« ■豊かな社会の感受性 | トップページ | ■帰属意識と当事者意識 »

2006/02/26

■憲法や法律は誰のためにあるのか

一昨日の続きです。また長いです。
たまたまですが、先週、2人の人とそれぞれ全く別の局面で、憲法論議をしました。
憲法は誰のために何のために存在するか、がテーマです。
一人は憲法に関してとても造詣の深い在野の研究者です。
もう一人は庶民の立場に立って積極的な平和活動をしているNPOの人です。
いずれも団塊の世代ですが、考えも活動の世界も全く違う人です。

私は、憲法も法律も、すべては全体を管理する統治者のものだと考えています。
ですから、本来的に憲法や法律はあいまいな表現をし、よく読むと「目線」が国民の上にあることがわかります。
主権在民を謳っている日本国憲法にしても例外ではありません。
それに日本国憲法は、以前も書きましたが、形式的にもお上の憲法です。
これに関しては友人の武田文彦さん(「赤ペンを持って憲法を読もう」の著者)から教えてもらいました。
もし憲法が支配者のために存在するのであれば、その条文の表(おもて)の意味よりも、そこから引き出される選択の可能性のほうが重要になってきます。
ですから法文は極めて複雑に、しかも多義的に書かれています。
もちろん文章表現の限界と言うこともありますが、それ以上に状況によって多様な解釈が可能なように「政治的」に仕組まれているのです。
たとえば、典型的な手続法である税法をとってみても、その条文は、これが日本語かと思えるほど長文で、複雑です。
訳の分からない呪文のような文章です。訳がわからないので解釈の余地が発生します。
法文は論理的であると思われがちですが、私には全くそうは思えません。

もし憲法や法律がそのように多義的であるのであれば、統治されている国民にも活かし方が出てきます。そして、「法は誰のものか」という問題もまた、ダモクレスの剣のように、両義的な存在になりえるのです。
つまり、一昨日書いた「憲法は本来、国民を支配するためのものであり、法律は、国民を規制するもの」ということに並んで、「憲法は支配者への異議申し立ての根拠になり、法律は管理を規制するもの」になりえるわけです。
もしそうであるならば、憲法の解釈は国民一人ひとりが主体的に行うことが大切です。
戦争に行きたいとか、戦争に巻き込まれたいと思っている人は多くはないでしょう。
戦争放棄は多くの国民の思いだと思います。
にもかかわらず戦争に向かって進んでいる日本は、自らの思いと「国民」の思いがきちんとつながっていないというべきでしょう。
構成員の個々の思いを合成すると全く違った全体の思いが創出される。
これはよくある話です。
私も会社時代によく経験したことです。
戦争をするのは自衛隊の隊員で、彼らが戦争に巻き込まれないように自分を守ってくれると考えている人もいるかもしれません。
そこでは国民と自分とが切り離されています。
しかし、国民を守る「国民」と「国民」に守られる国民がいるわけではありません。
戦争をする国家では、戦争をする当事者は国民すべてなのです。
そこに大きな勘違いがあるわけですが、そうした幻想を生み出すのが国家なのかもしれません。
また長くなりました。
そのわりには本論には入れていないような気もします。
言いたかったのは、憲法も法律も、それを活かす人だけにしか役に立たないということです。
手段と言うにはそういうものでしょう。
この大切な時期に、憲法をどう活かしていくか、それが大切です。
「活憲」という言葉が広がりだしています。
また改めて書きたいと思いますが、こういう議論は読者には退屈でしょうね。
すみません。

|

« ■豊かな社会の感受性 | トップページ | ■帰属意識と当事者意識 »

司法時評」カテゴリの記事

コメント

法律の知識にはうといですが、興味深い内容です。(退屈なんてとんでもない!)

文中で「会社時代によく経験」とありましたが、まさしく「会社」は社会の、そして国の縮図のような気がしました。

当事者意識の希薄さなどその最たるものですし、手段(権利)を十分に活かしきっていないということも、会社で多々感じるところです。

僕の大きな悩みの1つが、会社や国家に対する帰属意識の薄さです。いつからかそうなってしまった自分があまり好きではありません。決してそうなりたいわけではないのですが、今ひとつ地に足がつかないような気がしているのです。

また、ブログの記事などで学ばせて頂きますね。

投稿: sakakkie | 2006/02/27 10:06

私も興味深く読ませて戴いてます。報道での法律の話は、解釈の正否を巡って論議されるため、うんざりはしてます。(だからといって、他人事にしてはいけないのですが...)佐藤さんがおっしゃる様に、正否ではなく、実際の行動.生活にどう結びつけられるか、そのための法律、意見なのだと思います。 解釈の多様さは、論理矛盾の側面もある、人間という存在にとっては大切となる考えなのかな、という気がします。論理や言葉の正しさに生きるよりも、皆で生き続けられそうな考え方に最近変わってきたので、佐藤さんのお話は、とても刺激となりました。私にとっては、全く退屈ではありません。反対に、普段こういう話が出てこないのに寂しさを感じます。正否を言う前の前提、何のための論議か、法律か、会話か、もう一度きちんと考えてみないと、と思う日々です。

投稿: 小岩 | 2006/03/01 08:32

榊原さん
小岩さん
コメント、ありがとうございます。

元気付けられます。
最近、時間が無くて、十分整理してから書き込むのではなく、書き込むのが精一杯のため、自分ながらに冗長だと思うこともあるのですが、まあ、これが私なので仕方ありません。

ありがとうございました。

投稿: 佐藤修 | 2006/03/01 09:29

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/8857280

この記事へのトラックバック一覧です: ■憲法や法律は誰のためにあるのか:

« ■豊かな社会の感受性 | トップページ | ■帰属意識と当事者意識 »