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2006年2月

2006/02/28

■帰属意識と当事者意識

一昨日のブログに榊原さんがコメントしてくれました。
そこに返事を書こうと思いましたが、気になるコメントでしたので、ここで取り上げさせてもらうことにしました。
榊原さん、ありがとうございました。

私が気になったのは、次のところです。

「僕の大きな悩みの1つが、会社や国家に対する帰属意識の薄さです。いつからかそうなってしまった自分があまり好きではありません。決してそうなりたいわけではないのですが、今ひとつ地に足がつかないような気がしているのです」

帰属意識の問題は、私が取り組んでいる「コモンズの回復」につながっている問題です。
私が会社に入った頃は、経営論の世界でも盛んに帰属意識が話題になりました。
昭和40年頃の話です。私はちょうど人事労務の仕事をしていましたから、とりわけ関心のあるテーマでした。
帰属意識。Belonging。構成員が組織にどれだけ強い帰属意識を持つかは組織の効率性に大きな影響を与えますから、帰属意識を高めるさまざまな制度が議論されました。愛社精神や愛国心が経営者や統治者の大きな関心事だったわけです。
また閉じ、並行してマズローの欲求5段階説が流行しましたが、そこでも帰属欲求が議論されていました。
組織と個人、双方にとって「帰属」は大きな意味を持っていたような気がします。
1980年代になると、組織のアイデンティティが話題になりだしました。そして1990年代には国家のアイデンティティも議論されだしました。
個人を考えるアイデンティティという言葉が組織にも転用されだしたわけです。
私は、このアイデンティティという言葉が契機になって、人生を変えてしまったわけですが、この言葉も今から振り返ると微妙に変化しています。
当初のアイデンティティ議論は、CI(コーポレート・アイデンティティ)という言葉に象徴されるように、組織のアイデンティティでした。しかし、次第にCIはメンバー一人ひとりのパーソナル・アイデンティティによって決まってくることが見えてきました。そして企業文化変革が話題になりだしたのです。
そして、identification という言葉が出てきたのです。
組織とアイデンティファイする、つまり一体感を強めるというような意味です。
このあたりは実に深い個人的思いがあるので冗長になってしまいますが、この頃から私は自らの生き方を自覚できるようになったのです。そして会社を辞めてしまったわけです。
Belongingとidentification。
英語は不得手なのですが、かなりニュアンスが違うように思います。
私の勝手な解釈では、前者は組織起点の発想、後者は個人起点の発想です。平たく言えば、組織が主役なのがBelonging、自分が主役なのがidentificationです。メンバーが自立していないのがBelonging、自立しているのがidentificationといってもいいでしょうか。かなり強引な説明ではありますが。

長々と書いてしまいましたが、社会が成熟してきた段階での組織原理はメンバーの自立を前提にしたほうが効果的です。そうすると大切なのは帰属意識ではなく、自らを主役にした一体感、言い換えれば当事者意識をもっての組織との関わりということになります。さらに平たくいえば、この会社は私の会社、この国家は私の国家と思えるかどうかです。
そこがおかしくなっているのです。
とすれば、会社も国家も、そろそろ脱構築しなければいけません。

現在の組織への帰属意識を高めようと思うのは難しいことです。
しかし、自らがアイデンティファイできる組織や国家に変える努力はそれぞれができることです。
組織や国家は、その成員が変えられるのです。主役は組織ではなく、人間なのですから。
帰属意識ではなく、当事者意識を強めることが大切なのではないかと思います。

コスタリカ大学のロベルト・サロマさんは国家をも動かしました。
私たちにできることは、たくさんあるのかもしれません。

榊原さん
悩みはますます深まったかもしれませんね。すみません。

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2006/02/26

■憲法や法律は誰のためにあるのか

一昨日の続きです。また長いです。
たまたまですが、先週、2人の人とそれぞれ全く別の局面で、憲法論議をしました。
憲法は誰のために何のために存在するか、がテーマです。
一人は憲法に関してとても造詣の深い在野の研究者です。
もう一人は庶民の立場に立って積極的な平和活動をしているNPOの人です。
いずれも団塊の世代ですが、考えも活動の世界も全く違う人です。

私は、憲法も法律も、すべては全体を管理する統治者のものだと考えています。
ですから、本来的に憲法や法律はあいまいな表現をし、よく読むと「目線」が国民の上にあることがわかります。
主権在民を謳っている日本国憲法にしても例外ではありません。
それに日本国憲法は、以前も書きましたが、形式的にもお上の憲法です。
これに関しては友人の武田文彦さん(「赤ペンを持って憲法を読もう」の著者)から教えてもらいました。
もし憲法が支配者のために存在するのであれば、その条文の表(おもて)の意味よりも、そこから引き出される選択の可能性のほうが重要になってきます。
ですから法文は極めて複雑に、しかも多義的に書かれています。
もちろん文章表現の限界と言うこともありますが、それ以上に状況によって多様な解釈が可能なように「政治的」に仕組まれているのです。
たとえば、典型的な手続法である税法をとってみても、その条文は、これが日本語かと思えるほど長文で、複雑です。
訳の分からない呪文のような文章です。訳がわからないので解釈の余地が発生します。
法文は論理的であると思われがちですが、私には全くそうは思えません。

もし憲法や法律がそのように多義的であるのであれば、統治されている国民にも活かし方が出てきます。そして、「法は誰のものか」という問題もまた、ダモクレスの剣のように、両義的な存在になりえるのです。
つまり、一昨日書いた「憲法は本来、国民を支配するためのものであり、法律は、国民を規制するもの」ということに並んで、「憲法は支配者への異議申し立ての根拠になり、法律は管理を規制するもの」になりえるわけです。
もしそうであるならば、憲法の解釈は国民一人ひとりが主体的に行うことが大切です。
戦争に行きたいとか、戦争に巻き込まれたいと思っている人は多くはないでしょう。
戦争放棄は多くの国民の思いだと思います。
にもかかわらず戦争に向かって進んでいる日本は、自らの思いと「国民」の思いがきちんとつながっていないというべきでしょう。
構成員の個々の思いを合成すると全く違った全体の思いが創出される。
これはよくある話です。
私も会社時代によく経験したことです。
戦争をするのは自衛隊の隊員で、彼らが戦争に巻き込まれないように自分を守ってくれると考えている人もいるかもしれません。
そこでは国民と自分とが切り離されています。
しかし、国民を守る「国民」と「国民」に守られる国民がいるわけではありません。
戦争をする国家では、戦争をする当事者は国民すべてなのです。
そこに大きな勘違いがあるわけですが、そうした幻想を生み出すのが国家なのかもしれません。
また長くなりました。
そのわりには本論には入れていないような気もします。
言いたかったのは、憲法も法律も、それを活かす人だけにしか役に立たないということです。
手段と言うにはそういうものでしょう。
この大切な時期に、憲法をどう活かしていくか、それが大切です。
「活憲」という言葉が広がりだしています。
また改めて書きたいと思いますが、こういう議論は読者には退屈でしょうね。
すみません。

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2006/02/25

■豊かな社会の感受性

このブログを読んで下さっている滋賀の方から、たまにはもっと明るい話や感動話も書いてほしいとメールをもらいました。
以来、何とか見つけようと思っていたのですが、なかなかそうした話題にぶつかりませんでした。
ところが昨日、とてもいい話に触れることができました。
今日は予定を変えて、その話を紹介します。

