思います。
耐震偽装事件にもたぶん共通していることです。
確証もなく、こんなことを言うのは軽率ですが、多かれ少なかれ、自らとつながる「不正の部分」を感じている人は少なくないような気がします。
感じていない人も多いと思いますが、全く別の世界にいるかと問われて、きっぱりとイエスと答えられる人は少ないでしょう。
いい加減な建築、いい加減な有価証券報告書、いい加減な評価体制。
最近話題になる社会問題や経済問題は、私には氷山の一角にしか思えません。
その気になれば、程度は小さいでしょうが、類似の事件は幾つでも見つかるように思います。
みんな「見ない振り」をしているだけかもしれません。

その根幹を正すことがもっと真剣に考えられるべきでしょう。
方法はそう難しい話ではないようにも思います。
ただ、それで困る人が多すぎるのが問題なのでしょう。
額に汗して、しっかりと自らを生きている人は決して困らないはずですが。


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2006/01/19

■生きることの意味を時々考えると人生は変わるかもしれません

訃報が届きました。
コムケアの仲間です。病気のために身体の不自由さをかかえながら、さまざまな社会活動に取り組み、とても充実した人生を送っていた方です。
昨年末にも同じような方の訃報が届きました。彼女は今回も「奇跡」が起こって、また元気になることを祈っていました。「ともかく生きたい」というお手紙もいただきました。私も「奇跡」を確信していたのですが、叶わぬ願いになってしまいました。彼女が病院から送ってくれた講演録が私への最後のメッセージになりました。

お2人とも1~2度しかお会いしたことがありませんが、私が取り組んでいる「コムケア活動」に共感して仲間になってくださった方たちです。
お2人とも全力を挙げて生きていたように感じます。
生きることの意味をしっかりと実感していたからでしょう。
コムケア活動を通して、さまざまな問題に向き合っている人に出会いますが、みんな自らの生き方をとても大切にしています。

その「コムケア」仲間のひとつが、自殺のテーマに取り組んでいます。
生きたいと念じている人の立場から見れば、何で死んでしまうのかという思いが強いでしょう。生きることを真剣に考えた上での決断なのかもしれませんが、もしその人が一度でも「死」に直面したことがあれば、思いとどまったかもしれません。
意図せずにやってきた「死」と生きる選択肢の一つとしての「死」は、似て非なるものなのかもしれません。「自殺」と「自死」という言葉がありますが、二つの言葉は天と地ほどの開きがあるのかもしれません。
自殺の問題は社会のあり方を象徴しているのかもしれません。

「死」の問題を私たちはもっと自らの問題として考える必要があるように思います。
コムケアには、「死」を見据えた活動をしている仲間もたくさんあります。
「死」から始まるテーマに取り組んでいるグループもあります。
今日もそのグループの人からメールをもらいました。
「ななみちゃんを救う会」への協力要請をあるメーリングリストに投稿したことへのコメントです。
「死」から考えるか、「生」から考えるかで、同じ事象も全く変わってくるのです。
とても微妙な問題ですが、

訃報が来ると、いろいろと考えることが多いです。

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2006/01/18

■平和のためのコミュニケーション学

先日、「平和のための経済学」という本をCWSコモンズで紹介しました。
その時はあまり意識しなかったのですが、あえて著者が「平和のための」と銘打っているということはこれまでの経済学は何のための学問だったのだろうかということです。実はこれに関しても、この本で著者の川本さんはきちんと考えを説明していますが、この数十年、学の目的が揺らいでいることは間違いありません。そのためにさまざまな醜聞も含めて、学の世界はおかしな状況に向かっているように思います。そこをしっかりとしない限り、教育改革などは実際にはできないはずですが、最近は「ともかく改革」という風潮が広がっていますので、学の目的などは多くの人には興味のないことかもしれません。目的が曖昧な改革は誰かに利用されるだけなのですが。

ところで、たまたま最近、平和に関するメーリングリストで面白いやりとりがありました。面白いといっても内容ではなく、あるテーマに関して議論が始まったのですが、だんだん議論が感情論になってしまい、メールのやり取りをすればするほど、関係者の溝が深まり広がってしまうような状況が生まれたのです。
平和に関するメーリングリストのメンバー同志だったので、ぎりぎりのところで対話が成立し、結果的には相互理解が深まる結果になりそうですが、そこで飛び交った「言葉」はかなり厳しいものがあり、横で読んでいてはらはらしてしまいました。
コミュニケーションにも「平和のためのコミュニケーション学」が必要だと思いました。
しかし、コミュニケーションとは相互理解を深めることですから、本来、コミュニケーションの目的は平和状況の創出であるはずです。にもかかわらず、コミュニケーションは必ずしも平和にはつながらないということを垣間見たわけです。
それはコミュニケーションが成り立っていないだけの話だろうといわれそうです。確かにそうですが、しかし現実にはそうした「コミュニケーションが成り立っていないコミュニケーションまがい」が世の中には横行しているように思います。ここでも「コミュニケーション」とは何かという問題がポイントになりますが。

