■ふたつのリーガルマインド
今日もまた、少し小難しい議論です。
昨日触れた「リーガルマインド」について、気になったのでネットで調べて見ました。
驚くことに出てきたのは、リーガルマインドの名前のついた会社や書籍が圧倒的に多く、またリーガルマインドを名前に織り込んだブログもいくつかありました。
リーガルマインドの中身に関して記載があったのは1~2%でした。
私が大学で学んだ頃には、もっと盛んに使われていたと思いますし、私が愛読していた法学関係の雑誌でも話題になっていた記憶があります。
私がこの概念に触れたのはたぶん民法の川島武宜さんの授業です。まあ私にとっては、その言葉に触れた途端に、法学の極意を極めた気分になって、それ以来はあんまり授業にも出なくなって、後は映画館通いをしていました。極めたものにとっては、すべてが授業と同価値になるのです。はい。
ところで、ネットで調べてみた結果、昨今のリーガルマインドにはどうも二つあるようです。まだとりあえずの整理なので不十分ですが。
ひとつは、「適法判断力」です。法律で許されるか、許されないかを判断する力です。いいかえれば、法律を知っていることが出発点になります。
もうひとつは歯切れが悪いのですが、「法的思考力」です。意見の対立において理性的に妥当な解決に導く能力だと書いている人もいますし、正義・人権・自由・平等などの法的な価値を尊重する感覚という表現もありました。しかしここでは「法的」とは何かが明確にされていないために、一種のトートロジーに陥っている気がします。
しかし、そこを思い切って整理すれば、「法律」を前提にして考えるか、法律の淵源に立ち戻って法律を吟味するかという大きな違いになります。
ややこしい話ですが、法とは何かという問題にもなります。文書に書かれた法律は法の一表現形態に過ぎないと考えるか、法そのものと考えるかの違いです。
法治国家という言葉もありますが、これもまた実に両義的な言葉です。
ソクラテスが「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲んだのは実に深い示唆を含意していますが、ここにこそ法治国家の本質があると私は思っています。
リーガルマインドは法律の解釈学であってはなりません。法律の適用と言う意味で、解釈にとって不可欠な要素ではありますが、法の深遠にあるものであり、むしろ自然法的な理念と価値観に裏付けられたものでなければいけません。
日本のような社会ですら、法律は簡単に作れるのです。極端に言えば、権力と資財が法律を生み出すのです。そうであるならば、それらを牽制し、活かしていくための論理を超えた感性こそが、リーガルマインドではないかと改めて思います。
何だかかなり粗雑な論理展開ですね。
すみません。
この件は少しきちんと考えてみることにしました。
半年以内に改めて書くようにします。
それにしても、
ソクラテスの行為は、結果としての行為ではなく、発端を意図した行為だったところに大きな驚きを感じます。なにしろソクラテス的発問の元祖の行為なのですから。最大の教材です。
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