読売新聞に紹介されていた福岡在住の西川義夫さんの話です。

西川さんは私が取り組んでいるコムケア活動の心強い仲間でもあります。
西川さんとは実はまだ2回しかお会いしたことがありませんが、年来の仲間のような気がする人です。
実にあたたかな人です。
西川さんは還暦を迎えた昨年から、毎月2回、第1第3日曜日の午後、福岡市の天神中央公園で1時間のハーモニカのストリートライブを続けています。
それが読売新聞で大きく取り上げられたのです。

その記事から少し要約引用させてもらいます。
西川さんは、6年前に原因不明の病気で指の自由がきかなくなってしまい、大好きだったピアノやギターが弾けなくなってしまいました。
その治療のために、転地療養に訪れた中国の奥地で、寂しさを紛らわそうと病室でハーモニカを吹いたら、いつしか窓の外に村人が集まりようになったのだそうです。

「言葉の通じない土地なのに、音楽を通して素朴な交流ができた。日本でも音楽の利器で、ばらばらな人間関係をつなぐことができるかもしれない」。

西川さんはそう思ったそうです。
そんな思いもあって、西川さんはハーモニカを始めました。
そして昨年からストリートライブを始めたのです。
現在のレパートリーは70曲だそうです。
西川さんの演奏は西川さんのホームページで聴くことができます

これだけでも十分にいい話なのですが、
私が感激したのは、その記事の最後に書かれていた西川さんの言葉です。

「ホームレスの人が私の全財産だと言って、100円をくれたときは、感激してその場でわんわん泣いてしまった。バラバラに見える都市にも人情が残っていることを知りました」

すごくうれしい話です。
ホームレスの人たちのやさしさも伝わってきます。
号泣してしまったという西川さんのやさしさも伝わってきます。
辛い境遇を体験した人のやさしさは、頭で考えているやさしさとは違います。
感受性がとても高いのです。

豊かな社会は、感受性を低下させてしまい、構成員からやさしさを奪ってしまうのかもしれません。
「勝ち組」「負け組み」という言葉がありますが、もしかしたらやさしさを基準にすれば、その関係は逆転するのかもしれません。
やさしさを奪われた勝ち組人生とやさしさに満ちた負け組み人生。
私はやはり後者を選びたいと思います。

その西川さんが中心になって、3月25日に福岡でつながりをテーマにしたコムケアフォーラムを開催してくれます。
私も参加させてもらいます。
もしよかったら、福岡界隈の人はご参加ください。
ハーモニカの演奏も聞かせてもらえるかもしれません。


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2006/02/24

■ソクラテスの警告

「ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだのは実に深い示唆を含意しています」と書いたら、「それでも法だ・・・は解せないのですが?!」というメールをもらいました。
次のように返信しました。

「悪法もまた法」は、言い換えれば、「法には悪法がある」ということです。
法は必ずしも「正義」ではないということです。
つまり、法は誰の視点で解釈するかによって違ってくるものです。
順法精神とは何なのかと言う問題にもつながります。
また国家にとって一人ひとりの国民とは必ずしも守るべき対象ではないと言うことです。
そうしたことをメッセージしているのがソクラテスの毒杯事件だと、私は勝手に解釈しているわけです。
国家の平和が国民の非平和の上に成り立つように、国家の正義は時に個々の国民にとっては不正義を前提にすることに大きな危惧を感じています。
いわゆるコラテラルダメッジの話です。

ちょっと論点をずらしているような気もしますが、ソクラテスが「それでも法だ」と言ったのは法治体制への根源的な問題提起だったような気がします。
自らの考えで思考し行動しなくなったアテネ人たちに対する警告といってもいいでしょう。
それはまさに今の日本人にも有効な警告です。
その方から、次のようなメールが来ました。

憲法は本来国家と政府が暴走しないよう、国民を守るためのものであり、
法律は、社会的な生活を営むのに国民を規制もするものといえるのですね。

うーん、ちょっと違うのです。
やはり統治体制の枠の中にみんな埋没しているような気がします。
憲法や法律への信仰があるのですね。
もっとも私が特殊なのかもしれませんが。

「憲法は本来、国民を支配するためのものであり、法律は、国民を規制するもの」。
これが私の考えです。
マグナ・カルタは国王の行動を規制するものだったではないかと言う人がいるでしょうが、国王もまた国民支配のための道具だと考えれば、マグナ・カルタもまた、起草した人たちのための支配の道具だったことがわかるはずです。

重要なのは、「国民を守る」という場合の「国民」は実に多様な存在であり、いか様にも解釈できることです。
いわゆる右翼を守ることも左翼を守ることも、資本家を守ることも労働者を守ることも可能です。
そのすべてが国民と言う概念に含まれているからです。
戦争が起これば、「国民」を守るために「国民」に死を強要するようなおかしな結果も引き起こします。
つまり、この言葉は意味のない言葉なのです。
それに対して、「国民を規制する」は実体概念として成り立つでしょう。
規制は多様な概念だからです。

もちろん憲法や法律が、被支配者としての国民一人ひとりにとって意味がないわけではありません。
建前は「国民のため」のものですから、その条文を盾にとって異議申し立てをすることができるのです。
統治のツールやシステムは、使いようによっては、統治をひっくり返す存在になりえます。
そこにこそさまざまな運動の意味があります。
そして、主権在民という建前を掲げた日本国憲法の意義もあります。

憲法や法律そのものを、善悪を決める絶対的な基準にすることはとても難しいです。
モーゼの十戒ですら難しいですし、厳密に取り組めば、いわゆる原理主義に陥ってしまいます。
ガンジーのように徹底的な非暴力を謳えることも現実的かどうか迷います。
憲法や法律はあくまでも「道具」です。
とすれば、憲法や法律とどう付き合うかが重要になってきます。

長くなったので、続きは明日にします。

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2006/02/23

■国の主張と住民の主張

首都圏中央連絡自動車道(圏央道)建設のため、東京都あきる野市の土地を収用された住民たちが起こしていた、事業認定取消し訴訟の第2審は、住民側の逆転敗訴になりました。
問題となったのはあきる野インターチェンジ(IC)の開設で、地域住民たちは「隣接する日の出ICから約2キロしか離れていない場所に新たなICをつくる必要性はない」と訴え、一審ではその主張がほぼ認められていました。
環境面でも費用面でも、私自身は無駄な公共投資だと思いますが、情報不足なのと利用者でも住民でもないのであまり評価力はありません。

しかし、ニュースを聞いていて気になることがありました。
NHKのニュースによれば、国土交通省はこの判決に対して、「国の主張が認められた」とコメントしています。
「国の主張」とは何でしょうか。「国民の主張」という意味でしょうか。
利害関係の最も強い地域住民は、その主張を認められなかったわけですが、「住民の主張」と「国の主張」の関係は対立する関係にあるわけです。
この問題は沖縄の米軍基地の立地問題にもつながっています。

以前も書きましたが、「住民」と「市民」は違うのですが、そうした言語操作によって、さまざまなおかしなことが行われてきました。
「住民」の上位に「市民」が置かれ、そのまた上位に「国民」が置かれているのでしょうか。
これも何回も書いていますが、「国民」は抽象概念であって実体概念ではありませんから、容易に操作できる言葉です。
「国民のため」などという言葉には実体を与えることは不可能です。
国民の価値観が同一であれば可能ですが、そんなことはありえないでしょう。
それはロボットか家畜の世界でしかありえません。

地域が特定された「住民」であれば、かなり実体がつくれます。
もちろんあきる野IC周辺の住民にも賛成者はいるでしょう。
しかし、顔の見える人たちであれば、利害を束ねていくことは可能なはずです。
そうした表情の見える住民たちの生活に立脚した意思決定が基礎にならない限り、総論としての国民主権は実現できないでしょう。
逆にそうした住民主役の発想をベースにしてこそ、「国の主張」ということばが意味を持ってきます。
「住民の主張」と対立する「国の主張」は、国民を被統治者として位置づけた「お上の主張」でしかありません。