古い話ですが、東西冷戦時代に「エスカレーション理論」というのがありました。ハドソン研究所のハーマン・カーンが主張した核抑止力理論です。相手よりも大きな核戦力を持てば、相手が攻撃してくるのを防止できる。これが米ソの核戦力競争になっていき、どんどんと核戦力規模はエスカレート(拡大)していくわけですが、それをどう効果的に洗練させていくかが、コミュニケーション研究の目的だったわけです。
この考え方は、国際政治だけではなく、国内政治はもちろん、たとえば企業広告の世界でも重視されていたと思います。
ところが、これとは全く発想の違うコミュニケーション理論もあります。
コミュニケーションの出発点は自らの弱みを見せることであるという発想、あるいはまず自らが相手を信頼して共通のビジョンに向けて一歩踏み出すという発想です。国際政治の世界でいえば、オスグッド理論というのがあります。一方的削減(オスグッド理論)による軍縮である。まず自らが軍縮することにより相手からの信頼を高め、相手の軍縮を引き起こすという、一方的削減、つまりデスカレーション理論です。
平和に向けてのコミュニケーション戦略もベクトルの異なる二つの戦略があるのです。これは企業広告の世界でも同じです。これに関しては、「企業変革のためのコミュニケーション戦略」に以前少し書きました。そこでは「コミュニケーションとは何か」に関しても私見を述べています。

長くなってしまいましたが、最近のさまざまなコミュニケーション状況を見ていると、相手を支配する「暴力的なコミュニケーション」が重視されてきているような気がしてなりません。
平和のためのコミュニケーション学。そんなことをきちんと考えている人があれば、ぜひ教えてくれませんか。面白いテーマなので、どなたか研究会をやりませんか。

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2006/01/16

■幸せな人生と幸せな時代

秋山岩生さんは42歳で病に倒れ、そのために身体と言語に障害が残ってしまいました。それが契機になって、障害を持つ人たちの働く場づくりに取り組む「ふぁっとえばー」を立ち上げ、精力的に活動しています。その活動振りなどはCWSコモンズで時々報告していますが、ご存じない方は、ふぁっとえばーの紹介をぜひお読みください
今日は、その秋山さんが相談に来てくれました。房総半島の突端の館山からですので、結構大変なのですが、秋山さんのすごさはフットワークのいいことです。

その秋山さんが、病気になったおかげでたくさんの気づきがあった。病気の前と後では、間違いなく後の人生が自分には幸せだ、としみじみと話しました。とても共感できます。
私はまだ大病をしていませんが、会社を辞めたときにたくさんの気づきがありました、そして女房の病気でまた、たくさんの気づきをもらいました。人は、自らの環境が大きく変わることで学ぶものだと知りました。
秋山さんは、もし明日死んだとしても、私はとても幸せな人生を送ったと思いながら死ねると思いますというのです。秋山さんの充実した生き方が伝わってきます。
ひるがえって私はどうでしょうか。
秋山さんほどの自信はありません。
しかし、私にとっては2度の人生の変化で、生きることへの姿勢はかなり変わったように思います。
会社を離れて感じたのは、お金は目的ではなく手段だという、当然の気づきでした。女房の病気で学んだのは、当事者にはなれないという、これまた当然の気づきでした。頭での理解と体験を通しての実感とはかなり違うものでした。
そして、それらを通して、生き方は少し変わりました。生きることを大切にするようになったと言ってもいいかもしれません。秋山さんの心境にはまだ達していませんが、少しは近づいているような気がします。

人はそうした事件、往々にしてそれまでの考えからすれば、「不幸な事件」に出会うことで、生き方を考える契機を与えられます。もしその前から同じ考えで行動することができれば、きっと全く違う人生になるでしょう。秋山さんも病気になる前は企業を経営していましたが、企業の経営戦略も秋山さんの働き方も違ったものになっていたかもしれません。しかし、それはなかなか難しいことです。

京都で13年間、コンビニエンスストアを経営してきた知人がいます。その人からメールが来ました。昨年の大晦日で会社経営に幕を閉じて、これからはコーチング活動で、「人々のしあわせを願い自分を活かし続けていたい」と決意されたそうです。この人、戸田紳司さんといいますが、戸田さんは会社経営時代から若者の相談相手になったり、社会活動にも熱心に取り組んだりしてきた方です。コムケアの集まりにも参加してくださったことがあります。
戸田さんは「これからはライフワークを楽しみながら 上質な生き方をしていきたい」といいます。戸田さんらしい決断です。

