■ソクラテスの警告
「ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだのは実に深い示唆を含意しています」と書いたら、「それでも法だ・・・は解せないのですが?!」というメールをもらいました。
次のように返信しました。
「悪法もまた法」は、言い換えれば、「法には悪法がある」ということです。
法は必ずしも「正義」ではないということです。
つまり、法は誰の視点で解釈するかによって違ってくるものです。
順法精神とは何なのかと言う問題にもつながります。
また国家にとって一人ひとりの国民とは必ずしも守るべき対象ではないと言うことです。
そうしたことをメッセージしているのがソクラテスの毒杯事件だと、私は勝手に解釈しているわけです。
国家の平和が国民の非平和の上に成り立つように、国家の正義は時に個々の国民にとっては不正義を前提にすることに大きな危惧を感じています。
いわゆるコラテラルダメッジの話です。
ちょっと論点をずらしているような気もしますが、ソクラテスが「それでも法だ」と言ったのは法治体制への根源的な問題提起だったような気がします。
自らの考えで思考し行動しなくなったアテネ人たちに対する警告といってもいいでしょう。
それはまさに今の日本人にも有効な警告です。
その方から、次のようなメールが来ました。
憲法は本来国家と政府が暴走しないよう、国民を守るためのものであり、
法律は、社会的な生活を営むのに国民を規制もするものといえるのですね。
うーん、ちょっと違うのです。
やはり統治体制の枠の中にみんな埋没しているような気がします。
憲法や法律への信仰があるのですね。
もっとも私が特殊なのかもしれませんが。
「憲法は本来、国民を支配するためのものであり、法律は、国民を規制するもの」。
これが私の考えです。
マグナ・カルタは国王の行動を規制するものだったではないかと言う人がいるでしょうが、国王もまた国民支配のための道具だと考えれば、マグナ・カルタもまた、起草した人たちのための支配の道具だったことがわかるはずです。
重要なのは、「国民を守る」という場合の「国民」は実に多様な存在であり、いか様にも解釈できることです。
いわゆる右翼を守ることも左翼を守ることも、資本家を守ることも労働者を守ることも可能です。
そのすべてが国民と言う概念に含まれているからです。
戦争が起これば、「国民」を守るために「国民」に死を強要するようなおかしな結果も引き起こします。
つまり、この言葉は意味のない言葉なのです。
それに対して、「国民を規制する」は実体概念として成り立つでしょう。
規制は多様な概念だからです。
もちろん憲法や法律が、被支配者としての国民一人ひとりにとって意味がないわけではありません。
建前は「国民のため」のものですから、その条文を盾にとって異議申し立てをすることができるのです。
統治のツールやシステムは、使いようによっては、統治をひっくり返す存在になりえます。
そこにこそさまざまな運動の意味があります。
そして、主権在民という建前を掲げた日本国憲法の意義もあります。
憲法や法律そのものを、善悪を決める絶対的な基準にすることはとても難しいです。
モーゼの十戒ですら難しいですし、厳密に取り組めば、いわゆる原理主義に陥ってしまいます。
ガンジーのように徹底的な非暴力を謳えることも現実的かどうか迷います。
憲法や法律はあくまでも「道具」です。
とすれば、憲法や法律とどう付き合うかが重要になってきます。
長くなったので、続きは明日にします。
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