こうした関係の中にこそ、国家というものの本質が垣間見えてきます。
まあ、そもそも「官民」という発想の枠組みはそういうことです。
「国の主張」などという前に、もう一度、憲法を読んでほしいと思います。
コラテラルダメッジは、日本でもいくらでも起こっているのです。


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2006/02/22

■堀江メール問題が教えてくれたこと

あまりにも馬鹿らしいので書くまいと思っていたのですが、やはり書くことにしました。
いま話題の「堀江メール」の話です。
あれが証拠になるのでしたら、おそらくどんな事件もでっち上げられるでしょう。
メールをある程度やっている人なら、最初からわかっていたことでしょうから、こんなに話が盛り上がるとは思わなかったのですが、信じられない展開です。
民主党にはメールをしている人がいないのでしょうか。もしそうでないとしたら、ライブドアと同じ水準の、実体のない組織だと判断しないわけにはいきません。
残念なのはその民主党に何人かの知人友人がいることです。絶縁するわけにも行きませんが、早く離党してほしいものです。
まあ、それはそれとして、この事件でいろいろと考えさせられました。
たとえば、電子署名運動のことです。一時は私も協力したことがありますが、最近は電子署名運動には参加しないことにしました。いささかの迷いはあるのですが、電子署名はやはりおかしいです。いくらでも偽造できるからです。
メールアドレスはいかようにも作れるのです。
たとえば今でも私のメールアドレスで迷惑メールが配信されています。私のところにも届きます。プロバイダーに何とかならないのかと相談しましたが、だめでした。私のほうでアドレスを変えたらどうかと言われました。とんでもない話です。なぜ私が変えなければいけないのか、発想が逆です。そんなことを勧める会社の方針は信じられませんが、私は変えるつもりは全くありませんので、今でも不都合を受けています。
人によっては、私のアドレスを知らぬ間に迷惑メール発信者として受信拒否しているかもしれません。その場合は、私のメールが届かない事態も起こっているはずです。
そんなことが可能なメールでの署名が効力を持つはずがありません。
そう考えてからは、一切の電子署名をやめました。
もちろん、電子メールを使うことで、実はさまざまなメリットがあります。
私はいま、全国の住民活動やNPOのネットワーキングの活動をしていますが、これはメールやネットがあるから可能になっています。それらがなければ私の行動範囲は十分の一以下に縮小しているでしょうし、コストも莫大にかかるはずです。通信コストや編集コストがほとんどかからずに、しかも瞬時に全国の仲間にメッセージを伝えることができる魅力は5年前には考えられなかったことです。そのおかげで、私の世界は一変しました。お金がなくても活動ができるようになったのです。そのうちにきっとお金がなくても生活できるようになるでしょう。
コスト面でも効率面でも、ネットはすごい効用があります。感謝しなければいけません。
しかし、その反面、便利でコストやエネルギーが不要な分だけ、たぶん問題が起こっているのです。物事には必ず裏と表があります。
たとえば私が発信するメッセージへの反応率は代金はあまり高くはありません。5年前にはたとえメールでも私の推薦した本はほとんどの人が購読してくれ、イベントには参加してくれました。もちろん送り先を厳選していたことも、その理由のひとつです。
しかし最近は便利さに甘んじて、安直に同時にメールを送る習慣がついてしまいました。
昨日もあるイベントの誘いを50人くらいの人に送りましたが、反応があったのは3人だけです。もし普段から付き合いが深い人たちであれば、電話をすれば、きっと半分の人は時間さえ空いていれば参加してくれるでしょう。
しかし、メールで処理する時には付き合いの深さとは関係なく、一斉に発信してしまいがちです。それが簡単にできるからです。
受け手として考えれば、全く失礼な話です。事実、そうした案内もよく届きます。なんで私にまで誘いが来るのだろうかと思うような話もあります。
しかし、私自身も送り手になると同じようなことをやっているのです。これは反省しなければいけません。でもだからといって、それを止めるべきかどうかは悩みます。そうしたことこそがネット社会の長所かもしれないと思うからです。
つながりの量を問題にするのか質を問題とするのか。
量は質と別の話ではなく、実は同じものかもしれないために、この答えは複雑です。
量が創発を容易にするのであれば、量は質の指標にもなるのです。
話がややこしくてすみません。

しかし、堀江メールは実にさまざまなことを考えさせてくれました。
メールは本当に恐ろしい側面を持っています。

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2006/02/20

■議論の目的は勝敗ではなく、共創です

オウム事件の松本被告の訴訟能力が弁護側から問題にされ、裁判が止まっていましたが、半年間の調査の結果、訴訟能力が認められて、また裁判が再開されるようです。
こうした事件が時々起こりますが、この場合の「弁護」とは一体何なのでしょうか。
こんなことをやっていたら、裁判における弁護の意味がおかしくなるような気がします。

永田議員の堀江メールにまつわる民主党と自民党の議論もひどい話です。
国政調査権を認めるかどうかの問題ではなく、政治の権威のためには、一刻も早い真偽の確認に向けて両党がもっと協力することがなぜできないのでしょうか。
その気になれば、すぐ判明することでしょう。ばかげた話です。

いずれもあまり適切な事例ではないような気もしますが、議論の目的は相手を負かすことではありません。議論を通して、より好ましい状況を創りだしていくことです。
しかしなぜか日本での議論は勝敗に焦点が行きがちです。
勝敗を目指す争いはどういう結果になろうとも、双方にとってマイナスをもたらすと思います。

その最たるものが戦争でしょう。
戦争で平和がもたらせるはずはないのですが、
なぜか多くの人は戦争こそが平和をもたらすと考えます。
私の友人たちもそう考えている人が多いようです。
そんな馬鹿なはずがありません。
そうやってもたらされた「平和」は戦争のひとつの状況でしかありません。

では議論の目的は何でしょうか。
それは「共創」、つまり違った事実や論理をぶつけ合うことによって、新しい価値を創りだすことです。
私はそう考えています。

裁判における検事と弁護士の議論は、違った立場からの事実と論理と意見を交換しながら、双方および社会にとって、より納得性の高い判断を得るためのものではないかと思います。
王権国家における弱いものを守る時代の裁判とは基本的に違うのです。

国会における議論は、これも違った立場からの事実と論理をぶつけ合いながら、より納得できる真実を明らかにし、社会の不都合を正していくための共創活動であるべきでしょう。
党利党略のために国会での議論があるわけではありません。

こうしたことは国家間の議論にも当てはまります。
イランの核開発問題の議論はやはりフェアではないように思いますし、北朝鮮との拉致問題の交渉は議論にもなっていません。
議論といえないような、似非議論が多すぎる時代になってきました。
にも関わらず、そうしたことが横行し、蔓延しているのは、それで得をする人がいるからでしょう。

それにしても、どうしてこうもみんな勝敗にこだわるのでしょうか。

爆笑問題の太田さんが、昨日、テレビで、オリンピックでメダルが取れるとか取れないとかどうでもいいではないか、選手のプレーをみているとそれだけで感動する、それでいいじゃないかといっていました。
同感です。
メダルなどは瑣末な話です。
勝敗意識を煽るマスメディアには乗りたくないものです。
もちろんオリンピックに限った話ではありません。

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2006/02/17

■社会人基礎力って、ご存知ですか

昨日、ある委員会で経済産業省の人が「社会人基礎力に関する研究会」の中間とりまとめの報告をしてくれました。
「社会人基礎力」。
冗談だろうと思うような言葉ですが、昨年から真面目な研究会で議論されているようです。