時代は大きな袋小路にありますが、こうした人たちが増えてくることで袋小路は新しい地平へと進化するのでしょう。
「不幸な事件」がなくても、生き方を変える人が増えていることは、もしかしたら、今が不幸な時代だからかもしれません。

でも、夜明けまでもうすぐなのかもしれません。

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2006/01/15

■コラテラル・ダメッジへの不感症

アルカイダのナンバー2のアイマン・ザワヒリ氏がパキスタンで米国の爆撃を受けて死亡したかもしれないというニュースが昨日流れました。
その爆撃で民間人を含む20人近くの人が死亡したということです。
しかし、翌日になって、ザワヒリ氏は死亡者の中にはいなかったと発表されました。
テレビでも報じられていましたが、とても気になるニュースです。

まず、いずれのメディアも「ザワヒリ容疑者」と表現しています。
確かに彼は一連の国際テロのへの関連が濃厚ですから、まさに容疑者なのかもしれませんが、その言葉で、彼を襲撃することが正当化されてしまっているようで怖いです。
いうまでもありませんが、容疑者はあくまでも容疑者です。
爆撃での殺傷が正当化されるとは思えません。
しかし、9.11事件の後、私たちはそうした過剰対応に馴染んできてしまったように思います。
そのせいで殺された無実の人の数はどのくらいいるでしょうか。

そして、それに重なりますが、その襲撃で10数名の民間人が殺傷されているということです。
いわゆる「コラテラル・ダメッジ」です。
これについては数年前にCWSコモンズで書いたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/CWS/katudoubannku2.htm#1013

容疑者になること、容疑者として裁きを受けずに殺されること、その巻き添えになること。
これらはいつ私の身に起こってもおかしくないことです。もちろんあなたの身にも、です。
実にやりきれない時代です。
しかし、多くの人はまさか自らがコラテラル・ダメッジの対象になろうとは想像しないでしょう。
むしろ自らの利益を守るためのコラテラル・ダメッジだと考えがちです。
それに、想像力の広がりは多くの場合、自らに都合のいい方向にしか広がりませんし、不幸と無縁に生きてきた人には思いもよらないことかもしれません。

人間をもコラテラル・ダメッジの対象にしてしまう社会は、やはり変えていかなくてはいけません。
どうしたら変えていけるのか、難しい問題ですが、私たちはどうもコラテラル・ダメッジに対して感覚を麻痺させてきているようにも思います。
自らを生贄に奉げる覚悟があれば別ですが、そうでないのであれば、やはりここは真剣に考えるべき時期ではないかと思います。

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2006/01/14

■グレーゾーン金利への姿勢

昨日の最高裁判決で、利息制限法の上限を超えるが刑事罰に問われない「グレーゾーン金利」について、「明らかな強制だけでなく、事実上の強制があった場合も、上限を超えた分の利息の支払いは無効だ」とする初判断が示されました。
貸金業規制法では「借り手の自由な意思で任意に払ったこと」などが条件とされていますが、「任意」などがあろうはずもなく、これまでは業者支援的な悪法だと思いますが、裁判もまたその視点で行われてきたように思います。
背景に財界の気配を感じますが、裁判がわずかとはいえ、「借り手保護」に理解を示したことは評価できると思います。

「多重債務者問題などに取り組む弁護士グループによると、消費者金融や商工ローンの利用者は全国で2000万人に上るとも言われる」と朝日新聞には出ています。
そして、「司法が打ち出した「借り手保護」の立場をいかに立法に反映させるかが今後の課題」と書いてありますが、同感です。
問題は「悪法」にあるのです。
政治献金で成り立っている立法府ですから、あまり期待はできませんが、なぜこうした悪法が残っているのか不思議です。耐震偽装事件よりも明らかに悪質で被害は甚大だと思います。

そろそろ「金利」などという概念は見直されるべきです。
もちろん投機なども見直されるべきでしょう。
金融で巨額な利益を得ている人たちに、少しだけでいいですから、生活観と良識を取り戻してほしいと私は思っています。
貧者のヒガミでしょうか。

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2006/01/13

■死のうが生きようがご自由にという宣告

ちょっと刺激的な見出しです。
私も参加しているメーリングリストで、毎日新聞が昨年から「縦並び社会・格差の現場から」という連載をしていることを知りました。それをリンクしているブログ「静かな革命」を教えてもらい、記事のいくつかを読みました。この見出しの言葉は、福岡市の63歳の男性の言葉です。
その人は、10代で大病を患い、この10年はチラシ配りのアルバイトをしながら独り暮らしをしていましたが、2年ほど前から年間約20万円の国民健康保険料を支払えなくなったため、行政に国民健康保険証を取り上げられてしまったのです。「死のうが生きようがご自由にという宣告に思えた。それも自分のせいですけれど」と、その人は語っています。
健康保険証がないので病院にもなかなかいけず、昨年11月、全財産の2万5000円を握りしめ、激痛をこらえて病院に向かったのですが、玄関をくぐったところで意識を失ってしまったそうです。幸いに一命は取り留めたようですが、こういう人が最近は増えているという証言もあります。やりきれない話です。詳しくは毎日新聞の記事をお読みください。当分の間はここをクリックしてくれれば読めると思います。

