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2006/01/29

■平和へのさまざまな思い

今日、「平和への結集」を実現する会の準備会が開催されました。
なし崩し的に壊されてきた日本の平和憲法が、小泉首相による「無血クーデター」以後、ますます無視されだして、ついに「改憲」までが現実の話になりだしていますが、この状況を変えたいと思う人たちが集まったのです。
昨年12月に7人の人たちが呼びかけを開始しました。
そして現在、260人を超す人たちが呼びかけ人や賛同者として登録しています。
私は最初の呼びかけ人の一人である、小林正弥さんからのお誘いで呼びかけ人にさせてもらいました。
私が小林さんたちの活動に始めて参加させてもらったのは、2003年の12月です。

今回もさまざまな人に出会いました。
これに関しては、CWSコモンズのほうに書き込みますが、ここでは改めて感じたことを書いておきたいと思います。
こうした「平和」への動きは、今のマスコミはほとんど取り上げませんので、どうしても動きはなかなか見えません。
しかし、まさにリゾーミックに広がりだしていることを実感したのですが、参加者は圧倒的に中高年以上の男性が多かったのが気になりました。
本来的な意味での「平和」への関心は、きっと女性のほうが高いと思いますし、
時間軸で考えれば「平和」戦略の影響の受け方は若者のほうが高いはずです。
憲法が変えられて軍隊ができれば、戦場に狩り出されるのは若者たちです。
いまの男女共同参画の発想で言えば、女性も含まれるでしょう(そこに今の男女共同参画政策の間違いを感じます)。

なぜ女性や若者は来ないのか。
「ピース」という言葉は、若者や女性を引き付けるワクワクする明るさを感じさせるようですが、
「平和」はそんな言霊を持っていないのでしょうか。
たしかに「平和」という言葉には、皮肉なことに正反対の意味合いすらある両義性があります。
国家の平和が生活者の平穏な暮らしを破壊することによって成り立つことに関しては以前も何回か書きました。
その実例は今もイラクやアフガニスタンで展開されています。
日本国民も「イラクの平和」のために、自衛隊の派兵を認めてしまっています。
そのおかげでどれだけの人たちが殺されてしまっているのでしょうか。
しかし、「平和」という言葉によって、その事態は覆い隠されています。

平和を掲げて運動を展開してきた側はどうでしょうか。
昔は内ゲバ、最近の事例では、名護市市長選のように、平和を掲げながら争いを繰り返しています。
平和を掲げる政党もまた、平和に対する認識は人々の平穏な暮らしには少し遠いところにいるように思います。
その意味では、小泉自民党と同じ次元かもしれません。
平和の裏側にあるものをどうしても感じざるを得ません。

今回の集まりもまた、どうしてもこれまでの平和活動を背負った人たちが多いために、
いわゆる「平和活動」の呪縛からなかなか抜け出るのが難しいような気がしました。
しかし、集まった人たちは、まさにそうしたことへの反省から、今回は集まったのです。
みなさんの発言のなかに、優しさも感じましたが、
この動きを単なる政争の具にしないような工夫が必要だと思いました。
私の平和活動は、「大きな福祉」を理念とするコムケア活動です。
平和という言葉を使わずに、みんなが気持ちよく暮らせる社会を実現したいと思っていますが、
しかしそうした態度ではだめだとニーメラーは教えてくれています
読売新聞の渡邊恒雄さんのような間違いは犯したくないものです。

ともかく私に何ができるか考えたいと思います。
平和に向けてできることはたくさんあるのですから
またCWSコモンズのお知らせコーナーでお誘いをしますので、よろしくお願いいたします。

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