同報告書によれば、「我が国経済を担う産業人材の確保・育成の観点から、「社会人基礎力」の養成、企業の人材確保・育成、企業や若者の双方に納得感のある就職プロセスの在り方等について検討するため、産業界、教育界、学界などからの参加を得て」、昨年の夏に研究会が発足したのだそうです。
名簿を見たら、私の知り合いの名前も出てきました。

社会人という言葉からして、そもそもおかしな言葉です。
皆さんはどういう定義をしますか。
私は昔、学校を卒業して会社に入ることを「社会人」になると理解していました。
しかし、何年かの会社経験からして、会社に入るのは社会人になることではなく、会社人になることだと気づきました。
遅まきながら、会社生活25年目に会社を離脱し、「社会人」になることを決意しました。
そのあたりは当時の雑誌に書いた「会社を辞めて社会に入る」をお読みください。
社会人とは実に多義的な言葉ですので、安直に社会人という言葉を使う人を私は信頼できません。

そして「基礎力」。
社会人になるためには基礎力がないとだめなのです。
社会は単なる個人個人で構成されているのではなく、ある能力がないと参加できない組織なのでしょうか。
しかし、まあ、そこまでひねくれることなく、素直に受け止めれば、なんとなく分かったような気にはなれます。
確かに社会を混乱させるような人が多すぎることは事実です。
それに超多忙な企業人のように、身近な生活基盤である地域社会にも接点の少ない人も少なくありません。
いや、それどころか一番基礎的な家族とのつながりさえ維持できない人も増えています。

と考えていくと、社会人基礎力はもしかしたら、最近の企業人にこそ求められるような気がします。
耐震偽装に関わった人たちや東横インの社員はどうだったのでしょうか。
報告書の定義によれば、
社会人基礎力とは「組織や地域社会の中で多様な人々とともに仕事を行っていく上で必要な基礎的な能力」だそうです。
なるほど、もっと多様な社会の価値観を理解し受容することが必要だということに漸く気づいたかと思ったのですが、研究会の発足の理由を読み直すと、「産業人材の確保・育成の観点」とあります。

社会人基礎力が欠落しているのはどうも今の企業人ではなくて、若者たちと考えられているようです。
どうも私の認識とは全く違う前提にたっての議論のようです。
私は政治家や財界人こそが、社会的基礎力を欠いているとばかり思っていたのですが、
どうもそうではないようです。

もしそうであれば、私自身もまた、社会的基礎力が欠落している人の中にはいっているのでしょうね。
報告書をもう一度よく読んで、基礎力を高める努力をしなければいけません。
いやはや困ったものです。

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2006/02/16

■時間の長さは人によって全く違います

最近、時間の速度がかなり気になっています。
他の人と私と果たして同じ速さで時間は進んでいるのだろうかと、時々思うのです。
遅い時もあれば速い時もある。どうもずれているのです。
私自身に関しても、日によって時間の速度が違います。
時間だけは誰にでも平等と言われますが、そのことに昔から疑念をいだいています。
まあ、今日はそこまでの話を書こうとは思いませんが(書くと、いよいよ気が触れたかと思われそうですので)、当事者の時間と管理者の時間の話です。

北朝鮮による拉致事件の解決は一向に進展しません。
横田夫妻の話をテレビで聞く度に、彼らの苛立ちを感じます。
私たちにとっての1月は、横田さんたちにとっては1年に相当するのかもしれません。
時間の速度は人によって全く違います。
以前、NHKのがんキャンペーンの番組で治療体制の地域格差が話題になりました。
その時の病院や行政側の発言と患者側の発言を聞いていて、時間感覚が全く違っているためのすれ違いを強く感じました。
地域格差を解消していくには時間がかかるでしょうが、患者にとってはそれがまさに生死に関わるのです。
死んだ後で地域格差がなくなっても、自らには何の意味もないのです。
「当事者の時間」と「管理者の時間」とは全く違います。
この違いから発生する議論のすれ違いは少なくありません。
同じ社会に生活をしていながら、時間速度は人によってかなり違うこと、しかも問題に応じて同じ人でも違ってくることを、私たちはもっと認識する必要がありそうです。
コミュニティケアやまちづくりに関わってきて、それを強く感じます。

時計が刻む時間だけが「時間」ではないのです。
時間はどうも生きているようです。

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2006/02/15

■人の生命を殺傷した罪の重さ

昨年2月、千葉県松尾町の県道で同窓会帰りの男女8人が軽乗用車にひき逃げされて死傷した事件で、危険運転致死傷罪が適用されて、被告に懲役20年が言い渡されました。被告は控訴するそうです。
被害者の家族にとっては、決して納得できないでしょう。
それなりの事情があればともかく、飲酒無免許運転で、しかも事故後逃走したというこの事件は、殺人罪と同等であってもいいと私は思います。
未必の殺意を認めるべき状況でしょう。
自動車は凶器になる可能性があることをもっと認識すべきです。
この事件に限りませんが、人を殺傷した加害者の量刑は余りに軽すぎると私は思います。
再犯事件も少なくありませんし、もっと厳罰に処するべきです。
なにも死刑にしろというわけではありませんが、一生をかけて償ってもいいのではないでしょうか。
命が奪われた場合、加害者と遺族の、それぞれのその後の人生を考える時に、多くの判決の量刑はバランスを欠いていると思うのは私だけでしょうか。
最近の判決の多くは決して納得できないものが多すぎます。
その一方で、ビラを配っただけで禁固刑になるようなおかしなことも行われていますし、冤罪もまだ完全にはなくなっていないような不安もあります。
卒業式に国家を歌わないために失職させられることもあります。
日本には、果たして法の正義は存在するのでしょうか。
とても不安です。

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2006/02/14

■企業の社会貢献活動と事業活動

企業に関わる残念な事件がまた頻発しています。
しかも、取りざたされる会社がいずれもとても社会活動に熱心な会社であることが気になります。
核開発に転用可能な3次元測定機の輸出で問題になっているミツトヨは、仏教伝道に地道な活動をしている会社です。
むしろ仏教伝道のために会社を設立したという歴史がある会社です。
生命保険違法販売で問題になっている損保ジャパンは、福祉活動を行う団体のNPO法人格取得を支援する活動をかなり早い時期からやってきました。
NPO支援の分野では実績のある会社です。
なぜそうした会社がこういう事件を犯してしまうのか。
これについては18年ほど前に日経産業新聞のコラムに書いたことがありますが、社会貢献活動と事業活動とのつながりがないことが最大の理由だと思います。
つながりがないばかりか、別の問題と捉えられています。
そもそも「社会貢献」などという言葉を何の疑問もなくつかっているところに、そうした理念のおかしさが象徴されているように思います。
この話も当事、経団連の社会貢献活動の研究会で企業の関係者に問題提起しましたが、全くと言っていいほど理解されませんでした。
彼らが本気で考えていないのが良くわかりました。
その事情は残念ながら20年近くたった今も、全く変わっていません。
当時、私が雑誌などに書いていた問題提起は、今読んでも通用してしまうのが哀しいです。
渋沢栄一は「片手に論語、片手にそろばん」といいましたが、それを統合する機能、つまり「経営」が多くの企業には不在なのです。
企業は、事業活動を通じてこそ社会に貢献しなければいけません。
いわゆる「社会貢献活動」は、そのための手段でしかありません。
それは社会貢献のためにするのではなく、社会を学ぶために行う社会活動なのです。
どんなに勉強ができても、どんなに金持ちでも、
社会性のない人とは友達になりたくないと普通は思うでしょう。
企業も同じことです。
社会性を磨くためにこそ、企業は社会活動をすることが必要なのです。
その認識がない企業の「社会貢献活動」が多すぎるのがとても残念です。