ちなみに、同紙によれば、福岡市内の国保加入者では14世帯に1世帯が「無保険者」だそうです。決して例外的な話ではないのです。

毎日新聞の連載には、こうしたやりきれない話がたくさんでています。こんな社会に暮らしていて、幸せになれるはずがありません。私自身の生活もこうした暮らしにつながっているはずです。今はともかく、人生の変転は突然にやってきます。決して他人事ではありません。そうした想像力を私たちはもっと持つべきでしょう。
私はこの想像力を「つながりの想像力」と呼んでいますが、意識して暮らしていると、そのつながりが見えてくることが少なくありません。それが見えるたびに、少しだけケアマインドが高まるような気がします。
「世界全部の幸せ」を自らの幸せにつなげられた宮澤賢治にはそれがすべて見えていたのかもしれません。私はまだ頭の中だけで考えられるだけですが。

行政や財界やNPOの政策決定に関われる人たちも、ぜひ「つながりの想像力」を高めてほしいと思います。内輪の宴に興じている時ではありません。

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2006/01/12

■地元の食材をつかわないお土産品

昨日、富士山を見ようと山梨に女房と一緒に出かけました。
山梨県といえば、ぶどうです。
女房はケーキ作りが好きなので、果物の産地にいくといつも材料のドライフルーツを探します。
今回も乾燥した山葡萄やブルベリーを探していましたが、見つかりませんでした。もちろん土産店にはたくさん売っていますが、いずれも原料はチリやアメリカやオーストラリアなのだそうです。昨年、山形に行った時も、サクランボを探したそうですが、これまた外国からの輸入品だったようです。
外国産の果実が悪いわけではありませんが、ブドウ王国、サクランボ王国などといっているのに、どうしてそこで売られているものの原料は海外のものを使うのでしょうか。
観光までもが「工業発想」になっているわけです。

生活面では「地産地消」が盛んにいわれるようになりました。しかし、産業面では相変わらず「コスト主義」が基本になっています。ワインは現地のブドウを使うが、それ以外は安い外国産を使うのでしょうか。いや、おそらくそうした延長には必ずワインにも外国産のブドウを使おうという発想が出てくるでしょう。そういう産地を私は信頼できません。
コスト主義は、フェアトレードの問題にもつながります。これは奥深い問題ではないかと私は思います。

まあそんな深さにまで思いをはせなくとも、表情が一番の資源である観光産業にまで、無表情を特質にする工業発想が行きわたっている現在の経済システムにはとても違和感があります。
なぜそれに気づかないのでしょうか。不思議です。

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2006/01/10

■日本橋の上の高速道路

以前、CWSコモンズのほうに書いたことがありますが、日本がおかしくなりだしたのは東京の日本橋の上に高速道路を通してからではないかと私は思っています。それ以来、私は首都圏在住で「都市計画」や「都市景観」を語る人を信頼するのをやめました。まあ、かなり極端ですが、日本橋の上の高速道路を放置しておいて、何が都市計画だと思わざるを得ません。
これも15年ほど前の話ですが、デザイナーの集まりに呼ばれて、そこで、日本橋上の高速道路に異議申し立ての運動を起こさずに、みなさんは美を語れますか、と発言してしまったことがあります。まあ、かなりの顰蹙を買ったのだろうと思いますが(以来、そこからは呼ばれなくなりました)、その暴言が契機になって、今も付き合いのあるデザイナーにも出会えたので、それはそれでよかったですが。

ところで、ようやくその日本橋の上の高速道路の撤去が話題になりだしました。
何とそのきっかけは、小泉首相の発言のようです。
私は何回も書いているように、小泉首相には知性や誠意を微塵も感じないのですが、この発言には共感しました。人間はだれでも1回くらいは価値ある発言をするものです。この問題はぜひとも実現してほしいです。
しかし、その一方で、権力者が発言すると急に動き出す昨今の日本社会には大きな不安も感じます。言いかえれば、誰も仕事をしていないということかもしれません。耐震偽装事件で、検査機関や行政が仕事をしていないことが露呈しましたが、作業はしても仕事をしないのが今様の生き方なのでしょうか。仕事は与えられるものではなく、創りだすものと考えている私には、とても理解できません。

日本橋からは、西を向けば富士山が、北を向けば筑波山が見えたそうですが、今はどちらも見えません。残念ですが、せめて青空くらいは見えるようにしてほしいものです。

昨日、東京から富士山が良く見えたという、ある人のブログを読んで、高速道路の話を思い出しました。再開発の最初に取り組むべき課題だったと思うのですが、それはともかく、日本橋をふさぐ高速道路がなくなることはとてもうれしいです。