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2006/02/13

■「時は金」ではありません

昨日の続きです。
谷和原村でのテントの中での話し合いの最後は、みんなの手作り料理とテントの真ん中にぶら下げられた鍋での料理です。
新鮮な野菜がふんだんに投げ込まれて、実に美味しい鍋でした。
メンバーがそれぞれ持ち寄った自慢の家庭料理も最高でした。
七味唐辛子も手作りです。
デザートも、柚子の黄金焼きや手作り羊羹と、いろいろ出てきました。
各種のお漬物も美味しかったです。窪田さんの人参の漬物も最高でした。
こういうところに来て、いつも思うのは食生活の豊かさです。
どんなに有名なグルメレストランも、こうしたところの食事に比べれば貧相なものに思えてなりません。
食の豊かさは文化の豊かさにつながります。
しかし、そうした食の豊かさは間違いなく失われてきています。
みんなでいろいろ話しながら、持ち寄りの食材や里山の山菜で鍋をつくり、自慢の家庭料理を交換し、それに合わせて、それぞれの生活を交換しながら、地域社会の共同意識を高めていく。
昔はどこでも行われていた風景だったでしょう。
そうしたことがしっかりと行われていれば、地域は豊かになっていくはずです。
食事はまさに人をつなぎ、生命をつなぐものです。
食材を育て収穫し調理し食する、そして最後には残滓をきれいに自然に戻していく。
この循環が生活を支え、文化を育ててきたのです。
しかし、昨今の食文化は残念ながら、自然や文化から切り離された、単なる食べ物になっています。
単なる食べ物であるならば、それは「餌」でしかありません。
ファーストフードは餌の文化です。食の文化ではありません。
谷和原にはまだ自然が残っています。
城山も少し整備するだけで、きのこや山菜がもっと戻ってくるでしょう。
しかし、山菜料理は手がかかります。
その採取も含めて、時間がなければ難しいでしょう。
スーパーで処理された食材を買ってきたほうが、間違いなく便利です。
いつか書きましたが、我が家もピーナッツを栽培しましたが、その殻剥きが大変でした。
食を豊かにしようとすれば、時間がかかるのです。
時間がかかるということは、いつの間にかお金がかかることになりました。
いつからこうなってしまったのでしょうか。
「時は金なり」ということを疑いもなく受け入れていた自分の愚かさに、私が気づいたのはつい最近です。
時は、決して金ではありません。
エンデは「モモ」でそのことを警告してくれましたが、一度、金銭市場主義の世界に入ると抜け出すのは難しいのも現実です。
家計費のなかで食生活にかかる費用の割合をエンゲル係数といい、エンゲル係数が低いほど豊かだと言われた時代がありました。今もまだそういう概念があるのかどうか知りませんが、食はやはり豊かさにとっての最高の指標だと思います。
しかし、基準にすべきは「金」ではなく、「時間」だと思います。
全生活時間に占める食関係の時間、もちろん食材づくりや話し合いの時間も含めてですが、食につながる時間の比率こそが豊かさの基準になるような気がします。
皆さんは食の時間にどのくらいの時間を割いていますか。
私は決して多くありません。反省しなければいけません。
谷和原村の人たちに学んで、今日から少しライフスタイルを変えようと思います。
料理にも時間を割く努力を始めようと思います。
これまで何回か挑戦して、いつも失敗しているのですが。

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2006/02/12

■まちづくりの始まりの現場

今日、茨城県の谷和原村の「城山を考える会」の横田さんから誘われて、その集まりに参加してきました。
この会に関しては、何回かCWSコモンズで書いたことがありますが、昨年から始まった住民たちの自発的なグループです。
谷和原村は来月、隣の伊奈町と合併して「つくばみらい平市」になるのですが、昨年、東京とつくば市を結ぶ、つくばエクスプレスが開通したため、おそらく大きく変貌していくところです。新しい駅「みらい平」の周辺はそれまでは何もなかったところですが、さまざまな建物が建設中で、駅から1分の住宅マンションもまもなく完成の予定です。谷和原村の人たちの生活も大きく変わっていくでしょう。
その駅から歩いていけるところに城山があります。ちょっとした里山と農地、素晴らしい谷津田、そして運動公園があります。谷津田には湧水もあるのです。
昔はそこに谷和原村の中学校がありました。ある世代から上の住民にとっては、とても意味のある場所なのです。
20haの城山運動公園周辺の地域をどうするかは、谷和原村にとっての重要課題でした。つくばエクスプレスの開通で、都心には1時間足らずでいけるようになるわけですから、新しい田園都市が生まれるか、文化と景観が壊れるかの、いずれかになるでしょう。
それを予想して、谷和原村では数年前から行政が住民参加のスタイルで構想づくりをしてきました。東京のコンサルタントも入って、「立派な」計画ができたのが5年前です。幸いに、村の財政が厳しく着手できませんでした。それにコンサルタントがまとめた構想は、「立派」すぎて生活とのつながりが見えにくいものでした。
そこで私に声がかかりました。何回か通っているうちに出会えたのが横田さんです。
そして横田さんが仲間に声をかけて始まったのが城山を考える会です。
横田さんたちは構想を描く前に、まずは里山の整備に取り掛かりました。最初は下草刈りです。なにしろ予算がありませんから、完全な手弁当です。しかも重労働。仲間は減ってしまいましたが、そうした中からしっかりした何人かのつながりが生まれました。そしてその輪が少しずつ広がりだしたのです。
毎月2回の集まりをやっていますが、それに誘われたのです。里山の空き地にインディアンテントを張って、その中でかまどをつくって「たぬき汁」をつつきながらの茨城弁での話し合いです。
人のつながりが間違いなく育ってきています。まだメンバーは10人足らずですが、こうした人のつながりが「まちのはじまり」なのでしょう。
集まったのは私を入れて11人。なかには隣の守谷から来ている女性もいます。面白いのでついつい巻き込まれてしまったそうです。今回はつくば市から飛び入りした若者もいました。外部からも引き付ける魅力がすでに生まれだしているのです。
まちづくりとは何か、今日はたくさんの示唆をもらいました。
その上、すごく立派な卵までお土産にもらいました。
これこそが「まちづくり」の原型ですね。
新しいまちづくりが各地で始まっています。

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2006/02/11

■ふたつのリーガルマインド

今日もまた、少し小難しい議論です。
昨日触れた「リーガルマインド」について、気になったのでネットで調べて見ました。
驚くことに出てきたのは、リーガルマインドの名前のついた会社や書籍が圧倒的に多く、またリーガルマインドを名前に織り込んだブログもいくつかありました。
リーガルマインドの中身に関して記載があったのは1~2%でした。
私が大学で学んだ頃には、もっと盛んに使われていたと思いますし、私が愛読していた法学関係の雑誌でも話題になっていた記憶があります。
私がこの概念に触れたのはたぶん民法の川島武宜さんの授業です。まあ私にとっては、その言葉に触れた途端に、法学の極意を極めた気分になって、それ以来はあんまり授業にも出なくなって、後は映画館通いをしていました。極めたものにとっては、すべてが授業と同価値になるのです。はい。
ところで、ネットで調べてみた結果、昨今のリーガルマインドにはどうも二つあるようです。まだとりあえずの整理なので不十分ですが。
ひとつは、「適法判断力」です。法律で許されるか、許されないかを判断する力です。いいかえれば、法律を知っていることが出発点になります。
もうひとつは歯切れが悪いのですが、「法的思考力」です。意見の対立において理性的に妥当な解決に導く能力だと書いている人もいますし、正義・人権・自由・平等などの法的な価値を尊重する感覚という表現もありました。しかしここでは「法的」とは何かが明確にされていないために、一種のトートロジーに陥っている気がします。
しかし、そこを思い切って整理すれば、「法律」を前提にして考えるか、法律の淵源に立ち戻って法律を吟味するかという大きな違いになります。
ややこしい話ですが、法とは何かという問題にもなります。文書に書かれた法律は法の一表現形態に過ぎないと考えるか、法そのものと考えるかの違いです。
法治国家という言葉もありますが、これもまた実に両義的な言葉です。
ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだのは実に深い示唆を含意していますが、ここにこそ法治国家の本質があると私は思っています。
リーガルマインドは法律の解釈学であってはなりません。法律の適用と言う意味で、解釈にとって不可欠な要素ではありますが、法の深遠にあるものであり、むしろ自然法的な理念と価値観に裏付けられたものでなければいけません。
日本のような社会ですら、法律は簡単に作れるのです。極端に言えば、権力と資財が法律を生み出すのです。そうであるならば、それらを牽制し、活かしていくための論理を超えた感性こそが、リーガルマインドではないかと改めて思います。
何だかかなり粗雑な論理展開ですね。
すみません。
この件は少しきちんと考えてみることにしました。
半年以内に改めて書くようにします。
それにしても、
ソクラテスの行為は、結果としての行為ではなく、発端を意図した行為だったところに大きな驚きを感じます。なにしろソクラテス的発問の元祖の行為なのですから。最大の教材です。

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2006/02/10

■横浜事件判決とリーガルマインド

私は高校生の時に、検事になりたいという思いが強く、法学部に入学しました。
そこで学んだのは「リーガルマインド」です。
私にとっての「リーガルマインド」とは法の精神であり、その法律もしくは制度が目指している価値観を判断基準にして、法律や制度を活かしていくということでした。
ところが最近、私の理解はどうも極めて特殊だったのかと思わざるを得ないことに気づきました。
先月の同窓会で、この話を少ししましたが、誰も反応しませんでした。
気になって、いまネットで調べましたが、そこで出てくるのは法の知識を持って行動するような話ばかりです。私の理解とは対極の考えです。
もちろんそうでない話もありますが、そういうものはなかなか見つかりませんでしたし、その書き方も余り明確ではありません。
司法の世界もいまや行政府とそう変わらないのではないかと言う気さえします。
三権分立は形骸化してしまっているのでしょうか。

昨日、戦時下最大の言論弾圧事件といわれる横浜事件の再審判決がありました。
今朝の新聞に大きく出ているので、お読みになった方が多いと思いますが、日本の司法界の本質を現出させる判決だと思います。
判決は「免訴」でした。やはりそうか、という気がしました。
このブログでも何回か書いていますが、私は日本の司法界に対する信頼を最近は持てずにいます。あまりにも納得できない事例が多すぎます。
今回の判決には、少し期待を持っていました。地裁判決ですから、
しかし、今回もまた失望しました。
もしかしたら日本の司法界はまだ戦前のパラダイムで動いているのかもしれません。
なにしろ国家の枠組みが変わったにもかかわらず、彼らは何のお咎めもなく自らを継続してきた人たちなのです。
彼らに良識(リーガルマインド)を期待するのは無理なのかもしれません。

横浜事件は、19942年から終戦直前にかけ、出版関係者など約60人が「共産主義を宣伝した」として治安維持法違反容疑で逮捕され、拷問で4人が獄死。終戦直後の1945年8~9月に、約30人が横浜地裁で有罪となった事件です。
元被告らの再審請求を受けて、2005年、東京高裁は拷問の事実を認定し、「自白の信用性に顕著な疑いがある」として再審開始となりました。
公判では、元被告の遺族(元被告はすでに全員死亡)が「十分審理をせず有罪を言い渡し、再審請求を退け続けた司法の責任を認め、謝罪してほしい」と訴えていました。
それに対して、昨日の判決では、無罪か有罪か判断せずに裁判を打ち切る「免訴」判決を言い渡したわけです。自らの責任にはほとんど言及していません。
私が一番残念なのは、裁判官のリーガルマインドを微塵も感じられないことです。
判決は、責任回避の手続き論であり、人間としての心が感じられないのです。
心が入らない法の適用は、問題の本質的な解決にはつながらない気がします。
明白な事実を認めながら、無罪宣言をしない裁判官とは一体何なのでしょうか。
こうした卑劣な言動が最近の日本には多すぎます。
手本が多すぎるので、社会に蔓延してきているのでしょうか。恐ろしい話です。

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2006/02/09

■北朝鮮との「国交正常化」って何でしょうか

今回の日朝協議もほぼ成果なしの結果に終わったようです。
私自身はこの交渉の基本枠組みに間違いがあると思いますので、こうした場をいくら持っても問題は解決しないと思います。そろそろそうしたパフォーマンス外交は正すべきでしょう。

それにしても、いつも思うのは「国交正常化」とは何かと言う疑問です。
国交とは「国家」の交流を指すと考えていいでしょうが、国家とは何か、です。
あるいは国交正常化は何のために必要かです。
これについて書き出すと、たぶん1冊の本ができるでしょうが、ここでは両国の国民が今よりも暮らしやすくなるということを目的におきたいと思います。

国民主権国家時代の外交は、そうしたことが目的でなければならないと思います。
ところが世界にはまだ国民主権国家でない国歌がいくつかあります。
北朝鮮はそのひとつと言っていいでしょう。
しかも北朝鮮では、他国の通貨の偽造、麻薬の産輸出、無垢の外国人の誘拐などを国家事業として展開している国です。
そこにおいては、おそらく国民の意思は踏みにじられ、時に虐殺と拷問が繰り返され、それがゆえに命がけの国家らの脱出が繰り返されているわけです。
これを「国家」というべきかどうか、私は迷いますが、いわゆる近代国家とはかなり違った組織ではないかと思います。
もちろん、近代国家にしても実に多様であり、一概には言えませんし、以前も書いたように今の日本は北朝鮮との類似点が非常に多いのも事実です。
しかし、現在の北朝鮮は明らかにその異常性においては閾値を越えています。

いま、必要なのは国交正常化ではなく、北朝鮮の国家正常化なのではないかと思えてなりません。
日朝協議も果たして国家協議でしょうか。
金正日体制と小泉体制の協議でしかないのではないか、そう思えてなりません。

以前、ODA議論で、途上国の現体制に経済支援すればするほど、その国家で抑圧されている国民たちはますます圧迫され、権力構造を確たるものにしてしまうというような議論がありました。
いまの人道支援を大義にしたアフガンやイラクの支援にも言えることです。

北朝鮮との国交正常化は、北朝鮮の現体制を承認することに他なりません。
いいかえれば拉致事件を追認し、麻薬販売を承認することにならないでしょうか。
それにそんなことをやる体制となぜ交流をしなければいけないのか。
正常化すること自体に矛盾があるのではないか、つまり正常化がその上の次元にある関係性の健全性を破壊するという意味です。
たとえは悪いですが、犯罪者と友人になることで、犯罪者の犯罪を支援することに似ています。
犯罪者ではなく、被害者と友人になって、一緒に犯罪者を正すことでしょう。