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2006/01/09

■フレキシビリティという曲者

ある本からの引用文です。

フレキシブル資本主義とは、フレキシビリティ(弾力性、柔軟性)を最重視する、新しいシステムである。その下では、官僚主義の硬直した組織形態は、盲目的に慣例を守るだけの悪として糾弾され、労働者は機敏に行動し、言われたらすぐにも変化に対応できるように準備し、継続的にリスクをとるように求められ、規制や定められた手順に従うことを良しとする態度は改めなければならない。

出典は、「それでも新資本主義についていくか」(ダイヤモンド社 1999年)。
1998年にアメリカで出版された“ The Corrosion of Character ”の翻訳です。
この文章を読んで皆さんはどう思われますか。
共感する人もいるでしょう。私も共感しそうな文章です。

しかし、このフレキシビリティというのが曲者です。
同書によれば、フレキシビリティのもともとの意味は、
「一度、たわんで、そして元通りになるという、木の持つ2つの性質、試練に耐え、そして形を復元するという両面の能力」
を指していたそうです。
ところが現在の社会、特に経済社会の中心にある企業においては、フレキシビリティ優先の中で、基本までも壊した無定形な状況主義がはびこってしまったと著者はいいます。
そのためにそこで働く従業員たちは拠り所を失い、精神的にも不安定になっていきます。
私は日本の企業が価値観を失いだしてから、20~30年経過していると思いますが、しっかりした定見を持たずに状況に合わせてフレキシブルに対応することによって、企業は発展してきたように思います。
価値論議などは流行らないのです。
これは行政においても同じです。
評価などという動きが広がりましたが、ほとんど手段的な側面での評価です。
価値議論はいつも後ろに追いやられがちです。
そして、私たちの家庭においても、表層的なフレキシビリティ発想がはびこっています。
とても恥ずかしいのですが、我が家も例外ではありません。

今日は「成人の日」です。
私にはとても違和感があります。
かつては成人の日は1月15日でした。
いつの間にか、連休を増やそうという安直な議論の中で、第2月曜日になってしまったわけです。
「フレキシビリティ資本主義」の影響といってもいいでしょう。
日本の政治は経済が支配していますから、価値議論はあまり行われません。
ですから発想が転倒していることがよくあります。

柔軟な発想は大切なことです。
しかし、それはしっかりした基準があっての話です。
基準のない柔軟性は果たして柔軟性といえるのでしょうか。
たかが休日の話ですが、大げさに言えば、これは文化の破壊にもつながります。
生活の基準が、すべて功利性、利便性に置き換えられてしまっていいのでしょうか。
私たちが今直面しているさまざまな問題は、こうした安直な「フレキシビリティ発想」にあるのかもしれません。

今の日本の問題は、拠り所の喪失ではないかと思います。
しかもそれが、経済の視点から壊されているような気もします。
そして不幸なことですが、それがまた経済にも影響してくるはずです。
改めて、私たちの生活の拠り所やコミュニティの拠り所を考えてみることが大切だと思います。
国家が決めたカレンダーではなく、自然と歴史と文化が決めたカレンダーで生きるように、これからはもう少し意識しようと思います。

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2006/01/07

■豪雪も私たちの生活のありかたの結果なのでしょうか

豪雪被害が各地で起こっています。首都圏は雪こそ降りませんが、例年にない寒さです。
ここ数年の異常気象の恒常化は、おそらく私たちの生活が地球環境を変えていることの証拠のように思います。環境問題の深刻さはみんな認識し始めましたが、それに伴って行動がどのくらい変わったかといえば、いささか不安があります。私の場合、間違いなくエネルギー消費量は増えています。小さなところでは意識をしていますが、おそらくそんなことでは問題は解決しないでしょう。それに、社会全体のエネルギーの無駄使いは、なかなか直らないように思います。

昨年は夏にインフルエンザが流行しましたが、それは温暖化の影響という説があるようです。人間が大きなエコシステムの一員である以上、自然環境の変化は間違いなく生命現象に影響を与えるはずですから、納得できる話です。
最近、さまざまな新しい病気が話題になりますが、これからますます増えていくのでしょうか。もっとも、病気は人間からみれば、避けたいことですが、大きな自然から見れば健全な現象というべきでしょうが。
明らかに健全とはいえない動きを私たちがしていることもあります。
たとえば、テレビでは食に関するひどい番組が横行しています。
昨年、糖尿病で入院した友人が、「食生活を乱すテレビの安易なグルメ番組の氾濫」が気になると書いてきましたが、生活習慣病というか文明病というか、それへのいざない番組をやりながら、一方で安易な病気診断番組も増やしているのは見事な組み合わせとしかいいようがありません。それ以上に、テレビで毎日、こうした番組を見ながら育つ子どもたちへの影響は大きいでしょう。テレビ人には子どもはいないのでしょうか。
テレビは、海外支援や社会貢献を語る前に、まずやるべきことがあるはずです。テレビに出ている有識者の人たちに、ぜひ声をあげてほしいものです。

今日の我孫子市は久しぶりの快晴です。
寒いですが、太陽の光を浴びるだけで気分は爽快になります。
自然の力の大きさを私たちは改めて考え直すべきではないかと思います。
今年はできるだけ自然と共に生きるようにしたいと思います。

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2006/01/06

■運命を変える一瞬

一瞬のあやまちが取り戻せなくなることがあります。
危機に直面した時であれば、それはいつの時代にもあったことです。
しかし、電子機器が生活に組み込まれてくると、機械の時間感覚と生命の時間感覚の違いのなかでそうした落とし穴が日常化してきます。
昨年起こった株式売却の誤動作による400億円の損失はまさに一瞬の誤動作の結果です。単なる可能性とはいえ、一瞬の誤動作が核戦争を引き起こす可能性もゼロではないでしょう。医療ミスもそういう側面もあるかもしれません。

実は昨夜、私にも不幸な一瞬のミスがありました。
電子メールのアドレス帳が混乱していたのですが、これを昨年末から時間をかけて整理してきました。昨年は2回もパソコンがダウンしたため、ただでさえ多いアドレス帳の重複や未修正などに取り組んだのですが、どうもやり方がわかりません。そこで今年度の年賀メールをベースに重複を削除し、最新のものを選択する作業を時間をかけてやってきました。2,000を越えるアドレスが混乱しているのでそう簡単ではありません。もしかしたら簡単な整理方法があるのでしょうが。
そして昨日、ほぼ作業が完了しました。ところが、その後、最後に間違って、これまでのアドレス帳ではなく新たに編集した部分を削除するところをクリックしてしまいました。削除に時間がかかっているのでおかしいなと思って気づいたのですが、その作業をどうすればとめられるかがわかりません。慌てているうちに作業終了。回復不能です。
新年早々、なんとまあ不幸な話でしょうか。

結果として、アドレス帳はさらに混乱し、かなりの欠落が出てしまいました。調べてみたら、わが家族のアドレスもすべて消去されてしまっていました。また半年は混乱が続きそうです。
皆さんにはご迷惑をおかけすることがまだありそうです。すみません。

まあ、つまらない体験を書きましたが、一瞬の誤動作が運命を決めるという日常生活は精神的によくないですね。私たちの生活はそうした状況の中に乗っかっています。自動車事故も一瞬の誤動作で起こります。あまり意識はしていないでしょうが。
それは逆に言えば、人間の能力が極度に増幅されているということなのですが、マン・マシン・システム全体として考えると大きな問題です。不完全なシステムといえると思います。しわ寄せは常に現場の人間に来ます。
科学技術によって、人間の可能性が大きく開かれてきたといわれますが、人間にとって科学技術とは一体何なのでしょうか。

今年はそうした問題を視野に置きながら、技術者の倫理を社会の視点で考えるテーマに取り組みたいと思っています。その準備会を昨年から少しずつ進めていますが、もし読者の中に関心を持っていただける方がいたら、仲間になってくれませんか。
ご連絡いただければうれしいです。
知恵と汗と資金を求めています。もちろん一番は「思い」ですが。

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2006/01/05

■初詣で何をお願いしましたか

私のオフィスは湯島天神の近くにあります。
今日は初出勤だったのですが、湯島天神にお参りする人でにぎわっていました。
新たな年を迎え、神にお参りする文化は根強く残っています。
私はこれこそが「信仰」であり、「宗教心」だと思いますが、そうした素朴な生活慣行はもっと大事にしたいという思いが歳とともに強くなってきています。
これまで、そうした文化をあまり大事にしてこなかったことを反省しますが、壊れたものを回復することはそう簡単なことではありません。せめてこれからは壊すことだけはやめようと思います。


ところで、今日、訪ねてきた人から、教会に行くと「地球の平和」とか「人類の幸せ」とか書いてあるが、日本の寺社では「家内安全」とか「商売繁盛」とか、個人へのご利益(ごりやく)が書かれていますね、といわれました。
たしかにそうですね。
「祈り」と「願い」の違いでしょうか。
日本の文化が内向的な現われだと、その人はいうのです。
私も昨年までは、神社ではついつい願い事をしがちでした。最後に、すべての人が気持ちよく暮らせますように、と祈りも付け足しますが、その前にたくさんの頼み事をしてしまいます。ひどい時には宝くじが当たりますように、などと無理難題まで要求します。

祈りと願い。
あまり違わないのではないかという気もしますが、全く違うような気もします。
オフィスの下の道をぞろぞろと湯島天神にお参りに行く人たちは、みんな何を祈願してくるのだろうかと気になった1日でした。