正常化すべきは、北朝鮮の国家のあり方です。
その働きかけがない正常化交渉は意味がないばかりか、相手の行動に加担することでしかありません。
だから「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」と言っているではないかと言われそうですが、
拉致問題の解決なしに「協議」そのものが成り立たないはずです。
むしろ非条理な北朝鮮とは国交断絶し、
協議に向けるエネルギーと税金を脱北者支援活動に向け、
北朝鮮の国家正常化に協力すべきだろうと思います。

国家は金正日や小泉純一郎のためにあるのではありません。
額に汗している国民のためにこそ、あるのです。
そうでない国家は不要ですし、そんな国家と関係を正常化する必要はありません。

こうした議論にかなり危険な思想が含まれていることは承知していますし、
論理展開が粗雑なのも自覚していますが、
国交正常化とは何かを、一度しっかり考え直す必要があるのではないかと思います。

ちなみに、国家のレベルで考えるから難しいのですが、
もし隣家に幼児虐待と誘拐犯があったとしたら、皆さんはそこの家と付き合いを正常化したいと思いますか。

問題を身近な問題に置き換えると、事の本質が見えてくることもあります。

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2006/02/08

■「パブリック」の責任

東横インの事件で同社の西田社長が連日テレビで批判され続けています。
弱いものいじめとしか思えないほどです。
おそろしい「いじめ社会」になってしまいました。
改めてテレビや新聞の暴力性を恐ろしく思います。
東横インは、一時はユニークな経営で話題になった会社です。良い時は持ち上げておいて、いったん、悪者になると寄ってたかって容赦なく追い詰めるのが日本のマスコミです。
記者会見の時の質問の言葉遣いなど、少しは良識を感じさせてほしいと思います。
その一方で首相へのインタビューは迎合的で卑しささえ感じます。
今のマスコミが権力に寄生しているのが良く見えてきます。
良い時は過剰に持ち上げ、悪くなるといじめつくすのが日本の文化かもしれません。
ライブドアも総研への対応も同じパターンでした。
そしていま、その象徴的な人物が国政のトップにいます。小泉首相ほど卑劣で狡猾な人物を私は見たことがありません。西田社長もかなり卑劣ではありますが、まあ底の浅さを感じさせる程度の狡猾さしかありません。
ところで、国民の半分が首相に拍手を送っているわけですが、私の価値観はよほど一般の常識から外れているのでしょうか。少し考え直さなければいけないかもしれません。
もっともたとえば田中首相は国民の英雄から一挙に犯罪者に落ちていったわけですから、人の評価はうつろいやすいものです。この国民にして、このマスコミかもしれません。

久しぶりにまた少しだけ気持ちを書いてしまいましたが、今日の問題は「パブリックの責任」です。
耐震偽装、ホリエモン、東横イン、これらに共通しているのは、民の暴走をチェックし、信頼性を維持するための「パブリックの機関」が自らのミッションを果たしていなかったことです。その問題は巧みに矛先回避され、マスコミもあまりつっこみません。そこにこそ、問題の黒幕がいると私は思っていますが、余りにも利害関係者が多いのでしょう。
しかし、関係者の多くは疑問と不信を持っていたはずですし、しかるべきパブリック機関(日本では官の機関というべきでしょうか)も万一知らなかったとしても(もしそうであればそれもまた職務怠慢ですが)、少し意識を持てばわかったはずです。情報も寄せられていたでしょう。
にもかかわらず、なぜ動かなかったか。あるいは反応できなかったのか。
私には理由はわかりませんが、似たような話はいわゆる開発途上国に良くあるように思います。
そこで動きを止めたり加速させたりする要素は、「賄賂」です。
日本には賄賂など存在しないと思いたいですが、あまりにも似すぎています。
そしてそこに必ずといいくらい、いつも政治家の姿がうわさに上がります。
「パブリックの責任」が果たされていない社会こそ、問題の本質です。
いや「パブリック」が存在しないことが問題なのかもしれません。

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2006/02/06

■情報の過剰摂取症候群

今日、ある必要があり、私が入っているメーリングリストの確認をしました。
なんと50を超えるメーリングリストに参加していることが判明しました。
しかも、私が管理者役をしているのが10を超えています。
道理でたくさんのメールが来るはずです。
しかし、リゾーミックな(植物の根っこのように絡み合った)つながりの中で生きることを信条としている私としては、どれも脱会できないのです。
もちろん、そのすべてに几帳面に付き合っているわけではなく、その時々に重点的にいくつかのメーリングリストを中心に投稿したり読んだりしているのですが、ちょっと多すぎるのが問題です。
それにいまも、月に2~3の新設がありますので、まだまだ増えていくでしょう。
私のサイトにリンクしているホームページも時々見るようにしていますが、このごろは数が多くなってしまい、訪ねる機会が少なくなっています。
情報源や情報検索の範囲が広がるにつれて、自らに身体化する情報密度は希薄になりかねません。その結果、行動は少なくなる可能性もあります。
私の体験では、活動は、摂取した情報量に反比例しています。

そして、情報は、活動の世界の広がりと正比例しています。
最高の情報は人がもたらすと私は考えていますので、新しい人と会うたびに新しい情報パイプが生まれて、情報が入りだします。
その結果、私の最近の情報と活動の収支は、どうみても情報の過剰摂取で、活動が低下しているように思います。
友人からは、もっと付き合う範囲を狭めたほうがいいとよく言われます。しかし、私の生き方には合いません。
こうした情報と活動の非対称な関係は生命現象のバランスをとるための絶妙な仕組みかもそれません。
この構造は実に面白いと思います。

いずれにしろ、最近の私は過剰情報摂取症候群に陥っています。
もしかしたら、それで最近は行動力が低下しているのかもしれません。
過剰情報摂取症候群は、もしかしたら生活習慣病の一種かもしれません。

過剰情報摂取症候群の解決策は忘却です。
幸いなことに、私は最近ますます物忘れが増えています。
この延長に認知症があるとしたら、それもまた健全な成長過程ではないかと思ったりすることもあります。
認知症についての私の知識や体験が不足しているから、そんな風に考えてしまうのかもしれません。

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2006/02/03

■利益のあげ方

郵政民営化は着々と進められているようです。しかしもはや国民の関心はないようです。しかし、とてもおかしなことが次々と報道されています。
たとえば昨日の朝日新聞の記事に、
「郵政公社の債券管理 数十億円予定、1円で落札」
という見出しで、次のような報道があります。

日本郵政公社の郵政民営化に際し、簡易保険部門が国債などの債券管理業務を外部委託する入札で、「資産管理サービス信託銀行」(みずほ銀行系)が1円で落札していたことがわかった。郵政公社が事前に算定した予定価格数十億円を大幅に下回った。簡保が保有する債券は国債だけで50兆円以上に上り、銀行側は1円で落札しても多額の手数料収入が別に見込めるため、赤字にはならないとしている。

これが民営化の本質です。どう考えてもフェアではありません。
官の利権がかくも恣意的に、不条理に、民に与えられるのは、まさに官民構造だからです。どうせ政財界のトップのなかでの回し作業でしかないのです。問題にする価値もありません。
ここで問題にしたいのは、「多額の手数料」というところです。
現在の金融業界の手数料は、ベニスの商人の時代よりも悪質だと私は思いますが、このやり方は「最初の1週間は金利ゼロです」と言って、貧窮している生活者から結局は多額な高利をむさぼる仕組みに似ています。
同じ人たちが仕組んでいることでしょうから、それは当然のことですが、あまりに露骨なのが驚きです。私たちは馬鹿にされているのですが、まあ自業自得です。
先日、消耗品戦略のことを書きましたが、手数料戦略も同じ発想です。銀行は自らの事業スキームを根本から考え直すべき時期にきています。
高速道路料金も同じです。高速道路の料金はある期間を過ぎたら無料にするべきでしょう。もし有料にするのであれば、収支の透明性を確保すべきです。そんなことは誰でもわからなければいけませんが、日本人の多くは理解できません。洗脳はそこまで進んでいるわけです。
働かなくても、努力しなくても、利益が入ってくる仕組みをどうつくるか。
これが「経営」だとしたら、経営は創造的な仕事ではありません。
ホリエモンでも務まったのがよくわかります。