みなさんは初詣で、祈りましたか。願いましたか。
私は、やはり願いに重点があったような気がします。
宝くじ当選は頼みませんでしたが。
でもこれからは祈りにしようと思います。
日本でもつい最近まで、祈りの文化があったような気がしてきました。

神社に行かなくても、祈りはどこでもできます。
生活に祈りを入れる。
神社に行った時だけでないということです。
これを今年の決め事のひとつにしました。
多くの人々の祈りが歴史を変えるかもしれませんから。

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2006/01/04

■学校での週1回の「弁当の日」をどう思いますか

子育ち学ネットワーク代表の深作さんから、彼が住んでいる埼玉県鷲宮町の議会が昨年9月に、食育と家庭の教育力の向上を図ることを理由に、学校での週1回の弁当の日を設定する決議をしたそうです。
皆さんはどう思われますか。
きっと現場を知っているかどうかで判断がわかれるように思います。
深作さんからのメールを一部引用させてもらいます。

一見食育の流れかと思うかもしれませんが、地域事情・家庭事情を鑑みると、給食が唯一のまともな食事という子どもたちも多くおり、その子どもたちの健やかな育ちへの危惧を抱かざるを得ません。

現在、反対運動が起こっているそうですが、決議の内容はもちろん、その決議の仕方にも大きな問題がありそうです。一言でいえば、関係者や住民と話し合うことなく、しかも現場実態をしっかり把握することなくの決議だったようです。

決議内容は同町の議会議事録をお読みください。
http://d.hatena.ne.jp/washimiya2005/
決議文の最後にこんな言及もあります。
「給食センターが不要になれば、経済効果は大きい。」
決議文の後に質疑記録もありますので、それを読むと問題の所在がわかってもらえると思います。
また、これに関しての深作さんのコメントも深作さんのブログに書かれていますので、ぜひお読みください。
http://blog.livedoor.jp/takuchan0220/archives/50118760.html

今回は私のコメントは差し控えます。
あまりにも明白だからです。
こうしたことがさまざまなところで展開されているような気がしてなりません。

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2006/01/03

■歯がなければ歯は痛くならない

NHKのにんげんドキュメント「人も長持ち モノも長持ち~93歳 現役社長の経営術」を見ました。昨年5月に放映されたものの再放送です。
主役は知立市の町工場社長の成瀬博さんです。
自動車会社の下請けをしていましたが、仕事よりも金を優先させた発注態度や仕事をやらせてやるという姿勢に反発して下請けを辞めて独自路線の町工場に転じた経営者です。
成瀬さんの信条は「金よりも仕事が上」です。
仕事を頼んでいた企業が不渡りをつかまされて倒産の危機に直面した時には、理由を一切聞かずに、その社長に資金支援したエピソードも紹介されましたが、その会社の経営者もいまは身の丈にあった家族企業に転じました。
その社長が、「家族のために働く」実感を持てるようになったと話していたのが印象的でした。
誰のために働くかは、とても重要な問題ですが、往々にしてあまり考えられていないように思います。
もしそれが明確であれば、無限に働くことはなくなるでしょう。
収入もきっと限度があるはずです。

成瀬さんにとっては「金よりも仕事が上」ですが、昨今は金を獲得することが仕事だという風潮が広がっています。
仕事と金は別の次元の話だと思います。

成瀬さんのお弁当を食べる場面がありました。
見ているとあごでゆっくりと噛んでいます。
歯が無さそうです。そう思っていたら、驚くべき発言がありました。
歯が悪くなるといけないので、歯は全部抜いたというのです。
ちょっと表現は不正確かもしれませんが。
歯が無ければ歯痛で辛い思いをすることもありません。
感心しました。元を正せばいいのです。

成瀬さんは毎日3種類の新聞を丁寧に読んで、それを1枚ずつしっかりと4つに折って、3日分を紙テープでまとめます。
この地域では、学校の生徒が古新聞の回収に来るのだそうですが、その生徒たちが集めやすいようにし、また回収作業が効率的に進むように、毎日ちょっとの時間と労力を割いているのです。
きっと成瀬さんの会社や工場ではごみも出ないように思いました。

成瀬さんの会社で働いている社員は幸せですね。
取引先の社員も幸せでしょう。
それに成瀬さんの会社で使われる資材や機械もきっと効果的に使われていることでしょう。
今でもこういう会社があるのですね。
日本の企業が復権する希望は大いにあります。