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2006/02/02

■規律は守ったが、弱いものを守らなかった

何回観ても涙が出てしまう映画があります。
「ア・フュー・グッドメン」(1992年)です。トム・クルーズとジャック・ニコルソンの裁判ものです。
キューバの米海軍基地内で1人の海兵隊員が殺害され、容疑者として2人の優等兵が起訴された。若手弁護士キャフィは、この事件に海軍の暴力的制裁“コードR(レッド)”が絡んでいることを突き止める。しかし、相手は実力者の基地総司令官ジェセップ大佐。法廷で戦うことは勝ち目がなく、被告のためにも司法取引で処理しようという働きかけがあるが、真実をあくまでも主張する被告にほだされて、彼は巨大な権力に立ち向かうという話です。
詳しくはここをクリックしてください

こう書いてしまうとよくある話なのですが、こういう話に私はめっぽう弱いのです。
古い映画ですが、毎年2回くらいDVDで観てしまいます。
気分が萎えた時に観ることが多いせいか、毎回、最後の場面で涙をこらえられなくなるのです。
私は頭では、軍隊そのものに異論がありますし、規律優先の文化に反発を感じるタイプなのですが、感覚的には軍隊の規律の正しさや敬礼のスタイルにはどこかに憧れがあるのです。
とても矛盾していますが、否定できない気持ちです。

ところで、この映画にはいくつかの価値観の対立構図があります。
まずは「現場」「現実」と「制度」「理念」です。
敵を前にして日々緊張を余儀なくされている、基地総司令官は現場を代表しています。
それに対してハーバード出身のエリート弁護士は理論と理念の人です。たたき上げのジェセップは知識だけの若手エリートがどうしても許せないようです。
普通なら私はジェセップに与しますが、現場の基地の中では、さらに現場は兵卒の世界ですから、兵卒を守るキャフィに共感を持ちます。
そして、ここでは実は「現場」と「トップ」はピラミッド構造ではなく、循環構造であることが示唆されています。
日本の経営学者の組織論には欠落している視点です。これこそがCIの神髄です。

「組織」と「個人」の軸もあります。
言うまでもなく、軍隊のルールは個人基点ではなく、組織起点です。
個人は組織のために存在しているというのが軍隊の基本です。
にもかかわらず、その世界で個人がいかに個人でありえるかの問題が提起されています。
実はこれに関連した発言が最後の直前にあるのですが、私はそこでいつも涙が出てくるのです。
無罪になったにもかかわらず、軍隊を不名誉除隊されたことに異議を申し立てる部下に対して、被告だったドーソンが次のように言うのです。
「軍の規律は守ったが、弱いものを守るということをしなかった」。
どうですか。感動するでしょう。
しないですって?やはり映画を観ないといけません。はい。
まあそれはそれとして、日本の企業にも、こうしたグッドメンはいるでしょうか。

「正義」の軸もあります。あえていえば、「正義」と「効率」あるいは「功利」の軸です。
「正義」という言葉にはいかがわしさが付き物ですが、私はこの言葉に奮い立つ人間なのです。
きっとどこかにその反応要素が埋め込まれているのです。
もっとも私の正義は、強いものに抗うという定義です。
ですから最後にキャフィが被告だったドーソンに「君は誇り高い男だ」と声をかけ、それに応じて、ドーソンがキャフィに、初めて「サー」と言って、最敬礼する最後の場面では、もし一人であれば嗚咽するほどに感動するのです。

どうも昨今の政治や経済に寂しさを感じます。
正義がなくなってきているのを強く感じます。
私もそうした流れの中で、家畜のような生活に向かっているような気がします。
そうならないように、今日はDVDで「ア・フュー・グッドメン」を観てしまったのです。
キャフィを見習いたいと思います。
彼のようになりたくて、大昔、私は法学部に入学したのですが、安逸な生活をむさぼってしまうようになっています。
この3週間、実にさまざまな人に会って、さまざまな刺激を受けました。
気を奮い立たせて、行動を起こさなければいけません。

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2006/02/01

■「消耗品戦略」と環境経営、あるいはCSR

今日のasahi.comのビジネス面に、『「消耗品戦略」の危機回避 キヤノン逆転勝訴』という見出しで、プリンターのインクカートリッジのリサイクル品をめぐる高裁判決が報道されています。ちなみに朝日新聞の記事の見出しは、「キヤノン逆転勝訴」だけです。
できるだけ事実報道にとどめるか、メッセージ性を高めるかは重要な問題です。
記事の内容はそう変わらないのですが、見出しのつけ方で印象は全く変わります。
前者の見出しをつけた人は、企業の、あるいは産業界の「消耗品戦略」に好意的な姿勢を持っているのでしょう。意識しているかどうかは別として。
見出しで印象は一変します。
新聞にとって一番重要なのは見出しのつけ方だと思います。
もちろん現場取材を前提としての話ですが。
同じ事件をどう扱うかで、その新聞の姿勢が良くわかります。
それに、見出しの持つサブリミナルな効果はとても大きいはずです。
世論さえ変えてしまいます。
藤原正彦さんは話題の近著「国家の品格」で、マスコミは三権分立されている立法、行政、司法の上に君臨する第一の権力だと書いていますが、同感です。
つまり変な言い方ですが、国家さえも「民営化」されてしまっているのです。
国家の民営化の話はもう少しきちんと書かないと伝わらないかもしれませんが、そもそも民営化とは資本に人間を売るということです。
郵政民営化に私が反対するのはそのためです。
得をするのは決して国民ではありません。
これは政財学連合による詐欺のような話なのです。
それはそれとして、
この訴訟です。
プリンター用の使用済みインクカートリッジにインクを再注入して販売していた会社をキャノンは特許権侵害に当たるとして訴えていたのです。第一審ではキャノンは敗訴しましたが、今回はキャノンが勝訴し、販売禁止とリサイクル品の廃棄を命じられたのです。
この事件も実にさまざまな問題を含意しています。
大企業の利益の上げ方は決してホリエモンの知恵に負けません。
私はキャノンという会社が大好きです。
昔、テレビの番組で賀来会長(当事)をインタビューさせてもらったことがあります(12回の経営者インタビューの番組を引き受けたことがあるのです)。
賀来さんの真摯な姿勢に感銘を受けました。
社会問題や環境問題への取り組みにも共感することが多かったです。
そのキャノンにしても、こうした対応になるのがどうも残念です。
どこが残念かといえば、会社の利益を守るというところから発想されているからです。
asahi.comの見出しの付け方は論外としても、キャノンの人もまたどこかでそういう意識を持っていることは間違いないでしょう。
問題は今のビジネスのやり方なのです。
「消耗品戦略」というものが、いかに環境経営やCSRに反するかを考えてほしいものです。
そして社会の視点に立って、販売会社と一緒になって事業スキームを再構築してもらいたいです。
大切なのは企業の利益ではありません。社会にとっての価値です。そしてそれが企業の利益になるのです。順序を間違ってはいけません。
賀来さんがご存命であれば、こんなことにはならなかったような気がします。
キャノンにとっては自らの「消耗品戦略」を見直す絶好のチャンスのはずなのですが。

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