私は「経営とは愛すること」という考えを持っています
なかなか理解してもらえませんが、今の企業に必要なのは「愛」ではないかと思います。
とてもいい番組でした。

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2006/01/02

■「日本はもうどうしようもないところに向かっていると思いませんか?」

知人の国会議員(民主党)からメールが来ました。
「佐藤さん、日本はもうどうしようもないところに向かっていると思いませんか?」
しばし唖然としました。

この人はとてもいい活動をしている誠意ある議員です。
見識も行動力もありますし、平和に向けての実践にも取り組んでいます。
しかし、議員がこんな風に言っていいものでしょうか。
まあ思いは良くわかるのですが。

社会に失望していると思われるメッセージはたくさんの方からもらいました。
年賀メールのいくつかを紹介します。

・戦後世界が完膚なきまでに終わった。それが元旦の所感です。

・日本の衆愚政治は、ますます昏迷を深めて行く事は、読解能力の低下にも見ることができます。教育が根底から崩壊しているのです。
・目のまえにいる困窮する人を黙殺し、私利私欲を貪る国は、国の名に値しません。
・日本の全体主義に抗して、国家を考えるべき時です。
・社会のリーダーによる基本的なモラルの問題が続きました。昔がよかったとは言いたくありませんし、規制緩和、体制改革も必要ですが、基になる社会、国家に信頼性が低い状態は、不幸に思います。
・世の中、利権の奪い合いで、公共の立場にある人たちが利権が大きいだけにその筆頭になっていることが見えます。

そして、国会議員の上記の発言です。
私のブログを読んでくれていたら、私にこんなメールは寄こさないでしょうが、
それ以上にもっと国民の現場に触れてもらえれば、あるいは若者の世界に触れてもらえれば、
今頃こんな発言をするはずはありません。

誤解があるといけませんが、私はこの人を信頼しています。
民主党を離党してほしいと思いますが(民主党の解体を勧めましたが)、
それはともかく、この議員は本気で日本を良くしようと取り組んでいるはずです。
その人ですら、意識はこの程度だということに唖然としたのです。
「どうしようもないところ」とは当事者の言葉ではありません。
私ですら、使うのを躊躇します。
もっと実践的な行動が起こせないものなのか。国会議員は起こせるはずです。

生活者はどうするでしょうか。
たとえば、ある人は、
・近時の世相から厭世観が嵩じ、世事は最小限に止め、もっぱらテニスや囲碁など趣味の世界に慰みを求めております。
といいます。高齢者の多くは、こういう姿勢だと思います。

若者は違います。ある若者は、
・ますます資本に牛耳られていく世の中に、少しばかり刃向かいながら、心の豊かさとは何かを考えていきたいと思います。
と書いてきました。
こういう若者が増えているのが希望です。

国政が時代の方向を決めています。
もしそれを止めたいのであれば、党利党略などは捨てて、野党は大同団結して動かなければいけません。
しかし、小さな私欲の中で、歴史観もないまま、二大政党などと時代遅れのことを言っているのが国会議員です。
二大政党についてもう少し勉強してもらいたいと思います。

「どうしようもないところ」とは一体何なのか。
もしそうであれば、そうならないように、それぞれでできることに取り組みたいと思います。
この議員にもう一度、メールをしてみようと思います。
「どうしようもない」のは国会であって、日本ではないのかもしれませんし。

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2006/01/01

■変えるべきものと守るべきものを見分ける知恵

年末に読んだ「キリストの勝利」に出てくる、シンマクスの話がとても気になりながら、年を越しました。昨日、書いたようにクイントゥス・アウレリウス・シンマクスはキリスト教の国教化に伴い、異教が排斥され、かつての神殿や神像が破壊されることに異議申し立てした人物ですが、当事の流れから見れば、時代の変革を止めようとするアナクロニズムとみられる活動だったかもしれません。背教者ユリアヌスもまた時代の流れを戻そうとした一人です。

バーミアンの仏像を破壊したことを怒る人がいますが、そのような愚挙は歴史にはいくらでもあります。すべてが「変革」の大義で行われています。日本でも廃仏毀釈はそう昔のことではありませんし、今なおそのような愚挙はさまざまなところで見られます。

初詣に近くの神社をまわりました。
穏やかな雰囲気の中で、昔からの光景がまだ残っているのがうれしいです。
しかし、いつまで残れるでしょうか。

私はキリスト教には共感を持てませんが、アメリカの神学者、ラインホルト・ニーバーの祈りの言葉には共感を持ちます。4世紀のローマが、もし違った選択をしていたらと思わずにはいられません。

神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気を与えたまえ
変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ
そして
変えることのできるものと
変えることのできないものとを
見分ける知恵を与えたまえ

変革はしっかりした基軸があればこそ、意味を持ちます。
「見分ける知恵」は、そこから生まれます。
変えるべきものと守るべきものを間違えてしまうと、社会は瓦解します。
展望と理念のない変革は、ただの破壊でしかありません。

私たちもいま大きな歴史の岐路にいるように思います。
そしてローマと同じ繰り返しをしているような不安があります。
今年は生き方の基軸を改めて大切にしたいと思います。

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